いや、ホントにもう幕末・・・もとい年末って、バタバタしていますねぇ。 たいした仕事もしていないのに、忙しいです。 みなさんも同じように忙しい日々をお過ごしかと思います。 そんな中でも、当ブログに遊びに来ていただき、ありがとうございます。 たぶん、今年最後の更新かもしれません。な。 高木村の かねちゃん(18)は、柴崎新田の 林蔵くんと結婚間近のカップルです。 ところが10月26日の夜、清水村の 善吉が「かねはオレの女だべさ!」と彼女を 拉致して親類の家に閉じ込めてしまいます。 驚いたかねちゃんの父親 清兵衛や、兄の 万五郎は、彼女が預けられている善吉 の親類 源次郎にかねを返してくれるように頼みますが、源次郎から拒否されて しまいます。 そこで、後ヶ谷村の名主・ 平重郎さんが中に入り、やっとかねちゃんは実家に 返されることとなりました。ところが、善吉の父 仙蔵や源次郎らは「金を払うなら かねは返すが、そうでなけりゃ返せねぇ」と言ってきたのです。 困った万五郎は、代官所の上の機関である勘定奉行所に被害届を提出。なん とか助けてくれるようお上に訴えるのでした。 11月14日に勘定奉行所から返信が届きます。 しかし、それは驚くべき内容でした。 「斯くのごとき訴状が出されたので返答する。 来月2日に評定所へ出頭して、お互い意見を言いなさい。もしも 欠席すれば、処罰するものとする。 申 11月14日 丹波 ※山口丹波守直信 大蔵 ※塚越大蔵少輔之邦 隠岐 ※酒井隠岐守忠行 出雲 ※松平出雲守康正 因幡 ※石谷因幡守穆清 播磨 ※池田播磨守頼方 大善 ※青山大善亮幸哉 左近 ※水野左近将監忠精 伊豆 ※松平伊豆守信吉 伯耆 ※松平伯耆守宗秀 (※は筆者追記) 」 評定所というのは、幕府の最高司法機関であり、現代でいうなら最高裁でしょうか。 寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行が合議をして裁定を下すもので、場所は 江戸城和田倉門外の辰の口にありました。 毎月6回、寄合が行われますが、2日というのはその中の一日です。 書状に書かれている10人の出席者、いわばこの一件を審議する「裁判官」が列記 されていますが、丹波・大蔵・隠岐・出雲は 勘定奉行、因幡・播磨は 江戸町奉行、 大善・左近・伊豆・伯耆は 寺社奉行です。(「里正日誌」解説による) この書状を見た万五郎さんたちは、相当ビックリしたに違いありません。 いや、ビックリなんてものじゃなかったんじゃないかな。 だって、かねちゃんには悪いけど、評定所まで呼び出されるような事件じゃないと 、万五郎さんも善吉側も思っていたハズだからです。 評定所が裁く事件は、 出入り筋(民事事件)では原告・被告を管轄する奉行が異なる 場合。 吟味筋(刑事事件)では世相を騒がすような重要事件か、被疑者が上級武士 だった場合に限られました。 この事件の関係者の住所は高木村、清水村、柴崎新田と、いずれも江川代官領(天領) であり、全域勘定奉行の管轄です。 それが評定所まで達したというのは、どういうことでしょう!? よほどの世間を騒がす重要事件だと、お上は見ているのでしょうか? さァ、関係者一同大慌て。基本的に江戸時代の農民たちは、大事になるのを嫌がります。 もはや「ホロ苦い青春の先走り」では済まされなくなったのです。 「対談議定書の事 武州多摩郡高木村百姓清兵衛が病気のため、代理として同人倅の万五郎より、同州 同郡清水村百姓仙蔵とほか4人へ、関わった女取戻し事件について申し上げます。 山口丹波守様をはじめとする方々の、御尊判のある書状を拝見して、一同驚き入って いるところです。ご指定日以前に仲裁者が立ち合いの上、熟談し示談となりましたのは 以下の通りです。
一、訴訟人万五郎が申し立てた通り、かねの身柄と同人が持っていた品々は残らず 万五郎方へ渡すよう申すべきことである。その上は訴訟人側も申し分はないはずである。
一、相手のうち、善吉・仙蔵の言う筋の通らない縁談の申し入れは過失であり、詫びに 証文を差し出すよう申すべきこと。
一、長蔵・鉄五郎・源次郎は、善吉とその親である仙蔵より頼まれ、無理にかねを貰い 受けたいと申し出たまでで、徒党を組んで共謀してはいないと申してはいるが、この程 相手取られ今さらながらに航海しているので、仲介者が入って挨拶を申し上げるべき はずである。そのほか行き違いがあって言い争いになった事々は、仲介者が引き受ける ことで一同申し分ないことである。
右の通り対談を取り決めた上は、双方申し分なく熟談し示談いたしました。しかる上は 済口証文(示談書)は双方とも各方へ任せるように申すべきことである。印を押して 議定の証文を差し出すよう間違いなく申します。 万延元申年11月23日 」万五郎さんと仙蔵さんらは、お互いの村の名主・組頭と連名で、この議定書を仲裁者 である後ヶ谷村の名主・平重郎さんや蔵敷村の杢左衛門さんらに提出しました。 これによれば、ほぼ全面的に万五郎さん側の言い分が通ったようですね。 そして、評定所へ出頭する期日の直前、11月27日に「当事者同志の間で示談が 成立しました」との書状が万五郎、仙蔵、源次郎から評定所に出され、事件は落着 いたしました。 評定所へは行かなくて済んだようです。 しかしなぜ、農村の些細とも受け取れる男女のもつれが評定所まで出てくる事態と なったのでしょう。 時代的にはこの2年前の安政5年(1858)に、幕府はアメリカを始めとする諸外国と 通商条約を結んでいます。すると輸出超過による国内物資の不足、また金銀の交換 比率の違いから金が海外に大量に流れ、経済の混乱を招いてしましました。 さらに、国内に外国人が居留するようになったため、幕府は多摩地域の農村へも 外国人とむやみに接触しないように触書を出して、警戒を強めていました。 これらのことを総合して考えると、社会全体が幕府の思惑通りにだんだんと行かなく なってゆき、それまで担当の管轄部署に任せておいた案件も、さらに上のレベルで監視 しなければならないような雰囲気が幕府の内部にできてきたのではないでしょうか。 ちょっと話が政治的になっちゃったんで、元に戻しましょう。 この示談書ですが、話がお互いの家同志の話になってしまっていて、かねちゃんは「身柄 と所持品が返ってくればいい」みたいなことになり、なんか腑に落ちない所もありますね。 かねちゃんはひと月も監禁されていたのに、何のケアもなさそうですものね。 議定書が平重郎さんや杢左衛門さんらに出された同じ日、かねちゃんの父親清兵衛さん に善吉・源次郎・鉄五郎の3人は詫び状を出しています。そこには、 「・・・不調法だったことはお詫びしますので、ご勘弁ください。その上で、今後執着がましい ことのないよう慎むことを申します・・・」と書いてあり、善吉が一方的にかねちゃんに言い寄っていたことがわかりました。 かねちゃんの身に何もなかったことを、今さらですが祈ります。 「ごめんね、青春!」 今年一年間、当ブログに来ていただきまして、ありがとうございました。 また来年も続けていきますので、よろしくお願いします。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村
スポンサーサイト
