総司と黒猫

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沖田総司の死の直前、一匹の黒猫が現れて、総司がその猫を斬ろうとしても斬れ
なかった・・・というのは総司エピソードの中でも最も有名な話かもしれません。
子母澤寛の「新選組物語」に出てきます。

ワタクシがまだ新選組にハマる遥か以前。小学生のとき。
「すすめ!!パイレーツ」(作・江口寿史)という野球ギャグマンガがヒットしていました。
弱小プロ野球チームの話なのですが、そのチームの一塁手に沖田総司の大ファンで、
あまりにも好きすぎて結核になりたがっている「稲刈真青・いねかりまさお」という選手
が登場していました。
この稲刈選手が黒猫の催眠術に引っ掛かって、踊らされたりするのです。
当時は新選組なんて知らなかったから、黒猫は不吉って言うからかな、程度にしか
思っていませんでした。
後年、「新選組物語」を読んだときに「あぁ、コレが元ネタか・・・!」と気付いた次第。

思えばワタクシの沖田総司へのファーストコンタクトって、本人じゃなくてパイレーツの
稲刈だったんですね。相当歪んだアプローチです・・・。
ちなみにお気付きでしょうが、稲刈真青は草刈正雄のパロディ。
テレビドラマ「新選組始末記」で、草刈さんが総司役で人気を博していたんですよね。

沖田さんにも教えてあげたい。
黒猫も一緒に暮らしてみるとカワイイですよ。
斬るなんて、言わないで!


春になったので、我が家の大幹部たちもネックレス(首輪ともいう)を新調しました。
IMG_0710a.jpg
黒猫のポンちゃんは赤が似合います。
100%、ジジの影響です。

IMG_0711a.jpg
三毛猫テンちゃんは、純和風に。
浅草にて買い求めました。


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杢左衛門、探偵物語

「里正日誌」はどういうワケか文久元年(1861)に関する記述が少ないのです。
前回ご紹介した「和宮降嫁」に関するものが秋にある他は、春先にかけての記述と
して「由五郎始末」クリック!)が大きな話題として挙がっているだけです。
他には火災や盗難事件に関することが2~3件ありますが、蔵敷村近辺に関する話は
それだけです。
しかし、社会的な事件が2件書かれています。

2月(この時点では万延2年)に起きた「水戸玉造浪人事件」クリック!)と、5月
に起きた「第一次東禅寺事件」参考までにクリック!)です。
なぜこの2つの事件が「里正日誌」に取り上げられているかといえば、捕縛を逃れて
逃亡した者が逃げ込んでくるかもしれないということで、代官所から通達があったから
です。(村から代官所への返信が記載されています。)

このように江戸周辺では「桜田門外の変」以降、幕府のコントロール下から離れていった
浪士たちが、いつ次のテロ行為や暴徒化するのかわからない状況にありました。
この頃の「里正日誌」には「欠落」「不図出(ふっとで)」をする由五郎や梅吉のような
若者が細かく書かれていますが、その背景には、これらのグレた無宿人が暴徒の仲間に
入る危険性が多分にあったので、特に注目して記録されたのかもしれません。

さて、そんな最中の文久2年8月。
蔵敷村と同じく江川代官領である所沢村に、不穏な動きがあるとの噂が持ち上がりました。
しかもそれは、村役人たちに関することのようなのです。
事態を重く見た代官所は早速調査に入ります。しかし、調査の対象が村役人だけに代官所
から人を出したのでは、シッポを捕まえられそうにありません。
そこで代官所では一人の男に調査を依頼し、隠密に所沢村の内情を探らせることにしま
した。
その男こそ、蔵敷村名主、杢左衛門その人だったのであります!

