文久2年支配替え騒動②

間に2回、新選組漫画を入れてしまったので、ワタクシも「里正日誌」のどこを
読んでいたのかわからなくなってしまいました。
以下を見て、ちょっと復習。

「文久2年支配替え騒動」クリック!)

文久2年8月に代官の江川太郎左衛門英敏が亡くなると、翌9月に代官支配地
支配替えの噂が立った。その対象地域となった狭山丘陵の村々では、江川
代官支配の継続を願い、代官はもとよりその上官である勘定奉行に張訴まで
して訴えたのだった。
(ナレーション:遠藤憲一)

では、その続きから。

張訴の効果もなく、10月に入っても支配替えの噂はさらに広まっていったようです。
居ても立っても居られなくなった村々の名主たちは、所沢村の名主宅へ集まり
緊急の対策会議を開きます。
そして書き上げたのが、次の願書です。

「恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります

江川太郎左衛門御代官所である武州入間郡・多摩郡の村々役人一同が申し上げ
奉ります。
私ども村々では、往古より天領でございます。現在の御代官江川太郎左衛門様が
御支配になり、御役所より御取締りとして衣食住その他について質素倹約するよう
仰せ渡され、全てにおいて御心のある御扱いをしていただきました。
段々と村々の人の心も和み、出入り筋(民事事件)での訴訟事もなく、村での経費も
減り自然と村人が仲良くなり、平穏な時が続きました。

これらはすべて、御支配様(江川氏)の御仁恵のある御取扱いのおかげと、村役人
どもはもちろん小前の百姓たちも皆で、ありがたいことだと存じております。
そのようなことなので、このままずっと御支配が離れぬよう皆が心から願っている
ほどでございます。

そんな折、今年の8月江川太郎左衛門(英敏)様が大病で、養生のため韮山へ御
引きこもられたと承りました。村役人ども小前百姓に至るまで驚き歎き恐れいること
でございました。
万が一御支配替えになりましては、これまでの御恩に報いることができなくなり、
嘆かわしく存じ奉ります。
未だ何のご沙汰もないので、御時節を見越して願い上げ奉ります。このことを幾重
にも恐れ入り奉りますが、これまでのとおり支配替えをせず、江川御支配所に据え
置いてくだされますよう願い上げ奉ります。

何とぞ格別の御慈悲をもって、今まで述べたとおりにお聞きくだされば、大いなる
御憐憫とありがたき幸せに存じ奉ります。よって、村々一同の連印をもって願い上げ
奉ります。以上。」


所沢村名主宅に集まった村の代表は、なんと41ヵ村!
一つの村で3人の村役人が出席したようですから、120人を超える人数です。
そんなに多くの人が入れる部屋があったのか!とツッコミを入れたくもなりますが、
本題に関係ないので、そこはスルーしときます。

その41の村々とは。
武州多摩郡 芋久保村 蔵敷分 奈良橋村 高木村 後ヶ谷村 宅部村 廻り田村
野口村 清水新田 日比田村 久米川村 南秋津村 野塩村


武州入間郡 所澤村 上新井村 北野新田 中北野新田 氷川村 上安松村 打越村
町谷村 岩岡新田 菩提木村 山口堀之内村 北野村 堀兼新田 神谷新田 北野新田
三ケ嶋新田 三ケ嶋堀之内村 北秋津村 三ケ嶋村 城村 坂之下村 南永井村
大岱村 下安松村 北永井村 久米村 平塚新田 本郷村


現在の東大和、東村山、所沢市域にあたる地域で、狭山丘陵一帯の村々が支配替え
の対象だったことがわかります。

さて、41の村々が書き上げた支配所据え置きの願書。
これを彼らはどこへ、どのように届け出たのでしょうか?
「里正日誌」にはその経緯が書かれています。

「右は文久2戌年10月16日に、多摩・入間両郡41ヵ村の村役人一同が所澤村の名主
助右衛門宅に集まった上で、願書を書き、1ヵ村につき三役人の連印を捺して4通を
用意した。
村々の惣代として、御老中板倉周防守様へ所澤村名主助右衛門・上新井村名主。
市右衛門、松平豊前守様へ下安松村名主新助・三ケ嶋村名主次郎左衛門、井上河内守
様へ蔵敷分名主杢左衛門・岩岡新田名主民右衛門、御勝手御勘定奉行
川勝丹波守様へ北永井村名主重左衛門・野口村名主勘左衛門。
都合、御老中3方へ6人、御奉行へ2人のしめて4ヵ所へ右の8人が、10月21日に江戸へ
出て、同24日に一同御登城前の駕籠訴をいたした。」


