当ブログはワタクシが居住している東京都の端っこ、東大和市が、江戸時代に
6つほどの村々に分かれていた頃のエピソードを、その村の中の一つ
「蔵敷村」の名主の日記「里正日誌」を元に、勝手に解明していこうという、真に
ローカルな内容です。
今回は、その蔵敷村がどのような経緯を経て幕末にまで至ってきたのか、という
内容を含んだ記事をご紹介します。
万延元年(1859)7月に蔵敷村の名主、組頭、百姓代という村方三役が連名
で江川代官役所に、あるお願いの書状を出しています。
村役人が揃ってのお願いですから、相当真剣な内容なのでしょう。
「畏れながら書付をもって願い上げ奉ります
武州多摩郡奈良橋村のうち、蔵敷分の役人どもが申し上げ奉ります。
私どもの村は古くは武州滝山北条家の領地だったとの申し伝えでございますが、
(家康が)関東御入国の後は天正年中(1573~91)に
奈良橋高 167石7斗7升
蔵敷鷹 162石2斗3升
都合高330石が石川太郎右衛門の御給地に相成り、その後享保18年(1733)
御上知を仰せ出されて、御代官所支配を仰せ付けられ有難く仕合せに存じて
おります。」長いので区切ります。
東大和市域は戦国時代は後北条氏の領地でした。北条氏の多摩地域の拠点と
言えば八王子城が有名ですが、北条氏照(四代氏政の弟)が八王子城を築く以前
の滝山城時代から、その支配下にあったようですね。
ただし、氏照が滝山城に住んだという形跡はないようで、実際には氏照の義父で
あり北条氏の傘下に入った大石氏が、東大和市域を直接支配していたものと
考えられます。
そういえば「軍師官兵衛」で八王子城攻めは、あっさりスルーされてしまいましたね。
多摩地域の歴史ファンはその日、涙で袖を濡らしました・・・。
天正18年(1590)北条氏が滅びると、徳川家康が江戸に入ります。
すると、早くも翌年から家康直属の家臣が江戸周辺の各地に配属されました。
史料に出ている石川太郎右衛門は、奈良橋に領主(地頭)として派遣されてきた家康
の家臣です。「寛政重修諸家譜」によればその年を文禄元年(1892)としていますが、
後ヶ谷村の名主・杉本林志(しげゆき)の「狭山之栞」は天正19年(1591)として
います。
その後、享保18年に何らかの理由で領地は幕府に返され、以降代官領になった
ようです。
「しかるところ、私どもの村方は元々奈良橋と別村であり、その理由はすでに御上知、
御領所となりました時の御割符・御目録等で蔵鋪村とお認めになり、右古書物
を今に所持しておりますところ、何年の頃からか奈良橋村之内蔵鋪分
と御唱えになっております。当村はすべてのお書き下げを右の名目に御認めに相なり、
右は明らかな子細であります。
その段は相わきまえませんが、前書享保年間まで御地頭が御在住のとき、奈良橋と
蔵敷の境には御地頭所の土蔵補理があり、当村の収穫物の内御地頭の取り分は
御取扱い方のこと。奈良橋村の分は御勝手向き諸賄として使い、右土蔵より西の方の
蔵敷村分は御修復料に使うと御定めになりました。
それぞれ口訳お立ておかれますことは、古老の者より次第に申し伝えられたことと
承知しております。」さて、本題です。
蔵敷地域は代官領となったときに、書類上ハッキリと「村」として認められたハズなのに、
いつの頃からか奈良橋村の一部と扱われている。
コレはおかしいでしョ、と言うのがこの書状の大意のようです。
以前ご紹介した
「組頭、水戸浪士に襲われる」(

クリック!)の史料でも、代官所に
差し出した書状には「蔵敷分」と書かれています。代官所からそのように書くように言われ
ていたと思われます。
確かに蔵敷村はかつては奈良橋村に含まれた地域でしたが、正徳年間(1711~15)に
分離独立したとされます。代官領になったのはそれから20年近く経っています。さらに、
この訴えが出た万延元年はそこからさらに127年も経ってのこと。
それを今さら・・・と、蔵敷村民は言いたいのですね。
しかし、文政11年(1828)に成立した「新編武蔵風土記稿」によれば
「蔵鋪村は、奈良橋の内に属す。正徳年中分村せしといえど郡村名寄帳にも見えず、
一村には立ちがたし。ゆえにここに隷す。」とあります。「新編武蔵風土記稿」は昌平黌の林述斎がまとめたものですから、これが
