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それは、芹沢鴨なのか!?

前々回に、組頭の家が水戸浪士を名乗る二人組に襲われた話をご紹介
しました。
今回はそれに多少関係する話ですが、さらに新選組ファンの方も「おっ!」
と思われるのではないか、という史料です。

時間はちょっと進みまして、万延2年(1861)の「里正日誌」。

「差し上げ申します御請書のこと
一、水戸様の御領分である常陸国玉造辺りに集まっていた浪人たちが
先頃お召し捕りとなったことにつき、万が一右のうち脱走した者がこの近辺に
やって来ることも考えられるので、村々で申し合わせ、当支配所は特に厳重に
気を付けます。
右の体の怪しい者が見受けられましたら、早速手配をし召し捕るようにすべき
ことです。もっとも、兼て召し捕り方の方法は申し合わせておくべきことですが、
且つ右のことの他にも無宿者や浪人が立ち廻り、法に外れたことをするよう
なら、これまた早々に差し押さえるべきことと、仰せ渡されましたので承知
いたしました。

附 往来または渡し船のある村々は、当分の間見張りを差し出し、少しでも
怪しいと見受けられる者が立ち回ったならば、御注進申上げるべきことを
仰せ渡されました。

右のように仰せ渡された内容を一同承知奉り、小前末々までも洩らさぬように
申し聞かせ、取締りが行き届くようするべきことです。
これより村々の役人一同、連印をして請書をこのようにいたします。
  万延2酉年2月13日   当支配所 武州多摩郡蔵敷村 
                       名主 杢左衛門
 江川太郎左衛門様御手代 
          檜山金平様    」
 
 
この日、所沢村に巡回してきた代官所の檜山金平に、杢左衛門さんら村々の
代表者が集められました。
浪人や怪しい風体の者が村内に立ち寄ったならば、差し押さえるかお上に
注進せよという取締りの命令に対して、「ハイ、そのようにいたします」と
村が返答した請書ですね。
ワタクシが注目したのは、取締りの対象となっているのが「常陸国玉造」
集まった浪人たち、という点です。

この浪人たちの中に、後に新選組の初期局長を務める芹沢鴨がいた
のではないだろうか、と思うからであります。

芹沢は水戸浪士で、元天狗党を名乗り文久3年(1863)の浪士組に参加。
京都で近藤勇らと新選組を結成し、近藤、新見錦(水戸浪士)と共にリーダー
である局長の座に就きます。
永倉新八は芹沢を「巨魁隊長」と呼び、3人の中でも筆頭格であると言って
います。それほどの指導力、カリスマ性がある一方、酒が入ると凶暴になる
など素行や性格に難があり、それが故に近藤たち試衛館派から暗殺されて
しまいました。

さて、その芹沢鴨がこの史料とどう関係してくるのか?
その辺りを、お昼寝から目覚めたばかりの我が家の局長・猫のテンちゃんにも
わかるようにお話しいたしましょう。

芹沢鴨は水戸藩内芹沢村の出身で、郷士の家の三男に生まれました。その後
同じ水戸藩内の神主・下村家の養子に入り下村嗣次(継次)と名乗ります。つまり
この名前が芹沢の本名です。
当時の水戸藩が保守派の「諸生党」と改革派の「天狗党」に割れていたのは、
前々回にお話した通り。
嗣次の養子先の下村家は神官で、彼も跡を継いでいました。彼が神主を勤めて
いた神社は弟橘媛(おとたちばなひめ)神社といい、徳川斉昭が命名した神社だ
そうです。嗣次が尊王攘夷論を展開する天狗党として活動するのは、当然の流れ
であったと言えますね。

天狗党は下級藩士や郷士、豪農、神官といった階層に広がり、彼らは水戸藩が
農業振興のために地方に作った郷校という藩校に集まり、勉強会を開きました。
その中の一つに「玉造郷校」があります。
玉造郷校には100人ほどの天狗党が集い、尊王攘夷の気勢をあげ、周りからは
玉造勢とか玉造組と呼ばれていました。
そしてその玉造勢の中に、嗣次もいたのです。
嗣次が生まれた芹沢村は玉造にあったため、地理的に馴染みもあったのでしょう。

この玉造勢が、冒頭史料の「玉造に集まっていた浪人たち」に当たると思います。
彼らがただ勉強会をするだけならいいのでしょうが、これがまた荒っぽい集団だった
から問題になったのです。
彼らの活動といえば、集団で商家などに押し入り、政治資金を押し借りすること。
これを玉造(行方市)周辺だけではなく、府中(石岡市)や佐原村(千葉県香取市)に
まで遠征して、やりたい放題に暴れまわっていたのです。
なかでも、万延2年1月20日、佐原村に逗留していた玉造勢7人が、名主や旅籠と
いった有力者から攘夷を名目に1000両を要求するという事件を起こしました。
要求を拒む(当然ス;)町役人らに彼らは乱暴を働いたのですが、その7人の中に
嗣次もいたというんですね。
特に嗣次は持っていた鉄扇で、町役人をタコ殴りにしたっつーんだから、恐ろしい。
2月になって、玉造勢は藩からの説得によって解散させられます。
ところがその命令を無視して8人が脱走。その中にまたしても嗣次がいたのです。

さて、冒頭史料の日付を見てみましょう。
2月13日の記載があります。
この内容は、解散命令を無視して脱走した嗣次らを指しているとみて間違いないの
ではないでしょうか。
脱走者らの名前が記されていないのが残念ですが、呼び出しを受けた杢左衛門
さんらは代官所の檜山金平さまから、口頭でその名前を聞いていたかもしれません。

それにしても、水戸から遠く離れた狭山丘陵にまでこのような手配書が回ってくる
など、そんなに脱走者らの行動はアクティブだったのでしょうか?
暴力事件を起こした佐原村は水戸領内ではなく、旗本の知行地でした。そのため、
この事件の捜査には関東取締出役が出動していたようで、その関係で江川代官領
にまで連絡が回ってきたのかもしれません。
実際には嗣次は実家の近くで捕まって、2月28日に投獄されています。

獄中で同じく脱走した仲間が次々と死んでいく中、嗣次は1年10ケ月を生き抜き、
特赦によって釈放。
次に現れたのは文久3年2月の江戸小石川伝通院。新見錦や平山五郎といった
仲間を引き連れ、浪士組に参加するためです。
そのときには芹沢鴨と名前を改めていました。

ところで、蔵敷村と同じ東大和市域にあった後ヶ谷村の「杉本家文書」にも、玉造と
具体名はないものの、同様の記録が残されています。
江川代官領の村々の名主が、この一件で呼び出されたようです。
ということは、同じ江川支配地である日野宿にも同内容が伝えられていたのではない
でしょうか?
もしそうだとすれば、佐藤彦五郎を通して近藤勇や土方歳三も、水戸の玉造勢の中に
やたら粗暴な男がいることを、浪士組以前に知っていた可能性があります。
「コイツは危険な御仁どもだ・・・」
文久3年9月に起きた近藤らの芹沢鴨粛清には、すでに多摩時代から入っていた
情報も作用していたのかもしれません。
日野にこの玉造勢関係の史料、残ってないですかね?

※万延2年=文久元年ですが、改元は3月1日から。

メガ16

しかし、芹沢センセー。
昔っから「鉄扇」を使って暴れていたんですねー。
よっぽど鉄扇が好きなんだな。
「おぅ、この鉄扇でラスボス戦までいけっぺよぉッ」(茨城訛りの芹沢氏・談)


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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[ 2014/10/03 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(17)