前回で「梅吉(梅次郎)一件」について、慶応元年(1865)7月に梅吉が逐電した
所で一区切りをつけました。
「里正日誌」からも「指田日記」からも、その後の梅吉の行動を追えなかったから
です。
ところが先日、ブロ友の
野火止用水さんから一つの史料をご提供いただきました。
そこには梅吉の逐電に関する重大なことが書かれていましたので、ここにご紹介
したいと思います。
先ずはその前に、「指田日記」から梅吉の逐電と、周りの対応についての箇所を
書き出してみましょう。
「7月24日 梅次郎、逐電。
25日 梅次郎の一件について、内々に話し合う。
9月15日 梅次郎の一件について、戸羽(戸端)名主と茂左衛門に差紙が来る。
16日 戸羽名主並びに茂左衛門、組合代の孫左衛門、差紙が来たので、布田宿
(調布市。甲州道中の宿場)に出る。」梅吉の逐電の理由はわかりませんが、村に江戸から召喚状が届き、村の代表らが
呼び出されています。タダ事ではないな・・・という雰囲気だけは伝わります。
そこで、今回の史料です。
「恐れながら書付けをもって申し上げ奉ります。
武州多摩郡中藤村の百姓康左衛門が病気のため、代理で親の丑右衛門が申し上げ
奉ります。梅次郎と申す者より生糸を買い取ったかの旨を、お尋ねにございます。
この前書にある梅次郎は兼てよりの知人であり、当7月22日私方に罷り越し、他から
頼まれた売り物があると申しました。左の通りです。
一、生糸 421目
この代金9両と137文
右の品を持参し、買い取ってくれるよう申したのに任せ、間違いもないだろうと思い、
よく出所も聞かないで、証人もなく判もなく右の値段で買い取りました。
翌23日に同郡八王子宿の市場で、名前住所の知らないものに売値3分2朱で売り
払ったと申しました。
然るところ梅次郎は、このほど御役所様がお召し捕りになり、お調べの上、右の品が
不正に〇〇したと仰せ聞かされ、恐れ入り奉りました。
右のお尋ねにつき、申し上げました通り、間違いございません。以上。
慶応元丑年12月13日
武州多摩郡中藤村 百姓 康左衛門煩いにため代理
親 丑右衛門
名主
差添え人 市郎右衛門
火付盗賊改 御役所様 」これは武蔵村山市の乙幡氏の文書で、「村山町史」に出ているものだそうです。
火盗改からの質問に答える形で書かれた書状であることがわかります。文中〇〇と
判読できない箇所がありますが、どうやら梅吉は不正(詐欺)を働いて生糸を売り
つけていたようですね。
7月24日の逐電は、23日の八王子市場でその詐欺が発覚したためでしょう。
梅吉は「綿屋」の屋号で呼ばれていたようですが、生糸を扱う渡世をしていたことも
わかりました。
商売のノウハウや家を建てられるだけの経済力があった理由もわかりましたが、
やはりまっとうな仕事のしかたではなかったようですね。
火盗改に召し捕られていたとは・・・。

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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