「武州多摩郡所澤村の取締りについて、内密に申し上げるように仰せ付けられましたので、
左に申し上げます。」


以前から「バーディー大作戦」や「アイフル大作戦」が大好きだった杢左衛門さんは(ウソ)
この密命を引き受けます。そして憧れの谷隼人に倣って(ウソ)調査を開始。
以下、次のようにレポートをまとめました。

「所沢村は家々が建ち並んで農間稼ぎをしている者が多く、特に市や立場(たてば)で飲食
の渡世をしている者のうち、両3軒は芸者のような女を1人くらい、奉公人同様に働く女を
置いていますが、これまでどのような噂も聞きませんでした。
最近人の話に出るのは名主の助右衛門です。壮年になり特に短慮で意地をはるという
ので、隠居している祖父退蔵と仲が良くありません。
追々に村方へもこのことが伝わり、村民との関係も良くありません。
すでにこの春、助右衛門、退蔵、組頭の幸作、同佐次兵衛、年寄の半平の5人の家の門に
捨書きがありました。
また、村役人が12人ございます中で小十郎は正しいことをするのですが、幸作・佐次兵衛・
半平の3人は諺に言う日和見の心根に相見えます。
残りの勘左衛門・四郎右衛門・八右衛門・忠左衛門・彦七・源右衛門・徳右衛門・平兵衛の
8人は俗にいう壁成で役に立つとは申せません。
前書の通りなので、役人たちがそれぞれまちまちの判断を行い、取締ることがしっかりとは
行き届かないだろうと計り難いことです。
助右衛門の処置が変わることがないようなので、小前の者たちの噂話も良くありません。
このことをご賢察願い上げ奉ります。」


どうやら不穏な動きの元凶は、名主の世代交代にあったようですね。今風に言うなら
「大塚家具状態」とでも言うのでしょうか。
さらに12人いる村役人の中で、まともな判断ができるのは小十郎さんだけ。あとは日和見
だったり、壁成・・・というのはよくわかりませんが押しても引いても壁みたいに動いてくれ
ない人という意味なのでしょうか。まぁ、役には立たない人たちばかりのようです。
彼らの家の門には落書きがされているようで、村人からの信頼も無くしている・・・。
コレが杢左衛門さんの「調査報告書」でした。

「お尋ねになったことについて、有り体に申し上げ奉りました。万が一、所澤村の方で私へ
の遺恨を含め色々と申し上げる者もいるかと思いますが、前文に申し上げたことの外は
恐れながらご信用されないよう存じ奉ります。
事実を極秘に申し上げ奉りました通り、間違いございません。以上。
                         蔵敷分 名主 杢左衛門
 戌8月
   江川太郎左衛門様 御役所  」


蔵敷村は所沢を寄場とする所沢組合に入っています。その内情を探るというのは、杢
左衛門さんもさぞ緊張したことでしょう。
しかし、村々のこうしたゴタゴタから、嫌気がさした村民が欠落などすれば、それが大事
へと繋がる恐れもあります。
代官所が密かに調査員を仕立ててまで、村の実態をつかもうとした動きは幕末ならでは
の緊張感でしょう。
この史料の末尾には、杢左衛門さんの次の一文が書き添えてあります。

「右は文久2戌年8月27日御代官江川太郎左衛門様の御手代加判の中で、公事方掛り
根本慎蔵様へ内見されるよう封印して御役所へ差し出した。御同人様から内密に仰せ
付けられた。この書状を見られるのは加判の衆だけであり、外へは一切洩らさずと申し
ます。」


このような密命を杢左衛門さんに依頼し、また杢左衛門さんもすぐに実行に移すあたり、
この頃の江川代官所と杢左衛門さんは、大きな信頼関係で結ばれていたことがわかり
ます。

メガ32

「アイフル大作戦」と「バーディー大作戦」は、昭和の名作ドラマ土曜夜9時放送の
「キーハンター」と「Gメン’75」の間に放送された迷作ドラマです。
丹波哲郎、藤木悠、谷隼人、松岡きっこ、西田健、倉田保昭らが大活躍する
探偵アクション・コメディー超大作!
BSかCSで再放送してくれませんか?


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斎藤一は左利き?

