大名屋敷殺人事件

前回の記事で、文久2年の11月に高木村の百姓・勘左衛門さんが、内藤駿河守の
下屋敷に炭を納めにいったところ、屋敷内の古井戸で遺体となって発見されたこと
をご紹介しました。
勘左衛門さんは事故死なのでしょうか?・・・それとも?

内藤家では月番老中の中井河内守に、この一件を報告します。
全文を書くと長くなるので、後半部分を抜く出します。

「・・・・・早速、村役人たちへ申し遣わしたところ、勘左衛門の倅の才次郎、村役人の
金左衛門、傳右衛門がやって来て、心当たりがございますと申し出たので見させると、
勘左衛門と申す者に間違いないので遺体を引き取りたいと申した。そこで、そのまま
番人を附かせましたが、右のような変死をどのように取り計らえばよろしいのか、この
ことをお伺いいたします。以上。
       戌11月24日                     内藤駿河守      」


遺体が見つかったのは11月21日ですから、即日報告ではなかったようです。
それと、ここでは勘左衛門の死因については、触れられていません。

一方、高木村では村役人たちが江川太郎左衛門代官所に、このことを報告します。
事件が起きた場所は江戸の大名屋敷ですが、亡くなったのは代官支配地の住民です
から、村が届けを出すのは代官にです。


「恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります。
武州多摩郡高木村の村役人たちが申し上げます。
去る21日、内藤駿河守様の内藤新宿御下屋敷の御役人から話があるとのことで、
百姓勘左衛門の倅を同行して屋敷へ来なさいとの通達が、同日夜9ツ(12時)に
届きました。
勘左衛門と申す者が、先月20日に江戸のお出入り屋敷へ売り物に出たまま立ち
帰らず、心当たりを方々尋ねましたが行方がわかりませんでした。
(中略)
先日21日の朝、当屋敷内の朽ち果てた古井戸に町人躰の男が落ちて死んでいる
のを発見したとその筋へ訴えがありました。
そこで早速担当の者が立ち会って見届けたところ、死骸のそばに売上の帳面があり
ました。この帳面を見ると、高木村炭屋勘左衛門と認められたので、同人に間違い
ないと知らされました。
倅ともども死骸を見届けるよう申し聞かされ、一同立ち寄り見届けたところ、全く勘左
衛門の死骸に間違いありませんでした。」


長いので一度区切りますが、勘左衛門さんは江戸へ出てひと月の間行方がわからな
かったようです。遺体が持っていた帳面から身元がわかったようです。でも定期的に
出入りしていたのだから、誰かが顔を知っていたと思うのですが、顔がわからない
ほどだったのでしょうか?

「死骸は村方の者たち、その他お屋敷からも番人が付け置かれました。
死骸は変死の疑いがあるので、とりあえずこのことを訴え申し上げます。
井戸の中の死体の様子は、いかにも不審がましく見えました。自分から誤って落ちた
とは思えません。
元々勘左衛門は、出入り屋敷へ支払の受取のために
出府いたし、
すでに死骸のそばにあった控帳には、今月2日に内藤家下屋敷
からの支払い金15両あまりの記入もありました。
その他、倅の才次郎が今月上旬に勘左衛門の行方を尋ねにお屋敷へ罷り越したとき、
先月29日に上屋敷でも御殿の支払いがあり、今月2日には金26両2分あまりの受取
金があったとその筋から才次郎も確かに承知しています。」


さぁ、新事実。
勘左衛門さんは今回、炭の代金を受け取りに江戸へ行っていたようです。
そして、帳面には内藤家の上屋敷・下屋敷から26両2分の代金を受け取っていたこと
がわかりました。
では、そのお金は?

