秋の斎藤一

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えー・・・、七月に駒形どぜうクリック!)を食べにいったことをレポートしましたが、
その時に会食した同じメンバーで、またもや江戸時代創業の老舗料理店
食事をしてまいりました。
今回も駒形に近い浅草の

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天ぷら「三定」でございます。
創業は天保8年(1837)。江戸時代から続く天ぷら屋で、江戸(東京)に残っている
店はもはやココだけだそうです。
近藤勇局長が生まれたのが天保5年、土方さんは天保6年ですから、お二人が
3歳、2歳のときに開店したのですね。

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場所は雷門の真横ですから、すぐわかります。
今回行ったのは夜ですが、昼食どきなどいつも混んでいますよね。
団体さんや外国からのお客さんも多いみたいです。
たぶん、アメリカの「るるぶ」みたいな本に紹介されてるんじゃないですか?

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この日は会席ということで、天ぷらは海老や野菜などの盛り合わせ。
しかし、実はココのお店の一番の売りは「かき揚げ丼」です。
かき揚げはふんだんに小柱や小エビを使っていまして、小・中・大の大きさから
選べます。これが、ショウウィンドウに飾ってある見本よりもはるかにデカイ。
ワタクシ、何度かココのかき揚げ丼をいただいたことがあるんですが、たいてい
中サイズでかき揚げが丼からハミ出てます。
ちなみに、天丼は三定が発祥という説もあるそうです。

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組頭、水戸浪士に襲われる

幕末と聞くと「ニッポンの夜明けぜよ!」とか言って、なんとなく未来が明るく
開けてくるようなイメージがありますが、実際には政府(幕府)が傾いてきた
のですから世情も不安定となり、物騒な事件も多発したようです。

万延元年(1860)の「里正日誌」には、こんな事件が載っています。

「鈴木重蔵強盗難の訴え
畏れながら書付をもって申し上げ奉ります
一、金1両1分1朱  内訳 1分金1つ 1分銀3つ 1朱銀1つ
一、およそ銭13貫ほど  内訳 100文銭100貫文ほど 
                4文銭鉄・錫交じり5貫文ほど

右は武州多摩郡蔵敷分の組頭である重蔵のことで、石高3石3斗余りを
所持し、家族5人暮らしで農間穀物荒物渡世で生活しております。
それが今月5日夕五ツ時(20時)頃、手ぬぐいで顔を隠し抜き身(刀を鞘
から抜いた状態)を携えた者が2人、門先へ参上し、「我々は水戸浪人で
あるが持ち合わせの金に差支えがあり、金を貸してもらいたい」と申すので
家中の者が驚き恐怖となったので、追い返さなければと思い、前書きの
1両1分1朱を取り集めて「有り合せの金はこのほかにはない」との旨を
申し差し出しましたが、「わずかばかりの金では承知できない。貯め置いた
包み金を差し出せ。もし声を立てれば斬り殺す」と脅し、両人のうち1人が
土足のまま座敷に踏み込み、戸棚の中を所々探し、書面で書いた売り上げ
の銭を盗み取り逃げました。
早速、近隣へ様子を、所々手分けして行方を尋ねましたが、もはやどこかへ
逃げ去ったか、更なる手がかりはございません。
もっとも、右の始末については、一同恐怖のあまり人相や衣服の見当が
ありません。よってこのことを訴え申し上げます。以上。
              武州多摩郡蔵敷分 役人惣代名主 杢左衛門
 万延元申年6月11日 
   江川太郎左衛門様 
       御役所                」


そーとー恐ろしいコトが書いてあります。
一家団欒の中、刀を抜いて2人組の強盗がやってきて、金を盗っていったと
いうんですから!
彼らは「水戸浪人」と名乗っています。
当時の水戸藩は保守派の「諸生党」と、改革派の「天狗党」の二つに分かれて
争っていました。しかし、改革派側だった藩主の斉昭が安政の大獄で蟄居を
命じられると、藩の中心は保守派に傾きます。
天狗党からは藩にいられなくなり脱藩する者が出てきました。
こうした者たちはやがて食い詰めますから、武装化して商家や農家を襲う
強盗団になるケースが多かったのです。
有名なところでは、新選組創立時の局長だった芹沢鴨
彼がまさにこうしたハグレ天狗党で、暴力事件を起こし、逮捕され獄に繋がれ
死罪の一歩手前まで行った人でした。