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高校野球春の甲子園大会が始まりましたので、こんなネタです。

野球に薄い方にちょっとご説明いたしますと、野球の世界では左利きの選手は守備では
不利と言われています。
左利きの内野手は一塁への送球に体を反転させて投げなければなりませんし、捕手も
一塁への牽制球は投げ辛くなります。
なので、左利きは内野では一塁しか守る所がないのです。
まぁ、守っちゃイケナイというルールがあるワケじゃないんですが・・・。
外野手であれば左右はあまり関係ありませんが、外野手は足が速いことが求められる、
ポジションですから、足に自信がないとちょっとキビしい。

しかし、投手となると一転して左利きが重宝されます。
世の中には右利きよりも左利きの方が少数なので、打者からすると対戦経験の少ない
左投手は打ちづらいのです。
左投手が右打者のインコースに投げる角度のある直球を「クロスファイヤー」と言います
が、右投手が左打者のインコースに投げてもそうは言いません。左投手の球には独特
の角度がつくようです。

斎藤一が左利きというのは、子母澤寛が「新選組物語」の中でそのようなコトを書いた
ために広まったものと云われています。しかし、当時の侍の習慣は全て右利きであること
が前提となっていますから、剣術修行を修めた斎藤さんが左利きだったことはあり得ない
でしょうね。子母澤さんの、わかってて書いたフィクションでしょう。

さて。
甲子園球場では全国決勝大会が行われていますが、平行して東京都では高校野球の
春季大会も行われております。
ココでいい成績を残すと、夏の地区予選でシード入りできて有利な戦いができるのです。
実はワタクシの甥も今年の春から高校生となり、硬式野球部に入部いたしました。
まだ入学式前ですが、すでに練習生として練習・試合に帯同させてもらっているようです。
先日、甥の野球部の春季大会公式戦を、ワタクシも観戦して参りました。
スコアは8-1の七回コールド勝ち。まぁまぁ強いチームのようです。

で、甥は・・・というと・・・。
駐車場の誘導係とか、ファウルボールが球場の外に飛び出たら拾いに行く係とか担当
していました

がんばれ!!


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和宮さま御下向す!

「里正日誌」もいよいよ文久年間に入ります。
文久は3年間あるのですが、「里正日誌」ではこの3年間のまとめ方がちょっと特殊に
なっています。

●文久元年里正日誌  文久3年間に起きたことの記載
●文久2年里正日誌  組合、他村に関する記載
●文久3年里正日誌  農兵に関する記載(明治まで含める)


このように、その年の出来事を書くというよりも、各テーマについての記事を振り分けて
記載する、というようなまとめ方をしています。
ただ、これも完全に分けているというものでもなく、文久3年の農兵の話題が元年の日誌
に載っていたり、以前ご紹介した元年の「由五郎事件」クリック!)も2年の日誌に
書かれているといった具合。
現在は「里正日誌 第8巻」として万延~文久までが一冊にまとめられていますが、一つ
の事件・テーマが飛び飛びに書かれているため、シロートのワタクシだと見落としが出て
くるかもしれません。そのあたり、ご了承くださいませませ(さだまさし風)。

さて。
文久元年最大のイベントといえば「家茂将軍と和宮様のロイヤル
ウェディング」
、これに尽きます。
当ブログでも「ロイヤルウェディングは助郷で」クリック!)で、その行列のために助郷に
駆り出された村々の様子をご紹介しました。
ただその時点では「里正日誌 第8巻」が発売されていなかったため、他の史料を当たって
記事を書いたのですが、現在はその部分が「里正日誌」の中から読めますので、追加として
史料をご紹介したいと思います。

前回のブログ記事では、助郷を出すようにと宿場から送られてきた廻状実際に助郷に出した
人数・日数など
を書きました。
今回は、助郷を出すに当たって杢左衛門さんたち各村々の名主たちが話し合いを持ち、とり
決めた「議定書」がありましたので、こちらをご紹介します。

