今回は番外編と新選組マンガでお送りします。
都内にある文京学院大学に、「生涯学習センター」という施設があります。
ここでは、一般社会人向けに生涯学習の講座をいろいろと用意しているのですが、
そこで講師をしないか、とのお話をいただきました。
というのも、ワタクシ
「江戸文化歴史検定」の1級を取得しているのですが、この
江戸検協会と大学が提携しておりまして、1級取得者に江戸文化や歴史を語って
もらおうということなのです。
まぁ、講師といってもそんなスゴイものではなく、都内の史跡を巡って江戸の歴史を
勉強&楽しもう!というライトなものです。
講座のタイトルも
「江戸検1級合格者と巡る江戸散歩」。
ね、お手軽なカンジでしょ。
で、先日、その江戸散歩の講座をしてきましたので、今回はその巡ったルートを
ご案内いたします。
今回廻ったのは、港区の
愛宕山と芝です。
特にワタクシの希望で、幕末の史跡を中心に廻らせていただきました。
興味のある方は史跡散策のご参考に。それから講座に参加された方でこのブログを
ご覧になっている方は、当日を思い出しながら見てください。


スタートは地下鉄日比谷線の神谷町駅。桜田通りに面した場所で、虎ノ門から南に
約1kmの場所。愛宕山の西側です。
午後1時出発。全行程3時間の予定ですから、けっこう忙しい移動になります。
最初に向かうのは・・・
栄閑院。浄土宗のお寺です。
この近くにある天徳寺というお寺の塔頭(たっちゅう)として寛永年間(1624~43)
に建てられました。塔頭とは、高僧が引退した後の住んだ子院のこと。
このお寺は別名
猿寺とも言います。
これは寛永の頃、猿回しに化けた盗賊がこの寺に押し入ったけれども、住職の言葉
に改心して諸国行脚の旅に出たんだそうです。で、そのとき一緒に連れていけない
からと相棒の猿をこの寺に置いていきました。この猿がナイナイの岡村さんバリの
芸達者で人気者になったからと云います。

なのでホラ、お寺のあちこちにお猿が・・・。
でも、この寺が有名なのは猿だけではありません。

それがこちら。
杉田玄白の墓でございます。
江戸時代の有名な蘭学者・蘭方医ですね。明和8年(1771)に小塚原で腑分けを
して、前野良沢や桂川甫周らと「解体新書」を著しました。
玄白は直接幕末には関係ありませんが、この人の孫・杉田成卿(せいけい)は、
「八重の桜」主人公の新島八重の最初の夫・川崎庄尚之助の蘭学の先生だった
そうです。
栄閑院のすぐそばにあるのが
天徳寺です。栄閑院はココの子院だったんだから、近いのは当然。
元々は天文2年(1533)に江戸城の紅葉山あたりに開創しました。浄土宗江戸四ヶ寺
の一つに数えられるほど、当時は大きなお寺でした。
安政6年(1859)にロシア使節のムラヴィヨフと幕府側の外国事務掛の遠藤胤統・
酒井忠毘が国境問題をココで話し合いました。
ムラヴィヨフは軍事力を背景にサハリン全土をロシア領と主張しますが、遠藤・酒井
の両人はこれを断固拒否。国境問題は明治維新まで持ち越されました。
こちらには大名家の墓が3つあります。

そのうちの2つをご紹介しましょう。
武蔵川越6万石の
松井(松平)家の墓と、三河西尾6万石の
大給(松平)家の墓です。
どちらも家康以前から松平家に仕えていた譜代の大名です。
幕末に関連して言うと、松井家は、慶応4年(1868)彰義隊から分離した渋沢成一郎
率いる
振武軍が飯能に入ると、新政府から討伐を命じられています。
大給(おぎゅう)家は乗完・乗寛・乗全と江戸後期に3代続けて老中に就任しました。
乗全(のりやす)は安政の大獄で、大老の井伊直弼を補佐しています。
ちなみに、もう一つの大名墓は美濃今尾3万石、竹腰家です。
天徳寺には他にも江戸中期の儒学者・篆刻家・画家だった
高芙蓉(こうふよう)の墓
などもありますが、もう一つ注目していただきたいのが、コレ!
弥陀種子板碑(みだしゅじいたび)です。
板碑とは中世の石造塔婆のことで、関東で多く見られます。その地域の有力者が
現世や来世の安楽を願うために建立したものです。碑の真ん中に梵字があります
が、これを
種子といいます。
板碑には建てられた年号が刻まれていることが多く、文献の少ない中世の東国では
貴重な史料となるのです。天徳寺の板碑には「永仁六年七月日」(1298)とあります。
天徳寺を出て、いよいよ
愛宕山に登ります。愛宕山の西側からトンネルを抜け
るとエレベーターがあるので、一気に上まで登れます。
愛宕山は海抜26m、今では周囲に高いビルが立ち並んでいますが、江戸時代は
房総半島まで見渡せたといいます。
山頂には
NHK放送博物館がありますが、大正14年7月からのラジオ本放送はココ
からスタートしたのです。