文京学院大学生涯学習センターの「江戸散歩」。 高輪界隈を歩いております。 二本榎交差点から桂坂を下って、 東禅寺までやってきました。  ここに最初のイギリス公使館が置かれたのですが、文久元年(1861)5月28日 深夜、水戸浪士14人(一説には18人とも)が公使・オールコックを暗殺せんと 襲いました。これが 第一次東禅寺事件です。 なんで彼らがそんな暴挙に出たかというと、オールコック一行が東海道を旅行した からなんだそうです。彼らに言わせると「神州を汚した」ことになるんだそうで・・・。 ただ、彼らはオールコックの寝室が分からず目的は果たせませんでした。幕府の 警備兵や郡山、西尾藩の護衛兵らの防戦により、ほぼ全滅してしまいます。 公使館側では、職員の英国人2名が負傷しました。 この事件で東禅寺の警備はさらに厳重になり、幕府、大垣、岸和田、松本藩兵ら 数百人でガードするという、まるでマイケル・ジャクソン来日並の(もっとか!)警備 体制になったのですが、文久2年(1862)5月29日深夜、賊が侵入し見張りの イギリス人2名を殺害するという事件が発生してしまいました。 これを 第二次東禅寺事件といいます。 これほど警戒が厳重な中、よく犯人が忍び込めたと思いますが、それもそのはず。 なんと犯人は警備している松本藩の伊藤軍兵衛という23歳の若い藩士だったの です。彼もまた銃弾を受けて負傷し、翌日自決しているのを発見されています。 伊東の動機は、外国人のために日本人同志が殺し合うことや、警備のために松本 藩の出費がかさみ、自分が問題を起こせば警備から外されるだろうと考えたから だそうです。 史跡を紹介する本などによると、「寺の建物は当時のままで、事件があった時の 刀傷や弾痕が玄関の柱に残っている」と書かれています。 実際、柱を見ると柱に傷があったり、丸い穴が開いています。 ところが、お寺の方に聞いてみると、90年ほど前に建て替えてあるらしく、 柱の傷は 事件を再現したフェイクだって言うんですよね。なにもそこまでやらなくても、と思い ますが、お寺の方が仰るのだから本当なのでしょう。 東禅寺は禅宗の大寺院でしたし、開山した嶺南禅師という方は兵法の見識があった ので、その影響か12家の大名が菩提寺としました。 今でもそのお墓が残っているのですが、墓地へは関係者以外立ち入り禁止なので 見学はできません。残念! 東京都日野市高幡不動にある新選組顕彰碑 「殉節両雄の碑」の撰文をした、漢学者 大槻磐渓のお墓もあるので、ぜひ見学したいのですけどね~・・・。 東禅寺を出て、桂坂を引き返します。現在は消防署出張所まで真っ直ぐに伸びる道路 ですが、江戸時代の切絵図を見ると坂の途中から鍵形に曲がっていることがわかりま す。その旧道は今も残っていますので、せっかくなのでそちらの道を歩いてみましょう。 坂道に面して江戸時代には4つのお寺があったようですが、現在は清林寺というお寺 しか残ってないようです。 再び「高縄手道」に戻ってきました。すぐ目の前にお寺があります。  門扉がなく柱だけの入口なのでわかり辛いですが、 黄梅院という曹洞宗の お寺です。 上行寺の前にあった二本榎はここに移されたと云いますが、お寺の方に聞くと 榎の木はすでに枯れてしまい、今は残ってないそうです。 しかし、こちらのお寺。とあるパワースポットとして評判なんだそうですよ!  それがこちら。境内にある 高輪銭洗不動さまでございます! 中央の珠から湧き出る泉でお金を洗うと、あら不思議!金運が上昇しお金に 困らなくなるのです! 銭洗いと言えば鎌倉の銭洗弁天が有名ですが、こちらも同じ効果が期待できる ようですね。ちょうど時期的に、ここで洗ったお金で宝くじを買いたいと言う受講生 の方が多くいらっしゃいました。 めでたく高額当選された暁には、ワタクシに情報提供料のご寄附をお寄せくださ いませ。首を長くしてお待ちしております! 黄梅院を出て、少し北へ行くと日蓮宗のお寺が見えてきます。 承教寺です。 正安元年(1299)に芝に創建され、承応2年(1653)にこの地へ移転してきま した。後に日蓮宗大学が置かれ、現在の立正大学の母体になっています。 山門の前には 二本榎の碑があります。榎の木が移された黄梅院にあったもの のようですが、石碑だけこちらに移されたようです。  ここの山門・仁王門・鐘楼は承応2年に建てられた当時のものが現存しています。  シンプルですが、なかなか立派な仁王門です。 そして本堂前には、ひと際目立つお墓があります。  江戸時代中期に活躍した画家、 英一蝶の墓です。 狩野派に学びながら、風俗画で人気を得た画家ですが、「生類憐みの令」に 逆らって魚釣りをした、あるいは「朝妻舟図」という絵で綱吉と側用人の柳沢 吉保を風刺したという罪で、12年も三宅島に流されてしまった人です。 承教寺には、とても変わった「あるモノ」があることでも有名なようです。 それがコレ。山門の前の両側にあります。   ね、何でしょうコレ? 頭は鼻から牙の生えた人のようにも見えますし、胴体は足に蹄がある牛のよう に見えます。 ネットでは「変わり者の狛犬」などと紹介しているモノもありますが、ここはお寺な ので狛犬を置くことはないでしょう。 一説には 件(くだん)像と云われています。 件というのは、人の頭に牛の体を持った妖怪の一種です。 世の中に異変が近づくとき、母牛の体内から生まれて、近い将来に起こることを 予言して死ぬと云われています。江戸時代から昭和初期まで目撃例があり、 読売(瓦版)に記録されたほか、剥製にされて博物館に陳列されていたという 話もあるようです。その件は日露戦争開戦を予言したんだって。 実は牛がある病気になり、小牛が奇形で生まれると頭部が人間のような形をして 生まれることがあるんだそうで、剥製にされた件の正体はソレなんじゃないかって 今では言われてるようです。 でもそうなると、予言した話はどうなのよ? やっぱり、「妖怪のせいなのね、そうなのね」ってコトにしといた方が面白くない? 世の中、不思議なことがあった方が楽しいでしょ、ってワタクシは思います。 ちなみにこの件像は、先代の住職の頃に檀家の方が中国から持ち帰ったモノの ようです。ところが、それからあまり良くないことが続いたため、お寺に持ち込んで 供養してもらい、ここに置いてあるとのことです。 承教寺を過ぎると、東海大学高輪キャンパスがあります。 その前から桜田通りへ降りていく坂道があります。そこを下ります。 この坂道は、かつて南側に菅原道真を祀る祠があったそうで、天神坂という名前が ついています。 桜田通りの大きい交差点に出ました。 道路を渡らずに、少し南に歩くとお寺があります。  現在、工事中でフェンスに囲まれていてわかり辛いですが、曹洞宗のお寺 源昌寺です。(この写真は道路の反対側から撮りました。) ここには、幕末の冒険野郎とでもいうような、とても興味深い方のお墓があります。  それがコチラ。 増田甲斎の墓です。 甲賀流の忍者かと思うような名前ですが、違います。 甲斎さんは掛川藩を脱藩した浪士でしたが、天下国家を論じるとかいうのではなく、 博徒の仲間になったり、放浪したり、仏門に入ったり、また放浪したりと、自分探し の旅をしたフリーマンでした。70年代でいうならヒッピーですかね。 