「このような大金を持っていたことから、万が一この金子のために変死を遂げのでは
ないでしょうか。
こうなっては心外のことであり、妻子をはじめ身寄り・親類たち一同挙げて悲嘆に沈んで
おります。
実際に自分から井戸に落ちたのであれば、支払いで持っていた金は井戸の中に有る
と思われます。その真偽が分からず、妻子は途方に暮れております。
何とぞ御慈悲をもって、この一件につき内藤駿河守様の役場へお掛け合いくださり、死骸
の取り置き方を御下知くだされますよう、願い上げ奉ります。以上。
                  武州多摩郡高木村 村役人惣代
                                  組頭 傳右衛門
                                  名主 金左衛門
 文久2戌年11月25日
     江川太郎左衛門様 御役所                          」


お金はどうやら現場に残されていなかったようですね。
そこで村では「お金のために勘左衛門は命を落としたのでは」と思っているようです。
しかし、現場は大名家の屋敷内。百姓が意見を言えるものではありません。
彼らがすがるのは唯一、代官所。ここだけが武士社会と天領農村を結ぶ窓口にはなる
のですが・・・。
内藤家は家康の頃から徳川家と深い繋がりのある大名家です。
代官も手が出せなかったのでは、と思います。

最後に高木村が、内藤家に差し出した書状です。

「差し上げ申します一礼のこと
    江川太郎左衛門代官所 武州多摩郡高木村 変死人 百姓勘左衛門
右の者は今年50歳になり農間に炭の商いをしておりますが、先月20日にお出入りして
いるお屋敷様の支払いを受けとりに罷り出て、その後帰りませんでした。お屋敷の古井戸
へ落ちて死んでおりましたので、お屋敷様様からお届けがありました。
今月27日、御検分が済み、死骸を私どもも見させられました。左の襟に長さ6寸
ほどの切り傷1ヶ所深さ分からず、額にそぎ傷1ヶ所、顎に
長さ1寸ほどの切り傷がありました
が、遺体をお引渡しくだされますよう
願い上げ奉りました通りに、お聞きくださり、誠に厚く扱っていただき有難く幸せに存じ
奉ります。
しかる上は勘左衛門変死につきましては、お屋敷様へ少しも言い分はございません。
これにより後の証として、一礼差し上げ奉りますこと件の如し。
               江川太郎左衛門御代官所 
                 武州多摩郡高木村 百姓勘左衛門倅 才次郎
                              組頭 百姓 万五郎
 文久2戌年11月27日 
                 親類惣代 
                 同御代官所 
                   同州同郡中藤村 百姓 四郎兵衛
                 右高木村役人惣代  組頭 傳右衛門
                               名主 金左衛門
 内藤駿河守様御内
       石掛清五郎殿
       小野益太郎殿                             」


またもや新事実。
刀で斬られたと思われる傷が何ヶ所にも勘左衛門さんの体にありました。
これはもう、殺人事件と見て間違いないでしょう。
しかも大名屋敷の中でなのですから、犯人は内藤家中にいる可能性がとても高い
ことになります。

しかし、百姓には何もできません。
遺体を丁寧に扱って、返却してくれてありがとう・・・これしか言えないんですね。
才次郎さんたちの心中、察するに余りあります。
しかも、集金した金26両2分も戻ってはこなかったようですが、これはさらに追い打ち
をかける辛さです。
炭の仕入れにかかった代金もこの中から払うハズだったでしょうから、この後で家族が
どのように生活を立て直していったのか、150年以上も昔のことながら気になって
しまいますよ。

以上が「大名屋敷殺人事件」の一件です。犯人は誰か?どうなったのか?
村の日誌ではこれ以上のことはわかりませんでした。
しかし、他村である高木村の事件に、なぜ杢左衛門さんはこんなにも史料を残して記録
したかったのでしょうか?
このことは杢左衛門さんだけではありません。
現在は武蔵村山市域にあたる中藤村の「指田日記」にもこの事件は記録されているの
です。

文久2年11月21日
「高木村の勘左衛門、出入り屋敷の内藤侯の新宿下屋敷内古井戸の中に、右勘左衛門
を殺害して入れ置いたことを、申し来る。」


これによると、21日に連絡が入った時点で、これは殺人事件だったことが判明していた
ようですね。しかし、事件の起きた場所が譜代の大名屋敷だっただけに、当事者たちは
それを正面切って言えない所があったのでしょう。
いくつかの村で記録が残るほど、当時はショッキングな事件だったに違いありません。

