新選組漫画 141

20150725.jpg

いよいよ夏休みですね。
海や川、湖など水のレジャーを楽しまれる方も多いのではと思いますが、
カッパに尻子玉を抜かれないように注意してくださいね!
夏の水難事故で一番多いのが、カッパの被害です(安政2年調べ)(嘘)。

池田屋で藤堂平助がつけてた鉢金が、源さんのモノであったかどうかは
知りません。
しかし、こんなコトが理由で、平助が伊東甲子太郎一派に走っちゃったんだと
したら、嫌だな。


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所沢村 和三郎の受難

今回のお話は東大和市域を離れた所での事件です。
それも、ことの起こりは年代が少々遡る万延元年(1860)になります。
しかし、「里正日誌」に収録されていることから、東大和市域を含む当時の天領の事情を
知ることができる史料だと思い、ご紹介することにします。

 「恐れながら書付けをもって御嘆願申し上げ奉ります。

武州所沢村寄場組合48ヶ村の役人惣代である、所沢村の名主助右衛門と、蔵敷村の
同杢左衛門が申し上げ奉ります。
右所沢村の百姓傳右衛門から借家をしている和三郎が、上総国市原郡今津朝山村で
起きた加藤藤次郎の一件について、御吟味中で入牢を仰せ付けられたことを知り、一同
恐れ入っております。
ついては同人の身分は別紙の通り、村々一同が連印をもって御嘆願申し上げたく、去年
以来村々の役人たちが出府いたしました。村の費用が増える一方、銘々差支え恐れ入り
奉りますが、私ども惣代として御慈悲を願ってくれるようにと言いますので、恐れ多いことも
顧みず私ども惣代が、残ってこのことを御嘆願申し上げ奉ります。
なにとぞ格別の御憐憫をもって、一同が連印をした別紙で願い上げ奉りました通り、この上
幾重にもお慈悲のご沙汰をひとえに願い上げ奉ります。以上。
                     江川太郎左衛門当分御預所
                       武州入間郡所澤村 名主 助右衛門
 万延元申年8月26日      同代官所
                      同州多摩郡蔵敷村 同  杢左衛門
  御奉行所様    」


所沢村に住む和三郎という人が、千葉の市原で起きた「加藤藤次郎の一件」で逮捕されて
しまったようです。
所沢からかなり離れた場所での逮捕。和三郎さんはナニをやったというのでしょう?
所沢村ばかりか、同じ組合村である蔵敷村の杢左衛門さんまでもが、嘆願書を出している
ことから、彼の逮捕にはなにやらワケがありそうです。
そもそも、加藤藤次郎の一件とは何なのでしょう?

それについて、市原郡姉崎村に住む百姓の一作という人が組頭の治兵衛さんと共に、お上
に提出した書状がありますので、そちらをご覧ください。

「私は御改革組合35ヶ村寄場村の姉崎村の百姓でございます。関東御取締御出役
方の道御案内を勤めておりますところ、今年の3月6日頃、御出役の廣瀬鐘平殿から『今年
の3月3日桜田門外にて予期せぬ狼藉ものがあった。この者らのうち10人あまりが行方知れず
となった。逃げ去ったものがこの村の近くに海を渡って立ち寄るかも知れぬ。もし、怪しいものを
見聞きしたならば早々に申し出よ』とのお達しがありました。
組合の村々より御請け書を差し上げ、村役人より村にお達しがありました。

隣村の今津朝山村の農家を離れた場所に、家を修理して加藤藤次郎なるものが住んでおります。
同人は御捉飼い場の中にいて多くの鉄砲を所持し、その他にも怪しい噂がありますが、このよう
な田んぼの中の離れ家なので特に出入りするものもありません。
そんな折、同村の医師玄安の養母でコウというもので、元道御案内を勤めておりました吉五郎の
後家に入っておりますが、女ではあるものの心得のあるものでございます。
同人が藤次郎の家に平常出入りしておりまして、これ幸いと思いとくと申し合わせて探索をした
ところ、いちいち怪しい様子だと聞き、とりあえず桜田門からの逃亡者だと判断して、寄場大惣代
である当村の名主三右衛門方へ報告書を差し出しました。

