ワタクシの住んでいる東大和市に、
「おとなの社会科」という公民館活動をしている
サークルがあります。
だいたい月に1回のペースで、いろいろな分野で活動されている講師の方をお呼び
して話を聞くという、まぁ雑学講座みたいなものです。
当ブログでもお馴染みの、
「里正日誌」を原文の古文書から解読している
「古文書を
読む会」というサークルが市内にありまして、そこから市内在住の
砂田さと子氏が
講義にいらっしゃると聞き、ワタクシも聴講してきました。
こういう地道に研究されている方のおかげで、ワタクシのような者がこんなヘッポコ
ブログを書くことができるのですから!
さて、ここでもう一度「里正日誌」についておさらいをしましょう。
「里正」とは名主のこと。
蔵敷村(東大和市)の名主だった内野家の当主・内野杢左衛門が、代々に渡って
書き残した記録をまとめたもの。それが「里正日誌」です。
「里正日誌」の大きな特徴は、書かれている内容が個人的な備忘録ではなく、
村や
村を含む組合、周辺の村々などに関係する書状などの写しを記録しているということ
です。
そのため、当時の政治的・社会的な状況を推測する史料として、重要視されている
のです。
この日は「里正日誌」の一部を抜き出し、原文のコピーをご紹介していただきながら、
それを砂田さんと共に読んでいく、という講座でした。
原書は内野家の蔵の中ですから、なかなかお目にかかれません。
取り上げた部分は、文久2年(1862)11月に起きた、とある事件についてです。

ハイ。これが原文(コピー)です。
ワタクシには何が何やらワカラナイのですが、砂田氏はタッタカタッタカと読んでいき
ます。
「里正日誌はね、比較的読みやすいんですよ」ひえ~~ッ、コ、コレがですか!?
この文久時代を記録したのは、安政4年(1857)から明治5年(1872)まで名主(明治
5年からは名主制度が廃止されたので戸長)を勤めた杢左衛門星峰さん。
さらに明治5年から杢左衛門を継いだ秀峰さんが、天正年間から続く「里正日誌」を
編纂したので、古文書とはいっても比較的新しい時代の文体で書かれているのがその
理由だとか。
とはいっても、崩し字に慣れていない人にとっては、やはり読むのは難しい・・・!

同じ箇所を活字印刷したのが、こちら。
東大和市教育委員会が出版している「里正日誌」がこの形になります。
ワタクシが読んでいるのがコレです。
やはり、現代人は活字の方が読みやすいですね。
ではその内容ですが、どのような事件が起きたのか見てみましょう。
「文久2壬戌(みずのえいぬ)年11月21日、高木村の百姓である勘左衛門は、
普段は農間渡世として青梅から炭を仕入れ、江戸表にお出入りを許されて
いる屋敷へその炭を届ける稼業をしている。
内藤駿河守殿の小川町(千代田区神田)にある上屋敷、内藤新宿南方の玉川上水そば
にある下屋敷の2か所は、何年もお出入りをしている屋敷なので、御役人達も懇意にして
いる人もいる。
勘左衛門が江戸へ出て2~3日も滞在して帰らないので、家族の者が心配して、屋敷へ
罷り出て様子を尋ねたところ、居所が知れないので屋敷内の色々な場所を探した。
すると、屋敷内の北西に松山があり、そこに古井戸があるが、その井戸の中に打ち
込められて死んでいるのが見つかった。
役人に掛合に及んだところ、一緒にこの井戸を検分された。
このことで江戸へ立った高木村の名主金左衛門の頼みで、杢左衛門も一緒に見届け、
それより屋敷内へもお届書を差し出した。」杢左衛門さんの住む蔵敷村より、二つ東にある村が高木村です。
その村の勘左衛門さんが、炭を納めに江戸の大名屋敷にいったところが帰ってこない。
探してみたら古井戸の中で死体で発見された、という一件です。
農間渡世とは、いつぞやも書きましたが、狭山丘陵一帯の農家ではよく見られた収入
方法です。
農間稼ぎとも言います。
歴史の授業では、江戸時代の農民はお米か農産物で税を支払ったと教わりましたよね。
ところが、水利の悪いこの地方では米の質が悪いのでお上が受け取ってくれない。
お金で税を納めろというのです。
そこで野菜やら、青梅や五日市あたりで仕入れた炭を都会(江戸)に持って行って換金
するのです。これが農間渡世。
しかし、
農民が商業活動をすることは原則禁止されてます。そこで、「いや、コレは
野菜や炭を運ぶ運送代金をいただくのですよ」という名目で江戸に
持っていくのです。これを
駄賃稼ぎといいます。
ですから村の6~7割ほどの農民は馬を持ち、とても大事にしたようです。
こういった農間渡世では、お得意さまの決まった旗本や大名の屋敷があります。
勘左衛門さんは内藤駿河守がその家だったようですね。
内藤家は信濃高遠藩3万3000石。当時の藩主は内藤頼直です。高遠藩は参勤交代で
甲州道中を使う3藩の中の1つ(他は高島藩、飯田藩)。東大和市域を通る青梅街道は
甲州道中の裏街道で、村民は甲州道中の助郷をしていましたから、そういう縁で関わり
ができたのかもしれません。
勘左衛門さんは、屋敷の中にある松山の古井戸で遺体となって発見されました。屋敷地の
中に山があるからには、現場は敷地が広い新宿の下屋敷でしょう。
・・・とまぁ、こんなカンジで講座は進んでいきました。
勘左衛門さんの死因は?これは事故なのか、事件なのか?
砂田氏のこの日の講座では、この一件に関する他の記事を紹介しながら読み解いていき
ました。
そちらは。次回!
「おとなの社会科」のブログは
コチラ!(

クリック!)
聴講は基本無料。東大和市内外からの参加者を募集しているそうです。
そのうち、メガ博士も講義にいきます!(嘘)

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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