お孝と局長 2

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毎日暑い日が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?
関東地方もようやく梅雨明けしましたが、今年の梅雨は長かったですねぇ。

こう暑いときには精をつけよう・・・ってワケでもないんですが、先日浅草駅近くに
あります「駒形どぜう」で泥鰌鍋を食べてまいりました。

IMG_0480a.jpg

ココ美味しいんですよね。
ワタクシ何回か来たことがありますが、最近はご無沙汰してましたので久し
ぶり。現在、店の外側が改修工事中なのがちょっと残念・・・。

IMG_0482a.jpg

泥鰌は甘味噌仕立てに煮込まれた状態で、平たい鉄鍋に入れられて出て
きます。泥鰌は生きているときに酒の中を泳がせるそうで、それが骨まで
柔らかくするのだそうです。
鍋が沸騰してきたら・・・

IMG_0483a.jpg

刻みネギをタップリとかけていただきます。

泥鰌って食べるのは苦手って人も多いですよね。
ワタクシが子供の頃は、魚屋さんの店先にバケツに入った泥鰌が泳いで
いたもので、その頃は「ペット用」として売られているのかなと思ってました。
まさか「食用」とは思ってなかったので、ワタクシも最初食べるときは若干
抵抗がないでもなかったのですが、食べてみると・・・うん、美味しいね。

この日は泥鰌鍋のほか、玉子でとじた柳川鍋、味噌汁の泥鰌汁という
ドジョウセットで、かなり満腹。
もう1年くらい泥鰌はいいかな、というくらいいただきました。




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金札相場

太政官札は信用が低く、正金よりも低い価値でしか取引きされない状態が
続いています。
由利公正に替わってこの問題に対処することになったのが、大隈重信です。
当時、日本の通貨は江戸時代から続く「両」をそのまま使っていました。
鋳造技術も旧幕時代そのままでしたし、偽造貨幣も多く貿易先の外国からは
しょっちゅうクレームが入ります。
大隈は通貨の大リニューアルをしなければならないと考えたのでした。

「まず、わかりにくい4進法から10進法へ改めるだろ。それと一分金とかって
四角いけど、アレって貿易なんかで大量に使うと角っコが摩耗しやすいらしい
んだよね。西洋の通貨ってみんな円形だよね。やっぱ、お金は円い方が
キテるってかんじ?」

こうして、日本の通貨が「円」となるのですが、それはまだチョイ先の話。
金札の信用も高めなければなりません。

「ちょっと聞いてくださーい。太政官札と正金の引換えを一旦禁止しまーす。
でね、今、政府では新しい時代に合わせた新貨幣を作る計画なの。それが
できたら、太政官札と新貨幣の引換えはOKにするから。ここはそれまで
待って金札を使ってくださいよ。」

こうして政府が正金を発行して、金札もそれと等価で取引できるという信用を
含ませて国民を納得させようとしたワケです。

「  巳(明治2年)4月29日に出た金札についての廻状
金札御発行については、先頃仰せ出されたとおり、厚い憐れみの御趣意をもって
筋道を御施行されたところ、戦乱の際に自然と通用しないようになり、広く使われない
ようになった。ついには正金と金札の間に相場が生まれ、庶民の商売にも難渋し
たので一時止むを得ぬ場合より、相場を認めて通用いたすべしとの御布令が
あった。
今日に至って日々の相場の高下は際限なく、庶民は困難になり、中央から遠く
離れた府藩県で正金同様に通用している場所までも金札に疑惑を生じ出した。
このことにつき、金札の通用期限を兼て立ち置かせた。
この度、新貨幣を鋳造することになった上は、改めて引換えの筋道を立てられるので、
今後はキッパリと相場はやめて、正金同様に通用させるべしと仰せ出された。
京都・東京・大坂を始め中央から遠く離れた土地に至るまで、厚く御趣意を謹んで
いただき、広く通用いたすべし。万が一、心得違いをする者があれば厳重にあるべし
との御沙汰である。
   4月     行政官  」


このような通達が出されてすぐのこと。
杢左衛門さんをはじめとする、蔵敷村組合の村役人たちへ一通の書状が届きます。
差し出したのは柴井町の定宿、和泉屋健蔵です。

「  巳5月朔日(ついたち)昼12時        和泉屋健蔵
        蔵敷村組合御役人中様
なお、申上げました金札について、今日の市中では39、8~40匁くらいで取引き
され、金持ちは多くの利益を上げています。あなた様においても早く御買入れに
なられますよう直接に申し上げます。
また、先日のお手紙の一件はそれぞれに申し上げておきます。さらに、あの様子が
わかりましたらちょっとお聞かせいただきたく存じます。早々に飛脚を立ちかけます。
以上。   」