三右衛門からそのまま写し取り鐘平殿へ差し上げましたところ、同20日に藤次郎をお召し捕り
になりました。
そのときに私は、臨時御出役の中川孫市殿の御用として、同国の八幡村へ罷り越し、出先でこ
のお召し捕りを承りまして帰宅いたしました。また、コウでありますが、今年の6月中に急病を
発し死去してございます。

右、お尋ねにつき、始末申し上げ奉ります。以上。
     水野周防守領分 上総国市原郡姉崎村  百姓 一作
      万延元申年11月17日           差添 組頭 治兵衛
 御奉行様  」
  
 
大老・井伊直弼が殺された「桜田門外の変」で、現場から逃走した水戸浪士を幕府は懸命に
探していましたが、加藤藤次郎はその中の一人と見られたようです。
そして、八州様の廣瀬鐘平が出動し、加藤の捕縛に至ったようです。
一作さんは道案内、つまり取締出役の手先・・・目明しだったということです。

さあ、これで加藤が井伊大老殺害の実行グループの一人なら、廣瀬さんも一作さんも大手柄
ということになるのですが・・・これが、なんと誤認逮捕
彼は「桜田門外の変」には全く関係がなかったのでした。
東京芝の愛宕山にある「桜田烈士の碑」にも、その名前はありませんもの。
当たり前ですが。

一作が提出した報告書は、この捕り物が誤認逮捕と分かったため、その始末をどうつけるのか
お上に聞いたものでしょう。
御奉行様はどのような裁定を下したのでしょうか?

さて、では冒頭の和三郎。
市原から遠く離れたところに住む和三郎が、この加藤誤認逮捕にどう絡んでいたのか?
なぜ、入牢しなければならなくなったのか?

次回、さらに史料を追ってみましょう。

メガ43


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新選組漫画 140

20150717.jpg

原田左之助さんがバカだって言ってるんじゃないですよ。
でもね、あんまり賢そうでもないですよね、左之助さん。
勇気試しに切腹してみせたり、往来で上半身裸になって太鼓を叩いて行進して
みたり・・・。試衛館に出入りする以前のエピソードを聞くと、良い子は近づいちゃ
ダメな人の典型です。
でも、こういう型破りな人が「人生ってこうじゃないよな」って、ある日気付いて
進路変更をすると、とたんに魅力的な人物になって、部下が慕ってくるアニキ的
上司になったりするんですよね。
新選組でも殿(しんがり)にあたる小荷駄方の組長を勤めていた左之助さん。
近藤局長からの信頼も厚かったことと思います。

さて、この先「続き」は恒例の企画です。
続きを読む »

文久3年私領渡し騒動

文久2年(1862)の支配替え騒動は、村々の張訴駕籠訴といった強硬手段でなんとか
回避できました。
その裏には、村々と同様に支配替えを望んでいない江川代官所と幕府のかけ引きがあった
と思われます。

しかし、幕府はこれで完全に狭山丘陵一帯の支配替えを諦めたわけではありませんでした。
それを関連付けさせるのが、過去記事の
幕末「建物探訪」・・・渡辺篤史じゃないけどねクリック!)
です。

翌文久3年(1863)3月に出された、この身元宜しきものの居宅取り調べ
これは、支配替えに大きく関係する調査だったようです。

「  亥4月御支配御役所より御廻状の写し

それぞれの村々について私領渡しへの差し障りが有るか無いかの取り調べを、その筋
よりお達しがあり、別紙の文書にてその状況を認め差し出すべきこと。
もっとも、村々では農繁期なので寄場組合の親村へ、来る25日までに相渡し、同所にて取り
集め差し出すようにすべきこと。
この廻状の村名の下へ名主の名と印を捺して、早々に順次送り、最後の村から返すものなり。
   亥4月9日 江川太郎左衛門 役所         」


支配替えの相手先は「私領」とあるので、村々は天領からはハズれることになります。
過去、安政5年(1858)に熊本藩細川家の預所として、天領の42ヵ村がその対象になった
ことがありました。
熊本藩の預所クリック!)
これは細川家が江戸湾の警備を担当することになったための、一時的な処置でした。
ですから、今回はその時とは話が全く違います。

