関東取締出役事件控 凶悪犯編

廣瀬鐘平さんの事件控、前回は「博奕」で捕縛されたケースをご紹介しま
した。しかし、博奕は言ってみれば軽犯罪の部類で、誰かを傷つけるという
ものではありません。
今回ご紹介するのは、凶悪犯罪のケースです。
強盗殺人が1件、放火窃盗が1件、追剥ぎが1件となっています。

最初は強盗殺人のケース。

「今年(安政5年)9月24日、久世大和守殿領内の下総国猿嶋群長洲村にて
召し捕えた無宿人秀海を、人殺しの上衣類金銭を奪い取った始末を訊問した
ことを、左に申し上げ奉ります。
      武州大宝村 無宿 秀海 38歳

右の者を訊問したところ、彼は武州大宝村百姓太郎右衛門の三男であったが、
幼年の頃より病弱で農業をすることが難しいので、世間から離れたいと両親に
の取りすがって、同国東大輪村の新義真言宗密蔵院住職の高憧の弟子になり、
この者が21歳のときに出家得度をして大就と名乗り、所化僧となって修行して
いたところ、教道など取り乱して堕落いたしまして、11年前の嘉永元年4月中に
出奔して無宿人となりました。」


書き出しは犯人のプロフィール。前回と同じです。
廣瀬さんは密蔵院の役寺(寺務を代行する寺)の真福寺という寺に行き、その
裏付けを取っています。
その後、書状には犯行の様子が非常に細かく書かれているのですが、とても
長いので要約させていただきます。

「大就は秀海と改名し各地を転々としていたが、所沢村の知人へと向かう途中で
北田新田の真言宗宝泉寺に寄った。そこの住職であり旧知の間柄である好円は
とても懐かしんで引き止めるので、泊まることになった。
秀海が自分の不遇である過去を話すと、好円はその身を慎んで一寺を守ってい
れば、貧しくはあるが衣食住には困らない。何ごとも辛抱だと諭してくれた。」


最初のうちは感謝する秀海でしたが、酔った好円が囲炉裏端で寝入ってしまうと
ダークサイドの自分が段々と顔を出してきます。
普段の心がけとは言いながら、好円に比べて自分はその日暮らしにも困る状況。
う、う、羨ましいぃ・・・・メラメラメラ~~~。
悪意の炎が燃えだしてしまいました。
以下、閲覧注意 残酷描写アリ。

「同夜九ツ(0時)頃、衣類その他貯めてある金銭を盗み取ろう。もし見咎められた
ら殺害してしまおうと決心し、納戸道具箱の上に置いてあった鉈(なた)1挺を持って
酔いつぶれて寝ている好円の枕元に来た。試しに声をかけると目を覚ましたよう
だったので、最早これまでと思い鉈を理不尽に好円の上方から右耳へかけするどく
斬りつけ、ひと声叫んで起き上がったところをさらに上から右耳下へ斬りつけると、
好円は手で受け止めたので指まで切り落とし苦しんでいたので、後ろからと襟元に
も一時に斬り倒し、ようやく絶命した。
死骸へ蓙(ござ)をかけ、鉈を薄べりの上敷の間に差し込んでおいた。
納戸の箪笥等から3品出したうち、衣類その他21品、金1両2分3朱と当百銭8貫文
を奪い取り、荷物にして背負い持ちだした。
白張りの傘はその場に捨て置き、所々立ち回っていたところを召し捕えた。
奪い取った金銭は酒食に使い捨て、品物は残らず所持していたので取り上げた。
この他には悪事はしていないと申しているので、口書きを差し出し申します。」


犯罪者というものは大抵自分勝手なモノでしょうが、あまりと言えばあまりに短絡的な
犯行です。
盗んだ衣類(袈裟など)や数珠をいつまでも持っていたというのが、なんか間抜けな気も
するのですが、どこかの寺にでも潜り込むつもりだったのでしょうか。
犯行弁場は寺社奉行の管轄地ですが、こういうときこそ広域捜査官の関東取締出役の
出番です。秀海は下総で召し捕えられたとありますので、そこまで捜査の手が回って
いたのでしょう。