金札の相場に手を出して儲けろ、と言っているようです。
この和泉屋というのは、蔵敷村組合など東大和市域の村々が江戸に行くときによく
使う公事宿です。以前も当ブログで代官領の支配替え クリック!)の記事を
書いたときにも出てきましたね。
村と役所の間に入って、なにかとアドバイスをくれる所です。
その公事宿が、表向きは禁止されている相場で儲けなさいよと言っているのが
面白いですね。
元々、江戸時代の通貨形態は複雑で、金貨・銀貨・銭貨がそれぞれ独立していました。
円とドルとユーロが一つの国内に流通しているようなものです。
ですから、その時々の相場を読んで財テクに励む・・・というようなことは今の人よりも
ずっと身近だった可能性があります。 クリック!)

前々回の金札の記事で、村々の名主たちが26000両もの金札を拝借しようとして
断られた記事をご紹介しました。
断られた理由は地域の地場産業への投資だけで、大規模な事業計画が示されて
いないからというものでした。
しかし、コメントでもご意見が寄せられましたが、名主たちに実際の事業計画などは
なく、もしかしたら相場でひと山当てようという魂胆で、役所もそれを見通していた
ということかもしれませんね。

メガ10
気がついたら、このブログも2周年を迎えておりました。
来ていただいてる皆さま、ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします!


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池田屋事件150年目

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今回、漫画のサイズをちょっと大きくしてみたんですが、いかがでしょうか?

最近、やけに新選組関連のテレビ番組や、雑誌の特集が組まれているなぁと思ったら、
池田屋事件から150年という節目だったんですね。
この事件によって新選組は後世「時代遅れの暗殺者集団」というレッテルを貼られて
しまうワケです。しかし、どうでしょう。当時政権は幕府にありましたし、孝明天皇もその
政権維持を支持していました。
一方、池田屋に集まっていた志士たちは「京の町に火を放ち、天皇を拉致」する計画を
立てていたと云います。これ以上ないテロです。
新選組は一種の警察組織でしたから、テロを未然に防いだだけに過ぎません。その目的
も捕縛であり、斬り合いになったのはその場の流れによるものです。

池田屋事件のせいで明治維新は1年遅れた、という人もいますが、それは新政府の中心
に長州が座ることができた結果言えることで、当時の目線で見れば新選組は京都の治安
を守ったのです。
もし、池田屋に集まった志士の計画が実行されていたら、それこそ日本はどうなって
いたことか。

とはいうものの・・・古高俊太郎に対する土方さんの拷問は、やはりやり過ぎです。。
足の甲に五寸釘を打ち込み、ロウソクを垂らすなんて・・・。
江戸時代も中期以降は、犯罪者への拷問も行き過ぎのないように厳しいルールが作られ
ていました。それを考えるとあまりに過酷な責めと言えます。

自白した後、古高さんは京都六角通りの六角獄舎という場所に身柄を送られます。
しかし、長州の起こした蛤御門の変のとき、騒ぎの中で幕吏に処刑されてしまいます。
あの世で、土方さんと何か話をしたのでしょうか・・・。


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金札借りてみる?

明治新政府は戊辰戦争での財政不足を補うことと、産業振興の資金として
「オイラを信用してくれよ」的発想で、太政官札・・・つまり金貨や銀貨ではない
紙幣の発行をしました。
これが慶応4年5月のことです。
ところが、政府が「こっちの方が近代的なんだって!」といくら言ってみた所で、
人々の頭の中も行政の中身もまだ江戸時代から抜け出ていませんから、
「そんなの信用できるかい」です。
発行したのはいいけれど、アッという間に太政官札は下落の一途。
100両の額面も時価40両にしかならないという事態に、早くも6月、政府は
太政官札の時価取引を禁止します。さらに「租税も太政官札で納めChina!」って
布告するんですけど、一向にその信用は上がる気配を見せませんでした。

「  巳(明治2年)正月晦日に出された金札(太政官札)についての廻状
金札については租税その他、諸々の上納金として使うにおいて、正金で100両の
ところを金札120両の相場で扱うことを仰せ付けられた。
世間においては、日々の時価取引をいたすべし。聞くところでは、諸々の買い物
の支払いに太政官札を受け取らない者もあるというが、もっての外のことである。
右のように心得違いの者はきっと沙汰に及ぶであろうから、兼てその旨を府藩県
においてあまねく触れて達するものなり。
    正月       行政官 」


