由五郎始末~江戸の欠落~
今回のメインタイトルは、なんか浅田次郎さんの小説みたいですが、キー
ワードはサブタイトルにある欠落です。
コレ、「けつらく」ではなく「かけおち」と読みます。と言っても
「おみっちゃん、オラと一緒に江戸さ行ごう!庄屋のバカ息子と一緒になる
ごとはねェだッ!」
「ンだ、善吉っつぁん。オラ、あんだについてぐッ!」
の駈け落ちではありません。
では、なんぞや?
江戸時代後半から幕末にかけて、農村の史料にはこの欠落という言葉が
度々顔を出します。
今回は蔵敷村に住む由五郎という18歳の青年の行動
を追って、欠落って何なのかを見てみましょう。
「由五郎欠落訴
畏れながら書付をもって申し上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷分 百姓傳蔵倅 由五郎18才
来る9月15日迄
同16日御訴
右の者は親の手元で農業の手伝いをしておりましたが、先月15日に不図家出
のまま帰りません。これまで遠近所々心当たりの場所を尋ねましたが、行方は知れ
ません。
由五郎は借金ができ、この返済手段が尽きて欠落したのかも知れません。
その他悪事を働くことはもちろん、喧嘩出入りや怪しい噂を聞くことは心当たりがありま
せんが、右のように沙汰もなく立ち出でて、今もって行方が知れませんので、余儀なく
このことを訴え申し上げ奉ります。以上。
万延元申年閏3月11日 右 傳蔵
親類組合惣代 親類百姓 源七
村役人惣代 名主 杢左衛門
江川太郎左衛門様
御役所 」
村の百姓・傳蔵の18歳になる息子・由五郎が2月15日から家に帰ってない、とのこと
です。文中に太く書いた不図は「ふっと」と読みます。風斗と書いてある場合もあります
が、誰に何も言わずフラッといなくなる、失踪するということですね。
どうやら原因は由五郎の借金にあるようです。
書状の冒頭「来たる9月15日迄 同16日訴」とありますが、これは欠落人の捜索を
役所に訴えた場合、天領では家族や五人組が行方を捜して、30日ごとに6回報告
をすることになっていました。つまり半年180日捜し続けるワケで、その期限が9月
15日ということです。
さて、それから約4ヶ月後。
「由五郎帰住願
畏れながら書付をもって申し上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷分 百姓傳蔵倅 由五郎申18才
右の者は、今年3月中に不斗家出のまま立ち帰らないので、そのことを
3月11日に訴え申し上げ、当時尋ねていたところ、最近親類たちが富士山参詣に
参りました甲州道中の上野原宿において、由五郎に出会い、その始末を糺しました。
すると由五郎は、かねてから心願していた讃州(讃岐)の金比羅へ参詣したいと心に
かけていたけれども、有体に聞いたならば反対されるだろうと一途に思い込み、連絡
もせず出立し参詣に行ってしまいました。
帰路の途中、上野原宿で病気になり、厄介になり、ようやく快方に向かいましたが、
もとより旅費が少なく、薬代を得ようと農業を手伝いながら過ごしておりました。
思いのほか手間取り、連絡もせずに出立した心得違いをただ顧みて、詫び、連れ
戻って帰住できるように願ってくれと申していました。
上野原の宿方へも掛け合いましたが、懸り合いの筋がないので村方へ連れ戻り、
親類・組合・村役人立ち会って、とくと出先の様子を窺いましたが、いささかも怪しげ
なことが毛頭もありませんでした。
なにとぞお慈悲をもって、由五郎の身分を願いの通りに帰住仰せつけされたく、
一同連印をもってこのことを願い上げ奉ります。以上。
万延元申年7月4日 右由五郎親 傳蔵
親類組合惣代 親類 百姓 源七
村役人惣代 名主 杢左衛門
江川太郎左衛門様
御役所 」
なんと由五郎は上野原宿で見つかりました。
失踪の理由を聞いてみると、なんとも信心深い若者ではないですか。
そして帰りの道中で病気になってしまい、厄介をかけたので薬代のために農家の
手伝いをしているとは・・・なんと殊勝なことでしょう。
実際の話、当時は旅の途中で病気になり、そのまま亡くなる旅行者も少なくありま
せんでした。 東京都新宿区の神楽坂近くにある光照寺には、そういった人々を
供養した「諸国旅人供養碑」が残されています。


でも、最初に出された「欠落訴」と由五郎のキャラがかなり違うような感じが
するんですけど・・・。
由五郎は借金ができたので 、行方をくらましたんじゃなかったっけ?