こちらが
愛宕神社。家康が慶長8年(1603)に幕府を開くにあたり、防火・
防災の守り神として創建されました。家康が信仰していた勝軍地蔵菩薩に関ヶ原
の戦いの勝利を祈願した場所なので、ここに社殿を建てたそうです。
愛宕神社は万延元年(1860)3月3日の大老・井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」
に参加した水戸浪士らが、当日の朝集合した場所としても知られます。
この事件は、時の政府の要人が暗殺されたテロです。
しかし、後に反幕勢力が明治政府を作ったため、幕府要人を暗殺したテロ行為も
正当手段として扱われ、ここに顕彰碑が建てられているのです。
桜田烈士愛宕山遺蹟碑です。
愛宕山の名物といえば、こちらでしょう。

愛宕通りから山頂に続く急な石段。これは「男坂」と呼ばれ、86段、40度の急勾配
です。向かって右側には109段ですが、勾配の緩やかな「女坂」もあります。

男坂を上から見ると、こんなかんじ。メチャ、怖えェっス・・・!
ワタクシ高所恐怖症なもんで、手摺りにつかまりながらじゃないと、降りられません。
しかし、この急勾配の石段を馬で駆け上がり、将軍家光の求めた梅の枝を1本折って
献上したと云われるのが
曲垣平九郎。
この武勇によって平九郎はご褒美と名声を得たので、この石段は「出世の石段」と
呼ばれるようになったと云います。
でも、この話は不自然な部分が多く、講釈師によるフィクションの可能性が高いようです。

境内には、こんな梅の樹もあるんですが・・・。
愛宕山を降りて、愛宕通りを南へ進みます。

見えてきたのは、曹洞宗の寺院
青松寺。
江戸曹洞三ヶ寺の一つに数えられた大寺院です。かつては安芸浅野家、長州毛利家、
土佐山内家などの菩提寺でもありました。
こちらでぜひ見ていただきたいのが、

この自然石を利用した石碑です。こちら
請西藩林家旧臣供養碑。
請西(じょうざい)藩林家は上総木更津にあった1万石の小さな藩です。
鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府は新政府に江戸城を明け渡しますが、藩主・林忠崇
は佐幕を貫き抵抗を続けます。
その時に徳川家や藩に迷惑がかかるのを避けるため、なんと
藩主の忠崇自らが脱藩してしまうのです。そして志願兵らと各地を転戦しますが、次第に兵も少なくなり、つい
には仙台で降伏しました。
新政府は忠崇の行動を許さず、
請西藩は戊辰戦争で唯一の改易となってしまいまし
た。
この碑は、最後まで藩主・忠崇に付き従い旧幕府に殉じた藩士たちの供養碑です。
林家は松平家の始祖・松平親氏の代から仕えていた譜代の家柄でした。家康は親氏
から数えて9代目当主ですから、相当長い繋がりですよね。
親氏の家臣だった林光政が兎の吸い物を出したことから、松平家の武運が開けたと
云います。
そのため、徳川将軍家では毎年元旦に兎の吸い物を食べるのが恒例となっていました。
この吸い物は林家当主が用意し、将軍から下げられた膳は林家から順に老中、若年寄
と渡されていきました。
請西藩は1万石という小さな藩ですが、林家は徳川将軍家に特に強い思い入れがあった
のでしょうね。
さて、青松寺でとても興味深いのは、佐幕を貫いた請西藩の供養碑のすぐそば、5~6
mも離れていないところに・・・

