由五郎始末~江戸の欠落~

今回のメインタイトルは、なんか浅田次郎さんの小説みたいですが、キー
ワードはサブタイトルにある欠落です。
コレ、「けつらく」ではなく「かけおち」と読みます。と言っても
「おみっちゃん、オラと一緒に江戸さ行ごう!庄屋のバカ息子と一緒になる
ごとはねェだッ!」
「ンだ、善吉っつぁん。オラ、あんだについてぐッ!」

の駈け落ちではありません。
では、なんぞや?
江戸時代後半から幕末にかけて、農村の史料にはこの欠落という言葉が
度々顔を出します。
今回は蔵敷村に住む由五郎という18歳の青年の行動
を追って、欠落って何なのかを見てみましょう。

「由五郎欠落
  畏れながら書付をもって申し上げ奉ります
      武州多摩郡蔵敷分 百姓傳蔵倅 由五郎18才
 来る9月15日迄
 同16日御訴

右の者は親の手元で農業の手伝いをしておりましたが、先月15日に不図家出
のまま帰りません。これまで遠近所々心当たりの場所を尋ねましたが、行方は知れ
ません。
由五郎は借金ができ、この返済手段が尽きて欠落したのかも知れません。
その他悪事を働くことはもちろん、喧嘩出入りや怪しい噂を聞くことは心当たりがありま
せんが、右のように沙汰もなく立ち出でて、今もって行方が知れませんので、余儀なく
このことを訴え申し上げ奉ります。以上。
  万延元申年閏3月11日       右 傳蔵
                   親類組合惣代 親類百姓 源七
                   村役人惣代 名主 杢左衛門
 江川太郎左衛門様
         御役所                   」


村の百姓・傳蔵の18歳になる息子・由五郎が2月15日から家に帰ってない、とのこと
です。文中に太く書いた不図は「ふっと」と読みます。風斗と書いてある場合もあります
が、誰に何も言わずフラッといなくなる、失踪するということですね。
どうやら原因は由五郎の借金にあるようです。
書状の冒頭「来たる9月15日迄 同16日訴」とありますが、これは欠落人の捜索を
役所に訴えた場合、天領では家族や五人組が行方を捜して、30日ごとに6回報告
をすることになっていました。つまり半年180日捜し続けるワケで、その期限が9月
15日ということです。

さて、それから約4ヶ月後。

「由五郎帰住
  畏れながら書付をもって申し上げ奉ります
       武州多摩郡蔵敷分 百姓傳蔵倅 由五郎申18才

右の者は、今年3月中に不斗家出のまま立ち帰らないので、そのことを
3月11日に訴え申し上げ、当時尋ねていたところ、最近親類たちが富士山参詣に
参りました甲州道中の上野原宿において、由五郎に出会い、その始末を糺しました。
すると由五郎は、かねてから心願していた讃州(讃岐)の金比羅へ参詣したいと心に
かけていたけれども、有体に聞いたならば反対されるだろうと一途に思い込み、連絡
もせず出立し参詣に行ってしまいました。
帰路の途中、上野原宿で病気になり、厄介になり、ようやく快方に向かいましたが、
もとより旅費が少なく、薬代を得ようと農業を手伝いながら過ごしておりました。
思いのほか手間取り、連絡もせずに出立した心得違いをただ顧みて、詫び、連れ
戻って帰住できるように願ってくれと申していました。
上野原の宿方へも掛け合いましたが、懸り合いの筋がないので村方へ連れ戻り、
親類・組合・村役人立ち会って、とくと出先の様子を窺いましたが、いささかも怪しげ
なことが毛頭もありませんでした。
なにとぞお慈悲をもって、由五郎の身分を願いの通りに帰住仰せつけされたく、
一同連印をもってこのことを願い上げ奉ります。以上。
  万延元申年7月4日  右由五郎親 傳蔵
                 親類組合惣代 親類 百姓 源七
                 村役人惣代 名主 杢左衛門
 江川太郎左衛門様
         御役所                  」


なんと由五郎は上野原宿で見つかりました。
失踪の理由を聞いてみると、なんとも信心深い若者ではないですか。
そして帰りの道中で病気になってしまい、厄介をかけたので薬代のために農家の
手伝いをしているとは・・・なんと殊勝なことでしょう。
実際の話、当時は旅の途中で病気になり、そのまま亡くなる旅行者も少なくありま
せんでした。 東京都新宿区の神楽坂近くにある光照寺には、そういった人々を
供養した「諸国旅人供養碑」が残されています。

DSCF0996a.jpg

DSCF0997a.jpg

でも、最初に出された「欠落訴」と由五郎のキャラがかなり違うような感じが
するんですけど・・・。
由五郎は借金ができたので 、行方をくらましたんじゃなかったっけ?