メガ38

お知らせ
ワタクシこの度、他のブログでもマンガを描かせていただくことになりました。
東大和市の広報活動をする市民サークルのブログ
「東大和 市民ネット」入口) です。

「幕末多摩・ひがしやまと」とはチョイ違うテイストのマンガですので、ぜひみなさま
遊びにきてください!
タイトルは「多摩湖のタマコ」
いつ更新するかは不定期なので、毎日チェックなのだ!


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ

スポンサーサイト

新選組漫画 134

20150525.jpg

たいていのお宅の窓には網戸があると思うんですが、ワタクシの部屋には無いんです。
というのも、大幹部のテンちゃん(猫♀)が子猫の頃によじ登っては爪を立てて、ビリビリ
に破いてしまいまして・・・。
このところ暑くなってきたので窓を開けているのですが、やはり虫が入ってきます。
この漫画を描いているときも、ずーっと蝿が部屋の中を飛び回っておりました。
なんであいつらって、開いてる窓からなかなか出ていってくれないんですかね?
外の世界の方が、自由に飛び回れることでしょうに。

まぁ、蝿くらいならいいんですが。
たま~に、スズメバチがやって来ることもあるんで、それはコワイです。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ

「里正日誌」を原文で読む

ワタクシの住んでいる東大和市に、「おとなの社会科」という公民館活動をしている
サークルがあります。
だいたい月に1回のペースで、いろいろな分野で活動されている講師の方をお呼び
して話を聞くという、まぁ雑学講座みたいなものです。

当ブログでもお馴染みの、「里正日誌」を原文の古文書から解読している「古文書を
読む会」
というサークルが市内にありまして、そこから市内在住の砂田さと子氏
講義にいらっしゃると聞き、ワタクシも聴講してきました。
こういう地道に研究されている方のおかげで、ワタクシのような者がこんなヘッポコ
ブログを書くことができるのですから!

さて、ここでもう一度「里正日誌」についておさらいをしましょう。
「里正」とは名主のこと。
蔵敷村(東大和市)の名主だった内野家の当主・内野杢左衛門が、代々に渡って
書き残した記録をまとめたもの。それが「里正日誌」です。
「里正日誌」の大きな特徴は、書かれている内容が個人的な備忘録ではなく、村や
村を含む組合、周辺の村々などに関係する書状などの写しを記録している
ということ
です。
そのため、当時の政治的・社会的な状況を推測する史料として、重要視されている
のです。

この日は「里正日誌」の一部を抜き出し、原文のコピーをご紹介していただきながら、
それを砂田さんと共に読んでいく、という講座でした。
原書は内野家の蔵の中ですから、なかなかお目にかかれません。
取り上げた部分は、文久2年(1862)11月に起きた、とある事件についてです。

IMG_0846a.jpg

ハイ。これが原文(コピー)です。
ワタクシには何が何やらワカラナイのですが、砂田氏はタッタカタッタカと読んでいき
ます。
「里正日誌はね、比較的読みやすいんですよ」
ひえ~~ッ、コ、コレがですか!?

この文久時代を記録したのは、安政4年(1857)から明治5年(1872)まで名主(明治
5年からは名主制度が廃止されたので戸長)を勤めた杢左衛門星峰さん。
さらに明治5年から杢左衛門を継いだ秀峰さんが、天正年間から続く「里正日誌」を
編纂したので、古文書とはいっても比較的新しい時代の文体で書かれているのがその
理由だとか。
とはいっても、崩し字に慣れていない人にとっては、やはり読むのは難しい・・・!