ついに政府は金札の時価取引を認めざるを得なくなりました。
そうした中、多摩の村々では金札に対してある動きが出てきたようです。

「  巳2月3日金札について田無村名主下田範蔵より廻状
廻状をもって申し上げます。寒さも去りかねていますが、皆さま方も御清福にお勤め
されお喜びいたします。
そこでですが、昨年12月に金札貸し付け方の取り扱いを仰せ付けられ、その時
ご相談したとおり少額の金札が組合村々へ貸し出しとなり、不行届となってしまい
ました。」


田無村の名主から廻ってきた廻状ですが、冒頭で前回に触れた金札貸し付けに
触れています。その金札がどう使われたのかは書かれていませんが、「不行届」と
あります。突然のことで、金札の信用も低く有効に使えなかったということでしょうか。

「この春になってご相談の上、さらに金札の貸し付けを願い出て、金札がお下げに
なりますように考えているのですが、皆さまとお打ち合わせをしてからと、これまで
差し控えておりました。
伝え聞くところによると、金札が多く役所にあると云いますので、来る11日に柴井町
の定宿へ御一同が出張し、それぞれ申し合わせの上、拝借をお願い申し上げたく
このことをお知らせ申し上げます。よって右の日に相違なくご出府ください。
なお、委細はその節に詳しく申し上げます。
この廻状は早く順番通り送り、最後の所からご返却ください。以上。
   巳2月3日           田無村名主 下田範三
 蔵敷村御名主 杢左衛門様     砂川村御名主 源五右衛門様
 福生村御名主 重兵衛様      新町村御名主 文右衛門様
 友田村御名主 五郎右衛門様  」   
 

さらに金札を借りてはどうだろうか、という提案です。
言い出しの田無村の名主は、昨年末は半兵衛さんでしたが今回は範三(蔵)さんに
なっています。代替わりがあったのでしょうか。
だからこそ、金札の規制がユルくなった今、さらに貸し付けを増やしてもらおうという
計画に出たのかもしれません。
廻状にあるとおり、2月11日に一同は柴井町(港区)の定宿で会合を持ちます。
東大和市史によれば、その宿は津久井屋という宿だそうです。
話し合われた結果、以下の書状を支配所に提出しました。

「  畏れながら書付をもって願い上げ奉ります
                     御支配所 
                       武州多摩郡
一 金札10000両         田無村
一 同  2000両         蔵敷村
一 同  5000両         砂川村
一 同  7000両         福生村
一 同  1000両         友田村
一 同  1000両         新町村

右は昨年の冬、私どもへ金札をお貸渡しになられ有難く拝借奉りました。村に帰り
金札の貸し付け方をよく相談したところ、元々養蚕、機織り、その他余業をもって
相続いたしております者たちは、銘々身分に相応しくなく過分の金銭の融資になり
ました。
村方ではどのようにも法に則り使用し、少しもみだらに使うことのないようにします。
私どもが引き受け、貸し付け方を決めようと思いますが、これには先日お貸渡しに
なられた金札高では中々足りないのでございます。
そこで前述の通りの金額を、それぞれ御拝借願い奉り、村々の地についた産業に
応じて融資を致したいと思いますので、村のため役立たせますし、かつ生きてゆく
励みにもなるべきことと、畏れながら存じ奉ります。
何とぞ御慈悲をもって右の願いの通り、お貸渡しくだされますよう願い上げ奉り
ます。以上。
     明治2年2月12日    田無村名主 下田範三
                     蔵敷村同  杢左衛門
                     砂川村同源五右衛門代組頭 七郎右衛門
                     福生村同半十郎代柴崎村同 次郎兵衛
                     友田村同  五郎右衛門
                     新町村同  文右衛門
                       
  韮山県
    御役所  」


前回は2900両の貸し付けでしたが、今回はその約9倍の26000両の貸し付け
願いです。また、デカく出たものです。
これを村々の指導者が責任をもって、村の地場産業の融資に当てようという計画
のようですね。
先日まで「ルーズヴェルト・ゲーム」とか「花咲舞が黙ってない」とかのドラマを見て
いたもので、なんか情景がオーバーラップしてまいります。
金額は大きいですが、政府の産業振興政策とも一致するんじゃないでしょうか。
・・・・ところが。

「右は当月2日に出された下田範三方からの金札拝借について、11日に出府の
上相談したいとのことで廻状をもって連絡し、一同出府。12日に相談の上、前書
の書面を御役所へ差し出したところ、新田開発や大木の伐り出しなどの事業計画
でなければ、会計官へ申し立てるのは難しいとの御役所の見解であった。
拝借の見込みがないので、一同相談の上願い下げてきた。」


大規模な事業計画でなければそんな融資はできないよ、と言われてしまいました。
これが政府の見解なのか、政府に気を使った韮山県の見解なのかわかりませんが、
多摩地域での大規模融資はマボロシと消えてしまったようです。
花咲舞の杏ちゃんなら、「お言葉を返すようですが!」と言ってくれたでしょうか?