まぁ、でも無事に見つかったので、家に帰る手続きをお願いします。
見つけたからそのまま連れて帰って、また村で生活できるとはいきません。
このような「帰住願」を提出して代官所に認められると、人別帳に戻されて、
村人としての身分が定まるのです。

ところが・・・

「由五郎勘当
  畏れながら書付をもって願い上げ奉ります
       武州多摩郡蔵敷分 百姓傳蔵倅 由五郎申18才

右の者はこれまで親の元で農業の手伝いをしておりましたが、最近農業を
嫌い大酒を好み、昼夜に限らず所々を遊び歩いて金銭を無駄使いしますので、
度々意見を差し加えますと、さらに取り合わずとにかく身持ちがよろしくありま
せん。
親類・組合・村役人たちからも再三教え諭しましたが、一切取り用いません。
たとえ勘当・帳外になったとしても苦しからず、我々の意など従わないと
申して増々身持ちを悪くし、増長いたし、とても心底は見届けられません。
もっともこれまで、悪事を働いたことはもちろん、喧嘩出入り、怪しい風聞などは
ありませんが、右のような身持ちの悪い者をこのまま差し置いては、この先
どのようなことをしでかすのか計り難く、後々安心できません。
勘当・帳外を相願うほかございませんので、余儀なくこのことを願い上げ
奉ります。なにとぞお慈悲をもって由五郎の身分を願いの通り、勘当・帳外
を仰せつけられたく親類・組合・村役人の連印をもって願い上げ奉ります。以上。
  万延元申年7月25日  右由五郎親 傳蔵
                  親類組合惣代兼親類 百姓 源七
                  村役人惣代 名主 杢左衛門
 江川太郎左衛門様
          御役所                    」
  

帰住願いが出されてからわずか20日後、上のような願書がお上に出されてしまい
ました。
帰ってきた由五郎は仕事もせず、大酒を飲んで遊興にふけるという体たらく。
今度は村中の総意で、由五郎を勘当・帳外にしてくれと言うのです。

帳外は「ちょうがい」「ちょうはずし」と読みます。人別帳から外すという意味です。
人別帳から外すということは、戸籍から抹消するようなモノで、村では処理できず
代官所へ届ける必要がありました。
しかし、あの上野原では信心深く、働き者だった由五郎がなぜ・・・?

おそらく由五郎は元々遊び人だったということが、真相ではないでしょうか。
失踪も1枚目の書状にあるように、借金というのが本当でしょう。
しかし、親も村も一度は彼の改心を信じて、参詣に行き病気になっていたという
ストーリーを作り代官所に届けたのではないかと思います。
ところが、帰ってみれば由五郎は反省もせずにまた放蕩三昧。ついに勘当・帳外
を願う始末に至ってしまった、という所でしょう。
江戸時代は連帯責任の社会です。もし、由五郎が犯罪でも犯したら親や親類、他
の村人にまで責任が及ぶこととなってしまいます。そうなる前に断腸の思いで
由五郎との縁を切ったのでしょう。

帳外となった者は村を追放され、放浪せざるを得ません。これが時代劇などでよく
出てくる無宿人です。彼らは渡世人となって博奕打ちのような裏社会に生き
るか、日雇いなどの仕事を求めて都会にやって来るしかありません。
この中から犯罪を犯したり、悪党になる者も出てきたんですね。

江戸時代も終盤になると、商業や貨幣経済が農村にまで浸透し、由五郎のように
貧困が原因ではない欠落や帳外となり、無宿人となった者が多数出てきたようです。

メガ19
このブログ記事を書く直前に「柘榴坂の仇討」を見てきたばかりなので、つい・・・。


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たき火と局長

20141025.jpg

最近、たき火ってしなくなりましたね。
ワタクシが子供の頃は、落ち葉が溜まるとよくたき火をして、お楽しみの
焼き芋を食べたものですが。
その時に落ち葉だけじゃ燃やすモノが足りないってんで、ゴミ箱のゴミまで
持ちだして焼いちゃったりして・・・。
コレがダメだったんですよね。
土中のダイオキシンが問題になって、その原因がたき火だって言われて
しまったんでした。
それ以来、たき火ってしなくなったような気がします。