「一、(和宮様が大宮・浦和に来られる)14日の前々日より、御公卿様方が御通行されるので、
人馬を触書の通り用意させ、遅刻のないように召し連れて勤めるべきこと。

一、前日は桶川に入られる。当日は担当の人馬はなるべく壮健の者を選んで、少しも遅れる、
ことのないように召し連れて参ること。
食糧は握り飯を持参。差しさわりのないよう取り計って矢来(柵のこと)に詰めるので、才領
(監督官)村役人は時々見廻って取締りを怠ることのないよう、お指図の通りに取り計るべき
こと。

 人足10人につき才領は1人、村役人も人足の数に応じて付き添い、差配すべきこと。

一、泊まる宿で人馬が相部屋になったらお互い詰めて、騒ぎを起こさないように才領は付添
い、板橋宿まで大切に勤めるべきこと。
人馬札は志村坂の最寄りで取り立て、1人ごとに携えること。この札を引き上げない者は
勤められないので、追ってきっと改め申すべきこと。

  右の札を落とした場合は、上り札がなければ勤めることはできない。
  相部屋の後で、または途中で逃げ去った人足がいれば、逃げ去った当人より過怠銭と
  して2貫文を取り立てる。そのときに共犯の人足は何人いようとも逃した始末不行届き
  につき1人につき500文を取り立て、助郷で出された人馬へ残らず割り当てるべきこと。

  桶川より出した馬が途中で足を痛めたり病気になった場合は、立合い改め、宿々で
  置いてある馬の中より引き替えるべきだが、仮病を使って言って来ても容易に代りの
  人馬を差し出さないこと。」
  

長いので一旦区切ります。
なにせ2万5000人という大行列です。和宮様がいる本隊より2日も前に公卿隊の行列が
浦和入りをすることになっていたようですね。
人足の宿泊場所については、村ごとに宿が決められていたようで、別の史料によると
東大和市域では蔵敷村の人足34人・才領3人が星野屋新助、芋窪村の人足74人・才領
7人が升屋藤吉となっています。中藤村(武蔵村山市)のように人足224人・才領25人もの
助郷を出している村では人足が会津屋高吉、才領が丸屋兼次郎、森萬の3軒に分かれて
泊まったようです。
逃げ出した人足への罰金を自分たちで決めていることにも注目ですね。

「一、人馬が詰めているときに御法度と決められていることはもちろん、別に火の元は十分
注意すること。

一、この度仰せ付けられた当分(臨時)助郷の村々は何れも遠村なので、示談の上で人足
ばかりを差し出し、馬については定助郷の村で差し出すはずである。このことにつき馬士の
他は荷押し1人を差し出し、都合1疋は人足4人に代わるつもりである。

一、御時節前々より街道は通行止めになっているので、人足と村役人分の1人づつ御支配
御役所が御判鑑をお渡しになるので、御用が済んだら取り揃えて返上仕るべきこと。

一、石高100石につき凡そ馬8疋の割合で差し出すので、人が足りない村は最寄りの手空
きの村々より調達し、触当て通りに差し出せないことなどないようにいたすべきこと。

一、中山道往還の村々では、御時節のお繰越しのお荷物通行のときは、たいまつを持参して
いるので、洩れ火などは消し止め火の元は入念に心得申すべきこと。

   1村につき兼てお達しの通りたいまつは30~40本を用意し、夜越しの荷物へ差し出す
   べきこと。

一、御用が済むまでは人足、村役人に至るまで禁酒をし、無礼や手違いなどないように慎んで
勤めるべきこと。

   御支配御出役中様並びに八州御取締御出役中様がお見廻りなどをしているので、兼て
   心得違いの無いように人馬へ申し渡しておくべきこと。

一、人馬を召し連れているときは、1村ごとに到着したら名前を半紙横帳へ認め差し出すべき
こと。才領と村役人の名前も末書きに認めるべきこと。

右の通りに取り決めたので、いささかも間違いなく大切に勤め申すべきこと。これによって
議定連印いたし置くこと件のごとし。

  文久元酉年11月4日    蔵敷村 名主 杢左衛門   」


狭山丘陵一帯の村々は浦和からは遠いですから馬は出さず、その代りに馬1頭につき4人
の人足を出すことにしたようです。
蔵敷村の生産石高は215石しかありませんが、中藤村は1400石もあります。ですから人足
を224人も出すなんてことになっちゃうんですね。