安政元年(1854)に伊豆下田で大地震が発生し、大津波が起こります。この影響 で、沖合に停泊していたロシア艦のディアナ号が難破してしまいます。ちょうど伊豆 に滞在していた甲斎は、艦の修理で逗留していたロシア人通訳のゴシケヴィッチと 仲良くなり、なんと彼の手引きで密出国してしまうのです。 ロシアに渡った甲斎は、名前をロシア風にウラジミール・イオシフォヴィッチ・ヤマトフ と改めて、 ロシア政府の通訳官になってしまいます。そして、ゴシケヴィッチと共同 で、初の日露辞書となる 「和魯通言比考」という本まで作成。ロシア政府内ではかな り優遇されていたようです。 当時、外国への密航は大犯罪でしたから、甲斎も帰国は考えてなかったようです。 しかし明治の世となり、同6年(1873)にモスクワを訪れた岩倉具視ら一行から、 もう罪には問われない旨を聞き、54歳で約20年ぶりの帰国を果たします。 その際には、ロシア政府は甲斎に日本までの旅費と年金を支給したって云うんです から、よほど大事にされていたのでしょう。 帰国してからは芝に住み、ロシア情報通として政治家や学生らが頻繁に彼の元を 訪れ、家は私塾のような賑わいだったといいます。 日本史の教科書にも出てきませんし、あまり知られていない人物ですが、ドラマ化 でもしたくなる面白い経歴の方でしょ? 桜田通りを挟んで、源昌寺の向いにあるのが 覚林寺。加藤清正の位牌や像が祀られていることから 「清正公」とも呼ば れています。 寛永8年(1631)に日延上人によって開山されましたが、この日延という方は 文禄・慶長の役で清正が半島から連れてきた朝鮮の王子だと、寺の説明には あります。清正は熱心な法華経の信者で、王子はその影響を受け、成人した 後に出家してこの寺を開山したというのです。 しかし、別の説もあるようです。 当時、李氏朝鮮は内部抗争があり、日本に接近したい一派が王子を拉致して 清正に差し出したというのです。清正は王子を丁重に扱いますが、秀吉から 返すように命令が下り、王子は王の元に帰ります。 日延は当時、朝鮮から連れてこられた者に間違いはないだろうが、その話が 混同されて伝わったのではないか、というものです。 日延は水仙を栽培する名人だったので、この覚林寺の土地も元々は水仙畑と して幕府から拝領されたものだといいます。花を栽培する名人というと、王子 よりも後者の方が、正しいのかなという気がしてきます。  本堂を横から見ると、手前から拝殿・幣殿・本殿からなることがわかります。 これを 権現造形式といいます。東照宮に見られる建築様式です。 本殿は土蔵造になっていますね。 さて、覚林寺を見終えた時点で辺りはすっかり暗くなってしまいました。 実はもう1箇所廻りたかったのですが、タイムオーバー。 門を閉められてしまい、見学できませんでした。 そこで、下見のときに行った写真を載せますので、当日ご参加された受講生 の方は参考になさってください。 立行寺。時代劇などで「天下のご意見番」としてお馴染みの、 大久保 彦左衛門が寛永7年(1630)に創建したお寺です(当時は麻布市兵衛町・現 六本木)。なので大久保寺ともいいます。 山門がピンクなのが、なんでかな~と思うのですが・・・。  こちらが 大久保彦左衛門の墓です。 この鞘堂の中に宝塔があるのですが、大きいのでお堂の屋根を突き抜けて います。周りは大久保家代々の宝塔が並んでいます。 お話では、彦左衛門には常に一心太助という正義感の強い魚屋が側にいて、 彦左衛門の右腕となって活躍いたします。 当然、これはフィクションの世界のお話です。 ・・・と思っていたのですが、  大久保家のお墓の隣に、 一心太助の墓があるんですよね~。 彼は実在の人だったのでしょうか? 中がよく見えないのですが、墓碑はけっこう古そうでしたよ。 後で検索などかけてみたのですが、一説に太助は大久保家の草履取りだった という話もあるようです。 以上、「江戸散歩」高輪編でした。 ご参加された受講生の方々、最後までお付き合いいただきありがとうござい ました。廻りきれず、ごめんなさい。 文京学院大学生涯学習センターのTさま、小学館江戸文化歴史検定協会事務 局のUさま、お世話をおかけしました。 来年も、やっちゃう?  「妖怪ウォッチ」に、件て出てる?  「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村
「幕末・ごめんね青春!」は衆院選挙特番のため、お休みします。(嘘) 文京学院大学生涯学習センターの「江戸散歩」。愛宕山・芝を廻った2週間後、講座の2回目として 高輪を歩きました。 今回のブログは、そのとき講座にご参加された皆さんをご案内した「高輪 史跡廻り」をご紹介いたします。 集合場所はJR・京急品川駅。前回と同じく13時に出発です。 さぁ、今日は予定コースを全部見て廻れるでしょうか?  先ずは集合場所、品川駅高輪口の真ん前にある石碑を見ましょう。 品川駅創業記念碑があります。 「江戸散歩」と言いながら、いきなり明治の話でスミマセン。 日本で最初の鉄道が走ったのは明治5年(1872)、新橋・横浜間でというのは よく知られていますが、実は本開業の4ヶ月前にこの品川・横浜間で仮営業が 行われていました。 つまり、この品川駅が日本で初めて鉄道を創業した駅なのです。 この碑は鉄道開通80周年を記念して、昭和28年(1853)に建てられました。 この石碑が面白いのは、裏に仮営業当時の時刻表と運賃が記されていること です。 石碑の裏面時刻表といっても、午前と午後に1往復するだけですけどね。 運賃は1等で1円50銭。今の価値に換算すると1万4~5千円でしょうか。 明治の「乗り鉄」鉄っちゃんも、お財布の中が大変だったでしょうな。 駅前を通る第一京浜は、江戸時代の東海道です。 道路を渡って、少し大崎寄りに行くと小さな神社があります。 高山稲荷神社です。 今は第一京浜に面して建っていますが、江戸時代はもう少し高台にありました。 なので「高山」の名があります。 この神社には、 おしゃもじさまと呼ばれる石塔が祀られています。 これは キリシタン灯籠と見られる石灯籠だそうです。 本来はこの上に笠がついていて、そこに灯りを入れると十字架の影が出来ると いう仕掛けだったようです。よく見ると、石に彫られたお地蔵さん風の人物には 足がついていて、ちょっと見慣れないデザインですね。 高輪周辺にはキリシタン関連の史跡も多く、今回はあと2か所、キリシタン史跡を 廻ります。 さぁ、もう一度品川駅方向に引き返すと、西側に真っ直ぐ伸びる長い上り坂が あります。  それが 柘榴坂です。 浅田次郎さん原作の小説で、今年映画化された 「柘榴坂の仇討」の舞台がここです。 桜田門外の変のその後を描いた物語ですが、二人の主人公、志村金吾(彦根藩士) と佐橋十兵衛(水戸浪士)は架空の人物。映画では金吾を中井貴一さん、十兵衛を 阿部寛さんが好演していました。 写真で見ると緩やかな坂道に見えますが、長く続きますので、十兵衛のように雪の中 人力車を引いて上るのは大変だったことでしょう。 この柘榴坂を挟んで、右側(北)は島津家、左側(南)は有馬家の広大な藩邸があり ました。 文久2年(1862)8月に起きた 生麦事件では、当日、島津久光はこの屋敷から行列 を仕立てて帰国のために出立しています。 