学生時代に演劇をやってたことがありまして。
冬の寒いときなんか、部室の前で舞台装置さんがクズになった角材の
切れ端を燃やして暖を取ってたこともありましたが、アレもいいものでした。
芝居の稽古が始まる前に「突コン」(突入コンパ)とか言って、たき火に
鍋をかけて飲み食いしたのも、楽しい思い出です。
昭和は遠くなりにけり、ですな。

俳優の渡哲也さんて、たき火が趣味だって以前聞いたのですが・・・。
どうされているのでしょう?


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高札~江戸のルール~

以前当ブログで高札について取り上げました。
明治新政府になったので、新しい高札を立ててくださいと村がお願いをしたと
いう一件です。「新しい高札」クリック!)
この時には、新政府が立てた高札は幕府が立てた高札と中身が変わってない
じゃないか、ということをご紹介いたしました。
幕府は庶民が守るべきルールとして、正徳、享保、明和の三期に渡って4つの
高札を立てています。明治元年の「里正日誌」では、高札の具体的な記述が
書いてありませんでしたが、万延元年の「里正日誌」には高札の内容が詳しく
書かれてありましたので、それをご紹介したいと思います。
江戸時代の庶民が守らされてきたルールとは、いかなるモノだったのでしょう。

万延元年(1860)4月4日、蔵敷村では高札が古くなり文字が読みにくくなって
しまったため、役所へ持って行き書き替えを願い出ました。そして10日に高札
はリニューアルされて返ってきたようです。
その文面が日誌に残されています。
杢左衛門さんは几帳面なので助かります。写メじゃなくて、ちゃんと手書きなん
ですからね。
まずは正徳元年に出された2枚。

「きりしたん宗門は累年ご禁制である。自然と不審なる者があるときは申し出る
こと。ご褒美として
 ばてれんの訴人  銀500枚
 いるまんの訴人  銀300枚
 立ち返り者の訴人  同じ
 同宿ならびに宗門の訴人  銀100枚
右のとおり下される。たとえ同宿・宗門の内であるといっても、申し出る内容に
よっては銀500枚が下される。匿っている他所から見つかった場合については
そこの名主五人組まで一同共に罪を着せられることになる。」


これはキリシタン禁令に関するものですね。
「ばてれん」「いるまん」は司祭や宣教師のこと。キリシタンの者はどれくらいの
量刑を受けるよというよりも、密告した場合のご褒美の値段が詳しく書かれて
いるのが特徴です。
江戸時代の農村は、五人組などお互いがお互いを監視する体制が基本でした
が、それがよく生きている文面だと思います。

「一、火をつける者を知ったら早々に申し出ること。もし、隠しておけばその罪は
重い。たとえ同類であったといえども申し出たときはその罪を許され、きっと
ご褒美をくだされることである。

一、火をつける者を見つけたらこれを捕えて早々に申し出ること。見逃したり
しないこと。
 附 怪しい者がいれば探って早々に奉行所に召し連れてくること。

一、火事が起きたらみだりに集まってこないこと。
ただし、役人や指図をする者は特別である。

一、火事場へ下々の者がやってきて、理不尽に通ることはご法度であることを
申し聞かせ通すな。承知しない者は搦め捕えよ。万が一異議に及ぶ者がいたら
討ち捨てるべし。

一、火事場その他いずれの場所にても、金銀金めのものを拾ったら奉行所まで
持参すること。もし隠して他所から出てくることがあれば、その罪は重い。たとえ
同類であったとしても、申し出た者はその罪を許されご褒美をくだされる。