なんと、杢左衛門さんたち、御老中の方々が登城するときに駕籠訴に出て訴えたと
いうんです。
時代劇なら、間違いなく死罪モノの場面!
杢左衛門さんたち、どうなってしまったのでしょう?

「翌25日に御支配所御代官へ御沙汰が下ったので、御手代の高橋柳吉様が津田近江
守様御役所へ呼び出され、村役人らの身柄がお引渡しとなった。
26日御支配所御役所へお呼び出しとなって、公事方(訴訟・裁判担当)の根本慎蔵様
より、重役方へ駕籠訴したことについてのことが言い渡された。御勝手勘定奉行の津田
近江守殿からのご沙汰であり、一同引き取ったのである。
これからは右のような越訴をしてはならない。
だが、御代官様はご満足に思われている、とのことを仰せ
聞かされ、一同帰村を言い渡された。」



「もう、こういうコトはするなよ」と注意をされただけで釈放になったようです。
かなり軽い処分です。
さらに杢左衛門さんは代官所の手代・根本さんから「今回のことで御代官はご満足で
おられるよ」との言葉をいただきました。
跡を継いだ代官の英武さんはまだ9歳ですから、この「ご満足」は彼一人の感情ではなく、
江川家、家臣ら代官所皆の思いだったと思われます。

この箇所から想像されるのは、村々は条件の良い江川家の支配を継続して受けたいと
願い、江川家もまた広大な支配地域を維持したいということで、両者の思惑が一致
していたのであろう、ということが一つ。
さらにもう一つとして、幕府も代官所や村々に対して強硬に支配替えを行えない事情が
あったのではないか、ということです。
おそらく、代官所から「この度の支配替えは領民の納得するところではない。彼らの
言い分も聞き、寛大な処置を」とでも進言があったのではないでしょうか。

この頃の世の中はどんなだったのかというと・・・。

江川英敏が亡くなった文久2年8月は、薩摩藩の行列を横切ったイギリス人が斬り殺され
生麦事件が起きました。
9月には、長州・土佐・薩摩が攘夷を決行するよう幕府に命じてくれと、朝廷に働きかけ
ます。そして10月、朝廷の勅使として三条実美が江戸に下向。幕府に攘夷実行の督促
を伝えるのです。

翌文久3年2月には、14代将軍徳川家茂が朝廷に説明するため上洛するという、幕府
にとっては先の読めない時代に入っていきます。

この流れを頭に入れてもう一度この支配替え騒動を見てみると、幕府、代官所、村々の
それぞれにどのような思惑があったのかと、いろいろ想像できて面白いですね。

メガ41
名主の家って、襖とか取っ払うと部屋がつながって大広間になるので、
このようなホールを用意しなくても50~60人くらいは入ることができた
でしょうね。
でも、120人を超えるとなると、そうとうギチギチに詰めないと入りきら
ないんじゃないかと思います。


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新選組漫画 138 総司忌2015

6月21日、東京都港区の専称寺で新選組隊士だった沖田総司の法要
総司忌が行われました。
昨年に引き続き、ワタクシも行って参りました。

20150625.jpg


昨年の総司忌は雨の中の墓参でした。
今年も「いつ降るか・・・」というような空模様でしたが、専称寺で墓参の行える午前中
いっぱいはなんとかもってくれました。
そーゆー意味での今回の漫画です。
総司忌に出ていない方には「何なん?」てカンジですよね・・・。
「あまちゃん」に出てきた花巻さんの名ゼリフ「わがるヤツだけ、わがりゃイイ」です。

ちなみに、当日の雨に沖田さんの吐血は混入されておりませんので、ご安心を。
「本当に色がついていたような気がする・・・」と思われた方。それは黄砂かPM2.5
が混じっていたかもしれませんので、それはそれでご注意ください!