IMG_0852a.jpg

同じ箇所を活字印刷したのが、こちら。
東大和市教育委員会が出版している「里正日誌」がこの形になります。
ワタクシが読んでいるのがコレです。
やはり、現代人は活字の方が読みやすいですね。

ではその内容ですが、どのような事件が起きたのか見てみましょう。

「文久2壬戌(みずのえいぬ)年11月21日、高木村の百姓である勘左衛門は、
普段は農間渡世として青梅から炭を仕入れ、江戸表にお出入りを許されて
いる屋敷へその炭を届ける稼業をしている。
内藤駿河守殿の小川町(千代田区神田)にある上屋敷、内藤新宿南方の玉川上水そば
にある下屋敷の2か所は、何年もお出入りをしている屋敷なので、御役人達も懇意にして
いる人もいる。
勘左衛門が江戸へ出て2~3日も滞在して帰らないので、家族の者が心配して、屋敷へ
罷り出て様子を尋ねたところ、居所が知れないので屋敷内の色々な場所を探した。
すると、屋敷内の北西に松山があり、そこに古井戸があるが、その井戸の中に打ち
込められて死んでいる
のが見つかった。
役人に掛合に及んだところ、一緒にこの井戸を検分された。
このことで江戸へ立った高木村の名主金左衛門の頼みで、杢左衛門も一緒に見届け、
それより屋敷内へもお届書を差し出した。」


杢左衛門さんの住む蔵敷村より、二つ東にある村が高木村です。
その村の勘左衛門さんが、炭を納めに江戸の大名屋敷にいったところが帰ってこない。
探してみたら古井戸の中で死体で発見された、という一件です。

農間渡世とは、いつぞやも書きましたが、狭山丘陵一帯の農家ではよく見られた収入
方法です。農間稼ぎとも言います。
歴史の授業では、江戸時代の農民はお米か農産物で税を支払ったと教わりましたよね。
ところが、水利の悪いこの地方では米の質が悪いのでお上が受け取ってくれない。
お金で税を納めろというのです。
そこで野菜やら、青梅や五日市あたりで仕入れた炭を都会(江戸)に持って行って換金
するのです。これが農間渡世。
しかし、農民が商業活動をすることは原則禁止されてます。
そこで、「いや、コレは野菜や炭を運ぶ運送代金をいただくのですよ」という名目で江戸に
持っていくのです。これを駄賃稼ぎといいます。
ですから村の6~7割ほどの農民は馬を持ち、とても大事にしたようです。

こういった農間渡世では、お得意さまの決まった旗本や大名の屋敷があります。
勘左衛門さんは内藤駿河守がその家だったようですね。
内藤家は信濃高遠藩3万3000石。当時の藩主は内藤頼直です。高遠藩は参勤交代で
甲州道中を使う3藩の中の1つ(他は高島藩、飯田藩)。東大和市域を通る青梅街道は
甲州道中の裏街道で、村民は甲州道中の助郷をしていましたから、そういう縁で関わり
ができたのかもしれません。
勘左衛門さんは、屋敷の中にある松山の古井戸で遺体となって発見されました。屋敷地の
中に山があるからには、現場は敷地が広い新宿の下屋敷でしょう。

・・・とまぁ、こんなカンジで講座は進んでいきました。
勘左衛門さんの死因は?これは事故なのか、事件なのか?
砂田氏のこの日の講座では、この一件に関する他の記事を紹介しながら読み解いていき
ました。
そちらは。次回!

メガ37

「おとなの社会科」のブログはコチラ!クリック!)
聴講は基本無料。東大和市内外からの参加者を募集しているそうです。
そのうち、メガ博士も講義にいきます!(嘘)




「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ

新選組漫画 133 と、2015年「歳三忌」

もう一週間経ってしまいましたが、5月9日・10日は東京都日野市の「新選組
まつり」でした。
今年は10日に用事があったため日野に行けず、残念でした。
ただ、9日の「歳三忌」には参加することができましたので、今回はその
様子と、新選組漫画をお届けいたします。

IMG_0817a.jpg

もう、このブログでは年中行事ですね。
日野市石田の石田寺。樹齢400年カヤの大木が目印です。
墓前での読経と御焼香は午前11時からでしたが、ワタクシは少し遅れて着きました。
家を出るときはけっこう雨が降っていたのですが、モノレール最寄り駅「万願寺」に
着いた頃には上がっておりました。