一、火事のとき、地車・大八車に荷物を積んではいけない。鎗・長刀・刀・脇差
などは抜き身にしないこと。

一、車長持は停止とする。たとえ誂えたものがあったとしても作るべからず。
一切売り買いしないこと。」


こちらは火災についてのものです。江戸時代は火事が多かったので、火災に関
する注意はこと細かく書かれています。
前半は放火についてですが、やはり密告を奨励しています。共犯だったとしても
申し出れば許された・・・というかご褒美までもらえるというのはホントでしょうか?
後半の火事場泥棒についても、同じことが書かれています。
注目するのは避難時についての注意。
地車は四輪、大八車は二輪の荷車ですが、火事のときはこれらで荷物を運ぶこと
を禁止しました。
三田村鳶魚の「江戸の白波」によれば、明暦の大火のときにこれらのものが往来
の妨害になったからだとしています。
車長持とは、同じく鳶魚によると大長持というデカい箱に車輪がついたモノのよう
です。これは地車や大八車よりもかさばるし、さらにこの車長持に火がついて火災
が広がったという前歴もあり、製作自体が禁止されました。

享保6年の高札を見てみましょう。

「各所にて、もし鉄砲を撃つ者がいれば申し出ること。ならびに、御留場内で鳥を
取るものを捕えるか見つけたならば、早々に申し出ること。きっとご褒美をくだされる
ものである。」


鉄砲と、禁猟地域についての規制です。
そして最後に明和7年の高札。
こちらは明治元年の日誌では詳しい中身が語られていませんでしたが、万延の日誌
で詳細がわかりました。

「何ごとによらずよろしくない事に、百姓が大勢申し合わせをして徒党を唱え、徒党
して請い願いごとを企てることを強訴という。あるいは申し合わせて村を立ち退くこと
を逃散と申す罪により御法度とする。右のことがあれば居村・他村に限らず早々に
その筋の役所へ申し出ること。ご褒美として
 徒党の訴人  銀100枚
 強訴の訴人  同じ
 逃散の訴人  同じ
右のとおり下される。その品格により帯刀苗字を許されている間、たとえ一旦同調
しても、発言者の名前を申し出ればその罪を許され、ご褒美を下されることである。

一、右のように訴人する者がなく、村々が騒ぎ立てたときに、村内の者を差し押さえ
徒党に加わらせず、一人も差し出さない村があれば、村役人で重職の者はご褒美
の銀を下され、帯刀苗字を許されている者でもそうであれば、それぞれご褒美を
下されることである。」


「新しい高札」のブログを書いたとき、明和の高札は強訴・逃散の禁止を書いたもの
ではないかとのコメントを読者の方からいただきましたが、その通りでした。
さらにココでも密告をした場合のご褒美価格を明示して、奨励しています。

こうした基本ルールが高札に書かれ、村民は守らされました。
と同時に、村の中で村民同志がお互いを監視しあうというシステムで幕府は村々を
支配していたんですね。

メガ18


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台風と総司

20141015.jpg 

このところ台風が続けてやって来ていますね。
こんな漫画を描いていて言うのもなんですが、皆さん被害はありませんか?

ところでワタクシ、今日から花粉症が再発です。
花粉症って春がメジャーシーズンですが、秋にもあるんですよね。
ワタクシもメインは春なんですが、秋にもなるんです。何の花粉に反応するのか
ワカラナイのですが・・・。
昨日、東京地方は陽射しも強く、日中はかなり暖かくて、そんな中で半日外にいたもの
ですから一気に花粉シャワーを浴びてしまったのでしょうね。
春と違って秋の花粉症はワタクシのバヤイ、7~10日ほどで治まるので、まぁそれほど
大きなトラブルにはならないのですが、鼻づまりなので、しばらくは田村正和風のしゃべり
方です。
「キミはキデイな目をじているね・・・」



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「分」じゃなくて、「村」なンです!

当ブログはワタクシが居住している東京都の端っこ、東大和市が、江戸時代に
6つほどの村々に分かれていた頃のエピソードを、その村の中の一つ
「蔵敷村」の名主の日記「里正日誌」を元に、勝手に解明していこうという、真に
ローカルな内容です。
今回は、その蔵敷村がどのような経緯を経て幕末にまで至ってきたのか、という
内容を含んだ記事をご紹介します。

万延元年(1859)7月に蔵敷村の名主、組頭、百姓代という村方三役が連名
で江川代官役所に、あるお願いの書状を出しています。
村役人が揃ってのお願いですから、相当真剣な内容なのでしょう。

「畏れながら書付をもって願い上げ奉ります
武州多摩郡奈良橋村のうち、蔵敷分の役人どもが申し上げ奉ります。
私どもの村は古くは武州滝山北条家の領地だったとの申し伝えでございますが、
(家康が)関東御入国の後は天正年中(1573~91)に
奈良橋高 167石7斗7升
蔵敷鷹  162石2斗3升
都合高330石が石川太郎右衛門の御給地に相成り、その後享保18年(1733)
御上知を仰せ出されて、御代官所支配を仰せ付けられ有難く仕合せに存じて
おります。」