DSCF7158a.jpg 専称寺

沖田総司が亡くなったのは、慶応4年5月30日。
これをグレゴリオ暦に直すと、1868年6月19日になるから今頃総司忌を行うのです。
・・・と言いたいトコロですが、これはチョイ違います。
慶応4年は4月の後に閏4月がありました。わかりやすく言うと、4月が60日あった
計算になります。ですから沖田さんが亡くなったのは西暦に直すと、もう一月あとの
1868年7月19日になるのです。
ではなぜ、6月に総司忌をやるのか?

・・・・わかりません。
主催者の方にお聞きになってください。
あるいは、専称寺側との交渉でこうなったのかもしれませんね。

こちらの墓域は普段は非公開となっていますので、墓参ができるのは一年のうち
総司忌の日だけです。
それも10:00~12:00までと決められています。

DSCF7160a.jpg 専称寺境内

ワタクシは少し遅れてしまい、着いたのは11時過ぎ。
境内にも墓域にも、長蛇の列ができていました。

DSCF7152a.jpg

漫画では(3コマめ)便宜上、女性ファンの背と同じくらいの高さに墓石のお堂を描いて
いますが、実際は上の写真の通り。
奥で女の子がしゃがんで手を合わせていますね。
沖田さんのお墓は、これくらいの小さな墓石です。

ちなみに、手前の女性が手を合わせているのは、沖田家代々のお墓。

DSCF7156a.jpg 沖田総司墓

ワタクシが墓参を済ませたのが11時45分頃。
それでも墓域の外には、まだまだ長い列が続いていました。
あの方たちは無事にお参りできたのでしょうか・・・?
ちょうどその頃、雨がポツポツと落ちてまいりました。

午後からは場所を渋谷区の國學院大學院友会館に移して、講演会が行われ
ました。
昨年は中島登のご子孫によるお話でしたが、今年は作家で新選組についての小説も
書かれている岳真也さんの「沖田総司の恋-その虚々実々」でした。

IMG_0884a.jpg

恋愛の話に限らずですが、実在の人物・事象を扱った作品を作るとき、エンター
テイメントと事実をどうバランスよく配置するか?
プロの作家ならではの、貴重なお話を聞くことができました。

まぁ、ワタクシのような四コママンガだと、そのあたりのことはあまり深く考えずに
描けるんですけどね。
大ウソつきには、四コママンガがちょうどいいです。

そして、そして。
恒例の抽選会。
やったー!また当たったよッ!

IMG_0885a.jpg

土方歳三の涙サイダー
総司忌2014、歳三忌2015、に引き続きV3の偉業達成です。
コレもう、土方さんがワタクシに何か言おうとしてるよね。
「ナニ?なんでも言ってよ、ヒジリン!!」

しかも、今回は梅味!
こんな別バージョンがあること自体、初めて知りました。
帰宅後、冷やして飲んだところ
「おぉ、梅味・・・!」(当たり前だけどね)
梅ガムみたいな味といえばいいかな。美味しいです。
炭酸のパワーがノーマル涙サイダーより、若干抑え目かもしれません。

講演会にいらしていた新選組研究家の伊東成郎さんに、ご挨拶もできました。
名刺をお渡ししたんだけど、ネットはご覧にならないと仰っていたので・・・この
ブログも見てないだろうなー。


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新選組漫画 137 激闘!池田屋

20150619.jpg

その布はどこから?

21日放送の大河ドラマ「花燃ゆ」で、いよいよ池田屋事件が取り上げられますね。
この事件で死ぬ吉田稔麿は、ドラマの前半から出ていた主要キャラですから、それを殺した
とあっては新選組はお決まりの「人殺し狼集団」として描かれることは必須!
まぁ、いいスよ、もう。

新選組の大勝利のように語られる池田屋事件ですが、案外そうでもない部分もあります。

沖田総司が昏倒した話は有名ですが、他にも藤堂平助が鉢がねを取ったところを斬りつけ
られ、眉間を負傷。永倉新八も左手の親指付け根あたりを切られています。

その他、伍長の奥沢栄助が討死。副長助勤の安藤早太郎、平隊士の新田革左衛門が
斬り倒され後日に亡くなっています。
この3人は、近藤、沖田らが突入した際に池田屋の裏口を固めていた隊士です。彼らが
揃って斬られたことで、裏口から逃走できた浪士はかなりいたのでしょうね。