重蔵さんの家に押し入った2人組は、この天狗党を名乗ったのだと思います。
でも、本当に天狗党だったのか・・・?その可能性は低いんじゃないかなぁ。
だって強盗が自分の身分を明かすようなこと言いますか?
「水戸浪人(天狗)を名乗れば、みんな恐怖に震えるゼ」くらいの考えだったの
ではないでしょうか。
しかし、当時すでにハグレ天狗党の暴力悪名が、多摩の片田舎まで浸透して
いたというのは興味のあるトコロです。
ちなみに藤田小四郎(東湖の子)が天狗党を率いて筑波山に挙兵し、大事件
を起こすのは4年後の元治元年(1864)です。

さて、一方の襲われた側、重蔵さん一家ですが。
実はこの家、この事件の3カ月前の3月14日にも泥棒に入られているのです。
この時はみんなが寝静まった深夜、家の裏にあった穀箱に入れてあった雑穀
(大豆4俵、エンドウ豆1俵)をヤラレています。
たった3ヶ月の間に2回も盗みに入られるなんて、アンラッキーにもほどがある
としか言いようがありません・・・。

いや、本当にアンラッキーなだけでしょうか?
重蔵さんの家だけが狙われていた、というコトはないでしょうか?

書状の冒頭、重蔵さんは農間穀物渡世と書かれていますね。
ここにヒントがありそうです。

江戸時代、農民は米や野菜を作ることが本業とされ、商売をすることは禁じられ
ていました。つまり、農民は貨幣経済には参加するなということです。
しかし、これは現実的ではありません。
貨幣経済が浸透する江戸後期は当然のこと、1700年代初頭より狭山丘陵近辺
の農村一帯では、貨幣経済に頼るしかない状況がありました。

以前にも書きましたが、この一帯は大きな河川や湖沼が無いため水田が少なく、
畑作が中心でした。この場合、年貢は金納とされました。
さらに、畑作をするにも土地が痩せているので多くの肥料を必要としました。当初は
落ち葉などを利用する有機肥料が使われましたが、収穫高を上げるため糠や干鰯
などの金肥の購入が必要となってきたのです。
このため、村人らは何らかの手段で現金を手に入れなければなりませんでした。

幕府もこの状況を認め、農作物や薪の売買、薪を運ぶ駄賃稼ぎ、養蚕・
機織りによる労賃稼ぎ
等を許します。
これを農間稼ぎといいます。
簡単にいうと、農業の間に行うアルバイトという意味でしょうか。

時代が下がると、農業を本業としながらも専門業や店舗をかまえる村人が出て
きます。こうした副業は東大和市域では酒小売商、質屋が多かったようですが、
渡世といいました。
重蔵さんは農間穀物渡世だったと書かれています。
大豆やエンドウ豆を売買するか、あるいはそれらを担保に肥料代などを村民に貸す
質屋だったのではないでしょうか。

重蔵さんは組頭でもありました。
組頭とは名主、百姓代と並んで村方三役の一つです。日本史の授業でなんとなく
教わった記憶もありますよね。
村では五人組という連帯責任を負わされますが、その代表者が組頭です。しかし、
東大和市域ではもっと大きな区分から選ばれたようで、それだけ村内では有力者
であったことがわかります。
また、これは全国レベルで同じことかどうかわかりませんが、狭山丘陵周辺では
組頭が村内で店を開くということになっていました。

つまり、組頭の家は商売をしているため、常時現金があったことになります。
2人組の浪人はそのことを知っていたからこそ、家の中の隅々まで探し、売上金
をさらって持って行ったのでしょう。

江戸時代末期の多摩地方では剣術が大いに流行りました。
村の名主や組頭といった富裕層が、自分や家族の身や財産を守るための手段と
して剣術を学んだのですね。
天然理心流が多摩地域で広がった背景には、こういう理由があります。
この頃はすでに関東取締出役が辺りを巡回していましたが、基本は自分の身は
自分で守る、ということ以外なかったようです。
この書状のように被害届を代官所に出していますが、犯人が捕まったかどうかは
わかりません。