こうした中でも、太政官札の時価相場はダダ下がりを続けます。
由利公正は金札政策から離れることとなり、代わって肥前の大隈重信が金札処理
を行うことになるのです。

メガ9

※トゴ・・・10日で5割の利息の意。ひぃぃ~~ッ!

もう過ぎてしまいましたけど7月8日ってのは、江戸時代の元治元年(1864)では
6月5日にあたるそうです。
この日は、そう。池田屋事件のあった日ですね。
例年だと梅雨が明けるかどうかというビミョーな時期ですが、蒸し暑い夜だったこと
は150年前も同じだったでしょうね。
池田屋での斬り合いの最中に沖田総司が倒れてしまいますが、一説には熱中症
になったのではと云われているようです。
京都の夏、当時の狭い日本家屋の中で興奮状態で斬り合っていたのでしょうから、
なるほど、そうかもしれない!と思ってしまいます。

また、7月8日は、嘉永6年(1853)だと6月3日にあたります。
この日はペリーが浦賀に入港した日。
やっぱり、「うわッ、めっちゃ蒸し暑いやん!蒸気船ってさらに熱いやん!」って思った
でしょうねぇ。


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深雪とお孝・・・と

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近藤さんは試衛館の道場主時代、何度もあった縁談を断り続けた後で、ツネさんと結婚しま
した。ツネさんという人はあんまり美人じゃなかったそうなんです。
周りの人が、「これまで何度も若くて美人を紹介されてもウンと言わなかったアンタが、
なんでツネさんとの話はOKしたのさ?え、ちょっとしたマニア?」と聞くと近藤さん、
「私の道場には若い男が大勢通ってきますので、あまり美人なのはよろしくない。ツネ
さんは美人ではないかもしれないが慎ましく、誠実なところがいい」
と言ったそうです。

ところが、京都に来て新選組の頭となり、幕府へも意見を言えるほどの身分になると、妾に
選んだ女性は深雪さん、お孝さんともに道端ジェシカかアンジェリカかっつーくらいの美人
姉妹。
なんだ、結局キレイ系大好きなんじゃーん!
・・・てことは、見事に実用と趣味を分けてますよね。言い方が悪いですけど。
なんつーわかりやすい人なんでショ。

まぁでも、このわかりやすいトコロが近藤さんの魅力でもあるのかなぁ・・・なんて思って
ます。



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太政官札、使えってば

明治新政府が新しい国づくりとしてやらなければならないことは、いろいろ
あったのですが、真っ先に手をつけなければいけないことに「お金」の問題が
ありました。
戊辰戦争で莫大な経費が嵩んだ上、まだ藩が存続していましたから全国から
政府に税収があるというワケにはいかない・・・ということで政府の財政は逼迫して
いました。
さらに、旧幕時代から通貨不足を回避するために、幕府はその都度改鋳を行い
ましたが、貨幣の品質を落としていったため慢性的なインフレになっていました。
そこへ幕末期、大量の金が海外へ流出していったので、通貨不足はさらに加速
していたのです。
また、当時の国内には幕府が発行した金・銀・銭貨の他に、各藩内で通用する
藩札があるなど、貨幣事情も複雑でした。

そこで政府は通貨と経済をコントロールする政策に打って出ます。
会計方で福井藩士の由利公正の建言を入れ、太政官札という紙幣の発行
を行ったのです。
紙幣であれば材料に実際の金・銀を使う必要はありません。当時の欧米ではすでに
紙幣が使われており、また由利は藩札発行により福井藩の財政を立て直した実績
もありました。そこでGO!となったのでしょう。
慶応4年(1868)閏4月に布告され、5月に発行されました。
ちなみにこの時点で発行された太政官札(金札)は「10両・5両・1両・1分・1朱」
で、まだ旧幕時代の貨幣単位を使っていました。