IMG_0820a.jpg

今年は遅れて行ったせいか、少し並びましたが墓前にお参りすることができました。
ヘタな漫画でブログが炎上しませんように・・・しっかりお頼み申します。

例年ですと、この後「土方歳三資料館」に行くのですが、今年は近藤勇局長の刀も
公開されるというので2日に行ったばかり。
そこで今日はスルーさせていただき、そのまま高幡不動尊へと向かいました。

IMG_0834a.jpg

「新選組まつり」は日曜日がJR日野駅前や市役所前がメイン会場ですが、土曜日は
高幡不動周辺でイベントが行われています。
ワタクシが着いたときには、どなたでしょうか、歌手の路上ライブが行われていました。

IMG_0832a.jpg

IMG_0835a.jpg

ちょっと残念だったのは、山門が改修工事中でシートに覆われて見られなかった
こと。まぁ、仕方ないですが・・・。

340a.jpg

シートが取れるとこんなかんじ。
歳さんが下を通る人にハトの卵を投げつけたという金剛寺山門です。
ハト可哀そう・・・(←そこか!)

金剛寺の信徒会館にて、「新選組友の会」主催による講演会がありましたので、そちら
に出席しました。

IMG_0839a.jpg

今年の講演は、新選組結成からの幹部・井上源三郎のご子孫で、「井上源三郎
資料館」の館長である井上雅雄氏による「子孫が語る井上源三郎」でした。

源三郎は独身のまま鳥羽・伏見の戦いで戦死しています。
ですから雅雄氏は源さんの兄・井上松五郎のご子孫ということになります。
井上家は戦国時代、今川、武田と主家を渡り歩いたあと、日野にたどり着き、江戸時代
には八王子千人同心を勤めました。
源さんは小説やドラマでは「性格はいいけど剣の腕はイマイチ」みたいに描かれるけれど、
天然理心流の免許皆伝であるし、実力は相当のものであった・・・と、ご子孫のお話でした。

ということで、今回の漫画です。

20150516.jpg


源さんは若い頃剣術修行に熱中して、毎日家の柱を木刀で叩いたため、柱の真ん中が
くびれてしまったんだそうです。
昔その話を聞いてから、源さんというと「刀で斬る」というよりも、「木刀でブッ叩く」という
イメージが頭から離れません。

058a.jpg

源さんの生家。井上源三郎資料館です。



「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ

江川太郎左衛門、代替わりする

伊豆韮山にある江川太郎左衛門英龍の作った反射炉が、ほぼ世界遺産になり
そうだとかで、このGWもかなりの人出があったようです。
こうなると、当ブログ開始直後から訴え続けている「江川太郎左衛門英龍を大河
ドラマの主人公に!」
計画も、まんざら夢物語ではなくなってきたかもしれませんな。

江川太郎左衛門英龍は間違いなく江戸時代末期の巨星です。
佐幕贔屓のワタクシだから言うのではなく、公平な目で見ても彼ほど有能な官吏、
戦略家、武器開発者は日本史上でもトップクラスであるのは明白でしょう。
惜しむらくは、その生活スタイル(極端なまでの質素倹約)と激務が祟り、55歳と
いう若さで亡くなってしまったこと。
時に安政2年(1855)。
いよいよこれからが幕末だっていう、その直前です。
英龍が生きていれば、幕末史は幾分違ったものになっていたのではないでしょうか。

以前にも書きましたが、江川家は世襲代官という家柄のため、英龍の息子の英敏
が太郎左衛門の名前を継いで代官の任にあたります。
つまり、日米修好通商条約、安政の大獄、桜田門外の変、和宮降嫁、といった出来事
があった頃は、江川代官所は英敏の代だったということです。

