みの家で桜鍋

今回は番外編。
先日、江戸検二期会恒例の定例会がありましたので、行ってきました。
江戸検二期会とは、江戸文化歴史検定クリック!)で第一期か二期(平成19,20年)
に1級検定合格をした人たちの集まりです。まぁ、江戸・歴史サークルみたいなものです。

以前は持ち回りで順番にガイドを決めて、都内の史跡巡りなどしていたのですが、昨年
は「江戸時代から続く老舗料理店を食べ歩く」という企画を行っておりました。
この食べ歩きのときは「伴四郎会」と名乗っております。
ご存知の方も多いかもしれませんが、この名称は幕末期に江戸食べ歩き日記を残した
紀州藩士・酒井伴四郎から取っています。

今までも、何回か伴四郎会で訪れた店はブログ記事でご紹介しましたね。

さて、今回は都営地下鉄森下駅近くの「みの家」さんでの定例会でした。

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桜鍋・・・つまり馬肉料理専門店です。
創業は明治30年(1893)。東京で桜鍋というと、日本堤の「中江」も有名ですが、
あちらは明治38年(1905)の開業。
てことで、「みの家」の方がいくらか江戸に近いワケです。

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この写真をFacebookにアップしたら、ワタクシの大学時代の先パイが
「馬豚って、マトンてことか?」
とシャレオツなコメントを送ってくれましたが、違うでしょ。
馬と豚の鍋がありまっせ、てコトです。
たぶん。

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建物は空襲で焼けてしまったため、戦後のものですが、それにしてもなかなか
イカス佇まい。

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この廊下。
なんと、一枚板なんザマす
なんて贅沢なんザマしょ。
土地柄、常連さんに木場で働く人が多かったので、値踏みされないように木材は
全国から銘木を集め、贅沢に作っているんだそうザマす。

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では、お料理。
この日は幹事さんが特別室コース料理をとってくれました。
こちらは馬刺しです。

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アキレス腱のスープ。

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メインの桜鍋。
味付けはやや甘い味付けの味噌と醤油ベースの割りしたで、煮えたところで生卵を
つけて食べるすきやき風です。

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写真を撮るタイミングが悪くて、肉をとっちゃった後なんですが(笑;)

料理は他にタンやタタキなど。
けっこう量も多いです。
さすが名店だけあって、やわらかく美味しい肉でした。
ごちそうさまです。

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こちらは、落語家の古今亭志ん生から贈られた羽子板。
歌舞伎の「道行旅路の花婿」(仮名手本忠臣蔵)を題材にしていますが、お軽・
勘平・伴内の3人は落語家の似顔になっているようです。
ワタクシ落語は疎くてわからんのですが、お軽が志ん生とあります。
団体向けの特別室に飾ってありました。

メガ35

後で知ったのですが、ワタクシの大学の後輩Sくんが
「みの家の息子と中学校が一緒だったんですよ」
と、教えてくれました。
もしかしたら、その方が今の「みの家」のご主人かもしれません。

今度は、Sくんと一緒に食べに行きたいですね。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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新選組漫画 131

20150426.jpg

新キャラ登場。
中島さん=中島登(なかじまのぼり)は、準メジャー隊士といったところでしょうか。
八王子出身なので、我々多摩地域の人からすると、なんか親近感があります。
昨年、「沖田総司忌」のあとで、中島登のご子孫の講演を聞きました。その時の
ことは記事に書きましたので、登の詳細はそちらをご覧ください。
「沖田総司忌 2014年」クリック!)
箱館戦争終結後、謹慎中に描いた「戦友姿絵」が有名です。

成合くん=成合清(なりあいきよし)は、よっぽどの新選組好きじゃないと知らない
んじゃないかと思います。桑名藩士で、新選組が北海道に渡るときに入隊した
いわゆる「桑名新選組」の一人です。

新選組は箱館で敗れたあと、降伏人たちは一時弘前の薬王院で謹慎させられ
ました。そのとき、この二人が隊中に関する全ての応接係を命じられているの
です。当時31歳の中島と21歳の成合、なかなかいいコンビだったのではと妄想
して、こんなカンジに描いてみました。
もっとも、中島が「戦友姿絵」を描いたのは、薬王院の後、箱館に身柄を移されて
からです。
中島は自画像も描いてるんですが、着物の下にボタンのついた下着が見えてる
んです。やっぱり寒かったんですね。

ところで、以前からずっと気になっていたんですが、「戦友姿絵」の歳さん。
「行年 三十八」って書かれてるんですよ。
天保6年(1835)生まれだから、実年齢34歳、数えでも35歳のハズ・・・。
なんで?

