幕末商売人、そして梅吉は・・・。
200両という大金を所持していたことから、甲府柳町の旅籠で役人から捕縛
されてしまった中藤村の梅吉。
「里正日誌」は当ブログでご紹介した史料を含む5点の書状を記載して、この
一件に関することを終わらせています。
解説では、
「この件に関する記載が終わり、その後の経過は不明である。」
としています。
東大和市の史料からは、これ以上辿れません。
ところが、当ブログの読者でいらっしゃる甚左衛門さんから、甲府の史料
「甲府町年寄坂田家御用日記」にこの一件が記載されていることを、コメントで
教えていただきました。
ありがたいことです。甚左衛門さん、ナイス・フォローです。
それによれば、
「お取調べの中で、申し開きの内容が不明瞭だったので入牢を仰せ付けられたが、
だんだんとその内容がわかったので、お構いなしとして出牢させ、親類にお引渡し
となる。今後、心得違いのないように仰せ渡され、証文を取る。武州多摩郡中藤村
の梅吉母たよが病気のため、代理人の親類政左衛門、他2人が召し出され、梅吉
と金子のお引渡しの証文を取る。」
と、万延2年2月3日の条に記載してあるそうです。
梅吉(梅次郎)の地元、中藤村の「指田日記」はさすがに彼に一番近いだけあって、
その後のことも書いてありましたので、ご紹介します。
中藤村に梅吉の捕縛が伝えられたのは万延元年12月22日ですが、その後の
村の対応も含めてご紹介しましょう。
「(12月)29日 夕方より雨。中藤の戸端(名主の屋号)並びに藤左衛門(組頭)、
この村の半次郎(母の代理)が江戸より帰宅する。梅次郎の一件は内済になる
べきだとのことを告げる。
30日 昨夜より雨。梅次郎が甲府で入牢していることにつき、今日30日に、親類・
組合寄合が正月4日までに30両を用意するように話し合ったけれども、一致しな
いので皆帰る。」
内済はこの場合、今風に言うなら不起訴ということでしょうか。
代官所では梅吉に罪はないとの判断をしていたようです。
30日に話し合われた30両は、甲府まで梅吉を引き取りに行くための経費と思われ
ますが、立会人たちが定めた親類たちの出金は40両だったハズ。
「幕末商売人、金持ってます」(
クリック!)
実は「里正日誌」には、立会人たちが経費を預った証文が残されているのですが、
そちらには・・・
「預り金一札の事
一、金70両
右は私方へ確かに預りました。御入用のときはいつでも間違いなくお渡し申すべき
ことです。よって預り申した金子一札、件の如し。
万延元申年12月26日 伊奈村名主 預り主 孫兵衛
下田村名主 証人 捨五郎
蔵敷村名主 同 杢左衛門
砂川村名主 源五右衛門殿 」
と、このように26日の時点で、70両という大金を立会人らが預ったことが記されて
います。このお金は誰が出したというのでしょう?
親類が出したお金は30両で、さらにその倍以上のお金を誰かが負担していたこと
になります。
年が明けて、万延2年(文久元年)。「指田日記」から。
「正月4日 梅次郎が昨年の冬から甲府で入牢していることについて、 戸端里正、
入りの清五郎、村の孫左衛門、砂川の本屋が出立する。
9日 梅次郎甲府入牢のことで、村人一同が山口観音に千度参り。
19日 梅次郎の一件で甲府に行った人の中で、孫左衛門、中藤入りの清五郎が
夜になって帰宅。」
戸端里正は中藤村の名主、清五郎は日記の他の部分から組頭の藤左衛門だと
思われます。孫左衛門は「坂田家御用日記」の政左衛門のことでしょう。
母の代理は代官所へは半次郎が務めていましたが、「指田日記」に彼の母親が
14日に亡くなったとあるので、半次郎は甲府まで行けなかったものと思われます。
砂川の本屋は、砂川田堀勝平の関係者でしょうか。