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江川太郎左衛門の死と多摩支配 文久2年支配替え騒動

韮山にある「江川太郎左衛門の反射炉」が、世界遺産に登録されるのも間近だと
いうので、土日などは観光客が大勢訪れているようですね。
江川太郎左衛門といえば、ふつうは江川家36代当主・江川英龍(坦庵)のことを
いいます。
このブログで何度もご紹介しているように、黒船来航前後の日本で、最も有能だった
日本人の一人です。

しかし、現在クローズアップされている反射炉は、英龍が工事に着手したものの、
完成させたのは息子の英敏のときです。そこはお間違えなきように!
英龍は反射炉の完成を見ないまま、安政2年(1855)に亡くなります。

英龍は天保6年(1835)に亡父の跡を継ぎ、世襲代官の地位につきます。
「江川坦庵全集」によれば天保9年(1838)の段階で、彼の支配地域である多摩郡
の中に東大和、東村山、武蔵村山市域などの狭山丘陵一帯の村々は含まれて
いません。
嘉永3年(1850)の記録で、それらの地域は江川代官所の支配地域として出て
きます。
つまり、狭山丘陵一帯は英龍の功績により加増された地域といえるのではないで
しょうか。
このことは、地元の史料からも裏付けを取りたいのですが、「里正日誌」の天保から
嘉永年間にかけてがまだ出版されていないのです。追々待ちたいと思います。

ナニが言いたいのかというと、狭山丘陵一帯は幕末に江川代官所の影響を非常に
多く受けた地域であり、それは英龍の時代から始まったのだけれど、幕末もいよいよ
激動の時代を迎え、徳川支配が怪しくなってきたときには英敏・英武の支配時代だった
ということなんですね。
つまり、最幕末期の多摩を追っていこうとしたら、英敏・英武時代の代官所に注目
しなければならないワケです。

安政2年に英龍の跡を継いだ息子の英敏ですが、彼もまた文久2年(1862)8月に
若くしてこの世を去ります。おそらくこの年に流行した麻疹かコレラによるものではない
かと思われます。いずれにしても急病のようです。
その翌月、狭山丘陵一帯の村々にただならぬ噂が流れました。
それは9ヵ村を江川代官所から他の支配所に「最寄替」するという話でした。
つまり、支配替です。
対象となった村は、小川村、芋久保村、蔵敷分(村)、奈良橋村、高木村、宅部村、
後ヶ谷村、廻り田村、野口村。東大和市域を中心として、一部東村山、小平市域を
含んだ一帯です。

村々では驚くと同時に、一斉に反対運動を起こします。
これら対象となった村々が、いかに江川代官所によって救われ、今後も同じ支配を
受けたいかを、嘆願書に切々と訴えたのです。

「恐れながら書付けをもって御歎き訴え申し上げ奉ります。

江川太郎左衛門御代官所の支配である、武州多摩郡小川村ほか8ヶ村の役人ども
が申し上げ奉ります。
私ども村々は旧来、右太郎左衛門支配所の支配を仰せ付けられてからは、同人方の
取締り向きも行き届いております。
元来、狭山つづきの田畑なので禽獣が多く出て、作物を食い荒らします。殊に武蔵野
続きの薄い土地で麁(あら)い田の場所なので、いたって難渋しております。
元々貧しい者が多い村々でございますが、結局支配所の取締りが行き届いたので、
だんだんと貧しい者たちが立ち直り、潰れる家や落ちぶれて他所へ行くことも凌いで
家族とも無難に助け合っております。このことは明けても暮れても忘れません。