単純に考えれば、中島さんが間違えて覚えてたってことですが、もしかしたら蝦夷
共和国の陸軍奉行並に推された歳さんが、ちょっと貫禄つけようとして
「オレももう、アラフォーだしィ・・・」
とか言って、逆サバよんでたってことは・・・?
ないか。

幕末の伝染病と、杢左衛門の表彰

文久2年(1862)7月、江戸では大事件が発生します。
21世紀の世界から一人の脳外科医が、タイムスリップしてきたのです!

ウソです。

でも、今回はあの漫画(ドラマ)「JIN」に関係のあるお話。

この年は2月に、長崎に来航したヨーロッパの船から麻疹(はしか)が流行し
出します。これが4月に関東にも伝わり、アッという間にお江戸パンデミック。
文化・文政のときにも麻疹は流行したようですが、文久2年の麻疹はそれよりも強い
ものだったようで、江戸では数千人の死者を出しました。

ちなみにこの時、後に新選組幹部となる沖田総司も剣術を教えに行った小野路村
(町田市)で麻疹にかかり、馬に乗せられて布田宿(調布市)まで送られています。
小野路村では、江戸に奉公にでていた村の娘数人がこの麻疹で命を落としていたので、
沖田の身も非常に案じられたようです。

この麻疹の流行が終息しないうちに、さらなる災難がやって来ます。
それが暴瀉病の流行です。
暴瀉病とは現代でいうコレラのことですね。
この病気は安政5年(1858年)にも流行しています。当ブログでもご紹介しましたので、
よろしければお読みください。
「暴瀉病流行す!」クリック!)

文久2年の暴瀉病流行は、江戸でどのような被害をもたらしたのでしょうか?
「武江年表」にその記述がありますので、ご紹介します。
この部分はワタクシがヘタな訳をするよりも、原文のままの方が緊迫感が伝わると思い
ますので、そのまま書き出します。

「七月の半ばよりは暴瀉の病にまさりし急症やむ者多くこれあり。こは老少をいはず即時
兆し、吐瀉甚だしく、片時の間に取詰めて救薬すべからず。死後惣身赤くなるもの多し。
その中には麻疹の後食養生おこたりて再感せるもありしとか。又霍乱(かくらん)の類も
ありと聞けり(麻疹鳥獣にも迨《たい》して、牛馬鶏犬の斃れたるもあり)。銭湯、風呂屋、
髪結床、さらに客なし。花街の娼妓各煩ひて来客を迎へざる家多かりし。」


麻疹で体力が弱くなっていたところに暴瀉病。
これが流行に拍車をかけてしまったようですね。

江戸での暴瀉病の流行は、すぐに周辺の農村へも伝わります。
日付けは未記載ですが、「里正日誌」にはこのように書かれています。

「文久2戌年7月頃より暴瀉病が、江戸はもちろん在方までも流行し、死亡者も少なくは
ないと聞く。村々の小前一同も心を痛めていたところ、御支配御代官様の御役所より
暴瀉病の薬に関する御廻状をお触れなされた。
これによると、この薬とは上品の桂枝、同じく益智、乾姜の3種を粉末にして等分に調合
し、薬名を芳香散という。
この薬を、目方100匁(375g)ほど江戸より求め、村方の家ごとに1帖づつ施薬した。」


この「芳香散」こそ、JIN先生のつくった特効薬!
・・・というなら話は早いんですが、サスガにそうではないようです。
この薬、安政5年の流行のときにも使われた薬です。
原材料が書いてあるので見てみましょう。
桂枝は月桂樹の皮。益智(ヤクチ)はショウガ科の植物で、種子が漢方に使われます。
乾姜はそのまま乾燥生姜のこと。
つまり、漢方薬ですね。
「芳香散」は現在も発売されているようです。
原材料もほとんど変わっていないようですが、効能としては胃もたれ、むかつき、胸やけ
など。コレラの特効薬ではありません。
ま、当然といえばとーぜんです。