長州藩の戊辰戦争で亡くなった兵士の供養碑があることです。
碑には
旧山口藩出身御親兵死没者合祀之碑と
あります。明治22年(1889)に合葬された供養碑です。
戊辰戦争で敵同士だった二つの藩の供養碑が、並んで建っているというのは
なかなか興味深いと思いませんか。
これも青松寺がかつて大寺院で、多くの大名の菩提寺だったからでしょう。
請西藩林家も、長州藩毛利家もここが菩提寺でした。
長くなりましたので、後半の芝は次回!
安富才助は新選組の諸士調役兼監察、馬術師範だった隊士です。
チャンスがあったら、愛宕山の石段駆け上がりにトライして成功させたでしょうか?
ところで、曲垣平九郎の他にも愛宕山の石段駆け上がりに馬で挑戦し、成功させた人は
他にも何人かいるようです。ハッキリ事実がわかっている人として、明治15年
(1882)の石川清馬氏、大正14年(1925)の岩木利夫氏、昭和57年
(1982)の渡辺隆馬氏の3人が上げられます。
岩木さんは陸軍の職員で、その挑戦の模様はラジオで生中継されました。登りは1分で
駆け上がったものの、下りは25分もかかったということです。
渡辺さんはスタントマンで、「史実に挑戦」というテレビ番組の中で成功させました。
でも、コレって、馬がスゴイってことでもあるよね。