「2月9日 綿屋の梅次郎、甲府入牢となっていたが内済となり、戸端里正並びに
砂川親類の人々は残らず帰村した。
14日 綿屋の梅次郎一件について、御支配所の調べも済み、戸端里正が江戸
から帰る。
15日 梅次郎一件落着により、今日、組合の者一同が年賀に来る。
19日 梅次郎の家に親類・組合が集まった上で、梅次郎は5年の間戸端里正が
引き受ける。村中並びに親類・組合へ、身柄引き受けの間に苦労をかけないように、
梅次郎を江戸に行かせる。
3月15日 梅次郎、家財を売り払う。」
ということで、梅吉(梅次郎)は名主の保護観察下に置かれたようですね。
日記には中藤村の原山という場所の名主の宅地に、「見世」を開いていたように
書かれています。
しかし、内済で出牢となっても保護観察下に置かれたということは、彼にも捕縛され
ても仕方がない理由があったということなんでしょうね。
甚左衛門さんからのコメントでは、梅吉が宿泊していた柳町の藤助という旅籠は
博奕が度々開かれた所で、何度も手入れがあった場所のようです。
梅吉は、もしかすると博奕目的で藤助に泊まっていた可能性もありそうですね。
大金を手にした梅吉は、砂川新田田堀で用事を足せば済むところを、以前から
知っている甲府の藤助で博奕がしたくなり、足を延ばしてしまった・・・というコトかも
しれません。
「里正日誌」では梅吉は古鉄買入れのために甲府へ行ったことになっていますが、
これは全て役所へ提出するための書状ですから、敢て不利になるような真実は避け
て都合よく書いたと取ることもできると思います。
目の前の事象のみを書いた「指田日記」の方が、梅吉の本当の行動を示している
ような気がしますが、いかがでしょう。
そこで大きな謎となってくるのが200両という大金の出処です。「里正日誌」では古鉄
買入れのために乙津村の倉次郎から受け取ったことになっていますが、「指田日記」
ではこれが江戸屋敷で拝借したことになっています。そしてその金額は230両です。
もしも、「指田日記」に書かれていることの方が正しいとするならば、大金のやり取りに
代官所が関係していたことになります。
そうなると、少し穿った考えかもしれませんが、コレって本当に個人が古鉄の売買を
するための金だったの?と思えてきてしまうのです。
そう思わせる今一つの根拠は、梅吉の身柄引き受けに対する立会人の面々と、その
経費です。親類らが30両の金を用意するのは当然としても、立会人が預った金は
70両。誰が払ったのでしょう?
そしてその立会人は、伊奈村(あきるの市)、下田村(日野市)、蔵敷村という他村の
名主たちです。博奕だか派手な飲食だかの嫌疑で、これらの方々が立会人になる
のも少々大袈裟な気がします。
代官所絡みで、これら支配地も関係するような話であれば納得ですが・・・。
この辺り、もう少し関連した史料があれば、もっとハッキリしたことがわかるでしょう。
「指田日記」では、江戸屋敷で大金を拝借したのは4人となっています。おそらく、その
中の「伊奈村の勘兵衛」あたりが買い付けのリーダーだったのではないでしょうか。
それを下っ端の梅吉が横領したもんだから、代官所も村々も大慌てになっちゃった、と
いう所が真相ではないでしょうか。
さて、その後の梅吉ですが。
「指田日記」を追ってみると・・・
「文久3年7月25日 梅次郎、組合へ繕い金を返す。
元治元年4月24日 梅次郎、萩ノ尾の市郎右衛門(名主)屋敷に建てて置いてある
家を引き取って、自分の屋敷を建てる。
慶応元年7月24日 梅次郎、逐電する。」
お金を返したり、家を建てたりと安定した生活をしていたようですが、突如、逐電!
その後はわかりません。
梅吉・・・君は、何だったの?