蔵敷村名主の杢左衛門さんは、この芳香散を江戸から取り寄せて村中に配ったようで
すが、これが次のような結果を生むことになりました。

「恐れながら書付けをもって申し上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷分小前の村役人惣代組頭の重蔵ほか2人が申し上げ奉ります。
私どもの村では、石高215石7斗4升6合4夕にして、家数は54軒あります。これまで永年
に渡り御支配所から御恩沢を承り、一同冥加を長く感じ、ありがたく幸せに存じております。
(中略)
なおまた、今年8月に暴瀉病が流行して村人一同が安心できなかったときも、杢左衛門は
村中の家々残らず芳香散を施薬いたし、症状が治まるまで丁寧に諭し、とても親切に面倒を
みてくれました。
そのほか今月16日に村で火事があったときも、早速駆けつけて消防をそれぞれ指揮し、鎮火
の後には火元・類焼人たちへ相当の見舞いを送りました。
右の品々誠実の取り計らい、ことに日頃正直に実意を尽くし、村のため一心に心がけ、御用
向きのことはもちろん、その他のことも言い加減にすることなくまじめに励んでおります。
そこで、前書の取り計らいは聊かながら、このことをお届け申し上げ奉ります。以上。
  文久2戌年10月26日
                武州多摩郡蔵敷分 小前村役人惣代
                                   百姓代  平五郎
                                   組頭    半左衛門
                                   同     重蔵
  江川太郎左衛門様 御役所   」


名主の杢左衛門さんが暴瀉病のときに村人みんなに薬を施したことに村人が感謝し、表彰
してくれと代官所に申し出たのです。
感謝したのは暴瀉病のときだけではありません。
その後の火事の話は「幕末 火事の後始末」クリック!)のときのこと。
中略の部分はこういったことが書いてあります。
代官所が支配地域の80歳以上の高齢者を表彰したことがあり、蔵敷村では3人の高齢者が
所沢村で報奨金をもらいました。しかし杢左衛門さんは70歳以上の女性も1人加え、自宅に
呼んでポケットマネーで報奨金を出したというのです。

この村人らの申し出に、代官所も即座に反応いたします。

「申渡し
               武州多摩郡 蔵敷分 名主 杢左衛門
その方の勤めぶりは正直であり村の取締りも宜しく、今年秋の異病流行のときには施薬して、
それぞれ窮民へ手当などをいたしたことは奇特なことである。追ってその筋へも達しお聞きに
なること、ますます精勤いたすべし。
  戌(文久2年)12月  」


杢左衛門さんは代官所から表彰されることとなりました。
優秀な名主として、公に認められたことになります。
実はこのとき、表彰された名主は杢左衛門さんだけではありませんでした。

「申渡し
               武州多摩郡 日野宿 名主 彦五郎
その方の宿場の取締りは厚い心がけであり、今年秋の暴瀉病流行のときは施薬して、
男やもめと未亡人などの孤独者を憐み、米銭などを施したことは奇特なことである。
追ってその筋へも達しお聞きになること、ますます精勤抜きん出るべし。
  戌12月  」


日野宿の名主、佐藤彦五郎さんも同時に表彰されていました。
みなさんご存知、土方歳三の義兄です。
さらに相州津久井の日蓮村の名主三右衛門という人も、窮民に施しをしたということで同じく
表彰されています。三右衛門さんには「これにより褒美として銀1枚、これを遣わす」と代官所
は言っていますので、杢左衛門さん、彦五郎さんにも同額の褒美があったのでしょうね。

文久2年8月15日に江川太郎左衛門英敏さん、つまり当代の代官が亡くなっています。
12月は江川家の家督を継いだ弟の英武さんが代官になったばかり。
わずか9歳の代官です。
この名主の表彰は、一見すると村々と代官所の関係がとても良好であることを示している
ように感じますが、裏を読めば双方の心理戦が行われているようにも受取れます。