そして。

「御代官江川太郎左衛門様のことであるが、去る文久2戌年11月中にお亡くなとり遊ば
されたので、御弟の江川籌之助(ちゅうのすけ)様が御順養子になり御家督を相続
することを同年12月27日、その筋より仰せ付けられた。
今年文久3亥年2月29日に、先代までの通り御鉄砲方兼御代官を仰せ付けられ、
江川太郎左衛門様と御改名遊ばされた。
ついては御支配所の村々は、御支配請に印形を持参して罷り出るように、御廻状を
以て仰せ触れられたので、3月21日御役所へ罷り出るよう御請書を仰せ付けられた。」


代官を継いだ秀敏さんですが、24歳の若さで亡くなってしまいます。
死因については本やネットで調べてみても「急逝」としか書いてありません。恐らく病死だと
思うのですが・・・。
文久2年(1862)といえば「幕末の伝染病と、杢左衛門の表彰」クリック!)でご紹介
したように、麻疹とコレラが一緒に流行した年です。英敏さんは、このどちらかでなくなった
のかもしれません。

英敏さんには跡を継ぐ子供がまだいませんでしたから、「里正日誌」の記述にあるように
弟が順養子となり江川家の相続と、代官職を継ぐことになるのです。この籌之助(名を
改め英武)はこのとき、9歳。
今で言うなら小3です。

ワタクシのような多摩・狭山丘陵地域の住民からすると、江川太郎左衛門の幕末政策と
いうと真っ先に農兵を思い浮かべるのですが、幕府から農兵取立の許可が降りたのが
文久3年(1863)ですから、その時の代官は9歳の少年だったのです。

江川英龍の農兵政策は、元々は外国からの侵入に対して沿岸を守る、という目的のため
でした。しかし、当時は「兵農分離の大原則に反する」とのことで実現はしなかったのです。
文久3年に農兵が取り立てられたとき、その目的は、外敵よりも無宿人らによる治安の悪化
や、一揆に対抗するための自衛的措置に変わってしまいました。
それでも、江川代官所が積極的に農兵策を進めたのは、これが英龍以来の悲願だったから
と、当時の代官所は手附・手代が全てを仕切る体制になっていたからではないでしょうか。

「里正日誌」には文久3年2月18日に御役所前に張り出されていた写しとして、代官所の
手附・手代衆のリストが載っています。

「松岡正平 中村清八 柏木総蔵 上村井善平 斎藤友助 根本慎蔵 細野久蔵
●雨宮新平 梅澤貞助 三科鎮太郎 稲垣繁一郎 ●針谷昇司 増山健次郎 ●伴猪兵衛
●川崎俊平 飯塚鉄太郎 増尾賢蔵 ●吉田五三郎 三浦剛蔵 細野雅之助 ●村越永太郎
鯨井俊司 高橋柳吉 ●小池松之助 山崎兼吉 針谷豊三郎 田口鑛三郎 山田豊次郎
斎藤左馬之助 小板真之助 富沢正右衛門 秋山弥一郎」


●がついている人は「鋳立場出役」の添え書きがあります。この人たちは「湯島大小砲鋳立場」
で大砲や小銃作成の任務に就いていたものでしょう。
松岡正平は筆頭手代で韮山詰め。
中村清八は手代で、天保10年(1839)の江川英龍による江戸湾備え場巡察に、松岡正平、
斎藤弥九郎と共に随行しています。また、嘉永6年(1853)には湯島での大砲鋳造御用掛に
任命されています。
柏木総蔵も中村と同じく、嘉永6年に湯島の大砲鋳造御用掛に就いていますが、江戸詰めの
筆頭格で英龍の秘書的な存在でした。
上村井善平は書かれてある史料を見いだせなかったのですが、「里正日誌」には「手附元締」
と彼のことを書いてあります。
おそらく、この4名が文久3年時の代官所のリーダー格だったのではないでしょうか。

松岡正平の長男は柴弘吉(同じく韮山詰め手代の柴家の養子に入る)、次男は松岡磐吉
いいます。
彼ら二人は英龍の小姓として教育を受け、長崎の海軍伝習所に派遣され、その後幕府海軍
に進みます。維新後は弘吉は長鯨丸、磐吉は蟠龍の艦長となり、榎本武揚と共に北海道へ
渡りました。
つまり、この兄弟は最後まで旧幕方として戦ったのです。