まぁ、でも無事に見つかったので、家に帰る手続きをお願いします。
見つけたからそのまま連れて帰って、また村で生活できるとはいきません。
このような「帰住願」を提出して代官所に認められると、人別帳に戻されて、
村人としての身分が定まるのです。
ところが・・・
「由五郎勘当願
畏れながら書付をもって願い上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷分 百姓傳蔵倅 由五郎申18才
右の者はこれまで親の元で農業の手伝いをしておりましたが、最近農業を
嫌い大酒を好み、昼夜に限らず所々を遊び歩いて金銭を無駄使いしますので、
度々意見を差し加えますと、さらに取り合わずとにかく身持ちがよろしくありま
せん。
親類・組合・村役人たちからも再三教え諭しましたが、一切取り用いません。
たとえ勘当・帳外になったとしても苦しからず、我々の意など従わないと
申して増々身持ちを悪くし、増長いたし、とても心底は見届けられません。
もっともこれまで、悪事を働いたことはもちろん、喧嘩出入り、怪しい風聞などは
ありませんが、右のような身持ちの悪い者をこのまま差し置いては、この先
どのようなことをしでかすのか計り難く、後々安心できません。
勘当・帳外を相願うほかございませんので、余儀なくこのことを願い上げ
奉ります。なにとぞお慈悲をもって由五郎の身分を願いの通り、勘当・帳外
を仰せつけられたく親類・組合・村役人の連印をもって願い上げ奉ります。以上。
万延元申年7月25日 右由五郎親 傳蔵
親類組合惣代兼親類 百姓 源七
村役人惣代 名主 杢左衛門
江川太郎左衛門様
御役所 」
帰住願いが出されてからわずか20日後、上のような願書がお上に出されてしまい
ました。
帰ってきた由五郎は仕事もせず、大酒を飲んで遊興にふけるという体たらく。
今度は村中の総意で、由五郎を勘当・帳外にしてくれと言うのです。
帳外は「ちょうがい」「ちょうはずし」と読みます。人別帳から外すという意味です。
人別帳から外すということは、戸籍から抹消するようなモノで、村では処理できず
代官所へ届ける必要がありました。
しかし、あの上野原では信心深く、働き者だった由五郎がなぜ・・・?
おそらく由五郎は元々遊び人だったということが、真相ではないでしょうか。
失踪も1枚目の書状にあるように、借金というのが本当でしょう。
しかし、親も村も一度は彼の改心を信じて、参詣に行き病気になっていたという
ストーリーを作り代官所に届けたのではないかと思います。
ところが、帰ってみれば由五郎は反省もせずにまた放蕩三昧。ついに勘当・帳外
を願う始末に至ってしまった、という所でしょう。
江戸時代は連帯責任の社会です。もし、由五郎が犯罪でも犯したら親や親類、他
の村人にまで責任が及ぶこととなってしまいます。そうなる前に断腸の思いで
由五郎との縁を切ったのでしょう。
帳外となった者は村を追放され、放浪せざるを得ません。これが時代劇などでよく
出てくる無宿人です。彼らは渡世人となって博奕打ちのような裏社会に生き
るか、日雇いなどの仕事を求めて都会にやって来るしかありません。
この中から犯罪を犯したり、悪党になる者も出てきたんですね。
江戸時代も終盤になると、商業や貨幣経済が農村にまで浸透し、由五郎のように
貧困が原因ではない欠落や帳外となり、無宿人となった者が多数出てきたようです。

このブログ記事を書く直前に「柘榴坂の仇討」を見てきたばかりなので、つい・・・。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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コレ、「けつらく」ではなく「かけおち」と読みます。と言っても
「おみっちゃん、オラと一緒に江戸さ行ごう!庄屋のバカ息子と一緒になる
ごとはねェだッ!」
「ンだ、善吉っつぁん。オラ、あんだについてぐッ!」
の駈け落ちではありません。
では、なんぞや?
