1月の某日、千葉県は成田山新勝寺に行ってきました。
ワタクシの祖父が、毎年1月に参拝を欠かさなかったもので、祖父は亡くなり
ましたがその習慣をワタクシも受け継いでおります。

平日だったせいか、それほど混雑はしていませんでした。

月末に近い頃だったので、本堂には節分の飾りつけがされています。
お守り札をいただくまで小一時間あるので、参拝したあと境内を回ってみる
ことにします。
歌舞伎が好きな方だとよく知っているでしょうが、成田山は
市川團十郎家と
とても深い繋がりがあります。團十郎家は屋号も
成田屋ですよね。
初代團十郎は元禄の頃に活躍した役者ですが、その出自については詳しく
わかっていません。
よく云われるのは、甲州武田武士の末裔であったということです。
武田家の遺臣が成田山新勝寺の近くにある幡谷村に住み付きます。これが團十郎
の先祖であり、團十郎は父親が江戸に出てから生まれた子供だそうです。
ということで、成田山は團十郎の父親の故郷ということになります。
もう一つ。
初代團十郎にはなかなか子供ができませんでした。そこで信奉している新勝寺に
願をかけて参拝すると、やがて男の子が生まれます。
これが
二代目團十郎。
これが契機となって市川家と成田山は強い繋がりができるのです。
そんな市川團十郎家と成田山の深い関係が偲ばれる史跡が境内にいくつかあり
ますので、そちらをご紹介しましょう。

こちらは本堂から少し離れたところにある、出世稲荷。
鳥居を潜った石段の両脇にある灯籠にご注目。

向かって右側にあるのは、
八代目團十郎の寄進した灯籠です。
八代目は文政6年(1823)生まれ。七代目から團十郎の名前を受け継いだのは
わずか10歳のとき。
八代目はイケメンで頭が良く、幕府から親孝行を表彰されるというくらい人柄も最高
の人物でした。これで役者なんですから、そりゃ人気はスゴかったようです。
なんでも、彼が痰を吐き捨てたら、それを拾って紙に包み大事に肌身離さず持って
いた御殿女中がいたくらい。彼のイケメンぶりに当てて書かれたお芝居が、今でもよく上演される
「与話情浮名
横櫛」いわゆる
「お富与三郎」です。八代目がモデルという、この芝居の切られ与三郎
は歌舞伎の代表的なイケメンの役どころです。
このように、人気・実力も絶頂だった八代目ですが、32歳のとき突如自殺をして
亡くなります。その死の動機は今もってわかっていません。
この八代目寄進灯籠の向いにあるのが
七代目海老蔵の寄進灯籠です。
現在では新之助

海老蔵

團十郎が市川宗家の出世魚方程式です。
ということで、こちらも何代目かの團十郎の前名かと思いがちですが、さにあらず。
彼は七代目團十郎の三男。つまり、八代目團十郎の弟です。
もっとも亡くなる少し前に海老蔵の名を継いだので、海老蔵の名では舞台には
立っていないようです。
役者としては七代目市川高麗蔵、初代市川新升などの名前で出ていました。
この灯籠を寄進した兄弟の弟が、明治時代に「劇聖」と云われた
九代目團十郎です。
本堂の裏山を登っていくと額堂があります。
江戸時代からの講を作って参詣にきた人たちが掛けた額がたくさんあり、これを見る
のも成田山に来る楽しみの一つなのですが、今回は耐震工事の最中とかで幕に
覆われて見ることができませんでした。
ここには
七代目團十郎の石像が置いてあるのですが、以前撮影した写真でご紹介
しましょう。

七代目は今でも伝わる「歌舞伎十八番」を制定した人として、その名が知られます。
しかし、天保の改革の「贅沢禁止」に引っ掛かり、江戸を追放させられてしまいます。
その時に滞在したのが、先祖の地成田山でした。
七代目が残した書などが今も成田山には残っていて、ときどき展示などされています。
ということで、参拝のついでに市川團十郎史跡に触れてみるのも、歌舞伎ファン
ならずともいかがでしょうか。
ところで・・・
以前にも書きましたね。

こちらが参道で売ってました
イナゴの佃煮でございます。
もう少し安いものも売ってましたが、店の方が「それは外国産だよ」と教えてくれました。
迷わずコチラの山形県産を購入です。
で、別のお店で見つけましたよ・・・
ゆでイナゴご自分で調理される方は、コチラをどーぞ。
ワタクシは遠慮させていただきます。
コチラはオオコノハギス。
イナゴ・・・ではなく世界最大のキリギリス(ニューギニア産)です。
日野でもイナゴは食べたんじゃないかなぁ・・・と思うのですが、いかがでしょう?

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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