代官所は私領分となるのに不都合なことがあるのなら、その旨を書きだしなさいといって
きました。
村々では早速、明細書をつくります。
「里正日誌」には上新井村、後ヶ谷村、高木村、奈良橋村、蔵敷村と5ヵ村の書き上げの
写しが記されています。
各村々はどのような報告書を作成したのでしょう。
ここでは、蔵敷村の明細書を見てみます。

「私領渡し差し障りの有無の書き上げ帳  武州多摩郡 蔵敷分

私領入会地はございません。    武州多摩郡 蔵敷分 江戸への道のり9里あまり
当亥年より申年まで10ヶ年御定免
一 高162石2斗3升
    この内、小物成高はございません
検見取り
一 高26石3斗4合7夕  民家無き同村の持添え新田
    この内、小物成高はございません
検見取り
一 高27石2斗1升2合  同じく武蔵野附同所同断新田 
    この内、小物成高はございません   

一 当村は長い期間天領だったので、知行が他に渡ったり分割されれば、村内は和合
せず、安穏に治めることは難しいと存じます。

一 私領になって天領の頃と替わり、地頭(領主)の勝手になることはございません。

一 御年貢は金納でございます。

一 米は極悪米を恐れ買納と定めて、取立方は大概の村方でございます。


  買納とは、収穫する米の出来が悪いので他所で米を購入し、年貢を納めることです。

一 金銀鋼鉄、ならびに砥山稼ぎはございません。

  金銀・鉱山がないのはわかるのですが、砥山稼ぎというのがわかりません。調べてみると
  奥多摩に砥山という標高1300mほどの山があるのですが、そこへ炭焼きなどの仕事を
  していることを指すのでしょうか。

一 日照り、大水と両損の村で、天水場なので用水利用はありません。もっとも、藪川堰
溜池井戸利用は芋窪村、奈良橋村、当村と三ヶ村組合ですので、引き離されては差支え
があります。


  天水場とは、灌漑用水がなく、雨水に頼って耕作をしている地域をいいます。

一 米の出荷は、買納の村なのでございません。

一 賑わう町や市場はございません。

一 高持ち百姓、ならびに有徳のものの住居はございません。

一 中山道浦和宿へ、近年たびたび当分助郷を勤めております。その他、尾州様(尾張
徳川家)の御鷹場なので、御鷹御用人馬を勤めております。

一 御蔵前に引き替わり、当分上ヶ地御用地に上ることはございません。

一 小物成は去る戌年(文久2年)の御割賦の通り、違いございません。

一 村々の入会見取り場のたぐい、小物成のたぐいはございません。

一 御割賦のほか、上納物はございません。

一 当村の土地の中で田圃は狭山付近の谷間にある沼田で、畑は武蔵野を新たに開墾
した所なので薄地であり、困窮の村でございます。

一 家数は55軒。人数は男143人、女158人、牛1疋、馬11疋。

一 新田願い、ならびに鍬下はございません。


  鍬下とは荒地を切り開いて田畑にするまでの間をいいます。この期間は租税を免除・
  軽減できたりしました。

一 川や堤の御普請所はございません。

一 藪川の悪水、堀堰溜池井戸は隣村三ヶ村で申し合わせ、自ら普請所をつくってござい
ます。

一 農業のほか、男は縄をなって草鞋を作り、女は木綿糸を操って稼ぎます。

一 夫食代を拝借し、年賦を返納してございます。

一 現在、公事出入りの訴訟事はございません。

一 御関所、ならびに口留番所はございません。


  口留番所とは小規模の関所のことです。裏街道などに設置されました。蔵敷村を通って
  いる成木道(青梅街道)は、甲州道中の裏街道です。

一 村の惣作地はございません。

  飢饉などで潰れ百姓が出て土地を手放すと、その土地は親戚などが引き請けましたが
  大抵は引請け先がなく、村が管理することになりました。これを惣作地といいます。
  この土地にかかる租税は村が負担しました。

一 十分一の取立て物はございません。

一 御林はございません。

一 上納金は先年の江戸城西ノ丸火災のとき、そのほか江戸湾御備え場建設の際に
やっと上納しましたが、幕府の利益となる取り計らいをする御料の据え置きの願いは
ございません。