また、慶応4年(1868)3月13日には、 勝海舟と西郷隆盛が江戸城無血開城に 向けて最初の話し合いを、ここで行っています。 薩摩藩高輪藩邸跡。 現在はシナガワグース京急EXホテルになっています。この写真は品川駅前から撮った もの。 ホテルには藩邸時代の様子を伝えるモノは一切残っておらず、ていうか、フロントの誰 ひとりとしてその事を知る人もなく、ちょい寂しい限りです。 柘榴坂を上りきった所に教会があります。  カトリック高輪教会です。 ここに一つの石碑があります。 江戸の殉教者顕彰碑です。本日2つ目のキリシタン遺跡。 三代将軍家光は幕府の力を盤石にするために、様々な強権を発動するわけ ですが、その中の一つにキリシタンの徹底的な弾圧がありました。 元和9年(1623)は家光が将軍に就任した年ですが、その年に三田の刑場 で宣教師を含む信徒50人を処刑したのです。 高山神社のキリシタン灯籠など、この界隈にキリシタンにまつわる遺物が多い のは、こういったことによるものでしょう。 この碑は昭和31年(1956)に三田の刑場跡に建てられましたが、後にこの 教会に移されました。 ここから北へ一直線に道路が伸びています。 高台にある縄のような一本道、と いうことから古来 「高縄手道」と呼ばれました。これが高輪の語源です。 東海道が整備されるまでは、この道が江戸からのメイン街道でした。 坂下の品川駅あたりは海岸で、江戸庶民の行楽地だったといいます。 特に陰暦の正月と7月26日の夜中には、海上に月が出るのを待って拝む 「二十六夜待ち」という行事が盛んに行われました。このときの月には阿弥陀 三尊が出現するからなんだそうですが、それは口実。 この時期に月が出るのは夜中の1時~2時なので、庶民は信仰を言い訳に 夜通し大騒ぎがしたかったってワケ。 でも、天保の改革で引き締められたため廃れてしまいました。 現在の道路と、切絵図の江戸の道は、この高輪の辺りはほぼ一致しています。 その道を北へ向かいます。当時はこの辺りは多くの寺院が建ち並ぶ門前町 でした。 右手に見えてきたお寺も、その一つです。 光福寺。江戸切絵図には 相福寺と出ています。 明治の廃仏毀釈令でツブされたお寺は多いのですが、芝にあった 源光寺もその 一つ。同じ浄土宗だからってことで、相福寺に併合されちゃったんです。 で、二つの寺から一字づつ取って光福寺となりました。 こちらに、ちょっと変わったモノがあるんですな。  それがコチラ。通称 ゆうれい地蔵と呼ばれています。 正式には 子安栄地蔵尊と言うようです。 品川沖から上がったとも云われていて、海中で摩耗してこんな形になったらしい とのことですが、なんとも不思議な造形をしています。 もし、最初から意図してこんな形に彫ったのだとしたら、作者は何を作りたかった のでしょうね?  そして、もう一つ。ゆうれい地蔵のすぐそばにあるこちらの石塔。 キリシタン灯籠です。この日3つ目のキリシタン遺跡です。 高山神社のおしゃもじ様とよく似ていますね。 昭和37年(1962)に近所から出土したものを、こちらで供養しているようです。 この界隈で一番大きな寺院といえば、コチラ。 高野山東京別院。高野山真言宗総本山金剛峯寺の別院です。 江戸幕府草創期に浅草に創建されましたが、延宝元年(1673)にこちらに移り ました。当時の名称は 高野山江戸在番所高野寺です。 残念ながら、江戸時代当時のものは境内に残ってはいないようです。 高野山別院のすぐ先の交差点は、かつて 二本榎と呼ばれていました。 その頃、そこには上行寺というお寺があって、その門前に2本の榎が植えられて いたからです。榎は一里塚と同じく、街道の目印でした。  現在はこのように説明板が立てられています。 後ろの榎は後年植えられたもので、当時の榎は近くの寺に移されたと 云います。 この二本榎の正面に、なんともクラシックなイカス建物がありますよ。  まるで灯台のようなこちらの建物は、 高輪消防署二本榎出張所でございます。 昭和8年(1933)に「ドイツ表現派」という建築設計で建てられた、鉄筋コンクリート の3階建てです。高輪消防署の本署は桜田通りの方に移りましたが、こちらは出張所 として残されています。平成22年(2011)に「東京都選定歴史的建造物」に指定され ました。 3階には展示室があって、誰でも無料で見学できます。    写真上から。昔の消防服ですね。奥にあるのは江戸時代の火消しが着た 刺子半纏 (さしこはんてん)です。 真ん中の写真は 龍吐水という、ポンプ式で放水する装置です。破壊消火中心の江戸 時代において、放水消火は画期的といえますが、水圧があまり高くない上、給水は いちいち水を汲んで水槽に入れなければならず、大きな火災の時は人足に水をかけ てあげるくらいしか役に立たなかったとも云います。 右側の龍吐水は、この近くの東禅寺から寄贈されたものだとか。 東禅寺、この後で行くよ。 面白いのが下の写真の梯子。柱の部分が半円状になっていますが、前後にずらすと 桟が柱の中に収納され、一本の丸太になってしまいます。署員の方が実演してくだ さって、我々一同大喜び。  1階にはオールド消防車。 消防出張所を出て、目の前の第一京浜へ向かう坂道を下っていきます。 桂坂という坂道です。なんでも、カツラを被って変装して、品川の遊郭に遊びに行こう とした坊主が、この坂の途中で急死したことからその名がついたそうで。 エロ坊主全開のエピソードですが、遊びに行く途中で死んでるし、ヅラ被っての変な エピソードが地名として残っちゃったしで、彼成仏しきれませんな。 坂道の途中、洞坂という狭い道に入っていくとたどり着くのが、 東禅寺。禅宗の大寺院です。 安政5年(1859)に、最初のイギリス公使館がこのお寺に置かれました。 しかし、2度に渡ってイギリス公使を襲う事件が、この場所で起こります。 そのお話から先は、また次回! 伊東甲子太郎が暗殺されたのは、慶応3年(1867)11月18日のことですが、 これをグレゴリウス暦に直すと、12月13日になるそうです。 油小路に放置された伊東の遺体は、血で着物が凍っていた・・・と何かの本で 読んだような記憶があります。相当寒かったのでしょうね。 でも、伊東先生はイジると面白そうなキャラので、この漫画ではまだ生きてもらう ことに。 今どき「鼻メガネ」つけてXmasパーティーをやる人もいないと思いますが。  「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村
「里正日誌」の中から、先日は由五郎という、家庭環境の変化からグレて しまった若者の話をご紹介しました。 志士たちではない、 一般農民の幕末青春グラフィティ。さらに見ていきたい と思います。 今回は、恋愛のもつれから、ちょっとした騒動になったお話をご紹介しましょう。 みなさん好きでしょ、コイバナ。 今日は会社休んじゃってください。 先ず、登場人物です。 高木村の 清兵衛さんと、その娘 かねちゃん(18)。アニキの 万五郎さん。 柴崎新田(立川市)の 平吉さんの倅、 林蔵くん。 かねちゃんと林蔵くんは親公認のカップル。近々、結婚というところまで きています。 ところがそこに、清水村の 仙蔵さんと息子の 善吉くんが横やりを入れてきて・・・ さぁここからは、いつものように「里正日誌」に書かれた書状をご紹介。 万五郎さんが仙蔵・善吉親子らへの苦情を、奉行所に訴える内容になって います。 「高木村清兵衛より、清水村仙蔵ほか4人へ掛り、娘を取り戻す訴訟一件