右の仁政を慕い、永く太郎左衛門支配所に居続けたいと兼て村々一同、心から願って
おりましたところ、この頃、太郎左衛門支配所が近々最寄替(支配替)を仰せ付けられる
との噂を聞きました。
これにより私たちの村々もどのようになるのかと承り、一同驚き入り、自然と右のご沙汰
に至り、ほかの支配所に支配替えとなってはとてもこれまでの支配御役所と比べても、
御取締りも行き届かないと心得ます。
そうなっては村々が衰微してゆく元となり、小前末々に至るまでみな悲嘆にくれており
ます。恐れ多いことも顧みず、このことを御嘆願申し上げ奉ります。
何とぞ格別のお慈悲をもって、前に顕しました始末をお聞きくださり、これまでの通り
太郎左衛門支配所に据え置いてくだされますようお願いします。右願いの通り仰せ
付けられました上は、私ども村々一同安心できることこの上なく、御仁恵と重々ありがたく
幸せに存じ奉ります。以上。

 文久2戌年9月  江川太郎左衛門御代官所 
                   武州多摩郡    小川村
                               芋久保村
                               蔵敷分
                               奈良橋村
                               高木村
                               宅部村
                               後ヶ谷村
                               廻り田村
                               野口村
                               右村々 役人共
     御勝手方
    御支配所様                                           」


我々の村は元来貧しい村であったけど、江川代官の支配になってからは仁政のおかげで
立ち直ることができました。これで支配替えになったら、村が衰退してしまいます。
こう言っているんですね。
次に支配する代官、どんだけ無能だと思われてるんだか・・・(笑)
まぁ、それほどまでに江川代官所と村々の結びつきは強かった、ということでしょう。
この9ヵ村のうち小川村だけが天保9年の江川家支配地域でしたが、後の村々は嘉永3年
の記録に出てくる支配地域です。(野口村は含まず)

ご紹介した嘆願書は、ほぼ同一の内容が書かれた2通がありました。
1通はそのまま江川代官所に差し出されましたが、問題なのはもう1通。
このもう1通について、「里正日誌」には杢左衛門さんの注意書きがしたためてあります。

「右は文久2戌9月20日、村々で相談の上、杢左衛門・勘左衛門の両人が代表となって
出府し、21日御支配御代官御役所へ書面を差し上げ、その上勝手方御奉行の芝愛宕下
川勝丹波守様・牛込軽子坂津田近江守様・小石川御門外竹内下野守様のお三方へ、22
日の夜、両人が前書の通りの書状を日向半切に書き半紙で上包みして
  『御奉行様 武州多摩郡村々』
と上書をして、表御門の柱に張訴いたした。
もっとも、このことの仔細は御代官江川太郎左衛門様が、今年8月に御病死
したことから端を発し、支配替の話も出た
のだとの風聞もあり、
取り計らったことである。」


勝手方奉行とは、代官の上司である勘定奉行のことです。
勘定奉行には財政・民政を担当する勝手方勘定奉行と、訴訟を担当する公事方勘定奉行が
いました。
これら幕閣の方々の門柱に、張訴という強行手段に出たというのです。
支配替えに対する村民の強い拒否反応がわかります。

そして、気になるのは最後の一文。
英敏が病死したので支配替えの話が出た、ということです。
江川家は世襲代官なので、次に家督を相続した者が代官職と支配地を引き継ぐことになります。
英敏には子供がいませんでしたので、弟の英武が養子になりましたがこのとき9歳。
幕府は英龍が亡くなった後、その功績を讃えるために支配地をそのまま相続させたり、芝
新銭座に大小銃砲の調練場を作ったりしました。
つまり、江川家に対してかなりの優遇をはかっていたのですね。

しかし、英武が代官に就任するにいたって、幕府はその優遇を一部解除し、支配地の削減を
考えたのではないでしょうか?
世襲代官という名誉はそのまま継承させるものの、支配地域は英龍より前の時代に戻す・・・
というようなことが幕閣の中で話し合われたのかもしれません。
まぁ、あくまでも「風聞」ということになってはいるようですが・・・。

英龍、英敏と相次いで代官が亡くなったことから、狭山丘陵の村々は大きな渦に飲み込まれ
ようとしていました。

メガ40

杢左衛門さんらが張訴した3人の勘定奉行は、川勝広運(ひろかず)、津田正路、竹内保徳。
竹内は前年の文久元年(1861)に、ヨーロッパへの最初の使節団である文久遣欧使節の
正使に就任している人です。この使節団には後にジャーナリストや劇作家となる福地桜痴、
慶応大学をつくる福沢諭吉、外務卿となる寺島宗則らがいました。
こんな方の屋敷の門前に張訴をするんですから、杢左衛門さんたちもよほどの覚悟だった
のでしょうね。