メガ15

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義兄は佐藤彦五郎

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9月14日の日曜日、東京都日野市の大昌寺にて、佐藤彦五郎忌
執り行われました。
ワタクシも行くつもりだったのですが、午前中に用事が入ってしまい11時から
行われた法要には出られませんでした。
ただ、午後から場所を立川市の「女性総合センターアイムホール」に移しての
講演会には予約をしていたこともあり、出席してまいりました。

大昌寺さんには何度か足を運んだことがあり、佐藤彦五郎・のぶ夫妻のお墓
参りはしたこともあるので、今回法要に参加できなくともそれほど残念感はなかった
のですが、後で聞いたら普段は入れない本堂の中に入れてもらえたそうで、御本尊
さまや壁の装飾画が素晴らしかったことを聞き、一気に残念感がビッグウェーブで
襲ってまいりました。
ある方から撮らせていただいたという写真を見せてもらったのですが、御本尊さまが
安置されている脇に描かれた絵が4人の天女で、これがデジカメ画面で見ても美しく、
ワタクシ「残念ノースショアの海」に撃沈したのであります。
あぁ・・・来年は絶対、大昌寺法要に参加しよう・・・!

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こちらの写真は、以前撮影した大昌寺
浄土宗のお寺で、芝増上寺の末寺になるため、屋根瓦には「三つ葉葵」の
紋があります。

佐藤家墓所1a


彦五郎・のぶ夫妻を含めた、佐藤家の墓所。
以前にも触れましたが、のぶは明治元年(1868)から名乗った名前で、それ
以前は「とく」といっていました。だから、トシさんは「とく姉さん」と呼んでいた
ハズです。

さて、午後からの講演会は、新選組研究で有名な伊東成郎さんが講師となって、
イロイロと新選組、その関係者にまつわる新情報を語ってくれました。
なかなか面白かったですゾ。
あんまり公言しちゃイケナイのかもしれないので、詳しい内容は控えますが、

松平容保公の人柄がわかる、明治以降のエピソード
大石鍬次郎の剣術に関する史料数点
芹沢鴨の水戸時代の暴力伝説
斎藤一晩年のインタビュー談話
甲陽鎮撫隊の行軍状況についての新史料  等々


他にも近藤さんや歳さん、市村鉄之助さんに関する話もありました。
そうそう、今放送中の「花子とアン」に関係した話もありましたよ。
結城無二三(ゆうき むにぞう)という、ほんのわずかの間在籍していた隊士が
いるのですが、その娘の古屋登世子さんという方が白蓮さんの女学校時代の
先輩で、非常に仲がよかったそうです。
蓮さまはそーとーな天然で、キャベツが畑で採れることを知らなかったとか。
蓮さまの先輩ってことは花子の先輩でもあるのかな、と思うのですがその話は
なかったです。

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講演会の様子です。
向かって左側のお二人は彦五郎さんのご子孫。
右の白いシャツの方が伊東氏です。

最後に本日の戦利品。

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講演会のチケットと、予約特典の「土方歳三Tシャツ」でございます!
来年はコレを着て、大昌寺に行く!!


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鷹場は大変なンです!

今回から時代がちょっと遡りまして、「万延・文久編」となります。

安政7年(1859)は江戸城が火事になったり、大老の井伊直弼が暗殺されたり
(桜田門外の変)したので、「縁起悪りぃーや」ってことになったのでしょう。
3月に「万延」と改元されます。
その年の正月、狭山丘陵の村々に次の廻状がまわってきました。
改元前ですから、安政7年1月ということになります。

「御鷹場ご案内より例年廻状
御鷹合札や小鳥札、その他諸々の鑑札を改め、かつ例年の通り御鷹場御法度
証文を申し付ける。そこで、村役人は印判を取り揃えて、来る18日の朝四ツ時
(午前10時)に間違いなく持参いたすべきことである。
廻状は早々に順番通り送り、最後の村よりその時に返すべし。以上。
          御鷹場御預御案内  村野源五右衛門   
  申正月13日   
 宮澤新田 殿ヶ谷新田 中里新田 (以上立川市)
 箱根ヶ崎村 石畑村 殿ヶ谷村 (以上瑞穂町)
 岸村 三ツ木村 横田村 中藤村 (以上武蔵村山市)
 芋窪村 蔵敷村 奈良橋村 高木村 後ヶ谷村 清水村 宅部村 (以上東大和市)」