訴訟人清兵衛が病気なので代りに倅の万五郎が申し上げ奉ります。 今年18歳になります私の妹かねは、去る午の年(2年前)より尾州様(尾張藩) のお屋敷へ奉公に差し出しておりました。 親である清兵衛の家と同じご支配所の、同郡柴崎新田の百姓平吉が、倅の 林蔵の女房に貰い受けたいということを申すので、今年の9月にかねは暇を 申し受けて私の家におりました。」以前にもご紹介しましたが、東大和市域を含む狭山丘陵一帯は、三代将軍家光 の頃から尾張藩の鷹場に指定されています。 かねちゃんはその縁で尾張藩の江戸藩邸に女中奉公に出ていたのでしょう。 鷹場に指定されているとは言っても、年貢などの税は代官所に納めます。代官は 当然、江川太郎左衛門。柴崎新田と同じ支配地ということです。 「近々、林蔵と婚礼を挙げることになり、この頃はもっぱらその支度にとりかかり、 すでに先月26日に家内の者がかねの衣類を取りそろえました。その日の暮六つ (18時頃)頃に、衣類9品を風呂敷に包んで家の外に建ててある土蔵に仕舞いなさ いと、かねに持たせたところ、しばらくしても立ち帰りません。 不審に思いまして私始め家内の者たちが立出で、屋敷の内外を尋ねましたが、更に 行方はわかりません。 驚きまして早速、親類・組合へ知らせ、その日の夜は所々手分けして、かねの行方 を尋ねましたが、翌27日の朝、相手(仙蔵ら)の村方へ連れて行かれたということを 聞き、すぐさま清水村へ行きまして探索いたしました。」さぁ、大変です。 かねちゃんが土蔵に行ったきり帰らないので不審に思ったところ、清水村に連れて 行かれたというのです。 高木村と清水村はそれほど離れているわけではなく、歩いてもすぐの距離です。 しかし、かねちゃんの身に何があったと言うのでしょう? 「かねは相手の仙蔵の倅、善吉に連れ出され、親類の源次郎宅にいるとのことでした。 源次郎の家に行き、かねの身柄を返すように掛け合ったところ、相手側は徒党を組ん で返すことはできないと申します。 言い合いに際限がないものですから、なお話し合わねばと思い、源次郎よりかねを 預っているとの書付けを取って、その場を引き取りました。 その日の夕七ツ時(20時)頃、源次郎を先立って、仙蔵と五人組である長蔵・鉄五郎 ともどもが、私どもの村方の百姓惣左衛門・孫市を訪ねてきました。 かねは善吉の女房にもらい受けるので、頼むように 言われたとのことで、惣左衛門らから親である清兵衛に申し聞かされました。」新婚生活目前が一転、かねちゃん大ピンチです! 家族はたまったもんじゃありませんね。 「清兵衛にしても、柴崎新田の平吉方へ縁談を取り決めた身分であるから、今さら反故 にはできないと断りました。源次郎とほかの2人は承知せず、それであるならかねの 身柄はこのままでは返せない、勝手にするがいいと言い捨てて立ち帰ってしまいました。 清兵衛は翌28日に、後ヶ谷村名主の平重郎と申す者に仲介に入ってくれるように頼み、 同人が間に入って色々と尽くしてくれて、ようやく相手側が折れました。 私のところへ詫び書を差し出し、かねの身柄を返すべしということになりました。」後ヶ谷村は、高木村と清水村の間に位置しています。 清兵衛家と仙蔵家の問題ではあるけれど、完全に第三者である後ヶ谷村の名主に仲介 を依頼しているところが、当時の村社会をよく表していると思います。 平重郎さんは個人的には完全な部外者ですが、農村社会の基本体である組合では 三つの村は共に連携を取らなければいけません。彼が出てきたことで、仙蔵側もあまり 問題を大きくしたくなくなったのでしょう。 「ところが、俄かに考えが変わり、相手の村方より平重郎へ取り決めを断る申し出があり、 破談になってしまいました。 このことは全て相手側の一同らが、強欲に駆られ、我々から根拠のない金銭を貪り取る 計画を立て、謂れのない異議を申立てたのです。 これではかねの縁談に支障が出るので、捨てておけません。相手の村役人へ申し出て 再び応じるよう厳しく掛け合いましたが、一同共謀するなどもっての外の対応で、一切 取り合わず心外この上ありません。 このまま差し置いては、かねの身にどのようなことが起こるか計り難く安心できません。 このことで、親の清兵衛も病気になってしまい、私が代理として出府いたし、今般御訴訟 を申し上げ奉ります。 なにとぞ御慈悲をもって、相手の者たち一同を召し出され、前書の理不尽な始末を御吟味 の上、かねが持っていた衣類9品も取り揃えて本人の身柄一同を、速やかに差し戻して くれますよう仰せ付け下されおきたく願い上げ奉ります。以上。 江川太郎左衛門代官所 武州多摩郡高木村 百姓清兵衛煩いに付き代り兼倅 訴訟人 万五郎 万延元申年11月 日 御奉行所様 」ところが仙蔵側は急に態度を変えてしまいました。 万五郎さんの文面を読むと、かねちゃんを返す代わりに「身代金をよこせ」くらいの事を 言ったようなニュアンスですね。 さて、話を整理してみましょう。 高木村のかねちゃんと、柴崎新田の林蔵くんは婚約中。この二人が恋愛なのか見合い なのか、その辺りは不明ですが、結婚はもう間近です。 そこへ出てきたのは、清水村の善吉くん。 夜にかねちゃんを誘い出し、清水村に連れ帰り、自分の親類宅に預けてしまいます。 ここでワタクシ、このようなケースも考えられるか、と思いました。 それは、かねちゃんと善吉くんは元々恋仲であった。親同志が勝手に決めた結婚に 納得できず、かねちゃんが善吉の元に走ったという可能性です。 しかし、後ヶ谷村の平重郎名主が出てくると、善吉の親である仙蔵らは一旦は詫び状を 書くというくらいに折れてしまいます。ということは、やはりこの連れ去りは善吉の一方的 な横恋慕であり、彼に非があったということでしょう。 よっぽどかねちゃんのことが好きだったのでしょうか。 でも善ちゃん、そりゃやっぱり逆効果だよ・・・。 ここで、仙蔵側はかねちゃんを返すどころか、急に態度を変えて身代金まで要求して きました。この様子だと、かねちゃんは監禁されている可能性も高いですね。 かねちゃんが善吉の誘いに連れ出されたということですが、もしかすると何人かでかね ちゃんを襲い、拉致していったことも考えられます。その協力者が源次郎たちだったと すれば「苦労賃くらいはもらうゼ」なんてことを言って交渉の前面に出てきたのかもしれ ません。 万五郎さんは嘆願書を奉行所に持っていきます。 ここで言う奉行所は、代官領を管轄する勘定奉行所。江川代官所の上の機関です。 かねちゃんの運命は? 善吉の青春の暴走劇にどんな決着がつくのでしょう?  源次郎は荒川良々さんでどうかと・・・。 かねちゃんは「ごめんね青春!」に中井貴子役で出演中の黒島結菜さんが いいです。テレ東のドラマ24「アオイホノオ」での津田さん役も好演して ましたね。 ワタクシ、けっこうドラマ好きです。  「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村