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新選組漫画 136

20150611a.jpg

中島登と成合清。箱館戦争投降コンビです。
3コマめのセリフに出てくるタマちゃんとは、近藤局長の娘。
漢字では瓊(瓊子)と書きます。
浪士組が京に上る前年の文久2年(1862)に、勇・ツネの長女として生まれています。
近藤さんは生まれたばかりの子供を置いて、危険極まりない当時の京都へ出かけて
いったのですね。
瓊は多摩から取ったとも云われ、近藤さんの郷土を愛する気持ちが伝わってきます。


お知らせ
ワタクシの住んでいる、このブログのメイン・テーマ「里正日誌」のふるさと東大和市
その広報サイト東大和市民ネット クリック!)
コチラでもイッセーが漫画を描いております!
だいたい3日に1回くらいのペースで更新。
他にも東大和市の情報がほぼ毎日更新中!
ぜひ、遊びに来てください!


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幕末「建もの探訪」・・・渡辺篤史じゃないけどね

文久3年(1863)の春、江川代官所から奇妙な取り調べがありました。
江戸から10里以内の支配地にある身元よろしき者の居宅を調べて、その書上げ帳を
提出せよというんです。

「先だって命令しておいたことであるが、江戸10里内における支配所の村において、
村役人はもちろん小前の者たちの中で、身元が確かな者の居宅を取り調べるという
ことだが、目安がなくてはまちまちになってしまう。
身元が確かかどうかにかかわらず、家の畳数が20畳くらい、部屋数
3間より広い
家を取り調べるつもりと心得なさい。
また、最近は諸家の家族や江戸の町人たちが立ち退いて、そこを話し合いで借り受け
ていることもあると聞くが、この分は除いて、それらを確認して別紙の雛形のとおり半紙
竪帳2冊にして差し出しなさい。
ただし、先だって言ったとおり、絵図面は差し出さなくて良い。

一、宿場、旅宿屋などの中で手広の所があっても、旅行休泊もあることであり、全ての
宿方は取り調べるに及ばない。

一、寺院は本寺の触頭で取り調べるはずなので、これもまた取り調べるに及ばない。

右の通り心得て、最も早く取り調べたことを差し出すべきこと、以上。
   亥(文久3年・1863)4月3日 御役所日付                     」

 ※触頭・・・本寺配下の寺に寺社奉行からの命令を伝える役目の寺


村々の中で、広い間取りのある家を報告しなさいというんですね。
どういうコトでしょう。
渡辺篤史がロケに来るんで、セレブな邸宅を用意しておけとでもいうのでしょうか?
勘のスルドい読者の方なら想像がつくかと思いますが、違います。

村民の土地といっても、旅籠として営業している家や寺院は入れず。また、江戸市中に
借家権を持っている家も入れず。村々にある住居そのものだけが対象のようです。

蔵敷村でも杢左衛門さんたち村役人が中心となって、村内のセレブ邸宅を書き出します。
といっても、そんなに広くない村ですからそう多くはありません。

「手広住居書上げ帳
    武州多摩郡 蔵敷分

一、12畳敷 10畳敷 8畳敷   3間畳数30畳       組頭 重蔵

一、8畳敷 8畳敷 8畳敷     3間畳数24畳       同  吉右衛門

一、12畳敷 8畳敷 8畳敷 4畳敷   4間畳数32畳   名主 杢左衛門
   これは話し合いにより、御書院番朝岡重三郎様のお立ち退きでお貸し申し上げて
   いる分です。

一、10畳敷 8畳敷 6畳敷    3間畳数24畳       百姓 武左衛門
   これは話し合いにより、伊賀衆御家人深沢栄之助殿のお立ち退きでお貸し申し
   上げている分です。

右に書上げ奉りましたように相違ございません。
   文久3亥年4月       右村               百姓代 平五郎
                                      組頭  重蔵
                                      名主  杢左衛門
 江川太郎左衛門様 御役所                               」
  

村には4家の条件にあう住居がありました。当時のことですから、当然洋間などないわけ
で、あとは囲炉裏のある勝手があるくらいでしょうか。
杢左衛門さんと武左衛門さんは、幕臣の江戸にある屋敷と交換して彼らに家を貸していた
ようですね。彼らはどんな人物でしょう?