お上の正式な見解だったのかもしれません。
しかし、村役人らは訴えます。
「右につき、私どもの村が御私領だったときに蔵敷分と云って、年貢をお取立てなされて
きましたことより、自然と右の名がそのまま移ったものかと愚察しております。
しかし、元来別村である証拠は、当村の御検地帳はもちろん、御高札場についても
古くより名主杢左衛門の屋敷前に奈良橋村とは別に立ててあります。
村内の名所字名に至るまで、奈良橋村と重なっている場所は一切ございません。
いずれも別々に立ち分かれており、両村の民家も本家・分家入り混じって名字などが
同姓の者などは決して無く、二つの村はそれぞれに分かれておりますので、鎮守・氏神・
祭日なども奈良橋村とは日取りが違っております。
ことに菩提寺も蔵敷分民家の者どもは、奈良橋雲性寺の旦那は一人もおらず、両村の
しきたりのことも万端まちまちに、互いに取り計らうよう違えております。
その他、当村と奈良橋村とも以前より尾州様の御鷹場内であり、村々へお渡しになって
いる御焼印・御鑑札も奈良橋村のほか、当村の分は別に蔵鋪村とお認め、お渡しに
なっています。
いずれにしても、まったく別の村に相違ないと存じ奉ります。」いろいろと証拠を出して、蔵敷が独立した一つの村であることを訴えています。
「これによって古来に回復し、奈良橋村の内という肩書きを御取り除きになり、以来
多摩郡蔵敷村とのみ諸事お唱え替えを相願いたき旨、従来小前末々に至るまで
挙げて志願をしてきましたので、今般畏れ多いことも顧みず願い上げ奉ります。
なにとぞ格別の御慈悲をもって、前段、別村の紛れもない御座始末を幾重にも訳を
お聞きくださり、今後は蔵敷村を一つの村としてお唱え替えすることを、願いの通り
お聞きくだされますよう偏に願い上げ奉ります。以上。
武州多摩郡奈良橋村之内 蔵鋪分
百姓代 平五郎
組頭 重蔵
名主 杢左衛門
万延元申年7月26日
江川太郎左衛門様 御役所 」自分らが住む地域が他の村の一部であるか、それとも独立した一つの自治体
であるのかは、当時としても大きな問題だったようです。
さて、この一件について杢左衛門さんらは、さらにもう一手を打つのですが、それは
どういったことなのでしょうか?
ご興味のある方は、「追記」をどうぞ!
代官所へ書状を出した同日、蔵敷村では別にこのような書状もある場所に出して
います。
「一札の事
一、当村はこれまで奈良橋村之内蔵敷分とお唱えしてきましたが、右は元来別村
に相違ないことは決まっております。
それぞれ、証拠や古書物などもありますので、奈良橋村之内と申す肩書きはお取り
除きになり、蔵鋪村とのみ御唱え替えを願いたき旨、従来小前末々まで志願して、
今般右のことを御支配御役所へ御嘆願書を差し出しました。
右願いの通りお許しいただければ、御国恩為冥加のために江戸城御本
丸御造営御用途金の内へ金100両を間違いなく
御上納いたします。
右の趣をよろしくお差し含みの上、御役所へお取次ぎ、村方の志願が相立ちます
ようにお取りはからいいただくことをお願いします。念のため一札差し出し申し
置きます。
武州多摩郡蔵敷分 百姓代 平五郎
組頭 重蔵
名主 杢左衛門
万延元申年7月26日
和泉屋健蔵殿この年の3月、江戸城の本丸が火事になり焼失しているのですが、蔵敷を村だと
認めてくれればその再建費用として100両を献金しようというのです!
そこまでして・・・と驚きますが、この当時、決して作物の実りが多いとは言えない
狭山丘陵の一村にそれだけの財力があることは注目です。
さらに、この献金願いを直接代官に言うのは憚られたのでしょう。
公事宿である和泉屋健蔵にお願いしていることにも注目です。
当ブログで何度もご紹介していますが、村々とお上(代官所)の間に入って、裏
工作の手引きをする存在として、公事宿の存在は大きかったようです。
この後、どのような動きがあったのか、わかりません。
「里正日誌」を見ていくと、文久2年あたりでは蔵敷村と蔵敷分と両方の表記が
見られます。100両は本当に払われたのでしょうか?


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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