江戸時代後半から幕末にかけて、農村の史料にはこの欠落という言葉が
度々顔を出します。
今回は蔵敷村に住む由五郎という18歳の青年の行動
を追って、欠落って何なのかを見てみましょう。
「由五郎欠落訴
畏れながら書付をもって申し上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷分 百姓傳蔵倅 由五郎18才
来る9月15日迄
同16日御訴
右の者は親の手元で農業の手伝いをしておりましたが、先月15日に不図家出
のまま帰りません。これまで遠近所々心当たりの場所を尋ねましたが、行方は知れ
ません。
由五郎は借金ができ、この返済手段が尽きて欠落したのかも知れません。
その他悪事を働くことはもちろん、喧嘩出入りや怪しい噂を聞くことは心当たりがありま
せんが、右のように沙汰もなく立ち出でて、今もって行方が知れませんので、余儀なく
このことを訴え申し上げ奉ります。以上。
万延元申年閏3月11日 右 傳蔵
親類組合惣代 親類百姓 源七
村役人惣代 名主 杢左衛門
江川太郎左衛門様
御役所 」
村の百姓・傳蔵の18歳になる息子・由五郎が2月15日から家に帰ってない、とのこと
です。文中に太く書いた不図は「ふっと」と読みます。風斗と書いてある場合もあります
が、誰に何も言わずフラッといなくなる、失踪するということですね。
どうやら原因は由五郎の借金にあるようです。
書状の冒頭「来たる9月15日迄 同16日訴」とありますが、これは欠落人の捜索を
役所に訴えた場合、天領では家族や五人組が行方を捜して、30日ごとに6回報告
をすることになっていました。つまり半年180日捜し続けるワケで、その期限が9月
15日ということです。
さて、それから約4ヶ月後。
「由五郎帰住願
畏れながら書付をもって申し上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷分 百姓傳蔵倅 由五郎申18才
右の者は、今年3月中に不斗家出のまま立ち帰らないので、そのことを
3月11日に訴え申し上げ、当時尋ねていたところ、最近親類たちが富士山参詣に
参りました甲州道中の上野原宿において、由五郎に出会い、その始末を糺しました。
すると由五郎は、かねてから心願していた讃州(讃岐)の金比羅へ参詣したいと心に
かけていたけれども、有体に聞いたならば反対されるだろうと一途に思い込み、連絡
もせず出立し参詣に行ってしまいました。
帰路の途中、上野原宿で病気になり、厄介になり、ようやく快方に向かいましたが、
もとより旅費が少なく、薬代を得ようと農業を手伝いながら過ごしておりました。
思いのほか手間取り、連絡もせずに出立した心得違いをただ顧みて、詫び、連れ
戻って帰住できるように願ってくれと申していました。
上野原の宿方へも掛け合いましたが、懸り合いの筋がないので村方へ連れ戻り、
親類・組合・村役人立ち会って、とくと出先の様子を窺いましたが、いささかも怪しげ
なことが毛頭もありませんでした。
なにとぞお慈悲をもって、由五郎の身分を願いの通りに帰住仰せつけされたく、
一同連印をもってこのことを願い上げ奉ります。以上。
万延元申年7月4日 右由五郎親 傳蔵
親類組合惣代 親類 百姓 源七
村役人惣代 名主 杢左衛門
江川太郎左衛門様
御役所 」
なんと由五郎は上野原宿で見つかりました。
失踪の理由を聞いてみると、なんとも信心深い若者ではないですか。
そして帰りの道中で病気になってしまい、厄介をかけたので薬代のために農家の
手伝いをしているとは・・・なんと殊勝なことでしょう。
実際の話、当時は旅の途中で病気になり、そのまま亡くなる旅行者も少なくありま
せんでした。 東京都新宿区の神楽坂近くにある光照寺には、そういった人々を
供養した「諸国旅人供養碑」が残されています。


でも、最初に出された「欠落訴」と由五郎のキャラがかなり違うような感じが
するんですけど・・・。
由五郎は借金ができたので 、行方をくらましたんじゃなかったっけ?