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幕末のハグレ者・・・といえば、尊王攘夷の思想に駆られた脱藩浪士と勝手に決めて
しまいがちですが、世の中そんなに上昇志向のある人間ばかりではありません。
ハグレ、というよりもグレてドロップアウトしていく者も多くいたわけで、社会情勢が
不安定な中、農村ではそんな若者も多かったのではないでしょうか。
詐欺まがいの事件を起こしたものの、村人たちの熱心な働きかけでなんとか村
にも復帰できるようになった(と思われる)蔵敷村の由五郎。
「恐れながら書付をもって願い上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷村 無宿 由五郎
右の者は、先般お召し捕りになり御吟味の上、御見様を村預けに仰せ付けられました
ところ、追々改心し農業に精を出し仕るにつき、何とぞ御慈悲をもって、村御預けを
御免くだされ置きますよう、ひとえに願い上げ奉ります。以上。
江川太郎左衛門御代官所
武州多摩郡蔵敷村 名主 杢左衛門
万延元酉年2月20日
関東取締御出役 駒崎清五郎様 」身分は無宿のままのようですが、村をあげて由五郎を村に預けてもらえるように
杢左衛門さんらは願い出ています。
年号が万延元年となっていますが、「酉」とありますので文久元年の間違いでしょう。
由五郎はその後、改心したのでしょうか?
願い書が出されてから1ヶ月も経たぬうち、大変なことが起きてしまいます。
「恐れながら書付をもってお伺い申し上げ奉ります
武州入間郡所沢村組合におります多摩郡蔵敷村の小惣代、名主の木左衛門が
申し上げ奉ります。
私の村方の無宿由五郎ですが、どのような風聞が立っているかお聞きになり、
先頃、御廻村先において御召し捕りになり、そのときに私どもが御吟味の上で罷り
出ました。
右由五郎の身分は村役人・親類たちへお預けと仰せつけられましたので、去る12月
中に同郡中藤村の親類である百姓吉右衛門方へ差し遣わして、農業に精を出すよう
に仕置きいたしました。
ところが、去る3月14日頃、御火方(火付け盗賊改方)福田
嘉右衛門様御手先の者に、農業の仕事先でお召し捕りになってしまいました。
右中藤村吉右衛門より沙汰がありましたが、そのとき私は出府中で、このたび帰宅
して驚き、早々に中藤村村役人へお召し捕りの始末を尋ねました。
すると、御手先の者の名前を失念したが、召し捕り状を持っていると申し聞きました。
しかし、手帳だけを見せ御下知書は見せないと申します。場所書きは差し出しましたが、
所持品一切はないとのことなので、このことを申し上げ奉ります。
どのようにすべきでしょうか。取り計らい方を恐れながら書付をもってお伺い奉ります。
何とぞ御下知を願い上げ奉ります。以上。
江川太郎左衛門御代官所
武州多摩郡蔵敷村 小惣代 名主 杢左衛門
酉4月8日
関東取締御出役 駒崎清五郎様 」 さぁ、エライことになってしまいました!
由五郎は無宿扱いのままだったようですが、中藤村(武蔵村山市)の親類に預けられて
更生させられていました。ところが、火盗改めの役人に捕まってしまったといいます。
火盗改めは、「鬼平」でもおなじみの凶悪犯専門の捜査組織です。
鬼平の長谷川平蔵は小説やドラマでは、なかなか人情味のある長官として描かれて
いますが、本来火盗改めは荒っぽい集団で、他のドラマ・小説では悪役として描かれる
ことも多いですね。
というのも、町奉行所の与力・同心らは「役方」といって、本来は事務系公務員です。
今風にいうなら都庁の職員が警察官も兼ねているといった具合。
しかし火盗改めは「番方」といって、幕府の編成上は軍隊なのです。ですからココの与力
・同心は軍人です。町方役人より荒っぽいのはこのような違いがあるからです。
そんな火盗改めに捕まってしまうとは、由五郎ナニをやらかしたのでしょうか?
もっとも、書状の後半で、この逮捕に不自然な箇所も見られるような感じもします。
杢左衛門さんは火盗改めに、由五郎の口上書きを提出しましたが、そこには由五郎の
過去が明かされていました。
「恐れながら口上書きをもって申し上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷村の百姓長左衛門ですが、高2石あまりの土地を持ち、家族4人で
暮らしております。13年前の嘉永2年(1849)に、江戸本所吉岡町1丁目建具屋
清太郎の子由五郎が、7歳のとき親知らず音信不通となったので話し合い、長左衛門の
実子同様に貰い受け養育いたしました。
成人になるに従い農業無精になり、度々意見を差加えましたが更に取り合わず、身持ち
の悪さも増長し、追々よろしくない風聞も立つようになったので、後で災難が起きることも
考えられましたので、去年7月中に支配役所へ訴え上げ、勘当帳外しになりました。
そんなところ、同年10月中、関東御取締御出役の駒崎清五郎様が御廻村先で由五郎を
お召し捕りになりました。
同11月中に、甲州道中府中宿の御用先で御吟味の上、右由五郎の身柄は村役人・親類
預けと仰せ付けられました。
そこで、同郡中藤村の親類で百姓の吉右衛門方に差し遣わして、農業に精を出すように
させました。今年の2月中にそのことを申し上げ、村預け御免になりましてございます。
当年19歳になりまして、右に申し上げました通り違いはございません。以上
江川太郎左衛門御代官所
武州多摩郡蔵敷村 名主 杢左衛門
酉(文久元年)4月9日
火付盗賊御改 黒澤正助様御組 福田嘉右衛門様 」由五郎は江戸本所に住む建具屋の子供でした。
それが7歳のとき、親がいなくなったため、蔵敷村の長左衛門が引き取って実子同様に
育てた、ということのようです。
以前の書状には、由五郎は傳蔵の養子とありましたので、今回の書状の養父にあたる
長左衛門とは名前が異なるのが不思議なのですが、由五郎の年齢や時系列が同じ
なので、この書状に書かれている由五郎は前回までの由五郎と同一人物と見て間違い
ないでしょう。
長左衛門さんからも、由五郎身分についての上申書が出されています。
「恐れながら書付をもって申し上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷村の百姓長左衛門が申し上げ奉ります。私の倅、由五郎の身分を
お尋ねとのことで、左に申し上げ奉ります。
この度の前書の由五郎は、今年19歳になり、私の倅に相違ございません。母が存命中
だった幼年の頃より手元で成長いたし、農業の手伝いなどをして罷り在りましたところ、
追々身持ちがよろしくなくなり、様々に意見を差加えましたが取りあうこともなく、その上
去る万延元年3月に家出して行方知れずとなりました。
殊に出先において宜しくない風聞もあり、将来も見届け難いと思い、親類・組合一同
相談の久離勘当させていただきたく、同年7月中に支配役所へ訴え申し上げ
ましたところ、その節願いの通り申し付けられ、村方人別帳から除きましたものでござい
ます。
右お尋ねにつき申し上げ奉ります通り、相違ないことでございます。
江川太郎左衛門御代官所
武州多摩郡蔵敷村 百姓 長左衛門
差添え 名主 杢左衛門
文久元酉年4月10日
火付盗賊御改 黒澤正助様御組 福田嘉右衛門様 」、久離とは失踪や非行などを起こした子供、甥、弟子などに対して、身内の目上である
親、叔父、師匠などが絶縁することを言います。
由五郎は父親が失踪するかなにかでいなくなり、長左衛門さんに引き取られたよう
ですね。つまり、「家を継ぐ」などの理由で望まれて養子に入ったのではなく、言葉は
悪いかもしれませんが「拾われた」という性格のものだったようです。
由五郎が火盗改に捕まった罪は何なのかわかりませんが、彼がグレはじめた理由は
なんとなく想像ができたような気がします。
青少年の行動が家庭環境に左右されるのは、今も昔も同じなのかもしれません。