次は放火犯のケース。

「先月晦日、鈴木四郎左衛門知行の相州愛甲郡山際村内において、召し捕えた無宿人
金蔵が火付いたした始末を訊問しましたので、左に申し上げ奉ります。
    相州宮原村 無宿 金蔵 28歳

右の者を訊問したところ、彼は相州宮原村百姓権右衛門の次男であったが、権右衛門が
去々年辰年(安政3年)に病死したので文次郎の厄介となっていたが、身持ちがよくなく、
度々意見を受けたが取り入れず、今年(安政5年)2月中に無沙汰となって家を出て無宿
となった。小遣い銭にも差し支えるようになったことから家に火を付け、騒ぎに紛れて盗み
を働こうと悪心が起きた。」


自ら火事を起こして盗みに入るという、とんでもなく悪いヤツですが、この金蔵という男が
凶悪なのは、短期間に4件もの放火をしている点です。
つまり、10月17日夜六ツ時(18時)、同日五ツ時(20時)、19日夜六ツ時、同日夜四ツ時
(22時)と、1日に2件もの火付けを働いています。
というのも2日とも、1回目の放火では隙が窺えず何も盗めなかったようで、再度の犯行に
及んだようなんですね。しかも19日の場合は、2回目の放火でも盗みが働けなかったよう
で、かなり効率の悪いコトをやってます。

「今月17日夜六ツ時頃、相州上俣野村の八郎右衛門方に罷り越し、薪小屋に入り、そこ
にあった豆穀を取り出し、居宅の羽目ぎわに積み置いた薪へ乗せ、兼て持っていた火打
道具でそっと火を作り、ほくちより付け木へ火を移し付け火をしたけれども、火移りが悪かっ
たのでそのままにしておき、この薪小屋へ立ち戻り残しておいた豆穀へまた火を付けた。
すると、前に付けた方が燃え上がり騒ぎとなったので、隠れて見ていたら鎮火し、間もなく
薪小屋の方も燃え立ったけれども消えてしまったので、盗む間もなくその場を逃げ去った。」


実は「里正日誌」では、この金蔵についての書き抜きが途中から欠損しています。ですから、
もしかすると金蔵は捕縛される晦日までの間に、まだ犯行を繰り返し、その記録も記載され
ていたのかもしれません。

江戸市中は火災が多く、消防が未発達だったため多くの犠牲者を出しました。
ですから火付は「火あぶり」という特別刑が言い渡されるほどでしたが、放火犯というのは
意外に多くて、明治に入って書かれた旧幕府役人の証言録である「旧事諮問録」によると、
火あぶりの刑は1年に5~7件ほどもあったそうです。
幸いにも、金蔵の放火では犠牲者は出ていませんが、極刑は免れないでしょう。

最後に追剥ぎです。

「今年8月9日、長澤内記知行の相州愛甲郡川入村内において、召し捕えた入墨無宿人の
幸次郎が追落しをした始末を訊問しましたので、左に申し上げ奉ります。
    武州大丸村 入墨無宿 幸次郎 25歳

右の者を訊問したところ、武州大丸村の百姓弥兵衛の三男だが身持ちが悪く、度々意見を
受けたが取り入れず、去る巳年(安政6年)中に無沙汰となって家を出て無宿となった。所々
に立ち廻っていたところ、同月中に火付盗賊改坂井右近の組の者に召し捕えられ、同年
10月中に盗みを働いて、その科により敲きの上、入墨のお仕置きを受け、身寄りの者に
引渡しとなったが、なお素行は改まらなかった。」


さて、一般には「追剥ぎ」という言葉はよく使われます。
なので見出しにはそう書きましたが、史料には「追落し」と書かれています。
追剥ぎと追落しは違うのでしょうか?
幸次郎の事件を見てみましょう。

「今年8月4日夜六ツ時過ぎに、武州八王子八日市の野道において追落しをしようと思い、
そのとき寺号は知らないが禅東院の境内に居候をしている老年の男が1人通りかかった。
待て、と声を掛けて持っていた百文銭5貫文を渡すように強勢に言って脅し、理不尽に奪い
取って立ち退き、残らず酒食に使い捨てた。」