長いので区切ります。
東大和市域は戦国時代は後北条氏の領地でした。北条氏の多摩地域の拠点と
言えば八王子城が有名ですが、北条氏照(四代氏政の弟)が八王子城を築く以前
の滝山城時代から、その支配下にあったようですね。
ただし、氏照が滝山城に住んだという形跡はないようで、実際には氏照の義父で
あり北条氏の傘下に入った大石氏が、東大和市域を直接支配していたものと
考えられます。
そういえば「軍師官兵衛」で八王子城攻めは、あっさりスルーされてしまいましたね。
多摩地域の歴史ファンはその日、涙で袖を濡らしました・・・。

天正18年(1590)北条氏が滅びると、徳川家康が江戸に入ります。
すると、早くも翌年から家康直属の家臣が江戸周辺の各地に配属されました。
史料に出ている石川太郎右衛門は、奈良橋に領主(地頭)として派遣されてきた家康
の家臣です。「寛政重修諸家譜」によればその年を文禄元年(1892)としていますが、
後ヶ谷村の名主・杉本林志(しげゆき)の「狭山之栞」は天正19年(1591)として
います。
その後、享保18年に何らかの理由で領地は幕府に返され、以降代官領になった
ようです。

「しかるところ、私どもの村方は元々奈良橋と別村であり、その理由はすでに御上知、
御領所となりました時の御割符・御目録等で蔵鋪村とお認めになり、右古書物
を今に所持しておりますところ、何年の頃からか奈良橋村之内蔵鋪分
と御唱えになっております。当村はすべてのお書き下げを右の名目に御認めに相なり、
右は明らかな子細であります。
その段は相わきまえませんが、前書享保年間まで御地頭が御在住のとき、奈良橋と
蔵敷の境には御地頭所の土蔵補理があり、当村の収穫物の内御地頭の取り分は
御取扱い方のこと。奈良橋村の分は御勝手向き諸賄として使い、右土蔵より西の方の
蔵敷村分は御修復料に使うと御定めになりました。
それぞれ口訳お立ておかれますことは、古老の者より次第に申し伝えられたことと
承知しております。」


さて、本題です。
蔵敷地域は代官領となったときに、書類上ハッキリと「村」として認められたハズなのに、
いつの頃からか奈良橋村の一部と扱われている。
コレはおかしいでしョ、と言うのがこの書状の大意のようです。
以前ご紹介した「組頭、水戸浪士に襲われる」(クリック!)の史料でも、代官所に
差し出した書状には「蔵敷分」と書かれています。代官所からそのように書くように言われ
ていたと思われます。

確かに蔵敷村はかつては奈良橋村に含まれた地域でしたが、正徳年間(1711~15)に
分離独立したとされます。代官領になったのはそれから20年近く経っています。さらに、
この訴えが出た万延元年はそこからさらに127年も経ってのこと。
それを今さら・・・と、蔵敷村民は言いたいのですね。
しかし、文政11年(1828)に成立した「新編武蔵風土記稿」によれば

「蔵鋪村は、奈良橋の内に属す。正徳年中分村せしといえど郡村名寄帳にも見えず、
一村には立ちがたし。ゆえにここに隷す。」


とあります。「新編武蔵風土記稿」は昌平黌の林述斎がまとめたものですから、これが
お上の正式な見解だったのかもしれません。
しかし、村役人らは訴えます。

「右につき、私どもの村が御私領だったときに蔵敷分と云って、年貢をお取立てなされて
きましたことより、自然と右の名がそのまま移ったものかと愚察しております。
しかし、元来別村である証拠は、当村の御検地帳はもちろん、御高札場についても
古くより名主杢左衛門の屋敷前に奈良橋村とは別に立ててあります。
村内の名所字名に至るまで、奈良橋村と重なっている場所は一切ございません。
いずれも別々に立ち分かれており、両村の民家も本家・分家入り混じって名字などが
同姓の者などは決して無く、二つの村はそれぞれに分かれておりますので、鎮守・氏神・
祭日なども奈良橋村とは日取りが違っております。
ことに菩提寺も蔵敷分民家の者どもは、奈良橋雲性寺の旦那は一人もおらず、両村の
しきたりのことも万端まちまちに、互いに取り計らうよう違えております。
その他、当村と奈良橋村とも以前より尾州様の御鷹場内であり、村々へお渡しになって
いる御焼印・御鑑札も奈良橋村のほか、当村の分は別に蔵鋪村とお認め、お渡しに
なっています。
いずれにしても、まったく別の村に相違ないと存じ奉ります。」