それにしても、狭山丘陵一帯からなぜ浦和・大宮という遠い場所へ助郷に行かされることに
なったのか?
この距離的に無理のある村々への助郷が、どうしても解せません。

この議定書は11月4日に作られました。
公卿一行が浦和に来るのが12日。蔵敷村では11日から助郷に入っていたようです。
そんな中、こんな史料もありました。

「大至急廻状をもってご承知ください。
ついては荒川渡舟のことについて、再々御支配所御役所よりつとめてご嘆願を仰せ立てられ、
ようやく兼てお渡し申した御判鑑を持っている人は、渡舟場改めを受け舟に乗り渡れるとの
御下知が下ったとのことを仰せ渡されました。
とりあえずこのことをお伝えいたします。各村々へ洩れ落ちることのないように、早急にご連絡
ください。以上。
   酉11月9日 辰上刻(午前8時)    浦和宿  星野権兵衛

下里村 蔵敷村 小川村 大沼田村 鈴木新田 所沢村 右御村々 御名主中
                          廻し刻を付けて順にお達しのこと   」


浦和に行くのに荒川を舟で渡ったことがわかりますが、9日という直前になっての連絡です。
遠隔地に当分助郷を任せた計画からくる慌てぶりが見えますね。

メガ31


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山南さん脱走す!

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3月8日に京都の光縁寺、旧前川邸で新選組総長・山南敬助の法要「山南忌」が
行われたようです。
ワタクシ、以前からいつも参列したいと思っているのですが、なかなか予定が合わず
まだ行ったことがありません。今年も前日の7日にどーしてもハズせない用事があり、
見送らせていただきました(涙)。
参列したかった気持ちを漫画でだけでも・・・!

山南さんの命日は旧暦の2月23日。それを現在の暦に直すと3月の今頃になるので
しょうね。
「山南忌」は今年で9回目と、「歳三忌」や「総司忌」と比べるとかなり歴史は新しい法要
になります。まぁ、山南さんの場合、出自がハッキリしませんので、ご子孫がいらっしゃる
のかもわかりませんからね。

それが2004年の大河ドラマ「新選組!」で堺雅人さんが山南さんを演じたところ、爆発的
に知名度と人気が上がり、ついに法要が行われるに至ったとのことです。
確かに堺さんが演じるまで、山南敬助はドラマや映画の中でも地味な存在でしたし、
ややもすると土方さんと対立する部分ばかりが強調されたり、人気隊士とは言えない存在
でしたからね。
堺さんは映画の「壬生義士伝」(2003年)で沖田総司も演じていますが、この山南役で
一気に知名度を上げました。なんか、天国の山南さんが「堺さんにぜひ、拙者の役を」
と望んだような、両者にとって最高のキャスティングだったようですね。

なんとか来年は「山南忌」に参列したいと思います。


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関東取締出役事件控 窃盗編

廣瀬鐘平さんの関東取締出役事件控。
最終回の今回は窃盗・強盗です。
江戸時代の犯罪はやはり窃盗が一番多かったようですね。
廣瀬さんの報では、盗みが2件、押し込みが1件、切り解きが1件となって
います。
切り解きとは、人の荷物をスキを見て持って行ってしまうという犯罪です。
荷物を刃物で切って中身だけ奪っていくので、こう言うのでしょう。
江戸時代ならではという手口ですので、今回はこちらをご紹介しましょう。

