
築地本願寺・・・いつ見てもエキゾチックですねぇ。
この外観は古代インド仏教様式らしいです。昭和9年(1934)に建てられて、
平成23年(2011)に登録有形文化財になりました。
今回の講演は1部と2部に分かれていました。今年は親鸞聖人が関東に伝道
に来られてから800年という区切りの年だそうで、1部では東京文化財研究所
の先生が親鸞の鎌倉で活動していたことを、史料から読み解いて解説されて
いました。
正直言いまして、ワタクシこの辺りの時代のコトはよくわかりません、です。
スミマセン・・・。
で、休憩を挟んで第2部です。
発見された史料は本願寺が記録していた
「諸日記」という記録の中に書かれて
いた記録です。この実物がホールに展示してありましたが、撮影不可でした。
研究員の方の話によると、この諸日記は日々の記録や雑記を、ある程度
まとめてから書いたものだそうで、まぁ、「里正日誌」とスタイルは似たモノの
ようです。

「諸日記」の慶応元年6月25日のところに、土方さんから本願寺に出された
書状の写しがあったのです。
内容は、
新選組が25日に寺側に要求を出して、それはとても無理な願いだった
のだけど、寺側は了承してくれて、尚且つ翌日から実行してくれるとのこと。
とてもありいがたい・・・というようなことです。
新選組が出した要求は何だったのか?
それは、翌26日の記載に出ていました。
新選組が借りている北集会所は広い所ではあるけれど、隊士の人数が多く、
隊士一人につき一畳の割り当てしかない。しかもこの暑さ(慶応元年6月は現在の
8月に当たる)で我慢できる状態ではなく、病人が出て公用にも支障がある。
局中から申し立てが出ていて、幹部が制止できる状態ではない。
そこで阿弥陀堂のうち、50畳ほどの場所を使わせてもらえないだろうか?これが、トシさんの言ってきた要求でした。
当時、新選組隊士は200人程だったといいます。
隊が使用していた北集会所は、現在姫路市の本徳寺に移築されていますが、その
畳の数は「外陣」という一般に立ち入れる場所で200畳だそうです。
ということは、一人一畳しかスペースがなかった、というのは真実のようです。
また、幕府から医師の松本良順が派遣されて、隊内に病人が多くいたことに驚き
診察をしたということは、よく知られています。
しかし、阿弥陀堂は寺の施設の中でも、最も重要な場所の一つ。寺としては、屯所
に使わせるわけにはいきません。
そこで本願寺は、
北集会所をリフォームして風通しを良くし、板の間に畳を敷いて
場所を広げる提案をします。これにトシさんも了承し、早速寺はその工事に入ったという流れになるようです。
新選組が西本願寺に滞在していたのは慶応元年3月から慶応3年(1867)6月
までですが、講師の大喜先生によれば、この間の隊内の様子について注目したい
そうです。
実はこの頃、隊内では規律違反や脱走によって粛清される隊士が、かなり出て
きています。それは、なぜか?
元治元年(1864)に英仏米蘭四か国が下関を攻撃する事件が発生しますが、これ
により幕府は攘夷を完全に放棄します。幕府が攘夷を放棄したということは、近藤
や土方もそれに従わねばなりません。
新選組は結成以来、尊王攘夷を訴えて活動してきました。当然、入隊してくる者たち
もこの考えのもとにやって来たはずです。
この隊内の基本方針の転換から、幹部と隊士たちの間が一枚岩でなくなり、結果と
して規律が乱れ、粛清される者が増えてきたのではないか、というのが先生の見方
です。
加えて、畳一畳しか割り当てられない劣悪な環境。
トシさんが本願寺に
「局中から申し立てが出て、制止できる状態ではない」と言って
きたのは、大袈裟なことではなく、当時新選組は維持していくのに非常に危機的な
状態であり、今回の史料はそれを裏付けるというのが先生の話でした。
トシさんも寺で重要な阿弥陀堂を貸してくれとは本気では思っておらず、しかしそう
まで言えば、本願寺も何とか対処してくれるだろうという考えだったのではないか。
確かに商売経験のあるトシさんなら、これぐらいの駆け引きは得意だったでしょう。
さらに大喜先生は興味深いことも仰っていました。
従来、新選組が西本願寺を屯所としたのは、西本願寺が長州寄りであったため、
その内情を探る目的もあったからだと云われていました。
しかし、そうではないのでは、と言うのです。
前年(元治元年)7月の蛤御門の変により京都の大きな建物は焼失していました。
新選組隊士を収容できるのは、西本願寺くらいしか残っていませんでした。
さらに、松本良順が診察したときに隊士の1/3が病人だったと云いますが、壬生を
出る時点でも同じ状況だったとすれば、長い距離の移動は困難です。
西本願寺は壬生から1kmしか離れていないそうで(ワタクシ未確認;)、都合がいい。
つまり、近距離で燃え残っていた物件という理由で西本願寺が屯所に選ばれたの
ではないか、というのです。
政治的な意味合いは後から付け足されたもので、引っ越しのしやすさで新屯所を
決めたというのは案外ありそうな話です。病人の多さなどで近藤さんやトシさんが頭を
痛めていたとすれば、今回の史料も含め新選組が当時抱えていた問題点が浮かんで
くるようで興味深いですね。
という内容の今回の史料公開講座でした。
講座の内容もさることながら、講師の大喜先生の話も面白くてアッという間の1時間
でした。
「西本願寺は新選組が大嫌いなんですけど、こうやって新選組の話をすると大勢の
方が聞きにきてくれるんですから、今は大好きです。」
「大河ドラマで新選組をやったとき、中村勘太郎(当時)さんたちに太鼓楼の太鼓を
打たせてあげてましたからね。いいのかなと思いましたけど、本願寺は新選組が
好きになりましたね。」以上、大喜先生語録でした。
また、ぜひ新史料を引っ提げて講演をお願いいたします。
ところで。
今回の講演のタイトル「土方歳三のゆ・う・う・つ」
「憂鬱」を仮名にして一文字づつテンを入れるというのは、ワタクシの敬愛する
ジュリーこと沢田研二様の往年のヒット曲「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」を思い出させます。
も、もしや大喜先生、ジュリーファン・・・???

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


にほんブログ村
にほんブログ村