まぁ、でも無事に見つかったので、家に帰る手続きをお願いします。
見つけたからそのまま連れて帰って、また村で生活できるとはいきません。
このような「帰住願」を提出して代官所に認められると、人別帳に戻されて、
村人としての身分が定まるのです。
ところが・・・
「由五郎勘当願
畏れながら書付をもって願い上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷分 百姓傳蔵倅 由五郎申18才
右の者はこれまで親の元で農業の手伝いをしておりましたが、最近農業を
嫌い大酒を好み、昼夜に限らず所々を遊び歩いて金銭を無駄使いしますので、
度々意見を差し加えますと、さらに取り合わずとにかく身持ちがよろしくありま
せん。
親類・組合・村役人たちからも再三教え諭しましたが、一切取り用いません。
たとえ勘当・帳外になったとしても苦しからず、我々の意など従わないと
申して増々身持ちを悪くし、増長いたし、とても心底は見届けられません。
もっともこれまで、悪事を働いたことはもちろん、喧嘩出入り、怪しい風聞などは
ありませんが、右のような身持ちの悪い者をこのまま差し置いては、この先
どのようなことをしでかすのか計り難く、後々安心できません。
勘当・帳外を相願うほかございませんので、余儀なくこのことを願い上げ
奉ります。なにとぞお慈悲をもって由五郎の身分を願いの通り、勘当・帳外
を仰せつけられたく親類・組合・村役人の連印をもって願い上げ奉ります。以上。
万延元申年7月25日 右由五郎親 傳蔵
親類組合惣代兼親類 百姓 源七
村役人惣代 名主 杢左衛門
江川太郎左衛門様
御役所 」
帰住願いが出されてからわずか20日後、上のような願書がお上に出されてしまい
ました。
帰ってきた由五郎は仕事もせず、大酒を飲んで遊興にふけるという体たらく。
今度は村中の総意で、由五郎を勘当・帳外にしてくれと言うのです。
帳外は「ちょうがい」「ちょうはずし」と読みます。人別帳から外すという意味です。
人別帳から外すということは、戸籍から抹消するようなモノで、村では処理できず
代官所へ届ける必要がありました。
しかし、あの上野原では信心深く、働き者だった由五郎がなぜ・・・?
おそらく由五郎は元々遊び人だったということが、真相ではないでしょうか。
失踪も1枚目の書状にあるように、借金というのが本当でしょう。
しかし、親も村も一度は彼の改心を信じて、参詣に行き病気になっていたという
ストーリーを作り代官所に届けたのではないかと思います。
ところが、帰ってみれば由五郎は反省もせずにまた放蕩三昧。ついに勘当・帳外
を願う始末に至ってしまった、という所でしょう。
江戸時代は連帯責任の社会です。もし、由五郎が犯罪でも犯したら親や親類、他
の村人にまで責任が及ぶこととなってしまいます。そうなる前に断腸の思いで
由五郎との縁を切ったのでしょう。
帳外となった者は村を追放され、放浪せざるを得ません。これが時代劇などでよく
出てくる無宿人です。彼らは渡世人となって博奕打ちのような裏社会に生き
るか、日雇いなどの仕事を求めて都会にやって来るしかありません。
この中から犯罪を犯したり、悪党になる者も出てきたんですね。
江戸時代も終盤になると、商業や貨幣経済が農村にまで浸透し、由五郎のように
貧困が原因ではない欠落や帳外となり、無宿人となった者が多数出てきたようです。

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