麻疹、コレラと幕末の日本を襲った伝染病。
そこに代官の交代劇が絡んで、村々では病気とはまた別の緊張感が漂っていたとするならば、
それもまた地方史の興味深い1ページとなりますね。

メガ34
代官所から彦五郎さんへの表彰状を読むと、独身男女の面倒も見ていたようです。
原文は「鰥寡(かんか)孤独を憐、」となっています。
深読みすると、経済的な支援だけじゃなくて結婚・再婚の世話までみていたんじゃない
だろうか?なんて思ってしまったりして。
肝心の「佐藤彦五郎日記」は文久年間のところが、今のところ未発見。
きっと、この表彰についても書かれてあったことでしょう。


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新選組漫画 130 と、流山廻り

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2回連続で漫画になってしまいました。スミマセン・・・。
その理由は後ほど。

新選組の負のイメージ「血なまぐさいしィ・・・」を逆手に料理してみました。
そういえば「花燃ゆ」の視聴率がついに10%を切ったそうですねぇ・・・。
その前のアンダー10%は「平清盛」だそうですが、それは最終回のとき。
まだ前半部分でこんな数字が出ちゃうってことは・・・池田屋で「血なまぐさい」
新選組が登場する前に、マジで放送打ち切りなんてコトに!?

ココから先は続きをどうぞ!
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新選組漫画 129

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「花粉症あるある」です。
みなさん、そんなコトないですか?ワタクシだけかな・・・?
ワタクシ鼻の粘膜が弱いので、鼻血が出やすいんですよ。まぁ、漫画のように服を汚す
ほどには出血しませんけどね。

漫画のタイトルを考えるのが面倒になったんで、シンプルにしました。
話数はたぶん合っていると思います。

さて、お時間と興味のある方は「続き」を押してください。
元日に一部で好評だった、あの企画を今回もやっちゃいます。
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幕末 火事の後始末

「火事と喧嘩は江戸の華」なんてコトを言いますが、それだけ昔の日本は火事が
多かったのですね。家が木と紙で作られていて、おまけに冬は空気が乾燥する
環境ですから火事が多いのは仕方のないことだったのかもしれません。

人口の密集している都市部で火災が起きれば、大惨事となることも多かったの
ですが(明暦の大火 1657年 死者10万人 など)、江戸周辺の農村で火災が
発生したとき、人々はどう動き、どのような対処が取られたのでしょう。

文久2年(1862)10月に、蔵敷村で民家数軒を巻き込む火災が発生しました。
この一件について「里正日誌」は細かく記録を取ってありますので、それを見ながら
当時の火災を追ってみることにします。

火事が起きたのは10月16日の早朝でした。
出火元は蔵敷村の百姓銀右衛門さん宅。
村人らがすぐに消火に当たりましたが、その日は強い北風が吹いていたようで銀
右衛門さんの物置なども焼いたほか、南にあった同じく百姓の長吉さん、市郎右衛門
さんの家まで類焼してしまいました。
鎮火後、代官所に提出された報告書は以下の通りに書かれています。

「武州多摩郡蔵敷分の百姓銀右衛門の家から、昨日16日朝六ツ時(午前6時)頃に
出火した。早速近所の者たちが駆けつけ、一所懸命に消火に当たったが、折から北風
が強く吹き消し止められず、書面の家々が類焼し焼失した。
鎮火の後で火元の様子を確認したところ、前日の15日暮れ時に、勝手土間のかまど際
より取灰して水をかけておいたけれども、火の気が残っていたと見えた。
この取灰より出火したという過失である。
人馬に怪我はなく、不審火ということはございませんが、銀右衛門はこの始末を恐れ
いって菩提寺へ入り謹慎しています。
このことを訴え奉り申し上げます。以上。
                         武州多摩郡蔵敷分 百姓銀右衛門
                                       組合兼
 文久2戌年10月17日          親類 百姓 市左衛門
                         村役人惣代 組頭 吉右衛門
 江川太郎左衛門様 御役所                                 」