書院番とは幕臣の中でも旗本が勤める、五番方と呼ばれる将軍の直属常備軍の中の一つ
です。五番方には大番、書院番、小姓組、新番、小十人組の5つがありますが、その中でも
書院番は小姓組とともに両番といい、最も格式が高かった部署です。
通常は江戸城内の門の守備などをして、将軍が出かけるときには護衛につきます。
定数は10組(時代によって前後)で、各組に番頭1人、組頭1人、番士(組衆)50人が
いました。番頭の役高は4000石、組頭は1000石と相当な格式です。
朝岡重三郎さんには役職が書いてないため、平番士かと思われますが、それでも役高は
300俵。およそ120石に相当しますので、やはりエリートです。

伊賀衆とは、伊賀出身の郷士で幕府に仕えた者をいいます。伊賀ものともいって、諜報
活動をしていた者たちです。深沢栄之助さんも御家人とあるように身分は高くありませんが、
大奥の警備などもしていました。

ちょうどこの頃、東禅寺事件(文久元・2年)、生麦事件(文久2年)など外国人を日本人が
殺傷する事件が相次いだため、江戸では外国との戦争になるのではないかとウワサが
立ち、何か地方に縁故のある者は家族を疎開させていたんですね。
このことは以前にもブログで書きましたので、参照してみてください。
「文久を駆け抜ける!」クリック!)

朝岡さんも深沢さんも番方・・・つまり役方(役人)ではない軍人系の幕臣ですから、いざと
いうときのために家族を蔵敷村に疎開させていたのでしょう。

・・・っと、話がそれてしまいましたが、江川代官所からの「手広住居書上げ」。
いったいどのような目的があってのことでしょう。
実はこれには、前年・・・つまり文久2年に起きた、ある騒動が絡んでいたのですが・・・
それは、次回のお話で。


136a.jpg
137a.jpg
これは青梅市新町にある「旧吉野家住宅」です。
囲炉裏のある板敷の勝手を含めると6間ある「整形6ツ間型」。
蔵敷村の住居はこれよりも小さかったかもしれませんが、幕末期の代表的な
名主住居です。

メガ39


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新選組漫画 135 と、土方歳三の涙

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「幕末多摩・ひがしやまと」とはチョイ違うテイストのマンガですので、ぜひみなさま
遊びにきてください!
タイトルは「多摩湖のタマコ」
いつ更新するかは不定期なので、毎日チェックなのだ!(6月1日更新)

では、今回の「幕末多摩・ひがしやまと」。
今回は新選組漫画です。

20150602.jpg


橋本家というのは、土方家とは縁続きの家。
まだ日野にいた頃の歳さんは、この家のたくあん漬が大好きで、土産に一樽担いで
帰っていったことが「新選組余話」(小島資料館)などに書かれています。
まぁ、漫画のようにここまでデカイ樽だと、棺桶になってしまいますがね^^;

5月の末頃から東京でも気温30℃なんていう日が出てきてしまいました。
ということで、「歳三忌」のくじ引きで当たったコレを飲んでみました。

IMG_0874a.jpg

ジャーーーン
土方歳三の涙サイダー であります!

もうちょっと暑くなったら飲もうと冷やしてあったのですが、その暑い日が前倒しで
やってきたため、この日冷蔵庫から出しました。
飲んでみると、まぁいたってフツーのサイダーです。
歳三の涙なんていうから、意表を突いて「塩味サイダー」かと思ったのですが違いました。
ただ、予想していたよりも炭酸が強めで、そのせいか甘ったるさはなくてスッキリした
喉ごしです。
やっぱり、ペットボトルではなくビンというのがいいんでしょうか。
以前、ビン詰めの方が炭酸が強いって聞いたことがあるんですが、本当かな?

ラベルが昭和30~40年代風の、ちょっとレトロ感があるのもいいですね。
歳さんの写真の下に「1868年、日本にサイダーが伝来した年、土方は京都・会津から
函館へと転戦していた」
と書いてあります。
サイダーが国内に入ってきたのって案外古いんですね。


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