※村名は現市町村ごとに並べ変えました。

多摩地域は幕府の直轄である天領と、旗本らに与えられた私有地が入り混じって
いることは以前にも書きましたが、その他に尾張藩の鷹場と指定された
区域がありました。
万延(まだ安政7年だけど)に入って1パツ目の史料は、その鷹場についての史料
です。

東大和市を含む多摩地域が尾張藩の鷹場に指定されたのは、江戸時代もかなり初期
の頃です。
寛永10年(1633)に3代将軍徳川家光が御三家に対し、江戸の西側にあたる多摩・
入間・新座郡を尾張藩、北側の埼玉・葛飾郡を紀伊藩、東側の下総を水戸藩に鷹場と
して与えました。
幕府ができてから30年。徳川政権は安定期に入ったものの、関ヶ原や大坂の陣を
知る者、敗れた者がまだ生きている時代です。御三家に江戸周囲を鷹場として与えた
のは、治安維持と万が一の防衛ラインを考えてのものだったと思います。

ややこしいのは、これらの地域は年貢徴収や裁判は代官(天領)や地頭(私有地)が
行うわけですが、その中でも鷹場に指定された区域は御三家の鷹役も支配するという
二重支配を受けたことです。
これが村々にとっては大きな負担となりました。

たとえば・・・。
寛永21年(1644)に尾張藩主・徳川義直は鷹狩りをするために多摩郡前沢村(東久
留米市)にやってきますが、まさか殿さまがダチと2,3人で来るなんてコトはないワケで。
東大和市史によれば、「付家老の成瀬正虎(犬山城主・3万5000石)ら家臣95人と
中間、足軽など1000人以上が供に加わっていた。このため、前沢村では80軒の
百姓が宿に指定されたのである。」とあります。
「この鷹狩りに使用される荷物を運搬するため、多摩・入間郡53ヶ村は1166人の
人足を出すように命じられた。東大和市域から清水村・宅部村が30人、後ヶ谷村・
内堀村が20人、高木村が7人、奈良橋村が20人、蔵敷村が15人、芋久保村が40人、
合計132人が徴発されたのであった。」

鷹役と呼ばれる役人は、尾張藩から派遣される人と村の中から選ばれる人の2種類
がありました。
前者は鷹匠鳥見という役職。
鷹匠は殿さまの鷹を訓練する調教師ですね。時代劇でもよく出てきます。村の娘に
目をつけて手籠めにしようとして、反抗されると「お鷹さまにキズをつけた!」とか
難クセつけて斬り殺しちゃう。戸浦六宏とか菅貫太郎とかが嬉々として演じてくれる、
ヒドイ奴と大抵は相場が決まっています。
まぁ、最後は念仏の鉄にノドの骨を折られちゃうんですけどね。

しかし、実際に村々と大きく関わったのは鳥見の方でした。日常的に鷹場を管理し、
村と尾張藩の連絡を取り次ぐ役目を果たしていたからです。

一方、村民の中から出されたのが、鷹の餌を調達する餌差と、鷹場を管理し藩との
連絡を調整する御鷹場預かりです。
冒頭の廻状に出てくる村野源五右衛門さんは砂川村(立川市)の名主ですが、この
ような地域の実力者が御鷹場預かりになりました。
「里正日誌」の解説によれば、「区域内の村々は、毎年正月に鷹合札・小鳥札などの
鑑札が改められ、鷹場の御法度を記した証文を鷹場預案内に提出しなければなら
なかった。」とあります。
御鷹場預かりは、支配地域の中でかなりの権限を持っていたことが予想されます。
次にご紹介するのは、その「鷹場の御法度を記した証文」です。