「辰閏4月
一 金札を作られた上は、列藩は石高に応じ1万石ごとに1万両を拝借することを
  仰せつけられたので、その筋へ願いでるべきこと。
一 返納するときは必ずその金札を以て、毎年暮れにその金高より1割を差し出し、
  次の辰年まで13ヶ年をかけて上納を済ますこと。
一 列藩が拝借した金札は富国の基礎のために使われる趣意を奉り、これを以て
  産業を起こし国益を引き起こすようにするべきこと。その藩ごとの役場において
  みだりに使い込むことは決してならぬこと。
一 京都、摂津及び近江で商売をするため借金を願いたい者は、金札役所へ願い
  出るべし。金高は取り扱う産物高に応じて貸渡しになる。
一 諸国府県を始め、諸侯の領地内での農業・産業のために借金を申し出るときは、
  その身元が厚いか薄いかを見た上で、金高を貨し渡し産業が成り立つように
  遣わすこと。もっとも返納は年々相当する元利を支払うこと。
  但し、遠く離れた村や片田舎といえども金札は京や摂津の商売の様子を見て
  取り計らうようにいたすべし。
一 拝借高のうち上納の札は会計官において決めること。
  但し、正月より7月までに拝借の分はその暮れに1割の上納、7月より12月まで
  の拝借分は5分割上納いたすべきこと。」


当初は京都や大坂などの関西地区で使われたようです。
ところが、世の中そううまくは行かないモノですわな。
紙幣は国に信用がバッチリあるからこそ通用するものです。ところが現状はまだ
戊辰戦争の最中。まだ二転三転する可能性だってゼロではなかったわけで、各藩も
自分の所の兵力を「国の軍」ではなく、「藩の軍」として持っていた状況です。
つまり、明治新政府にまだ信用がなかったのです。
額面100両の太政官札を正金に換えようとしても、40両にしかならないというような
状態でした。
加えて庶民には紙幣というものがイマイチわからない。馴染みがない。
政府が思い描いたようには流通してくれないワケです。

その状況を打開するため、政府は次のような廻状を村々に出しました。

「皇国一円に金札が通用するようにと仰せられた上は、当辰年(明治元年)の租税の
金納分と諸々の上納品は東京では金札で納めるべきこと。
右のとおりに御布告があったので、その意を得てこの廻状を刻付けをもって順に送り、
最後の村より返却すべきこと。
   辰12月15日  東京韮山県   」


租税は太政官札で払いなさいって言うんですね。
こうなりゃ、否が応でも使わなければなりません。
さらに同じく12月、杢左衛門さんたち韮山県下多摩地域の村々の6ヶ村の名主たちに、
以下のことが言い渡されました。

「(韮山県役所の)高木鏈平殿から申し渡されたことは、皇国一円富国の基礎として
お考えなされ、金札御製造となったことについて、その方たちへ金札の使用を命令され、
金札の貸し付けをすることになったので、請書を差し出すよう仰せ渡された。それぞれ
の数は左の通り。
一 1朱札 4000枚 250両
一 1分札 7200枚 1800両
一 1両札 200枚  200両
一 5両札 50枚  250両
一 10両札 40枚  400両
 金札合計2900両  」


政府から韮山県を通して、多摩の豪農クラスの民間人に2900両の太政官札を貸し
付けるから、なんか有効利用せぇ!というんですねぇ。
で、各々どのように分配されたかといいますと・・・。

「一 金札500両  砂川村(立川市)名主  村野源五右衛門
 一 金札500両  福生村(福生市)名主  田村重兵衛
 一 金札550両  新町村(青梅市)名主  吉野文右衛門
 一 金札550両  友田村(青梅市)名主  細谷五郎右衛門
 一 金札300両  田無村(田無市)名主  下田半兵衛
 一 金札500両  蔵敷村(東大和市)名主  内野杢左衛門  」


使えって渡されましたけど、未だ価値の不安定な太政官札。
どうします、杢左衛門さん?

メガ8
うそ、うそ。

先日の6月29日の午後・・・もう夕方に近い時間でしたが、多摩地区はものスゴイ
豪雨に見舞われたのですが、皆さまのお近くはいかがでしたか?
なんかね、東大和市では1時間の雨量が40mmもあったそうですよ。
ワタクシちょうど車に乗って帰ってきたところだったんですが、駐車場から出ること
ができず、30分ほどボーッと車中から滝のような雨を見ておりました。

なにせ道路が川みたいでね。ちょっと坂になってるのか、ヘンなものが流れてくる
んですよ、上流方面から。
道路から敷地に車が乗り上げるときに、段差を解消するブロックみたいのがある
じゃないですか。アレって最近はコンクリじゃなくて樹脂みたいな軽い材質ででき
てるでしょ。
それのコーナー部分の三角形をしたのが、雨水に押し流されて流れてんの。
小さいからプカプカ状態なのね。
雨がやんで水は引いたんですが、三角の乗り上げブロックは我が家の前の道路に
置き去りのまま。
で、二日が経って。
・・・まだ家の前にあります。ジャマだから端っこに置いてあるけど。
保護者の方、早く引き取りに来てくりょうッ!


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