一方、柏木総蔵は鳥羽・伏見の戦いで幕府方が大敗を喫すると、いち早く新政府に恭順。
江川家を存続させるために奔走しますが、その甲斐あって維新後には支配地がそのまま
韮山県として新政府から認められることになりました。
言葉は悪いですが真っ先に幕府を切り捨て、新政府についたことになります。

松岡兄弟は手附・手代一覧表に名前が無いように、この時期にはすでに代官所を離れ
幕府海軍の所属になってはいましたが、元々英龍の家臣という立場は柏木と一緒です。
しかし、彼らが維新後に全く違う道を歩んでしまうことになるのは、柏木の行政官として
の立場と松岡兄弟の幕兵としての立場との違いはあるでしょうが、代官所が英龍の時代
から大きく変わっていったことが影響しているのではないでしょうか。

すでに過去記事でご紹介したように、賄賂なども通るようになります。
江川家に与えられた「世襲代官」という特別ルールが、この文久あたりを境に江川代官所
を変えてしまったと言えるでしょう。
このことは支配地域へも大きく影響します。
文久から維新にかけての、まさに幕末クライマックスのとき、江川代官所はどうだったの
か?支配地の村々は代官所をどう見ていたのか?今後をどう予測し、どう対処していった
のか?
それがわかれば、幕末期江戸近郊のリアルな世界が見えてくるでしょう。
まだまだ追ってみたいと思います。

・・・さて。最後にもう一つ別の話題。
一覧表に斎藤左馬之助という名前があります。
これがちょっと、気にかかる。
幕末がお好きな方、「江川英龍を大河ドラマに」運動を繰り広げていらっしゃる方はご存知
のことと思いますが、神道無念流「練兵館」を開いていた剣術家の斎藤弥九郎は、英龍と
親交があり、彼の手代となって活動していましたが、その手代として名乗っていたのが
斎藤左馬之助という名前なのです。
ということは、この一覧表に出ている左馬之助は弥九郎のことなのでしょうか?

安政年間に(おそらく英龍が亡くなった後)弥九郎は長男に弥九郎の名前を譲り、隠居して
篤信斎と名乗るようになります。このとき、まだ別名として左馬之助を名乗っていたのかが
わかりません。
もし仮に一覧表の左馬之助が篤信斎だったとしたら。寛政10年(1798)の生まれですから
文久3年には65歳になっています。
手代を勤めるには、ちょっと高齢かな・・・とも思うのですが・・・。

どなたかわかる方、教えてください!

メガ36

9日、10日と東京都日野市では恒例の「新選組まつり」でした。
・・・が、今年はワタクシ都合が悪く、見に行くことができませんでした。
Twitterなど見ると、パレードはまた一段と盛り上がっていたみたいですね~。
見たかったなぁ・・・。

ただ、9日の「歳三忌」にはなんとか時間を作って、参加することができました。
石田寺でご焼香もして参りました。
次回、ご報告いたしマス。

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


新選組漫画132

20150505.jpg


5月といえば、日野市では新選組のシーズンです。
今年の「新選組まつり」は9日、10日。パレードなどがあり、本陣や八坂神社前が
一番盛り上がるのは10日です。ところが、今年ワタクシは都合が悪く10日に日野に
行けません。
悔しいんで、GWに入ってすぐ、日野の新選組関連ポイントに行ってきちゃいました。

土方歳三資料館では、毎年この時期だけ歳さんの愛刀和泉守兼定の刀身を展示
してくれるのですが、今年はさらに近藤勇局長の刀も特別展示しています。
その公開初日(5月2日)にワタクシ見てまいりました。
・・・というコトで、こんな漫画です。
刀には武士の魂が宿る、と言いますからナ。