「御鷹場内の村々の例年の請け書
御鷹場に住む百姓たちの家を建てる願いについてです。古来からある本家をはじめ、
自分勝手に一旦取り片づけておいて、追って何年か過ぎて元の場所に家を建てたい
と願い立てをする者もあります。何年も久しく空き地、または木々などが生えた場所
に願い立てをすることもあると聞き、ふさわしくないことです。
以来住居向きをはじめ、一旦取り壊した場所へ、期限を決めて10年間空き地同様
だった場所へ以前のような建物を建てたいというときでも、新しい土地に家を建てる
ときと同様に心得て願い立てるべきことです。
期限内に由来の通り建てることは、これまで通りと心得て願い立て申すべきことです。

一、新しい土地に家を建てることをはじめ、建てたいことを前もって願い立て聞き請け
ることは、すでにしばらく期限も経った上で取り立てたこともあると聞き、これもまた
ふさわしくないことです。今後3年間は許していただけますが、右の期限を過ぎれば
新規同様と心得て願い立て申すべきことです。

一、家を建てる願いを、以前勝手に普請に取り掛かったこともあると聞き、心得違い
のことです。これからは右のようなことがあれば、速やかに建てた家を取り払うべき
ことです。
    万延元年申正月       村々(名主・組頭・百姓代)連印
 御鷹場御案内 
   村野源五右衛門殿  」
   

村の中で家を建てるときも、鷹場役人の許可が必要だったということです。
なかなかうるさいコトを約束させられています。
この他、村々が守らされた御法度にはどんなモノがあったのか?
延宝7年(1679)という古い時代の記録ですが、尾張藩鳥見と当時の御鷹場預かり
だった田無村の下田孫右衛門に、小川新田の名主・市郎兵衛が提出した請書が
あります。東大和市史に書いてあるその内容を要約すると・・・

尾張藩以外の者が鷹狩りをしないようにするため、鷹狩りをする者が証拠に持つ
  合札を確かめること。
鷹を持って通行する者がいれば、誰の鷹であるかを調べて鳥見に報告する。
鷹狩りの際は脇道に至るまで清掃し、道や橋を修繕する。
鷹狩りの際は犬、猫をつないでおく。
鷹の餌にする小鳥を保護するため、鳥の追いたて、飼育、罠を禁止する。
鹿やムジナも追ってはならない。
餌差であっても、ウズラ、ヒバリ、キジを取ってはならない。
冬田に水を入れてはいけない。
もし鉄砲を撃つ者がいたら、住所姓名を聞きだし、鳥見に報告すること。
村々に預けてある合札は厳重に保管すること。
鷹場御用の廻状が来たら、昼夜を限らず直ちに必要の所へ届けること。


こと細かに、様々な制限や負担が掛けられたようですね。
現在の東大和市ではさすがに鹿や猪はいませんが、江戸時代はガンガンいたみたい
です。それらの動物は田畑を荒らすわけですが、鷹場に指定された村では勝手に
駆除することができなかったのです。

鷹場は生類憐みの令によって元禄6年(1693)に廃止されますが、享保2年
(1717)に再興されます。そして毎年のように村々は「里正日誌」にあるような請書
を御鷹場預かりに提出していたんですね。
鷹場制度がなくなったのは慶応3年(1867)のことでした。


鹿やムジナ(穴熊)、猪はいなくなりましたが、タヌキならまだ東大和市に生息して
います。モチロン、野生。
これがまた、ウチの庭によく来るんですよ。すぐ近所に多摩湖があるので、その周り
の林からやって来るみたいです。
我が家の大幹部・ポンちゃんと、窓越しににらみあってます。

メガ14

お互い威嚇するワケじゃなく、見てるだけ。
ネコとタヌキだと種類が違うから、縄張り意識とかは起こらないのでしょうか。
ちなみにリアルだと、こんなカンジ。

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案外ホッソリとしています。
ところで、住宅地で見かけるタヌキって、体毛が抜けている場合が多いのです。
この写真のコもそうでした。
だからホッソリと見えるのですね。タヌキというより、チュパカブラに近いビジュアル
でしょう?
郷土博物館の方に聞いたのですが、タヌキがドッグフードやキャットフードを食べ
ると疥癬になってしまうのだそうです。
毛が抜けてしまうと、冬の寒さに耐えきれず死んでしまいます。
良い子のみなさん、野生のタヌキを見かけても、エサをやらないようにしましょうね。