前回まで2回に渡って愛宕山周辺と芝の「歴史散歩」ルートを書きましたが、 当日は時間の関係で廻りきれない場所がありました。 受講された方には申し訳ありませんでした。 フォロー・・・ということにはならないかもしれませんが、ご案内しきれなかった 場所や他にも面白そうな所をブログでご紹介いたします。 ちと長くなりますが、最後にマンガも用意しましたのでご覧ください。 先ずは愛宕下からです。 愛宕山の北側、愛宕通りに面して建っているのが  真言宗の寺院、 真福寺です。 老朽化などのため、建物は近代的なビルに建て替えられ、歴史ファンとしては 「・・・」なカンジなのですが、幕末エピソードはいいモノを持っています。 修好通商条約のために来航した、 オランダのクルチウス、ロシアのプチャーチン、 フランスのグロら使節の宿舎に使われたのが、この寺です。 また、愛宕神社の尊像だった勝軍地蔵は明治以降、ここに移されましたが、関東 大震災で焼失してしまったということです。 しかし、昭和9年(1934)に造られた銅製の勝軍地蔵が、敷地内に建っていて 見ることができます。 勝軍地蔵菩薩像。このように馬に乗っております。 増上寺では将軍霊廟しかご案内できませんでした。 他にも見どころはありますので、ご紹介しましょう。 三門(三解脱門)を潜ると、すぐ目の前に現れるのはこの大木。 グラント松です。写真が暗くて申し訳ないっス。 南北戦争北軍の将軍で、アメリカ合衆国第十八代大統領のグラントが明治12年 (1879)来日した際に植樹したものです。 ま、それはいいんですが、この木「グラント松」って呼ばれていますが、ヒマラヤ杉 なんだそうです。 「えっ、松じゃないじゃん!」という声が聞こえてきますが、実はヒマラヤ杉ってのが スギ科ではなくマツ科の植物なんだそうで。 なんか、ややこしいですね。 三門を背にして右の奥に行くと・・・ め組供養碑があります。 享保元年(1716)建立。増上寺門前の町火消し「め組」の殉難者・物故者の供養 のために建てられた供養碑です。 供養碑はココにありますが、増上寺はお寺なので寺社奉行の管轄。もし火事に なれば町火消しではなく、大名火消しが出動しました。 すこし奥に行くと 鐘楼堂があります。  この梵鐘は東日本最大。直径1.8m、高さ3.3m、重量は約15tもあるとか。 さすがに造るのが難しかったらしく、延宝元年(1673)7回目の鋳造でようやく 完成しました。 デカいだけあって音も大きかったのでしょう。その鐘の音は遠く木更津や熊谷までも 響いたといいます。ホントかね(鐘だけに)? 増上寺の通用門にあたる黒門の近くにあるのが 経蔵という建物です。お経を保管する倉庫ですね。 慶長10年(1605)に創建され、天和元年(1681)に改築され、この場所に移 されたのは享和2年(1802)です。 国の重要文化財である「三大蔵経」を収蔵しています。 増上寺を出て南へ進みます。 台徳院霊廟惣門の前をさらに行くとここに来ます。 芝東照宮です。 日光、久能山、上野と並んで、四大東照宮の中の一つです。 かつては家康を祀る廟として、増上寺安国殿と呼ばれていました。つまり、増上寺 の一部だったのです。しかし、明治の神仏分離令によって増上寺から分かれ、 東照宮を称しました。 この参道に 大イチョウの樹があります。  このイチョウは、寛永18年(1641)に三代将軍家光が植えたものと伝えられて います。 そしてこのイチョウのそばに一つの大きな石碑があります。 武田竹塘(ちくとう)先生顕彰碑です。 武田竹塘とは、本名・武田斐三郎という蘭学者です。 伊予大洲藩士でしたが、江戸に出て伊東玄朴や佐久間象山に学び、象山の 推薦で幕臣に取り立てられます。その後、英仏の航海・築城・造兵について 学び、後に戊辰戦争最後の舞台となる箱館の五稜郭や弁天台場を築きました。 ちょっと寄り道をして、増上寺の裏側に廻ります。 東京タワーの真下に行きましょう。芝公園四丁目交差点の交番の前の道路を タワー方面に歩いていくと、お寺が見えてまいります。  ここは 金地院。 家康、秀忠、家光と3人の将軍に政治顧問として使えた、高僧・金地院崇伝が 開いた寺院です。 幕末ファンなら、ぜひともここでお参りしたいのが・・・  天然理心流三代目 近藤周斎の墓です。 新選組局長近藤勇の父ですね。 周斎は武州多摩郡小山村(町田市)の出身。元の名を島崎周助と言います。 天然理心流二代目近藤三助の門下生となり、三助が亡くなった後に近藤姓を 継ぎました。 しかし、当時三助には高弟が何人もいて、周助が特にズバ抜けて実力が高かった というわけではなかったようです。 なのになぜ三代目を名乗ることができたのか、というのは謎とされています。 ただ、他の高弟たちが本業(千人同心など)の傍らで剣術を教えていたのに対し、 周斎は道場経営を本業としていました。つまり、剣術のプロだったんですね。 さらに、江戸、多摩地域と門人を集め、その門人らは名主などの富裕層が多く、 収入もそれなりにあったことが、三代目を名乗れる理由の一つにあったのでは ないかな・・・と思います。 再び増上寺の三門前に戻り、日比谷通りを渡ります。 通りに沿うように公園がありますが、その一角に向かい合うように二つの記念碑が 置かれています。  一つはコレ。 ペルリ提督の像。 日本開国百年を記念して、1954年にペリーの出身地であるロードアイランド州 ニューポート市から贈られたものです。なぜか「ペリー」ではなく「ペルリ」となって います。ペルリの方がちょっとカワイイ。  もう一つ、ペルリさんの首の向いにあるのは、 万延元年遣米使節 記念碑です。 万延元年(1860)1月に、日米修好通商条約の批准書交換と視察のために、 幕府は外国奉行・新見正興、村垣範正、目付・小栗忠順らをアメリカに派遣する ことを決めました。彼らはアメリカ艦ポーハタン号で太平洋を渡り、条約批准を成し とげたあと、議事堂、造船所、天文台などを視察して8ヶ月後帰国しました。 この碑は昭和35年(1960)日米修好通商条約百年を記念して、建てられました。 ただ、この視察団に先だって、幕府は「オレたちの海軍もどれだけやれるか力を 見せてやろうゼ!」ということで、 オランダ艦の咸臨丸を日本人クルーで操縦させ 、見事太平洋横断に成功させます。結果的にこっちの方が、後世有名になっちゃいました。 このまま浜松町駅まで歩いていきます。 途中に 廣度院という寺院があります。 増上寺の子院がこの辺りには、当時たくさんありました。  このお寺の塀が 練塀といって、芯柱を用いずに、土と瓦を交互に積み上げていく 構造をしています。現在は使われない工法だそうで・・・まぁ、耐震的にヤバそうですし。 でも江戸時代当時はこういう練塀が、ズラリと続いていたのでしょうね。 廣度院の向かい側には、 安養院というお寺。  こちらは明治11年(1878)に発足した、芝区の芝区役所が最初に置かれた ところです。 でも、幕末的なポイントはそこじゃありません。  こちらは海援隊二代目隊長を務めた 長岡健吉の墓です。 長岡健吉は土佐藩医師の家に生まれますが、修行先の長崎で坂本龍馬に出会い ます。海援隊では通信文書の作成など事務処理を一手に受け持ち、龍馬からの 信頼は大きかったといいます。 