よく時代劇で見られる「大八車」ですが、元々は「代八車」と書きました。
人間8人分の代わりに働く車という意味です。

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四コマ漫画では掟破りの季節感無視でスミマセン。
というのも、先日、東京は築地本願寺で行われた
「本願寺史料研究所公開講座」を
聴講して参りましたので、今回はそのレポートをお届けしようと思い、漫画もそれに
絡めて描きましたとさ。
今年の9月でしたか、京都の西本願寺から新選組に関係する新史料が発見された、
と新聞で報道がありました。憶えておられる方も多いのではないでしょうか?
え?妖怪たいそう第一の振り付けを覚えたら、忘れちゃった?
もういい!そーゆーヤツはッ!帰ってよろしい!

読売新聞より
新選組は当初、壬生の八木家や前川家といった、地元の実力者の家を屯所にして
いましたが、隊士が増えたことなどの理由により
西本願寺の境内にあった
北集会所を借りて、そこを屯所にします。慶応元年(1865)3月のことです。
新聞によれば、発見された史料は、新選組が屯所を本願寺に移して4ヶ月後の6月
(この年は閏5月が有り)に、土方が寺側にある要求をしてきた、というものです。
その史料を公開し、研究員の方が解説してくれるというのが、この日の講座の内容
です。

ではチョイ長くなりますんで、ご興味のある方は「追記」から。
どーぞ!

築地本願寺・・・いつ見てもエキゾチックですねぇ。
この外観は古代インド仏教様式らしいです。昭和9年(1934)に建てられて、
平成23年(2011)に登録有形文化財になりました。
今回の講演は1部と2部に分かれていました。今年は親鸞聖人が関東に伝道
に来られてから800年という区切りの年だそうで、1部では東京文化財研究所
の先生が親鸞の鎌倉で活動していたことを、史料から読み解いて解説されて
いました。
正直言いまして、ワタクシこの辺りの時代のコトはよくわかりません、です。
スミマセン・・・。
で、休憩を挟んで第2部です。
発見された史料は本願寺が記録していた
「諸日記」という記録の中に書かれて
いた記録です。この実物がホールに展示してありましたが、撮影不可でした。
研究員の方の話によると、この諸日記は日々の記録や雑記を、ある程度
まとめてから書いたものだそうで、まぁ、「里正日誌」とスタイルは似たモノの
ようです。