「 上州堀エ村
   非人小屋頭万蔵倅太次郎 こと 伊三郎 馬30歳

右の者を問い質したところ、親の万蔵は弾左衛門の配下で上州堀エ村非人小屋
の頭をしていました。家族3人暮らしで村内より扶持方をもらい受けて、火の番を
勤めておりました。の
伊三郎は万蔵の元で仕事を手伝っていましたが、身持ちが悪く、度々意見などを
受けども聞き入れず、12年前の弘化4年(1847)2月中に無沙汰となり、欠落
しました。」


と、先ずはいつものように被疑者のプロフィールの書き出し。
続いて事件の内容ですが、この一件についての書状はとても長いので、一部を
抜粋しながらご紹介いたします。

「常州石塚村出身の伊三郎と申す者であると偽り、身分を隠して渡り馬士
して街道の所々に立ち回っていたところ、知り合いとなった日光道中間々田宿の
馬士を営む善吉方へ卯の年(安政2年・1855)6月に手紙を出し、善吉を請け人
として同宿場の旅籠屋安兵衛方へ馬士として雇われ奉公した。
その年の7月9日夜、江戸室町にある京屋弥兵衛の飛脚荷物5駄と、それに付き
添う見張り番が旅籠屋平吉方に泊まりに来た。

翌日10日の朝、勘定のとき安兵衛方に伝馬役が当たったので、申付けを受けて
伊三郎は七ツ半(午前5時)頃に平吉方へ馬を引いてきた。
荷物のうち1駄分は筵(むしろ)包み4個、渋紙包み1個の都合5個を馬に付けた。
見張り番はあとに残り、他の荷物の勘定の手配をしていたので、伊三郎は一人で
先に馬を引いて道中を野木宿へ向かった。

その途中、伊三郎は何気なく過去のことを思い返してみた。非人の身分なのでこれ
まで一般の人の間に入ってきてはみたが、これから身寄仲間から見咎められては
どうなるかわからないと考えながら野州の友沼村に通りかかった。
その折、ふっと悪心が出て、付けてきた渋紙包みは金子に違いない、これを奪って
国境を越えてしまえば、気がかりすることなく一般に交わることもできると一途に
思った。」


太次郎は名前や身分を偽って伊三郎と名乗り、フリーの馬子になっていたようです。
しかし、安定した収入が欲しかったのでしょうか、知り合いとなった者の紹介で間々田
宿の雇われ馬子となりました。
江戸からの荷物を一人で運ぶことになったことから、ふいと悪心が芽生えてしまった
ようですが、しかし荷物だけ先に行かせた見張り番もどうかと思いますよ。
危機管理精神が著しく欠けていると言われても仕方ありません。なんでこんなヤツを
見張り番にしたのでしょうか?

「同村の街道から2丁(約220m)ほど西の人家から離れた山林へ馬を引き入れ荷物
を降ろし、網入れにした渋紙包みを背負って、この場所からなお1丁(108m)ほどの
林の中で切り破いたところ、およそ600両ほどもあったが、全部は持って行けない。
このうち1分銀25両包みを8つ、200両を奪い取った。
持っていた胴巻へ隠し入れて持ち逃げ去り、越後国塩沢辺りへ向かった。」


有り金全部ではなく、細かいお金で200両だけ取っていくという手口。伊三郎は手馴れ
ているのかもしれません。
まぁ、当時は紙幣ではなく金貨・銀貨ですから、600両全て持って行くのは一人では
困難だったのかもしれません。
事件発覚後、役人が捜索すると、友沼村の現場から残りの530両3分が残されている
のが発見されました。

「それより、伊三郎は高田郡新潟辺りや、そのほか所々立ち回ったが、一時に多額の
金を使えばたちまち犯罪が露見してしまうと思い、神社の縁の下へ埋めて隠し置いた。
少しづつ4年間に渡って残らず酒食に遣い捨てたと思われることもなく、やがて関東筋
に立ち戻ったところをこの度召し捕えたことである。
この他に悪事に携わったことはないとの旨を申すので、口書きを差し出し申します。」


一度に豪遊するでもなく、少しづつ使うところなど性格的に計画的・几帳面な印象を
受けますね。もし、関東に戻ってこなければ、そのまま逃亡し切れたかもしれません。
けど、盗賊ってホントに盗んだ金を神社の縁の下に隠すんですね。