龍馬が後藤象二郎に示した「船中八策」を成文化したのが、長岡です。 龍馬が亡くなったあと、慶応4年(1868)4月からは海援隊の隊長を務めました。 このお寺は土佐藩関係者のお墓が多くて、こんな方々のお墓もあります。 高知藩留学候補生の墓。 明治2年(1869)土佐藩は、5人の若者を留学生として西洋に派遣することを決め ました。しかし、その中の4人が遊郭に遊びに出かけたところ、警備中の金沢藩士と ケンカになり、数名を殺傷してしまいます。これが藩同志の遺恨にならぬよう、4人は 藩命により切腹させられてしまいました。 このお墓はその4人の留学候補生のお墓です。手前から2つめの墓石は震災の ためにふたつに割れてしまっています。 大門の交差点を超えて、少し横道に入ります。 芝大神宮があります。 江戸時代は「飯倉神明」「芝神明」と呼ばれていました。 文化2年(1805)この神社の境内で行われた勧進相撲が原因で、相撲取りと 火消しの鳶衆が大ゲンカとなりました。これが、歌舞伎にも取り上げられた め組の喧嘩です。 このお芝居の正式な名題(題名)は 「神明恵和合取組」といいます。 読み方は 「かみのめぐみわごうのとりくみ」。歌舞伎の名題って分かり難いね。  境内には、こんな石碑も建てられています。 このお芝居はいかにも江戸っ子らしい喧嘩がテーマの世話物芝居ですが、 脚本が書かれたのは明治23年(1890)のこと。河竹黙阿弥が明治5年 (1872)に先行して書いた脚本をベースに、弟子の竹柴其水が完成させ ました。 このまま真っ直ぐ歩いていけば浜松町駅ですが、駅手前を新橋方面に少し 歩いていくと港区立神明小学校・幼稚園があります。  この構内に 福沢・近藤両翁学塾跡の碑があります。 慶応4年(1868)に福沢諭吉がこの地に慶應義塾をつくります。そして明治4年 (1871)慶応義塾が三田に移ると、福沢は教育者仲間の近藤真琴にこの地を 譲り、近藤がそこにつくったのが攻玉社でした。 つまり、この場所が慶応義塾、攻玉社、両学校発祥の地となります。 攻玉社は当時、海軍士官になるための予備校のような学校で、卒業生から15人 の海軍大将を輩出し、うち4人が連合艦隊司令長官になっています。 浜松町駅のガードを潜ると、新橋寄りの一帯は再開発のため大きな工事が行われて います。すでにマンションや複合ビル、公園など整備されている場所もありますが、 この場所が 江川太郎左衛門調練場跡です。  この場所はかつて、寛永通宝の鋳造所があったことから「新銭座」と呼ばれました。 江川家第三十六代当主の 江川英龍は、海防策や農兵の建議、洋式軍隊の訓練 などで幕府に貢献します。彼の死後、その功績を讃えて息子の三十七代当主英敏 に与えられたのが、この調練場です。 8217坪の敷地は海にも面していたので、小銃はもちろん、大砲の実弾射撃まで できたといいます。 門下生は幕臣に限らず、諸藩からの若者も多く3700人を超えました。その中には 井上馨、黒田清隆、大山巌といった維新の大物もいました。 ただ、現在は案内板の一つも置かれていないというのは、寂しい限りです。 というワケで、「江戸散歩 愛宕山・芝編」を番外編まで含めてお送りしました。 一か所でも気になった場所があれば、またゆっくりと廻ってみてください。 いつもコメントをいただいている東屋梢風さんから以前に、周斎先生は妻が9人に 妾が7人もいたという話を聞きまして・・・。そんな人なら、きっとこんなことも言いそう だなぁ・・・と。 周斎先生が映画やドラマで扱われたのって、ワタクシは大河ドラマ「新選組!」の 田中邦衛さんしか記憶にないのですが、他にどなたか演じられましたか? 邦衛さんは、けっこう周斎先生のキャラにハマっていると思います。 ・・・あくまでも「五郎」じゃなく、「青大将」の方向で。  「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村
前回からの続きです。 青松寺を出て、愛宕通りをさらに南に進みます。 御成門小学校前の交差点を渡りたいのですが、横断歩道がありません。 歩道橋で大きく迂回しないと、道路を渡れないのです。 「不便だな~」とは思いますが、たぶん交通量の多い所なので小学生の 安全に配慮して、このようになっているのでしょうね。 そうであれば仕方がない。おっさんたちも歩道橋で上り下りします。 道路を渡ってしばらく歩くと右側にあるのが 安蓮社です。 増上寺の別当寺院だった所ですが、現在は近代的な建物になっているので、 つい見逃してしまいます。山門らしきものもない。 しかし、塀で囲まれた墓域に一歩足を踏み入れると、ビックリいたします。  ズラリと並んだ無縫塔(卵塔)の数々! それもまたみんな、どれもこれもやたらとデカい! ここは増上寺の歴代の僧侶方の墓地となっています。もちろん他の方のお墓も あるのですが、半分以上は無縫塔で埋め尽くされており、圧倒されます。 入口に一番近い場所には 普光観智国師という増上寺12世で、増上寺中興の祖と 云われる方のお墓がありますが、これが最も大きい無縫塔です。 この方が住持在任中に、増上寺は徳川家の菩提寺となりましたから、当然ですか。 しかし、安蓮社での幕末散策メインディッシュはこちらになります、奥さま。 海陸軍士戦死之墓。 慶応2年(1866)6月から始まった第二次長州征伐における、幕府軍戦死者の 墓碑です。 幕府はこの戦いで薩摩を頼りにしていたのですが、すでに薩摩は藩の方針を 反幕に切り替えて長州と同盟を結んでいたため幕府に協力せず、幕府は各地で 負け戦となってしまいました。 碑の側面には幕府戦死者の名前、台座にも苗字のない夫卒たちの名前が、そし て背面には勝海舟の追悼文が刻まれています。 戦死者の葬儀は慶応2年11月25日に増上寺で行われました。大僧正ほか300 名もの僧侶が読経し、幕府陸軍・関係者10000人余りが参列したそうです。 葬儀といい、このモニュメントといい、幕府が幕府のために戦って散っていった者 たちのためにできた、最後の大セレモニーでした。 安蓮社を出て愛宕通りの突当りを御成門駅の方向に歩きます。 すぐ左手に港区立みなと図書館があります。その入口を過ぎた辺りの下を注目 してください。お金が落ちています・・・ではなく、  何の変哲もない四角い石が置かれています。が、ただの石じゃありません。 品川台場の石垣石です。 伊豆韮山の代官であり、海防・砲術の戦略家でもあった 江川太郎左衛門英龍の 建議によって、台場は造られました。 全部で11の台場を造る予定がありましたが、財政難のため完成したのは第一、 第二、第三、第五、第六台場の5つだけでした。 現在、第三、第六台場だけが保存されており、他は取り壊されています。 この石は第五台場の石垣に使われていた石で、伊豆周辺の安山岩だそうです。 みなと図書館と道路を挟んだ真向いにあるのは 御成門です。 増上寺の裏門として造られましたが、将軍が参内するときに使われたためこう 呼ばれました。元々は御成門交差点の辺りにありましたが、道路計画のために 現在はプリンスホテルの敷地内に移動しています。 御成門交差点を右折(南方向)すると、プリンスホテル敷地内にもう一つ大きい 門が見えてきます。  左右に広目天と多聞天を配置した 二天門。 