「指田日記」によれば元治元年(1864)には
「異国人との交易が始まってから物の値段は次第に高くなり、かつての1両は
3両になり、色々な品物の値段は以前の3倍となり、米価は天保8年(1837)
の凶作の年と同じだけれど、金銭の流通は良く、世の中で建築普請は多く、
労働者の賃金はどんどん高くなっているが、普請はなお多い。
天保の凶年のときは、労働者の手間賃は下がったけれども、普請を頼む者は
なく、一般の庶民は屋根から雨漏りしても葺き直さないほどであった。
また、奉公人は山の方から来る女は給与は与えず、食事・衣服を支給され
連れて来る。今年のこの辺りの給金は男が12両で、その他食事・衣服が支給
され住込みで働く。通いで勤め先に行く者は18~19両である。
女でも7~8両から10両の給金である。」
とあります。
物価の値段は上がっているけれども、景気自体は良かったようですね。
一般庶民が200両の大金を商売で使うことも、そう珍しくないことだったのかも
しれません。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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されてしまった中藤村の梅吉。
「里正日誌」は当ブログでご紹介した史料を含む5点の書状を記載して、この
一件に関することを終わらせています。
解説では、
「この件に関する記載が終わり、その後の経過は不明である。」
としています。
東大和市の史料からは、これ以上辿れません。
ところが、当ブログの読者でいらっしゃる甚左衛門さんから、甲府の史料
「甲府町年寄坂田家御用日記」にこの一件が記載されていることを、コメントで
教えていただきました。
ありがたいことです。甚左衛門さん、ナイス・フォローです。
それによれば、
「お取調べの中で、申し開きの内容が不明瞭だったので入牢を仰せ付けられたが、
だんだんとその内容がわかったので、お構いなしとして出牢させ、親類にお引渡し
となる。今後、心得違いのないように仰せ渡され、証文を取る。武州多摩郡中藤村
の梅吉母たよが病気のため、代理人の親類政左衛門、他2人が召し出され、梅吉
と金子のお引渡しの証文を取る。」
と、万延2年2月3日の条に記載してあるそうです。
梅吉(梅次郎)の地元、中藤村の「指田日記」はさすがに彼に一番近いだけあって、
その後のことも書いてありましたので、ご紹介します。
中藤村に梅吉の捕縛が伝えられたのは万延元年12月22日ですが、その後の
村の対応も含めてご紹介しましょう。
「(12月)29日 夕方より雨。中藤の戸端(名主の屋号)並びに藤左衛門(組頭)、
この村の半次郎(母の代理)が江戸より帰宅する。梅次郎の一件は内済になる
べきだとのことを告げる。
30日 昨夜より雨。梅次郎が甲府で入牢していることにつき、今日30日に、親類・
組合寄合が正月4日までに30両を用意するように話し合ったけれども、一致しな
いので皆帰る。」
内済はこの場合、今風に言うなら不起訴ということでしょうか。
代官所では梅吉に罪はないとの判断をしていたようです。
30日に話し合われた30両は、甲府まで梅吉を引き取りに行くための経費と思われ
ますが、立会人たちが定めた親類たちの出金は40両だったハズ。
「幕末商売人、金持ってます」(

実は「里正日誌」には、立会人たちが経費を預った証文が残されているのですが、
そちらには・・・
「預り金一札の事
一、金70両
右は私方へ確かに預りました。御入用のときはいつでも間違いなくお渡し申すべき
ことです。よって預り申した金子一札、件の如し。
万延元申年12月26日 伊奈村名主 預り主 孫兵衛
下田村名主 証人 捨五郎
蔵敷村名主 同 杢左衛門
砂川村名主 源五右衛門殿 」
と、このように26日の時点で、70両という大金を立会人らが預ったことが記されて
います。このお金は誰が出したというのでしょう?
親類が出したお金は30両で、さらにその倍以上のお金を誰かが負担していたこと
になります。
年が明けて、万延2年(文久元年)。「指田日記」から。
「正月4日 梅次郎が昨年の冬から甲府で入牢していることについて、 戸端里正、
入りの清五郎、村の孫左衛門、砂川の本屋が出立する。
9日 梅次郎甲府入牢のことで、村人一同が山口観音に千度参り。
19日 梅次郎の一件で甲府に行った人の中で、孫左衛門、中藤入りの清五郎が
夜になって帰宅。」
戸端里正は中藤村の名主、清五郎は日記の他の部分から組頭の藤左衛門だと
思われます。孫左衛門は「坂田家御用日記」の政左衛門のことでしょう。
母の代理は代官所へは半次郎が務めていましたが、「指田日記」に彼の母親が
14日に亡くなったとあるので、半次郎は甲府まで行けなかったものと思われます。
砂川の本屋は、砂川田堀勝平の関係者でしょうか。