「書面の家」というのは、この書状の前文に出火した家と類焼した家が書き出されている
ので、それを指します。内容は、

「火元 百姓 銀右衛門
  居宅1棟 土蔵上家 物置小屋1ヶ所 木小屋1ヶ所 味噌小屋1ヶ所 下家1ヶ所

類焼 百姓 長吉
  居宅1棟 物置小屋1ヶ所 穀箱1ヶ所 下家1ヶ所

類焼 百姓 市郎右衛門
  居宅1棟                                              」


書状には「焼失いたし・・・」とあるので、これらの建物が全焼したということでしょう。
かまどの火の不始末が原因のようですね。失火原因としてこのケースは多かったの
ではないでしょうか。
以前、放火の例も上げましたが、その場合は物置などに火をつけて、人々が驚いて
消火している間に母屋から金品を盗むというモノでした。火元が家の中だったので放火
ではないと判断したものと思います。
銀右衛門さんは菩提寺に入って謹慎していますが、火元となった家の主は代官所から
の裁定が下るまではこうすることが慣例化していたのかもしれませんね。

村では早速、江戸の代官屋敷に人を遣わし、現場検証(検分)の願いを訴えます。
17日に村からの書状を受け取った代官所は、高橋柳吉という手代を派遣しますが、
江戸屋敷から蔵敷村までは支配所外の土地も通るため、継ぎ立てに支障がないように
人足を差し出すなどの用意をしておくように先触れを出しておきます。
そのように手配した上で、高橋さんは18日朝六ツ時(6時)に江戸を出発します。

「(高橋様は)10月18日中野通り小川宿より夕七ツ時(20時)頃、お越しになった。
着いてすぐ火事場のご検分を済まされ、名主杢左衛門の家でお泊りになった。
その夜のうちに御検分書を書かれ、御吟味を済まされた。火事場の絵図面を差し出し、
翌19日の朝出立して御帰りになりました。」


村に着いてすぐ現場検証とは、相当大急ぎです。夜の8時ではすでに暗かったでしょう
し、ちゃんとできたのでしょうか?予め事件性がないとの報告があったので、形だけ
みたいなことだったのでしょうか。
検分には高橋さんの他、銀右衛門、類焼した長吉、市郎右衛門の火災関係者。百姓代
の平五郎、組頭の半左衛門、常七、吉右衛門、重蔵ら4人、名主の杢左衛門と6人の
村役人が同席しました。
現場検証を終えると、出火元への吟味となります。

「この度の火元の銀右衛門が申し上げます。今年50歳になり、石高18石あまり、家族は
7人で農業渡世をしております。
当月15日は稲干し並びに稲こきなどで夜更けまで農作業をして、すっかり寝込んでいた
ところ、16日の明六ツ頃に怪しい物音に目覚め、立ち上がって辺りを見るました。すると
家の勝手から出火しており、驚いて「火事だ」と呼びたてると、近所の者たちが早速駆け
つけ、村内の者、村役人らが追々駆けつけ一同消火に当たりました。
しかし、折から北風が烈しく、萱葺きの家なので飛び火して消し止めることが難しく、居宅
は焼失し類焼の家もありました。
出火の原因は、夜にかまどの灰を取り、よく湿らせて家の外に捨てて置いたところ、この
灰に火の気が残っていて風が烈しく吹いたので、出火したといえます。
他に怪しいこともなく、全くの過失に違いありません。畏れ入りましたので鎮火した時から
隣村の芋久保村の新義真言宗蓮花寺へ入り、謹慎しています。」


取り調べは高橋さんの宿舎となった杢左衛門さんの家で行われたのでしょう。
銀右衛門さんがなぜわざわざ隣村の寺に入ったのかといえば、蔵敷村は元々奈良橋村
の一部だったので、村内に寺がなかったからです。
続いて類焼の被害にあった二人からも調書を取ります。

「この度類焼にあった者が申し上げます。火元の銀右衛門が申しました通り間違いなく、
同人は平日より実直な人柄で意趣遺恨など受ける者ではありません。怪しいことは及ばず
全くの過失で類焼しましたので、火元に対して少しの申し分や願いの筋など毛頭もござい
ません。」


ということで事件性はないことが証明され、村役人たちが奥書印形をして代官所に提出。
以上が火災が起きたときの処理の仕方だったようです。
まぁ、それほど想像していたコトと大きく離れてはいない感じでしょうか。
ところが、ここからが江戸時代っぽい話になります。

長くなりましたので「続き」からご覧ください。
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