この二天門の後ろ、プリンスホテルの敷地は昔、増上寺の一部で北廟と云われて いました。そこには徳川将軍第六代家宣、第七代家継、第九代家重、第十二代 家慶、第十四代家茂の各将軍と正室たちのお墓があったのです。 この二天門は有章院(七代家継)霊廟の惣門だった門です。 増上寺の木造建築物は、空襲でほぼ全て焼けてしまいましたが、この門は奇跡的に 類焼を免れたうちの一つです。 神谷町を13時にスタートした我々ですが、この時点で15時をかなりまわってしまい ました。このコースは見どころが多い上、歩道橋を含めてアップダウンが激しい行程 なので、どうしても時間が取られます。 ワタクシの話が長いせいもあるだろって? ・・・うん。それも否定できません・・・。 で、ようやく 増上寺。  カメラのフレームに入りきらない、こちらの門は 三解脱門。 現在は増上寺の惣門ですが、元々はこの外側にある大門から寺の敷地だった ので、この門は中門にあたります。 増上寺の敷地は、江戸時代から比べるとだいぶ縮小されてますが、それでも 広くて見どころはたくさんあります。でも、今回は時間がないこともあって、ココ に一極集中してご案内することにします。 徳川将軍家霊廟!!(BGMは「水戸黄門」オープニングのジャ~~ンでお願いします) 増上寺には先ほど挙げた5人の将軍のほか、南廟に第二代将軍秀忠と その正室(お江の方)の霊廟がありました。 戦後、それらの方々のお墓を一か所にまとめ、現在の増上寺境内に改葬 してあります。 普段は外部の人は立ち入ることができません。年に数回、公開日があるだけ なので、見学したい場合はその日に行くしかありません。 ところが、今年は何かの記念年にあたるのでしょうか? 毎土日と祝日に一般公開されているのです! こりゃ、見るしかないでしょう! ただ、将軍家霊廟は16時で閉まってしまうため、すでに15時半に霊廟についた 我々としては、ワタクシが説明をするのは3つのお墓だけにして、後はご自由に 見ていただくことにさせていただきました。 二代将軍秀忠(台徳院)と お江の方(崇源院)の墓です。 このお二人は幕末に関係しませんが、ドラマにもなりましたので、みなさんに 馴染みも多いのではないでしょうか。 秀忠の墓は木造宝塔でした。その墓を覆う霊廟も含め戦前まで国宝に指定されて いましたが、空襲で焼失。なんたって木造ですから。 で、改葬されるにあたって、正室であるお江の方の宝塔に合葬されることになり ました。ということで、このお墓は元々はお江の方のものです。 まぁ、お江の方は 「あンた、側室なんてつくったらボコるよ」ってくらい秀忠さんを 束縛してましたから、彼女的には満足してる形ではないでしょうか。  そしてこちらです。右が 十四代将軍家茂(昭徳院)、左が正室 和宮(静寛院)の墓です。 南北霊廟がこちらの場所に改葬される際、将軍の墓以外の宝塔は全て廃棄され、遺骨は 合葬されました。しかし、和宮の宝塔だけは残され、今に至っています。これは彼女が 皇女であり、明治天皇の叔母にあたるためだと思われます。当時(改葬は昭和33年)の 宮内庁から要請があったのでしょうね。 和宮の遺骨は最初京都に返されるはずでしたが、本人の強い希望で徳川家の墓域に 眠ることになったのは有名な話です。 現在、二人の墓は写真のように仲良く並んでありますが、改葬前の北廟時代も二人の 墓は並んで建っていました。実はこれって、とても例外的なコトなのです。 通常将軍の墓は地面から一段高い場所に建てられ、正室や家族の墓は将軍よりも低い 場所に建てられます。しかし、和宮の墓は家茂と同じ一段高い場所に建てられました。 さらに、二人の宝塔墓の材質に注目してください。 家茂の墓は石造りですが、和宮のは青銅製なのがおわかりでしょうか? 代々の将軍の宝塔墓は二代秀忠の木造墓を除いては、六代将軍家宣まで青銅製でした。 しかし享保の改革でおなじみの八代将軍吉宗が 「お墓にそんなお金かけることなんか ねーぜッ、経費節減だぜベイベー!」つって、七代家継以降の宝塔墓は石造りとして しまったんです。当然、将軍の家族のお墓だって石造りです。 しかし、和宮は皇女。しかも彼女が亡くなったのは明治10年(1877)です。政府 の意向として明治天皇に繋がる皇族の権威を強めたいという狙いがあったのでしょう。 和宮の墓が青銅製なのも、家茂と同列の場所に建てられたのもそのためでしょう。 増上寺には、和宮に関するものがまだありますので、そちらもご紹介します。 安国殿に置かれている 和宮像。等身大だそうです。 これは昭和11年(1936)に神戸の中村直吉という人が寄贈したものだそうです。 作者は三代目慶寺円長。昔よく小学校の校庭にあった二宮金次郎像の元を造った 人です。 中村さんは和宮を「日本女性の鑑である!」ってリスペクトしていたそうで、同じ 像が日本女子会館の社会教育事務室って所にもあるそうですが、ワタクシはまだ 見たことがありません。 ネットで調べると、直吉さんは神戸の3つの女学校にも和宮像を寄贈したそうです。  もう一つがこちら。 貞恭庵、和宮ゆかりの茶室です。 昭和55年(1980)に移築・改修されたものですが、江戸城にあったものではない ようです。和宮は維新後、京都や東京麻布に住んでいたので、そちらにあったもの でしょう。 こちら通常は一般非公開ですが、ときどきお茶会の催しをしているそうで、それに 申し込めば中で見学をしながら、お茶がいただけるようです。 ふだん「十六茶」しか飲まないワタクシには敷居が高いですが、とても興味があり ますね。 増上寺は他にも見どころが多いので、お時間があれば行ってみれれることをオススメ いたします。 特に12月いっぱいまでの土日・祝日は将軍霊廟が見られますから、チャンスです。 料金は500円かかりますが、霊廟の古写真絵ハガキ付きです。この中には国宝だった 秀忠の木造宝塔墓と霊廟の写真も入ってます。 増上寺を出て日比谷通りを少し南に行くと、また大きな門が現れます。 台徳院霊廟惣門です。 この奥に、かつては二代将軍秀忠の霊廟がありました。 一般的なイメージだと、初代家康と三代家光に挟まれて、秀忠さんは地味だし凡庸な タイプと思われがちですが、増上寺に墓のある将軍の中で、江戸時代を通じて秀忠さん だけが一人で南廟を独占しているんですよね。 このことから、草創期の将軍として、秀忠さんはかなり尊敬を集めて特別扱いをされて いたんだろうなぁ、と想像ができます。 こちらも類焼を免れ、国指定重要文化財。門を潜って奥に見える階段を上っていくと、 霊廟水路の跡が一部復元されています。 さて、「江戸散歩」のルートはこのあと芝東照宮や芝大神宮などを巡る予定でしたが、 この時点ですでに予定時間を30分オーバー。 ということで、増上寺前で終了となりました。 希望者の方々には、浜松町駅まで寄り道しながらご案内しましたが・・・。 時間通りに進められず、ご参加の方には大変失礼いたしました。 では、最後にもう一枚。  ジャンケンで負けた方が馬に。  ワタクシは本人だったと思いますがね。 この日に廻りきれなかった場所は、次回のブログでご紹介します。  「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村
| HOME |
|