「追剥ぎ」とは、盗み目的で突き当ったりケンカを吹っ掛けたりして、羽織など着ているものを
ひったくって逃げていくことを言いました。
一方「追落し」は、追いかけたり突き当ったりして、相手が落とした財布などを奪い取っていく
ことを言ったそうです。
どっちも同じようなモンだと思いますが、当時の刑法では「追剥ぎ」は獄門、「追落し」は死罪
と決められていました。
まぁ、どっちも今でいえば死刑ですが、獄門は斬首されたあとに3日間さらし首にされるという
ことで、1ランク重刑ということになります。身につけているものまで力ずくで盗っていくという
ことで追剥ぎの方が性質が悪い、と判断されたのでしょう。
しかし、追落しで奪った物の方が追剥ぎで取った衣類よりも高額というケースも当然あります。
それに財布を取られる方だって必死に抵抗しますから、追落しだって結局は力ずくです。
幕府は追剥ぎと追落しの区別を明確にするように評定所に命じましたが、結局は奉行や評定
所が個々のケースで判断せざるを得なかったようです。

幸次郎が追落しと判断されたポイントは、金を奪うのに声で脅しただけだったからでしょうか。
衣類も奪ってないようですしね。

メガ29
「鬼平犯科帳」などの時代劇を見ていると、江戸市中では毎週のように大店が盗賊の
「急ぎ働き」にあい、店の者が斬殺されているような印象を持ってしまいます。
しかし、江戸時代の刑事事件に相当する犯罪のほとんどは窃盗、博奕、詐欺などで
凶悪な殺人事件などは「ケンカの末に相手が死んでしまった」などのケース意外は
案外少なかったようです。
前出の「旧事諮問録」によれば、湯屋で半纏1枚を盗ったというような小盗でも、いちいち
奉行が最初に訊問をしなければならず、そうでないと犯罪者を牢に入れることもできない。
町奉行は容疑者が連行されてきたときは夜中でも叩き起こされたそうです。

もしも、殺人事件などが多ければ奉行はそちらに集中しなければならず、小盗などは
与力に任せたままでもよかったはずです。
湯屋での窃盗は「板の間稼ぎ」といって、一番軽い盗みと設定されていました。
そんな事件に夜中でも町奉行がわざわざ対応するほど、江戸市中は凶悪犯罪が少な
かったということでしょう。
もっとも、このブログの背景である幕末になると事情が違い、犯罪発生率はダントツに
高くなり殺人事件なども多くなってきます。

「板の間稼ぎ」でフンドシが多く狙われたというのは、杉浦日向子さんの本にそう書いて
ありました。


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成田山に行く

1月の某日、千葉県は成田山新勝寺に行ってきました。
ワタクシの祖父が、毎年1月に参拝を欠かさなかったもので、祖父は亡くなり
ましたがその習慣をワタクシも受け継いでおります。

IMG_0681a.jpg

平日だったせいか、それほど混雑はしていませんでした。

IMG_0684a.jpg

月末に近い頃だったので、本堂には節分の飾りつけがされています。
お守り札をいただくまで小一時間あるので、参拝したあと境内を回ってみる
ことにします。

歌舞伎が好きな方だとよく知っているでしょうが、成田山は市川團十郎家と
とても深い繋がりがあります。團十郎家は屋号も成田屋ですよね。
初代團十郎は元禄の頃に活躍した役者ですが、その出自については詳しく
わかっていません。
よく云われるのは、甲州武田武士の末裔であったということです。
武田家の遺臣が成田山新勝寺の近くにある幡谷村に住み付きます。これが團十郎
の先祖であり、團十郎は父親が江戸に出てから生まれた子供だそうです。
ということで、成田山は團十郎の父親の故郷ということになります。

もう一つ。
初代團十郎にはなかなか子供ができませんでした。そこで信奉している新勝寺に
願をかけて参拝すると、やがて男の子が生まれます。
これが二代目團十郎
これが契機となって市川家と成田山は強い繋がりができるのです。