「2月9日 綿屋の梅次郎、甲府入牢となっていたが内済となり、戸端里正並びに
砂川親類の人々は残らず帰村した。
14日 綿屋の梅次郎一件について、御支配所の調べも済み、戸端里正が江戸
から帰る。
15日 梅次郎一件落着により、今日、組合の者一同が年賀に来る。
19日 梅次郎の家に親類・組合が集まった上で、梅次郎は5年の間戸端里正が
引き受ける。村中並びに親類・組合へ、身柄引き受けの間に苦労をかけないように、
梅次郎を江戸に行かせる。
3月15日 梅次郎、家財を売り払う。」
ということで、梅吉(梅次郎)は名主の保護観察下に置かれたようですね。
日記には中藤村の原山という場所の名主の宅地に、「見世」を開いていたように
書かれています。
しかし、内済で出牢となっても保護観察下に置かれたということは、彼にも捕縛され
ても仕方がない理由があったということなんでしょうね。
甚左衛門さんからのコメントでは、梅吉が宿泊していた柳町の藤助という旅籠は
博奕が度々開かれた所で、何度も手入れがあった場所のようです。
梅吉は、もしかすると博奕目的で藤助に泊まっていた可能性もありそうですね。
大金を手にした梅吉は、砂川新田田堀で用事を足せば済むところを、以前から
知っている甲府の藤助で博奕がしたくなり、足を延ばしてしまった・・・というコトかも
しれません。
「里正日誌」では梅吉は古鉄買入れのために甲府へ行ったことになっていますが、
これは全て役所へ提出するための書状ですから、敢て不利になるような真実は避け
て都合よく書いたと取ることもできると思います。
目の前の事象のみを書いた「指田日記」の方が、梅吉の本当の行動を示している
ような気がしますが、いかがでしょう。
そこで大きな謎となってくるのが200両という大金の出処です。「里正日誌」では古鉄
買入れのために乙津村の倉次郎から受け取ったことになっていますが、「指田日記」
ではこれが江戸屋敷で拝借したことになっています。そしてその金額は230両です。
もしも、「指田日記」に書かれていることの方が正しいとするならば、大金のやり取りに
代官所が関係していたことになります。
そうなると、少し穿った考えかもしれませんが、コレって本当に個人が古鉄の売買を
するための金だったの?と思えてきてしまうのです。
そう思わせる今一つの根拠は、梅吉の身柄引き受けに対する立会人の面々と、その
経費です。親類らが30両の金を用意するのは当然としても、立会人が預った金は
70両。誰が払ったのでしょう?
そしてその立会人は、伊奈村(あきるの市)、下田村(日野市)、蔵敷村という他村の
名主たちです。博奕だか派手な飲食だかの嫌疑で、これらの方々が立会人になる
のも少々大袈裟な気がします。
代官所絡みで、これら支配地も関係するような話であれば納得ですが・・・。
この辺り、もう少し関連した史料があれば、もっとハッキリしたことがわかるでしょう。
「指田日記」では、江戸屋敷で大金を拝借したのは4人となっています。おそらく、その
中の「伊奈村の勘兵衛」あたりが買い付けのリーダーだったのではないでしょうか。
それを下っ端の梅吉が横領したもんだから、代官所も村々も大慌てになっちゃった、と
いう所が真相ではないでしょうか。
さて、その後の梅吉ですが。
「指田日記」を追ってみると・・・
「文久3年7月25日 梅次郎、組合へ繕い金を返す。
元治元年4月24日 梅次郎、萩ノ尾の市郎右衛門(名主)屋敷に建てて置いてある
家を引き取って、自分の屋敷を建てる。
慶応元年7月24日 梅次郎、逐電する。」
お金を返したり、家を建てたりと安定した生活をしていたようですが、突如、逐電!
その後はわかりません。
梅吉・・・君は、何だったの?

「指田日記」によれば元治元年(1864)には
「異国人との交易が始まってから物の値段は次第に高くなり、かつての1両は
3両になり、色々な品物の値段は以前の3倍となり、米価は天保8年(1837)
の凶作の年と同じだけれど、金銭の流通は良く、世の中で建築普請は多く、
労働者の賃金はどんどん高くなっているが、普請はなお多い。
天保の凶年のときは、労働者の手間賃は下がったけれども、普請を頼む者は
なく、一般の庶民は屋根から雨漏りしても葺き直さないほどであった。
また、奉公人は山の方から来る女は給与は与えず、食事・衣服を支給され
連れて来る。今年のこの辺りの給金は男が12両で、その他食事・衣服が支給
され住込みで働く。通いで勤め先に行く者は18~19両である。
女でも7~8両から10両の給金である。」
とあります。
物価の値段は上がっているけれども、景気自体は良かったようですね。
一般庶民が200両の大金を商売で使うことも、そう珍しくないことだったのかも
しれません。




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