伊三郎が捕まったのは安政5年(1858)のこと。日付はわかりません。
火付盗賊改・豊田藤之進配下の与力、堀荘右衛門が捕縛しましたが、関東取締出役
が兼て追っていた犯人ということがわかり、6月14日に廣瀬さんにその身柄が引き
渡されました。
そこから例によって、丹念な身元調査が行われるのですが、今回は広瀬さんがすぐに
捜査に入れない事態となってしまいます。
それは、なぜか?
廣瀬さんの報告書を見てみましょう。

「この度差し出しました上州堀エ村の非人伊三郎について、京屋弥兵衛の飛脚荷物を
切り解いて奪い取った金子を越後国へ持って行き使い捨てたことを申し立てたことです。
伊三郎の証言を引き合い、先々で取り調べたことを本多加賀守殿へ伺い奉るところで
すが、6月18日の御付札をもって御下知があり、関東の内外を一通り探索するには
決め難いこととなりました。

捜査中に異国船が渡来してきたので、私(廣瀬)は神奈川宿へ
詰め切りになってしましました。
この御用を済ませて引き続き取り調べを差し出すべきことはもちろんなのですが、その
頃ほかに差し掛かった御用もありました。
その上、囚人を武州川越役場の仮牢に預けていたのですが、悉く湿毒を発症して臥せ
たまま立つことも難しくなったので、専ら療養中であり、役場より申し越した事情に悩み、
取り調べも出来かねると聞きました。
特にその頃は探索も行きかねることもあり、仕方なく過ぎてしまいました。」(以下略)


廣瀬さんは捜査の途中で、異国船来航のため警備の仕事が入り、捜査官としての任務
を一時中断しなければならなくなってしまいました。

安政5年6月といえば、ちょうど日米修好通称条約が結ばれたときです。条約の調印は
神奈川沖に停泊されたポーハタン号の上でしたから、神奈川の警備に多くの役人が
差し向けられたのでしょう。

廣瀬さんは神奈川警備を解かれた後に捜査に戻り、裏付け捜査を完了させ12月12日
に報告書を提出しています。
幕末、外国との交渉は、こんな所にも影響を与えていたのですね。

メガ30
犯罪者を取り締まるための八州様までが警備に借り出されちゃうんだからね。


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春です 沖田さん

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始まりました・・・ワタクシは。
沖田さんは、実際には大丈夫だったと思います。

先日江戸検一級二期会の定例会が、東日本橋駅近くの合鴨料理の
鳥安で行われました。

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こちら、明治5年(1872)に秋田佐竹藩の江戸留守居役だった方が、創業したお店
です。「團・菊・左」の一人としてお馴染みの五代目尾上菊五郎がココの合鴨料理を
大変気に入り、
「YOU、合鴨専門の店にしちゃえばいいじゃん」
のひと声で「あひ鴨一品」の看板を掲げるようになったそうです。

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こちらがメインの「あひ鴨のすきやき」。
といっても牛鍋すきやきとは違い、ご覧のような鉄鍋で肉と野菜を焼き、おろし醤油
でさっぱりといただきます。

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こちらはつくね。
蕎麦屋で鴨南蛮をいただくこともありますが、こちら鳥安さんの鴨肉は今まで
食べたどの鴨とも違いました。とてもやわらかいけどしっかりとした弾力もあり、
旨みが凝縮されております。
いままで食べてた鴨肉って、いったいなんだったんだ7daysってくらい美味しゅう
ございました。
まぁ、お値段もセレブリティなんですがね。

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今年の江戸文化歴史検定のお題は「江戸のまつり」。ということで、そんな話で
盛り上がりながら、鍋をつつきました。
うーん・・・しかしワタクシ、最近は勘定奉行支配地域ばっかり史料にあたってるんで
江戸市中の話はサッパリついていけないなぁ・・・。


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