そんな市川團十郎家と成田山の深い関係が偲ばれる史跡が境内にいくつかあり
ますので、そちらをご紹介しましょう。

IMG_0686a.jpg

こちらは本堂から少し離れたところにある、出世稲荷。
鳥居を潜った石段の両脇にある灯籠にご注目。

IMG_0687a.jpg

向かって右側にあるのは、八代目團十郎の寄進した灯籠です。
八代目は文政6年(1823)生まれ。七代目から團十郎の名前を受け継いだのは
わずか10歳のとき。
八代目はイケメンで頭が良く、幕府から親孝行を表彰されるというくらい人柄も最高
の人物でした。これで役者なんですから、そりゃ人気はスゴかったようです。
なんでも、彼が痰を吐き捨てたら、それを拾って紙に包み大事に肌身離さず持って
いた御殿女中がいたくらい。

彼のイケメンぶりに当てて書かれたお芝居が、今でもよく上演される「与話情浮名
横櫛」
いわゆる「お富与三郎」です。八代目がモデルという、この芝居の切られ与三郎
は歌舞伎の代表的なイケメンの役どころです。
このように、人気・実力も絶頂だった八代目ですが、32歳のとき突如自殺をして
亡くなります。その死の動機は今もってわかっていません。

この八代目寄進灯籠の向いにあるのが

IMG_0688a.jpg

七代目海老蔵の寄進灯籠です。
現在では新之助海老蔵團十郎が市川宗家の出世魚方程式です。
ということで、こちらも何代目かの團十郎の前名かと思いがちですが、さにあらず。
彼は七代目團十郎の三男。つまり、八代目團十郎の弟です。
もっとも亡くなる少し前に海老蔵の名を継いだので、海老蔵の名では舞台には
立っていないようです。
役者としては七代目市川高麗蔵、初代市川新升などの名前で出ていました。

この灯籠を寄進した兄弟の弟が、明治時代に「劇聖」と云われた九代目團十郎です。

本堂の裏山を登っていくと額堂があります。
江戸時代からの講を作って参詣にきた人たちが掛けた額がたくさんあり、これを見る
のも成田山に来る楽しみの一つなのですが、今回は耐震工事の最中とかで幕に
覆われて見ることができませんでした。
ここには七代目團十郎の石像が置いてあるのですが、以前撮影した写真でご紹介
しましょう。

2011012711590000a.jpg

七代目は今でも伝わる「歌舞伎十八番」を制定した人として、その名が知られます。
しかし、天保の改革の「贅沢禁止」に引っ掛かり、江戸を追放させられてしまいます。
その時に滞在したのが、先祖の地成田山でした。
七代目が残した書などが今も成田山には残っていて、ときどき展示などされています。

ということで、参拝のついでに市川團十郎史跡に触れてみるのも、歌舞伎ファン
ならずともいかがでしょうか。

ところで・・・
以前にも書きましたね。

IMG_0689a.jpg

こちらが参道で売ってましたイナゴの佃煮でございます。
もう少し安いものも売ってましたが、店の方が「それは外国産だよ」と教えてくれました。
迷わずコチラの山形県産を購入です。

で、別のお店で見つけましたよ・・・

IMG_0690a.jpg ゆでイナゴ

ご自分で調理される方は、コチラをどーぞ。
ワタクシは遠慮させていただきます。

20150215.jpg

コチラはオオコノハギス。
イナゴ・・・ではなく世界最大のキリギリス(ニューギニア産)です。

日野でもイナゴは食べたんじゃないかなぁ・・・と思うのですが、いかがでしょう?


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関東取締出役事件控 博奕編

「里正日誌」は多摩郡蔵敷村を中心とした現在の東大和市の歴史を今に
伝える文書なのですが、その記事の中には東大和市域や多摩郡だけ
ではなく、もっと広範囲の地域に渡る話も出てきます。

このブログの初期に関東取締出役という、江戸時代後期に設置された
幕府の役職をご紹介しました。
「関東取締出役って・・・ナニ?」クリック!)
この役職は、水戸領を除く関東一円に、管轄の支配を超えて警察権を
持っていた、いわば江戸時代のFBIです。

「里正日誌」には、安政5年(1858)12月に取締り出役が勘定奉行に
提出した「事件と逮捕者」の報告書が出ています。
今回はそちらをご紹介して、幕末の天領ではどんな事件があり、捜査は
どのように行われていたのかを見ていきたいと思います。
ちなみにワタクシ、刑事ドラマが大好きです。