「諸日記」の慶応元年6月25日のところに、土方さんから本願寺に出された
書状の写しがあったのです。
内容は、
新選組が25日に寺側に要求を出して、それはとても無理な願いだった
のだけど、寺側は了承してくれて、尚且つ翌日から実行してくれるとのこと。
とてもありいがたい・・・というようなことです。
新選組が出した要求は何だったのか?
それは、翌26日の記載に出ていました。
新選組が借りている北集会所は広い所ではあるけれど、隊士の人数が多く、
隊士一人につき一畳の割り当てしかない。しかもこの暑さ(慶応元年6月は現在の
8月に当たる)で我慢できる状態ではなく、病人が出て公用にも支障がある。
局中から申し立てが出ていて、幹部が制止できる状態ではない。
そこで阿弥陀堂のうち、50畳ほどの場所を使わせてもらえないだろうか?これが、トシさんの言ってきた要求でした。
当時、新選組隊士は200人程だったといいます。
隊が使用していた北集会所は、現在姫路市の本徳寺に移築されていますが、その
畳の数は「外陣」という一般に立ち入れる場所で200畳だそうです。
ということは、一人一畳しかスペースがなかった、というのは真実のようです。
また、幕府から医師の松本良順が派遣されて、隊内に病人が多くいたことに驚き
診察をしたということは、よく知られています。
しかし、阿弥陀堂は寺の施設の中でも、最も重要な場所の一つ。寺としては、屯所
に使わせるわけにはいきません。
そこで本願寺は、
北集会所をリフォームして風通しを良くし、板の間に畳を敷いて
場所を広げる提案をします。これにトシさんも了承し、早速寺はその工事に入ったという流れになるようです。
新選組が西本願寺に滞在していたのは慶応元年3月から慶応3年(1867)6月
までですが、講師の大喜先生によれば、この間の隊内の様子について注目したい
そうです。
実はこの頃、隊内では規律違反や脱走によって粛清される隊士が、かなり出て
きています。それは、なぜか?
元治元年(1864)に英仏米蘭四か国が下関を攻撃する事件が発生しますが、これ
により幕府は攘夷を完全に放棄します。幕府が攘夷を放棄したということは、近藤
や土方もそれに従わねばなりません。
新選組は結成以来、尊王攘夷を訴えて活動してきました。当然、入隊してくる者たち
もこの考えのもとにやって来たはずです。
この隊内の基本方針の転換から、幹部と隊士たちの間が一枚岩でなくなり、結果と
して規律が乱れ、粛清される者が増えてきたのではないか、というのが先生の見方
です。
加えて、畳一畳しか割り当てられない劣悪な環境。
トシさんが本願寺に
「局中から申し立てが出て、制止できる状態ではない」と言って
きたのは、大袈裟なことではなく、当時新選組は維持していくのに非常に危機的な
状態であり、今回の史料はそれを裏付けるというのが先生の話でした。
トシさんも寺で重要な阿弥陀堂を貸してくれとは本気では思っておらず、しかしそう
まで言えば、本願寺も何とか対処してくれるだろうという考えだったのではないか。
確かに商売経験のあるトシさんなら、これぐらいの駆け引きは得意だったでしょう。
さらに大喜先生は興味深いことも仰っていました。
従来、新選組が西本願寺を屯所としたのは、西本願寺が長州寄りであったため、
その内情を探る目的もあったからだと云われていました。
しかし、そうではないのでは、と言うのです。
前年(元治元年)7月の蛤御門の変により京都の大きな建物は焼失していました。
新選組隊士を収容できるのは、西本願寺くらいしか残っていませんでした。
さらに、松本良順が診察したときに隊士の1/3が病人だったと云いますが、壬生を
出る時点でも同じ状況だったとすれば、長い距離の移動は困難です。
西本願寺は壬生から1kmしか離れていないそうで(ワタクシ未確認;)、都合がいい。
つまり、近距離で燃え残っていた物件という理由で西本願寺が屯所に選ばれたの
ではないか、というのです。
政治的な意味合いは後から付け足されたもので、引っ越しのしやすさで新屯所を
決めたというのは案外ありそうな話です。病人の多さなどで近藤さんやトシさんが頭を
痛めていたとすれば、今回の史料も含め新選組が当時抱えていた問題点が浮かんで
くるようで興味深いですね。
という内容の今回の史料公開講座でした。
講座の内容もさることながら、講師の大喜先生の話も面白くてアッという間の1時間
でした。
「西本願寺は新選組が大嫌いなんですけど、こうやって新選組の話をすると大勢の
方が聞きにきてくれるんですから、今は大好きです。」
「大河ドラマで新選組をやったとき、中村勘太郎(当時)さんたちに太鼓楼の太鼓を
打たせてあげてましたからね。いいのかなと思いましたけど、本願寺は新選組が
好きになりましたね。」以上、大喜先生語録でした。
また、ぜひ新史料を引っ提げて講演をお願いいたします。
ところで。
今回の講演のタイトル「土方歳三のゆ・う・う・つ」
「憂鬱」を仮名にして一文字づつテンを入れるというのは、ワタクシの敬愛する
ジュリーこと沢田研二様の往年のヒット曲「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」を思い出させます。
も、もしや大喜先生、ジュリーファン・・・???

