幕末と聞くと「ニッポンの夜明けぜよ!」とか言って、なんとなく未来が明るく
開けてくるようなイメージがありますが、実際には政府(幕府)が傾いてきた
のですから世情も不安定となり、物騒な事件も多発したようです。
万延元年(1860)の「里正日誌」には、こんな事件が載っています。
「鈴木重蔵強盗難の訴え
畏れながら書付をもって申し上げ奉ります
一、金1両1分1朱 内訳 1分金1つ 1分銀3つ 1朱銀1つ
一、およそ銭13貫ほど 内訳 100文銭100貫文ほど
4文銭鉄・錫交じり5貫文ほど
右は武州多摩郡蔵敷分の組頭である重蔵のことで、石高3石3斗余りを
所持し、家族5人暮らしで農間穀物荒物渡世で生活しております。
それが今月5日夕五ツ時(20時)頃、手ぬぐいで顔を隠し抜き身(刀を鞘
から抜いた状態)を携えた者が2人、門先へ参上し、「我々は水戸浪人で
あるが持ち合わせの金に差支えがあり、金を貸してもらいたい」と申すので
家中の者が驚き恐怖となったので、追い返さなければと思い、前書きの
1両1分1朱を取り集めて「有り合せの金はこのほかにはない」との旨を
申し差し出しましたが、「わずかばかりの金では承知できない。貯め置いた
包み金を差し出せ。もし声を立てれば斬り殺す」と脅し、両人のうち1人が
土足のまま座敷に踏み込み、戸棚の中を所々探し、書面で書いた売り上げ
の銭を盗み取り逃げました。
早速、近隣へ様子を、所々手分けして行方を尋ねましたが、もはやどこかへ
逃げ去ったか、更なる手がかりはございません。
もっとも、右の始末については、一同恐怖のあまり人相や衣服の見当が
ありません。よってこのことを訴え申し上げます。以上。
武州多摩郡蔵敷分 役人惣代名主 杢左衛門
万延元申年6月11日
江川太郎左衛門様
御役所 」そーとー恐ろしいコトが書いてあります。
一家団欒の中、刀を抜いて2人組の強盗がやってきて、金を盗っていったと
いうんですから!
彼らは「水戸浪人」と名乗っています。
当時の水戸藩は保守派の「諸生党」と、改革派の「天狗党」の二つに分かれて
争っていました。しかし、改革派側だった藩主の斉昭が安政の大獄で蟄居を
命じられると、藩の中心は保守派に傾きます。
天狗党からは藩にいられなくなり脱藩する者が出てきました。
こうした者たちはやがて食い詰めますから、武装化して商家や農家を襲う
強盗団になるケースが多かったのです。
有名なところでは、新選組創立時の局長だった
芹沢鴨。
彼がまさにこうしたハグレ天狗党で、暴力事件を起こし、逮捕され獄に繋がれ
死罪の一歩手前まで行った人でした。
重蔵さんの家に押し入った2人組は、この天狗党を名乗ったのだと思います。
でも、本当に天狗党だったのか・・・?その可能性は低いんじゃないかなぁ。
だって強盗が自分の身分を明かすようなこと言いますか?
「水戸浪人(天狗)を名乗れば、みんな恐怖に震えるゼ」くらいの考えだったの
ではないでしょうか。
しかし、当時すでにハグレ天狗党の暴力悪名が、多摩の片田舎まで浸透して
いたというのは興味のあるトコロです。
ちなみに藤田小四郎(東湖の子)が天狗党を率いて筑波山に挙兵し、大事件
を起こすのは4年後の元治元年(1864)です。
さて、一方の襲われた側、重蔵さん一家ですが。
実はこの家、この事件の3カ月前の3月14日にも泥棒に入られているのです。
この時はみんなが寝静まった深夜、家の裏にあった穀箱に入れてあった雑穀
(大豆4俵、エンドウ豆1俵)をヤラレています。
たった3ヶ月の間に2回も盗みに入られるなんて、アンラッキーにもほどがある
としか言いようがありません・・・。
いや、本当にアンラッキーなだけでしょうか?
重蔵さんの家だけが狙われていた、というコトはないでしょうか?
書状の冒頭、重蔵さんは
農間穀物渡世と書かれていますね。
ここにヒントがありそうです。
江戸時代、農民は米や野菜を作ることが本業とされ、商売をすることは禁じられ
ていました。つまり、農民は貨幣経済には参加するなということです。
しかし、これは現実的ではありません。
貨幣経済が浸透する江戸後期は当然のこと、1700年代初頭より狭山丘陵近辺
の農村一帯では、貨幣経済に頼るしかない状況がありました。
以前にも書きましたが、この一帯は大きな河川や湖沼が無いため水田が少なく、
畑作が中心でした。この場合、
年貢は金納とされました。
さらに、畑作をするにも土地が痩せているので多くの肥料を必要としました。当初は
落ち葉などを利用する有機肥料が使われましたが、収穫高を上げるため糠や干鰯
などの
金肥の購入が必要となってきたのです。
このため、村人らは何らかの手段で現金を手に入れなければなりませんでした。
幕府もこの状況を認め、
農作物や薪の売買、
薪を運ぶ駄賃稼ぎ、
養蚕・
機織りによる労賃稼ぎ等を許します。
これを
農間稼ぎといいます。
簡単にいうと、農業の間に行うアルバイトという意味でしょうか。
時代が下がると、農業を本業としながらも専門業や店舗をかまえる村人が出て
きます。こうした副業は東大和市域では酒小売商、質屋が多かったようですが、
渡世といいました。
重蔵さんは農間穀物渡世だったと書かれています。
大豆やエンドウ豆を売買するか、あるいはそれらを担保に肥料代などを村民に貸す
質屋だったのではないでしょうか。
重蔵さんは
組頭でもありました。
組頭とは名主、百姓代と並んで村方三役の一つです。日本史の授業でなんとなく
教わった記憶もありますよね。
村では五人組という連帯責任を負わされますが、その代表者が組頭です。しかし、
東大和市域ではもっと大きな区分から選ばれたようで、それだけ村内では有力者
であったことがわかります。
また、これは全国レベルで同じことかどうかわかりませんが、狭山丘陵周辺では
組頭が村内で店を開くということになっていました。
つまり、組頭の家は商売をしているため、常時現金があったことになります。
2人組の浪人はそのことを知っていたからこそ、家の中の隅々まで探し、売上金
をさらって持って行ったのでしょう。
江戸時代末期の多摩地方では剣術が大いに流行りました。
村の名主や組頭といった富裕層が、自分や家族の身や財産を守るための手段と
して剣術を学んだのですね。
天然理心流が多摩地域で広がった背景には、こういう理由があります。
この頃はすでに関東取締出役が辺りを巡回していましたが、基本は自分の身は
自分で守る、ということ以外なかったようです。
この書状のように被害届を代官所に出していますが、犯人が捕まったかどうかは
わかりません。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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