取り上げられているのは、安政5年8月から10月にかけて逮捕された
犯人らの記録です。全部で11人。事件が起きた場所は武蔵、相模、下野
と広範囲に渡っています。
報告書を出した取締出役は広瀬鐘平という人。
こんな記録が日誌に残されたのも、筆記者の内野杢左衛門さんが一村の
名主だけにとどまらず、組合で重要な役割を果たし、また江川代官と親密
な関係にあったからでしょう。

罪状は、博奕が4人、盗み・強盗が4人、追はぎが1人、強盗殺人が1人、
放火が1人となっています。
先ずは博奕から見ていきましょう。

逮捕された4人は、栄助(上州無宿)、銀次郎(上州無宿)、房吉(三州無宿)、
万兵衛(武州百姓)。もちろん、それぞれ別個の事件(博奕)で捕まっています。
無宿人多めですが、博奕は無宿人のイメージありますもんね。
実は全逮捕者11人のうち8人までが無宿人と、犯罪者の無宿人率はかなり
高いです。
やっぱりね、といった所でしょうか。
この中の一人、栄助にスポットを当ててみましょう。彼だけは万延元年(1860)
に捕縛されています。

「今年正月6日、久世大和守領内の野洲都賀郡葛生町内地において、召し捕えた
無宿栄助が、博奕をした始末を問い質しましたので左に申し上げます。
    上州籾谷村 無宿 栄助 34歳

右の者を問い質したところ、上州籾谷村の百姓惣右衛門の倅だったが、身持ちが
悪く、たびたび意見を受けたが取り合わず、去々年(安政5年)11月中に連絡も
せず出奔し無宿になった。」
(※野州は上州の間違いか)

報告書はたいてい、このような書き出しになっています。
無宿人でも自供によって、自分の出生地、親が明らかになっています。無宿となった
理由はほぼ全員「身持不宜」となっていて、個人的な素行不良で家を出たという形
になっています。これに続けて、

「久世大和守殿領分の上州都賀郡籾谷村役人へ問い質したところ、無宿栄助
の申し立てた通りに一致しました。安政5年11月中に連絡せず家出をして帰らず、
身持ちが悪くなってからはどうなったのかわからず、領主の役場へ申し上げて
帳外しにしましたことを書付けによって差し出します。」


このように、出身地の村役人から犯人の経歴のウラを取っていることがわかります。
栄助は人別帳から外されているので親類縁者とはもう無関係である、という書類が
同時に提出されたのでしょう。
そして、犯行の記録と続きます。
この栄助、現行犯逮捕された時を除いても5件の博奕を自供しています。その中で
一番最初の一件をご紹介します。

「去る(安政6年)12月24日の夜、四ツ時(22時)頃に、上州北大嶋村の河原におい
て、名前・住所を知らないもの5人で勝負をし、土台銭として5貫文を持ち出し、100
文・200文を賭ける博奕の貸元をして、寺口銭2貫文を賭けた者より取り立てた。」


時代劇など見ていると、江戸市中の博奕場は大名や旗本屋敷の中間部屋と決まって
ますが、村々での博奕場は河原とか空き地、野田といったオープンエアな場所だった
ようですね。
他者を見ても、博奕で捕まっている場合、ほとんどが貸元です。博奕を主催した者が
逮捕されるということだったようですね。

1回の寺銭の儲けが2貫文。通常、1両=4貫文(4000文)で今の価値に換算すると
10万円と言われています。しかし、幕末に鋳造された万延小判は金の含有量が低
かったので1両=10貫文で5万円の価値とも言われています。
となると、栄助が博奕1回で儲けた寺銭は1万円ほど。

「この他博奕は渡世と同様に、年月場所など確かに申し立てることは難しいとの旨を
申しますので、口書きを差し出します。」


報告書にはこのようにあって、立件したのは6件だけれど、栄助が行った博奕は何回
あったかわからないとしています。栄助はプロの博奕打ちだったのですね。
その儲けが1回で1万円とは、なんとキビしい稼業なのでしょう・・・。
もっとも、栄助は万延元年正月2日、3日、4日と場所を変えて三日連続で開帳し10
貫文余りを稼いでいます。
正月2日から博奕とは・・・箱根駅伝でも見てろよと言いたい所ですが(ないない)、それ
ほど博奕を受け入れる下地が、関東に広がっていたことが窺われますね。