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蔵敷村の若者、由五郎。
日頃素行の悪かった彼が「不図(ふっと)」いなくなります。
村では欠落したのかと、代官所に届け捜索しましたが、なんと甲州道中の
上野原にいる所を発見されました。
聞くと「金比羅参りに出たところ、病気で動けなくなっていた」とのこと。
そういう事ならと、家族や村は由五郎の村民としての復帰を願い出ます。
ところが、由五郎の素行の悪さは相変わらず。
ついに家族らは由五郎を人別帳から外してくれ、と代官所に願い出るの
でした・・・。
それから約4ヶ月後の万延元年(1860)11月。
「里正日誌」には次のような記載があります。
「村方傳蔵養子由五郎嘆願書
畏れながら書付をもって願い奉ります
江川太郎左衛門御代官所
武州多摩郡蔵敷村
百姓傳蔵倅 当時無宿 由五郎 申18才
右の者は盗みを働いたとの風聞が聞こえ、お役人が御廻村先
でお召し捕りになり、現在御吟味中でございますが、私どもが御廻村先へ
罷り出、しばらくご猶予を願い上げ奉ります。
当人のこれまでの行状は一同、とくと承り、問い質したところ、盗みなどは
決してしていないけれども、農業を怠り大酒を好んで所々へ遊び歩いて、
だんだんと身を持ち崩して増長し、その上高木村の百姓源左衛門・中藤村
の同次郎兵衛・勝楽寺村の同七郎右衛門・中富村の同清次郎、右4人の
者をうまく欺いて、衣類その他を借り受け質屋に差し入れて、みだらに
金銭を使い捨ててしまいました。
自然と右の風聞を受ける次第となり、この始末の御吟味を受け奉りましては
一言も申し上げることもございません。過去の過ちを悔い利発に恐縮奉ります。
今後はきっと改心し、禁酒して身分を慎み、何様にも農業に精を出すべき旨を
もって、私どもへ取りすがり、ただお慈悲を顧みて願い上げてくれるよう歎いて
おります。改心することは違いないと見えます。
もっとも衣類その他は、それぞれへ厚く詫びを入れ差し戻しますので、同人共
にても申し分はございません。なにとぞ格別の御慈悲をもってお吟味はこれまで
で御取下げになり、当人の身分を蔵敷村名主の杢左衛門・同村親類百姓の
源七へお引き渡し下されますよう願い上げ奉ります。
しかる上は見た上で帰住して、改心を見届けた上は、その筋へ相歎いた源七方
へ引き取り、人別帳に入れ何様にも農業に精を出すよう申しつけます。
万が一どんな風聞がございましたら、早々に訴えるべきことを申し上げ奉ります。
以上のようにお聞きくだされますよう、一同御嘆願を申し上げ奉ります。以上。
万延元申年11月19日
江川太郎左衛門代官所
武州多摩郡高木村 百姓 源右(ママ)衛門
組頭 与右衛門
同御代官所
同州同郡中藤村 百姓 次郎兵衛
組頭 藤左衛門
小林龍吉知行所
同州入間郡勝楽寺村 百姓 七郎右衛門
組頭 八郎右衛門
松平大和守領分
同州同郡中富村 百姓 清次郎
組頭 小右衛門
江川太郎左衛門御代官所
同州多摩郡蔵敷村 百姓 源七
小惣代名主 杢左衛門
竹垣三右衛門御代官所
同州同郡府中宿 年寄 長左衛門
年寄 仁左衛門
関東御取締臨時御出役
駒崎清五郎様 」人別帳から外された由五郎(18)ですが、どうやら犯罪に手を染めてしまった
ようですね。現代なら未成年ということで伏せられますが、江戸時代ですから
思い切り実名公開報道してしまいます。
まぁ、当時なら18歳は立派なオトナでしょうけど。
盗みを働いた、というのは事実ではないようですが、あちこちの村人を騙して
衣服や身の周り品を集め、それを質に入れて金を騙し取っていたというのだ
から、よけい性質が悪いような気もします。
しかし親族は、騙した人たちには詫びを入れ弁償するので許してほしい。
人別帳に戻してほしいと訴えています。
この書状でいきなりビックリさせられたのは、由五郎が傳蔵の養子だったという
ことです。前回は全く触れられていませんでした。
そして、今回の書状では傳蔵の名前は出てこないで、由五郎を許してほしいと
歎き訴えているのは親類だという源七です。
源七は組合惣代をしているほどですから、親類の中でも本家筋なのでしょう。
傳蔵が働かないで酒ばかり飲んでいる由五郎を、犯罪を犯す前に勘当したかった
という理由も、実の子ではなかったからかもしれません。
由五郎の犯した罪は直接の盗みではないとはいえ、被害者から訴えられれば
どうなるでしょう。10両を盗んだら首が胴から離される時代です。
源七は、由五郎が養子とはいえなんとか周囲に頼み込んでその命を救ってやりたい
と思ったのかもしれません。
嘆願書の差し出し人連名には被害者たちの名前もあります。源七が余分に金を
払ってでもして頼み込んだのではないでしょうか。
さて、由五郎。改心できるのでしょうか。