いろいろと証拠を出して、蔵敷が独立した一つの村であることを訴えています。

「これによって古来に回復し、奈良橋村の内という肩書きを御取り除きになり、以来
多摩郡蔵敷村とのみ諸事お唱え替えを相願いたき旨、従来小前末々に至るまで
挙げて志願をしてきましたので、今般畏れ多いことも顧みず願い上げ奉ります。
なにとぞ格別の御慈悲をもって、前段、別村の紛れもない御座始末を幾重にも訳を
お聞きくださり、今後は蔵敷村を一つの村としてお唱え替えすることを、願いの通り
お聞きくだされますよう偏に願い上げ奉ります。以上。
  武州多摩郡奈良橋村之内 蔵鋪分
                    百姓代 平五郎 
                    組頭   重蔵
                    名主   杢左衛門
  万延元申年7月26日
    江川太郎左衛門様 御役所     」


自分らが住む地域が他の村の一部であるか、それとも独立した一つの自治体
であるのかは、当時としても大きな問題だったようです。
さて、この一件について杢左衛門さんらは、さらにもう一手を打つのですが、それは
どういったことなのでしょうか?
ご興味のある方は、「追記」をどうぞ!
続きを読む »

土方さん、風流なり

20141007.jpg

漫画の中では秋ですが、現実世界ではまだまだ暑い日もありますね。
本格的な秋は、まだ少し先でしょうか。

しかし、風流ついでにこんな話を。
先日、東京は武蔵野市の吉祥寺駅前にある月窓寺というお寺で行われた
吉祥寺薪能を観にいってまいりました。

IMG_0552a.jpg

歌舞伎は全く知らない方にはそこそこ説明できるくらいは観ているのですが、能や
狂言は実際に観たことがないワタクシ。
大学時代の後輩が「こういうのありますよ」とチケットを取ってくれて、それではいい
機会だからと一緒に観に行きました。

薪能は、夜に屋外で篝火を焚いて、その灯りで能を楽しむという、それだけ聞いても
風流感満載の趣があります。
お寺の境内というロケーションの中、静寂と幽玄が織りなす別世界がワタクシを待って
くれているのだろうな・・・と思っていたら、

IMG_0548a.jpg

AKBの握手イベントかと見紛うような、大盛況。
え?能ってこんなに人気あるの?

なんでも今年で29回目を迎えるそうで、武蔵野市市長も挨拶に立ちましたから、
市や吉祥寺の街がそーとー力を入れているイベントなのでしょうね。
まぁ、日本の伝統文化に多くの方々が興味を持たれるのは、いいことです。

本日の演目は、狂言が「柑子(こうじ)」、能が「船弁慶」です。
「柑子」は10分ほどの短いお芝居で、主人の大事な柑子=みかんを食べてしまった
太郎冠者の、いわゆる言い訳モノ。
この太郎冠者を人間国宝の野村万作さんが演じました。

「船弁慶」は源義経、弁慶一行が頼朝からの追跡を逃れ、大物浦から船を出すと
海中から滅ぼされた平家一門と平知盛の幽霊が現れ、船を沈めようとする。しかし、
弁慶の強い法力で幽霊らを退散させる、というストーリーです。
「船弁慶」は歌舞伎にもなっていて、ワタクシも2回ほど観たことがあるので、見比べ
てみるのもいいなと期待して開演を待ちました。

IMG_0551a.jpg

火が入ると、こんなカンジです。
もっとも灯りはコレだけじゃなく、照明もちゃんと入ります。

「船弁慶」は歌舞伎と能では、まったくの別物でしたね。
ストーリーは同じですが、演出というか見せ方は全然違いました。
まぁ、当然といえば当然なんでしょうけどね。
能の「船弁慶」は前半はゆっくりと、そして後半が大きく展開してゆくのですが、
それは歌舞伎も一緒。ただ、その中盤に船頭が登場するシーンがあるのですが、
能ではそこが大きなアクセントになっていました。
この船頭を野村萬斎さんが演じていたのですが、狂言師だけあって、動きや声が
リズミカルで変化に富んでいるんですね。これは、能の「船弁慶」では通常の
演出なのでしょうか。
この狂言師のシーンが入ることによって、後半の知盛の登場が引き締まります。
まぁ、言ってみればストレートの間にチェンジアップを交ぜると、よりストレートが
生きる、みたいな。
合ってるか、この喩え?