一 無反別、無石盛の土地(検地をしていない隠し耕作地)はございません。

右をお尋ねにつき、書上げ奉った通り相違ございません。以上。
   文久3亥4月2日      右蔵敷分 
                      百姓代 平五郎
                      組頭   半左衛門
                      同    常七
                      同    吉右衛門
                      同    重蔵
                      名主   杢左衛門         
    江川太郎左衛門様 御役所  」
  

注釈を何箇所か入れましたが、ずいぶん長くなってしまいました。スミマセン。
全部読まれた方、お疲れさまです。

他の4ヵ村の書き上げも、ほぼ同様の内容が書かれています。
共通して言えるのは、水の利が悪いので米が悪いものしかできない、米を買っている、
夫食代の借金がある、など自分の村のマイナスを猛アピールしているところ。
さらに、3つの村で川や井戸の管理をしているので、支配先が別々になったら困る、助郷
や鷹場管理などの仕事でいっぱいいっぱいである、など村の状況を挙げたり、有徳の者
がいないなど「つまらない村である」ことを必死に説明しています。
江川代官の支配の元でなんとか生活しているのだ、ということを言いたいのでしょうね。

村の必死さはこれだけではありません。

「お掛かりの冨澤正右衛門様のお宅へ金百疋(一貫文)を御肴料として差し上げました。
ほかに、斎藤友輔様のお宅へ御肴料として金百疋を持参し、私領所になるのでしょうかと
申し上げたところ、最近の御変革について仰せ出されたことはなく、昨年末に仰せ出された
ことゆえ、全く私領渡しになるべきことではなく、村々の心配はいささかもすることは無い
とのことを仰せ聞かされた」
 

書上げ明細の後に書かれた杢左衛門さんの覚え書きです。
これによると、代官所の手代である冨澤さんらに袖の下を渡して、なんとか支配替えを
阻止しようとしていたようです。
さらに、「支配替え」「私領渡し」の話がどの程度進んでいるのか、その情報を聞き出そう
としていた様子も窺えます。

冨澤、斎藤の両名は、文久3年2月に発表された江川代官所手附・手代一覧に名前が
出ている人物です。「江川太郎左衛門、代替わりする」クリック!)
この2名は嘉永3年の手付・手代一覧には名前が出ていないので、英敏の時代以降に
手代に加わった者でしょう。

この頃の代官所と狭山丘陵一帯の関係を時系列で見ると、
文久2年8月 英敏が死亡。
     9月 支配替え騒動(張訴)
     10月 支配替え騒動(駕籠訴)
     11月 勘左衛門事件 「大名屋敷殺人事件」クリック!)
     12月 英武家督相続
文久3年2月 手附・手代発表
     4月 手広住居取り調べ 私領渡し騒動

代官所もかなり慌ただしかったことが予想されますが、こうした時期に英龍時代には
名前がなかった手代が袖の下を受け取るようになったこと。村々がいち早く、手代
らのそういった変化に付け入ったことは、注目できると思います。

これ以降、この問題がどうなったのかは「里正日誌」には出ていませんが、結果として
私領渡しはされませんでした。村々の強かな努力が実を結んだのかもしれません。

メガ42


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新選組漫画 139

20150705.jpg

さすがに、無人偵察機というワケにはいかなかったようで・・・。

歳さんが子供の頃、将来は必ず侍になるんだとの誓いをたてて、自宅の庭に
矢竹を植えた・・・というのは、新選組のファンになったら3分後には覚えておき
たい有名なエピソードですね。
現在でも日野市の「土方歳三資料館」(土方家)には、その手植えの矢竹が
残っていて見ることができます。

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もしも幕末の時代にドローンがあったら、お手柄大好き観柳斎センセーが
「秘密兵器ですよッ!これで不逞浪士の集まっている現場を押さえましょう!」
とか言って、得意になって動かしそうな気がします。

で、「長州のヤツらを見つけた!」って言って会津藩兵と現場に乗り込み、
槍で突かせたら相手は土佐藩士だった・・・みたいな、そんな明保野亭事件を再び
起こしちゃうような気が、観柳斎センセーにはするんですよねぇ。なんか。


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