江戸時代は親がよほど土地を持っていないかぎり、武家でも農民でも次男・三男
がそのまま独立をすることはできませんでした。
彼らは、男子がおらずこのままでは家系が絶えてしまうというような家に養子に
入ることで、初めて家族を持ち、独立することができたのです。
個人よりも家の存続が優先された江戸時代では、養子縁組はさかんに行われ
ました。
・・・とはいえ、由五郎が養子となった理由は、何だったのでしょう?

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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ワタクシが侍だったとして。
絶対に人は斬れないなー、と思います。
人を斬ると返り血を浴びるっていうでしょ、あれがNG。
とにかく、血を見るのがダメなんですよ。
理由として、幼少の頃ずっと入院生活をしていたからとか、やたら鼻血を出す子だった
からだとか、まぁその辺りのことがトラウマになってんのかなぁと思うんですけど。
だから映画でも、ホラーとかは比較的平気なんですが、やたら血液を消費する
スプラッターは絶対ダメですね。「13日の金曜日」なんか見たことないですけど、もし
拷問か何かで強制的に鑑賞させられたら、100歳くらい一気に老けて廃人になること
間違いナシです。
そんなワタクシが、先日「特定健康診査」を近所の病院で受診してきました。
以前は市から案内が届いても「いいよ別に。忙しいし」と黙殺していたのですが、やはり
おっさんステージが上がってくるにつれ本能的に不安になってくるのでしょうか。
「まぁタダだし。やってもらおうかな・・・」と思うようになり、数年前から10月に受診
しております。
それまで受診しなかったのは、忙しいから・・・というのは言い訳で、ホントは血液を
採られるのがイヤだったからなんです。
採血器で自分の血が吸い上げられていくのを見てると、「うわ~、この血の量、鼻血だっ
たらティッシュ何枚分だ・・・?」とか余計なコトを考えて、気が遠くなってしまうのです。
加えてワタクシ先端恐怖症の気もあるので、注射器系も苦手。
だから、採血器で血を採るなんて、ワタクシにとってリアル・スプラッターなのですよ。
でも、採血しなきゃ診査できませんし。血を採られるトコロを見てなきゃいいワケで、
そこはガマンして受診することにしたのです。いい大人ですから。
ところが今回、いつものように問診を受けていると、医師から「肝炎の検査していき
ます?」と言われました。「女性だと妊娠があるので済まされるんですけど、男性は
なかなか機会がないので。でも、ついでですから費用はかかりませんしやっていか
れては?検査自体はいつもと同じですから。」
こちらも特に断る理由もないし、タダならと思い「じゃ、お願いします」と言いました。
で、カーテンの向こうに通され、いよいよ採血です。
採血担当は、ちょっとお笑いの「ハリセンボン」のメガネ似の看護師さん。
「検査はいつもと変わらないんですよね。」自分で自分をリラックスさせようと、何気なく
たいして意味のないコトをワタクシは彼女に話しかけました。
ところが、
「いえ、採る血の量が増えます。」と、思いもよらないビックリ発言。
ワタクシの背後にバッとダチョウ倶楽部の3人が現れて、「聞いてないよーー!」と
ツッコミを入れる妄想シーンが入りますが、すでにハリセンボンはワタクシの左腕に
チューブを巻いて、スタンバイOK。
「あ、ああぁ・・・」
あまりに想定外の出来事に、目をそらすことも忘れ、自分の血が採血器に採られて
いくのをシッカリと見てしまいました。
「あぁ、まだまだ行くッスか・・・、まだまだ採るッスか・・・」
採血器の中が赤くなっていくのと比例して、ワタクシの意識は遠くなっていきました。
「なんか気持ちわるい・・・」
ヒットポイントが一気に消滅し、その日一日ブルーな気分で過ごしましたとさ。
ワタクシが侍だったとして。
新選組には、絶対に入隊できません。

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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