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「里正日誌」万延・文久編

いつも当ブログへご訪問いただき、まことにありがとうございます。
このブログはワタクシの住む東大和市の、江戸時代の名主・内野杢左衛門と
いう方が書き残した「里正日誌」を元に、「幕末時代の多摩地域の様子
はこんなでした」という記事のご紹介。それと、ワタクシの好きな新選組のマンガ、
という二部構成でお届けしております。

黒船が来航した嘉永年間(1850年代)からスタートしてきましたが、ついに大政
奉還を迎え、戊辰戦争も突っ切って、明治の世に突入してしまいました。
「里正日誌」は明治に入ってからも書き続けられていますが、このブログは幕末
をテーマ
としております。
ワタクシの考えでは幕末は「黒船来航~箱館戦争終結」
と捉えておりますので、一先ずココで終了した方がいいのかなぁ、
・・・と思ったのですが。

東大和市教育委員会から先日、「里正日誌 第八巻 万延元
年~文久三年」
が刊行されることとなりました!

「里正日誌」は原本を、市が研究者の方に解読・編集していただき、活字にして
出版されているのですが、まぁ、予算とかイロイロあるのでしょうね。全てが刊行され
ているのではなく、現在のところ第七巻(安政年間)、九巻(元治・慶応年間)、十巻
(明治元~2年)までしか出版されていなかったのです。

先ずは比較的時代が新しい幕末から解読するのはわかりますが、なぜ途中の文久
年間が抜けていたのか?
これがサッパリわかりません。
だって、この辺りが幕末で一番美味しいトコロでしょ。
ロースの入ってない焼肉セットというか、エビ天の入ってない天ぷら蕎麦というか、
レイバンのグラサンをかけていない70年代の渡哲也というか・・・それくらい重大な
物足りなさでしょ、幕末から文久が抜けるって。

「幕末多摩・ひがしやまと」では、「里正日誌」から万延・文久のエピソードを辿れなか
ったので、市内の他の史料や郷土史家の先生に聞いた話などを元にブログを書いて
きました。
しかし、ここにきて、ようやくワタクシのような一般ピープルにも万延・文久の「里正
日誌」を読める機会がやってきました。

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早速、郷土博物館に行って購入してまいりました!
定価1400円ッ!うおぉぉーーー!
現在、面白そうなトコロをセレクトして読み始めております。

ということで、次回より
「幕末多摩・ひがしやまと 万延・文久編」
をスタートさせることといたします。
時代が8年ほど遡りますが、幕末真っ只中の多摩地域の詳細をお伝えでき
ればと思います。
チラリと予告いたしますと、「浪人が増えて世情が不穏になってきた」話や、
「皇女和宮御下向で大変」な話、「名代官江川太郎左衛門が亡くなった影響」
そして幕末多摩に欠かせない「農兵制度」。そんな内容でお送りしたいと思って
おります。

20140905.jpg

んー・・・、どうしますかねぇ。
漫画まで多摩に戻っちゃうと、おゆうさんとか、深雪・お孝姉妹とか描けなく
なっちゃうんで・・・。
そのまま、続ける方向で行きましょう。

ココから先、全くカンケーない話

新聞などでご存知の方も多いかと思いますが、「ゆるキャラグランプリ2014」
クリック!)てのがありまして、我が東大和市からも1人、つーか1匹、
エントリーしてるんですワ。
それが、これ。

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「うまべぇ」といって、東大和市が主催して行っている「B級グルメ大会」
のキャラなんですよね。
イヌがベースなのかな?まぁ、ゆるいって言えば、ゆるいよね。
て言うかね、この名刺は公民館でもらったんだけどさ、キャッチフレーズのトコに
「あなたのおいしい1俵を!!」
て書いてあるでしょ。この「俵」は食べ物イベントキャラだから「票」と「俵」をかけて
るんだけど、名刺を配った人がそれを理解してなかったのね。
「俵」に横線入れて、「票」って書き直してあるのさ。

このコト自体がゆるいでしょ!
ゆるいっつーか、東大和市が本気でコイツを押そうとしてんだか、どうしたいんだか
スキだらけ感がダダ漏れです。
そーいう背景までポイントに入れていいんなら、このゆるゆる加減は他の自治体の
追随を、まさにユルさないンですがなッ!

メガ13

来年は行きます!


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