今回はわりと後の席で、前の人の頭で舞台が若干見え辛かったのが難といえば
難でした。チケットを取ってくれた後輩が言うには、恐ろしい速さで売れていくん
だとか。
そんなに人気あるのか、能!?

今回の公演は、大会長や市長の挨拶、作品解説があり、狂言と能の間に休憩も
入って、トータルで2時間くらいでした。
ワタクシ、能はまったくのド素人でしたが、「船弁慶」のように歌舞伎になっている
演目ならストーリーはわかるし、見比べるのもいいですね。機会があったら、また
能鑑賞に行ってみたいと思います。

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それは、芹沢鴨なのか!?

前々回に、組頭の家が水戸浪士を名乗る二人組に襲われた話をご紹介
しました。
今回はそれに多少関係する話ですが、さらに新選組ファンの方も「おっ!」
と思われるのではないか、という史料です。

時間はちょっと進みまして、万延2年(1861)の「里正日誌」。

「差し上げ申します御請書のこと
一、水戸様の御領分である常陸国玉造辺りに集まっていた浪人たちが
先頃お召し捕りとなったことにつき、万が一右のうち脱走した者がこの近辺に
やって来ることも考えられるので、村々で申し合わせ、当支配所は特に厳重に
気を付けます。
右の体の怪しい者が見受けられましたら、早速手配をし召し捕るようにすべき
ことです。もっとも、兼て召し捕り方の方法は申し合わせておくべきことですが、
且つ右のことの他にも無宿者や浪人が立ち廻り、法に外れたことをするよう
なら、これまた早々に差し押さえるべきことと、仰せ渡されましたので承知
いたしました。

附 往来または渡し船のある村々は、当分の間見張りを差し出し、少しでも
怪しいと見受けられる者が立ち回ったならば、御注進申上げるべきことを
仰せ渡されました。

右のように仰せ渡された内容を一同承知奉り、小前末々までも洩らさぬように
申し聞かせ、取締りが行き届くようするべきことです。
これより村々の役人一同、連印をして請書をこのようにいたします。
  万延2酉年2月13日   当支配所 武州多摩郡蔵敷村 
                       名主 杢左衛門
 江川太郎左衛門様御手代 
          檜山金平様    」
 
 
この日、所沢村に巡回してきた代官所の檜山金平に、杢左衛門さんら村々の
代表者が集められました。
浪人や怪しい風体の者が村内に立ち寄ったならば、差し押さえるかお上に
注進せよという取締りの命令に対して、「ハイ、そのようにいたします」と
村が返答した請書ですね。
ワタクシが注目したのは、取締りの対象となっているのが「常陸国玉造」
集まった浪人たち、という点です。

この浪人たちの中に、後に新選組の初期局長を務める芹沢鴨がいた
のではないだろうか、と思うからであります。

芹沢は水戸浪士で、元天狗党を名乗り文久3年(1863)の浪士組に参加。
京都で近藤勇らと新選組を結成し、近藤、新見錦(水戸浪士)と共にリーダー
である局長の座に就きます。
永倉新八は芹沢を「巨魁隊長」と呼び、3人の中でも筆頭格であると言って
います。それほどの指導力、カリスマ性がある一方、酒が入ると凶暴になる
など素行や性格に難があり、それが故に近藤たち試衛館派から暗殺されて
しまいました。

さて、その芹沢鴨がこの史料とどう関係してくるのか?
その辺りを、お昼寝から目覚めたばかりの我が家の局長・猫のテンちゃんにも
わかるようにお話しいたしましょう。

芹沢鴨は水戸藩内芹沢村の出身で、郷士の家の三男に生まれました。その後
同じ水戸藩内の神主・下村家の養子に入り下村嗣次(継次)と名乗ります。つまり
この名前が芹沢の本名です。
当時の水戸藩が保守派の「諸生党」と改革派の「天狗党」に割れていたのは、
前々回にお話した通り。
嗣次の養子先の下村家は神官で、彼も跡を継いでいました。彼が神主を勤めて
いた神社は弟橘媛(おとたちばなひめ)神社といい、徳川斉昭が命名した神社だ
そうです。嗣次が尊王攘夷論を展開する天狗党として活動するのは、当然の流れ
であったと言えますね。