IMG_0802a.jpg土方歳三資料館

今回展示の局長の刀は丹波守藤原照門
近藤さんの刀といえば長曽禰虎徹(現存せず)が有名ですが、照門はワタクシは初めて
聞きました。
近藤さんが形見代りに親戚の家に預けてあったモノだそうで、個人所有のため今まで
表に出てくることはなかったそうです。

長さは2尺1寸9分ということで、案外短いなという印象です。
説明によれば、近藤さんが実戦のために自分用に短めに刷り上げてあつらえ直した
ものということです。ということは、屋内戦用か、あるいは肩を狙撃された以降に直した
ものかもしれません。
鞘は真っ黒で、柄巻はひねり巻きという間の狭い巻き方。幕末に流行った巻き方だ
そうです。鉄の透かし鍔がなんかオシャレでした。

なんでも最近は「刀剣乱舞」とかいうゲームの影響で、日本刀がすごい人気なんだそう
ですね。どうりで、本屋の雑誌や歴史コーナーに日本刀の本が多いワケです。
そうしたゲームから来たファンもやって来るため、土方資料館も昨日(4日)は入館3時間
待ちという時間帯もあったそうです。
スゲー・・・ッ!
ワタクシが行った2日は、混んでるとはいっても並ばずに入館できたし、ゆっくりと展示品
を観賞することができました。よかった・・・!初日に行って!

ところで、同じく土方資料館に行った方がTwitterでツブやいていたことなんですが。
その方のそばにいたお客さんが、「兼定が大事!土方歳三には興味ないから」って
言ってたそうなんです。若い方だったようなので、「刀剣乱舞」のファンなのかな?
それが説明してる館長さんの前でだったらしいんで、投稿した方は激怒りでした。

コレ、本当だったら悲しいですよね。
ゲームやアニメで刀に興味を持つのはいいと思うんですよ。
ワタクシも歴史が好きになったきっかけは、テレビ時代劇ですしね。
オリジナルの二次使用や、キャラクター化だけの世界で遊んでいるのなら、そのスタンス
でもいいでしょうけど、資料館に行って実物を観賞するのであればもう一歩進んだアプ
ローチをしなければいけないとワタクシは思います。
そこに展示してあるものは、ゲームのキャラクターではなく、歴史的な資料だからです。
別に新選組を理解しろとか、歴史を好きになれとは言わないけれど、ゲームやアニメ以前
に、こういう事実と現物がある、ということをわかって欲しいですね。
それを踏まえた上で、またゲームやアニメの世界に行くと、違った感想を持つのではない
かな、と思うのですが。

日野には他にも新選組関連の資料館として、佐藤彦五郎新選組資料館井上源三郎
資料館
などがあります。
彦五郎資料館には歳さんのもう一本の刀、越前康継が期間限定公開中。こちらは刀身の
中子に葵御紋が入っていて、歳さんが松平容保公から拝領したものだそうです。
源三郎資料館には近藤さんが井上松五郎さん(源さんの兄で、勇のアニキ分)に贈った
大和守源秀國の刀もあります。

ワタクシ、日本刀のことについては詳しくないのですが、けっこう興味を惹かれるのが
彦五郎資料館にある佐藤彦五郎の太刀として展示してある一本。
無銘なんですが、やたら長く、重さも3kgもあるそうです。
刃こぼれしてるし、刀身にキズもついているんですが、ものすごい迫力があるんですよ。
というのもこの刀、「武州世直し一揆」クリック!)や八王子宿で起きた薩摩浪士捕縛
の「壺伊勢屋事件」で彦五郎さんが実際に使っている刀なんですね。
そのようなストーリーがあるからこそ、オーラが漂って見える気がするのでしょう。
郷土史に深く関わっている一本ですね。

9、10日の新選組祭りの日は人も多いでしょうが、いろいろなイベントがありますので
人がある程度分散して、各資料館はGW中ほどの人ではないかもしれません。
新選組や幕末に関心のある方はぜひ、どうぞ!

DSCF7139a.jpg
佐藤彦五郎新選組資料館


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