博奕に関する報告書は、他の者も大抵このような形です。
ただ、4人の逮捕者のうち房吉だけは出身が三河国でした。そのため、房吉が自分の
経歴を自供したあとは

「本文の身元を確かめるべきところではあるが、遠国のため行き届き難く、彼が申し
立てたままを差し出します。」


とあって、廣瀬さんはウラが取れなかったことがわかりました。
関東一円では強い権力を持った「八州様」ですが、管轄外の土地ではなかなか思う
ように仕事ができなかったことを感じさせます。

メガ28
時代劇のウソの代表例としてよく取り上げられるのが、銭形平次の投げ銭ですね。
寛永通宝って薄くて軽いから、いくら下手人に向かって投げた所でヘロヘロ~っと
して当たりゃしません。
そこで、どうしても寛永通宝を武器にしたいという平次親分には、銭さしに通した
ままで使ってみてはどうでしょう、という提案です。
1貫文ほども繋げて使えば、「投げて良し」「殴って良し」、このスタ子ちゃんのように
「首を絞め失神させて良し」と使い方は無限大。

このネタで、マンガ1本描けるね。


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総司の気遣い と 梅吉最終回

20150206.jpg


前回で「梅吉(梅次郎)一件」について、慶応元年(1865)7月に梅吉が逐電した
所で一区切りをつけました。
「里正日誌」からも「指田日記」からも、その後の梅吉の行動を追えなかったから
です。
ところが先日、ブロ友の野火止用水さんから一つの史料をご提供いただきました。
そこには梅吉の逐電に関する重大なことが書かれていましたので、ここにご紹介
したいと思います。

先ずはその前に、「指田日記」から梅吉の逐電と、周りの対応についての箇所を
書き出してみましょう。

「7月24日 梅次郎、逐電。

25日 梅次郎の一件について、内々に話し合う。

9月15日 梅次郎の一件について、戸羽(戸端)名主と茂左衛門に差紙が来る。

16日 戸羽名主並びに茂左衛門、組合代の孫左衛門、差紙が来たので、布田宿
(調布市。甲州道中の宿場)に出る。」


梅吉の逐電の理由はわかりませんが、村に江戸から召喚状が届き、村の代表らが
呼び出されています。タダ事ではないな・・・という雰囲気だけは伝わります。
そこで、今回の史料です。

「恐れながら書付けをもって申し上げ奉ります。

武州多摩郡中藤村の百姓康左衛門が病気のため、代理で親の丑右衛門が申し上げ
奉ります。梅次郎と申す者より生糸を買い取ったかの旨を、お尋ねにございます。

この前書にある梅次郎は兼てよりの知人であり、当7月22日私方に罷り越し、他から
頼まれた売り物があると申しました。左の通りです。
一、生糸 421目
この代金9両と137文

右の品を持参し、買い取ってくれるよう申したのに任せ、間違いもないだろうと思い、
よく出所も聞かないで、証人もなく判もなく右の値段で買い取りました。
翌23日に同郡八王子宿の市場で、名前住所の知らないものに売値3分2朱で売り
払ったと申しました。
然るところ梅次郎は、このほど御役所様がお召し捕りになり、お調べの上、右の品が
不正に〇〇したと仰せ聞かされ、恐れ入り奉りました。
右のお尋ねにつき、申し上げました通り、間違いございません。以上。
  慶応元丑年12月13日 
                 武州多摩郡中藤村 百姓 康左衛門煩いにため代理
                    親 丑右衛門
                    名主 
                     差添え人 市郎右衛門
 火付盗賊改 御役所様   」


これは武蔵村山市の乙幡氏の文書で、「村山町史」に出ているものだそうです。
火盗改からの質問に答える形で書かれた書状であることがわかります。文中〇〇と
判読できない箇所がありますが、どうやら梅吉は不正(詐欺)を働いて生糸を売り
つけていたようですね。
7月24日の逐電は、23日の八王子市場でその詐欺が発覚したためでしょう。

梅吉は「綿屋」の屋号で呼ばれていたようですが、生糸を扱う渡世をしていたことも
わかりました。
商売のノウハウや家を建てられるだけの経済力があった理由もわかりましたが、
やはりまっとうな仕事のしかたではなかったようですね。
火盗改に召し捕られていたとは・・・。


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