天狗党は下級藩士や郷士、豪農、神官といった階層に広がり、彼らは水戸藩が
農業振興のために地方に作った郷校という藩校に集まり、勉強会を開きました。
その中の一つに「玉造郷校」があります。
玉造郷校には100人ほどの天狗党が集い、尊王攘夷の気勢をあげ、周りからは
玉造勢とか玉造組と呼ばれていました。
そしてその玉造勢の中に、嗣次もいたのです。
嗣次が生まれた芹沢村は玉造にあったため、地理的に馴染みもあったのでしょう。

この玉造勢が、冒頭史料の「玉造に集まっていた浪人たち」に当たると思います。
彼らがただ勉強会をするだけならいいのでしょうが、これがまた荒っぽい集団だった
から問題になったのです。
彼らの活動といえば、集団で商家などに押し入り、政治資金を押し借りすること。
これを玉造(行方市)周辺だけではなく、府中(石岡市)や佐原村(千葉県香取市)に
まで遠征して、やりたい放題に暴れまわっていたのです。
なかでも、万延2年1月20日、佐原村に逗留していた玉造勢7人が、名主や旅籠と
いった有力者から攘夷を名目に1000両を要求するという事件を起こしました。
要求を拒む(当然ス;)町役人らに彼らは乱暴を働いたのですが、その7人の中に
嗣次もいたというんですね。
特に嗣次は持っていた鉄扇で、町役人をタコ殴りにしたっつーんだから、恐ろしい。
2月になって、玉造勢は藩からの説得によって解散させられます。
ところがその命令を無視して8人が脱走。その中にまたしても嗣次がいたのです。

さて、冒頭史料の日付を見てみましょう。
2月13日の記載があります。
この内容は、解散命令を無視して脱走した嗣次らを指しているとみて間違いないの
ではないでしょうか。
脱走者らの名前が記されていないのが残念ですが、呼び出しを受けた杢左衛門
さんらは代官所の檜山金平さまから、口頭でその名前を聞いていたかもしれません。

それにしても、水戸から遠く離れた狭山丘陵にまでこのような手配書が回ってくる
など、そんなに脱走者らの行動はアクティブだったのでしょうか?
暴力事件を起こした佐原村は水戸領内ではなく、旗本の知行地でした。そのため、
この事件の捜査には関東取締出役が出動していたようで、その関係で江川代官領
にまで連絡が回ってきたのかもしれません。
実際には嗣次は実家の近くで捕まって、2月28日に投獄されています。

獄中で同じく脱走した仲間が次々と死んでいく中、嗣次は1年10ケ月を生き抜き、
特赦によって釈放。
次に現れたのは文久3年2月の江戸小石川伝通院。新見錦や平山五郎といった
仲間を引き連れ、浪士組に参加するためです。
そのときには芹沢鴨と名前を改めていました。

ところで、蔵敷村と同じ東大和市域にあった後ヶ谷村の「杉本家文書」にも、玉造と
具体名はないものの、同様の記録が残されています。
江川代官領の村々の名主が、この一件で呼び出されたようです。
ということは、同じ江川支配地である日野宿にも同内容が伝えられていたのではない
でしょうか?
もしそうだとすれば、佐藤彦五郎を通して近藤勇や土方歳三も、水戸の玉造勢の中に
やたら粗暴な男がいることを、浪士組以前に知っていた可能性があります。
「コイツは危険な御仁どもだ・・・」
文久3年9月に起きた近藤らの芹沢鴨粛清には、すでに多摩時代から入っていた
情報も作用していたのかもしれません。
日野にこの玉造勢関係の史料、残ってないですかね?

※万延2年=文久元年ですが、改元は3月1日から。

メガ16

しかし、芹沢センセー。
昔っから「鉄扇」を使って暴れていたんですねー。
よっぽど鉄扇が好きなんだな。
「おぅ、この鉄扇でラスボス戦までいけっぺよぉッ」(茨城訛りの芹沢氏・談)


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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