先日の6月22日、新選組の副長助勤・一番隊組長だった
沖田総司さんの
墓前供養
「沖田総司忌」がありました。
「新選組友の会」が主催されるこの供養祭は、今年で40回になるのだそうですけど、
ワタクシまだ一度も行ったことがなくて。
で、今年初めて参加、お参りをしてきました。
今回はその様子を書かせていただきます。
実は今年も予定が入ってて、当初は「今年も見送りだな・・・」なんて思ってたんです。
ところが朝から雨だったでしょ。で、予定がキャンセルになりまして。
まぁ、何の予定だったかはご想像にお任せしますが。
急遽、「そうだ、お墓参りに行こう」と思い立ったワケです。
沖田さんのお墓は港区の
専称寺さんという浄土宗のお寺にあります。
ワタクシ、このお寺に来るのも初めてでして。
というのも、ふだんは墓域の一般公開をしていないんです。年に一度、この総司忌の
ときだけ墓参が許可されることになっているので、この日を逃しちゃうとまた一年
待たなきゃならない。そんなことで、今まで都合がつかなかったのです。
墓参は午前10時から始まっているようでしたが、ワタクシが最寄り駅のギロッポン、
もとい六本木駅に到着したのはすでに11時近くでした。
天気予報では、雨は9時頃までなんて出ていたのに、絶好調で本降りです。
こちらが専称寺。六本木駅から歩いて6~7分。鼠先輩ならもうちょっと早いかも。
境内はそれほど広くはありません。
先ずは本堂でご焼香。
そばにいたご婦人にお墓はどちらかを尋ねると、一度道路へ出て裏に回るように
教えていただきました。
本堂の裏が墓域です。
入口からずーっと傘をさした人の列。50人くらい道路に並んでいるでしょうか。
一番後ろについて、約15分ほど・・・
墓域の入口まで来ました。
お墓までの通路が狭いので、友の会のスタッフの方でしょうか、入口で人数調整を
されています。
さぁ、いよいよ沖田さん(のお墓)とのご対面です。
なぜか雨脚が強くなってきました。
こちらが
沖田総司の墓 です。
高さは台座を入れても1mほど。その大きさもそうですが、あまりにもひっそりと
佇むその姿に、正直一瞬「え、これが・・・」と思いました。
ワタクシもそうですが、みなさん膝をつくようにしゃがんで手を合わせます。
同じ天然理心流の幹部隊士でも、近藤さん、土方さん、井上源さんのお墓は
一族の墓域があり、説明板もあり、墓石も大きいものが作られています。
それは、見方によってはファンも意識したお墓と言っていいかもしれません。
しかし、沖田さんのお墓はお寺や遺族の方の方針でしょうか、何の飾りもなく
ただ劣化を防ぐための屋根がつけられたのみの、そのままの姿です。
しかし、ワタクシはこれはこれで、とても沖田さんらしい墓石だと思いました。
我々が思い浮かべる沖田像って、小説とか漫画とかドラマとかから来ている
イメージでしょ。顔だって現在のところ、写真一枚残ってない。
もしも、沖田さんのお墓がもっと大きくて、御影石かなにかで新しく作られて、
そばに説明板でもあって池田屋事件のエピソードでも書かれていたら、ワタクシ
は頭の中で草刈正雄の沖田さんを登場させ、その草刈総司に手を合わせて
いたかもしれません。
でも、それってホントの沖田さんじゃないですよね。
小さな古い墓石は、志半ばで病に倒れ、仲間からも分かれてひっそりと旅立って
いったリアルな沖田さんそのもののような気がします。
そんな沖田さんに手を合わせ、語りかけた一言は、
「こんな漫画描いて、スミマセン・・・」
再び雨が強くなったような気がします。
何はともあれ、念願だった墓参を済ませました。
この後場所を変えて、新選組友の会主催による講演会があるというので、そちらに
行くことにします。
場所は広尾の國學院大學院友会館。六本木駅に戻り、日比谷線で恵比寿駅に
出て、そこからバスで向かいます。
講演会の講師の方は、品川区にある本立寺というお寺のご住職、中島大成さん。
こちら、ある新選組隊士のご子孫なのです。
その隊士とはこちら、
中島登(のぼり)でございます!
「今日は沖田さんの法要ですが、中島の話でいいんでしょうか?」と大成さんは仰って
おられましたが、川平慈英が言うまでもなく「イイーんですッ!」
ワタクシたちにしてみれば、隊士のご子孫の話が聞けるなんて、滅多にないコトだもの。
ここで、中島登を知らない方にちょっとご説明。
登は八王子の人で、試衛館とは別流派の天然理心流剣術を使い、千人同心を勤めて
いました。しかし、とある諍いから人を斬ってしまい千人同心を離脱。親戚伝手から
近藤勇を紹介され新選組に入隊。
しかし、彼はすぐに京都には行かず、専ら武蔵、甲斐、相模の情報収集を担当し、
新選組の名簿に正式に顔を出すのは鳥羽・伏見の戦いの直前でした。
以降、箱館戦争終結まで新選組隊士として戦い続けます。
登には千人同心時代に結婚した先妻と、戊申戦争後浜松に移住してから結婚した
後妻の二つの系統があるそうで、大成さんは後妻さん系の4代目ご子孫だとか。
登は
「戦友姿絵」と
「中島登の覚え書き」という史料を
残していることで知られます。今回の講演もそのあたりの話が中心になりました。
中島家では、登の遺品を全て北海道の函館博物館に寄贈されているそうです。
うう~、見てぇ。・・・行こう、函館。
「父さんは、すっかり新選組に魅せられていると思われ・・・」by純。
戦後浜松で暮らした登は、質屋を始めますが士族の商法で失敗。
ところが、当時流行していた葉蘭の栽培をしてみると新種の開発に成功!
「金玉簾(きんぎょくれん)」の名前で、明治14年(1881)当時壱萬円の値が
付いたというのだから、驚きです。
この絵は当時、有名な画家の方(名前、聞きそびれました)が描いたもの。
そのお金を元手に銃砲店を開業。しかし、明治20年(1887)50歳で亡くなり
ます。
登は新選組や幕軍戦士を描いた「戦友姿絵」を残していますが、軍服や銃器など
細かいところも良く描写されていて、絵が得意だったことがわかります。
他にもこんな絵が・・・。
こちらは登が描いた箱館湾海戦の図。
左下にあるのが五稜郭。円い湾の中央右寄りで黒煙を上げているのは新政府軍の
戦艦「朝暘」。左に書かれた榎本軍の「蟠竜」の一撃で火薬庫が爆発、沈没する
シーンです。
この攻撃をチャンスと見た土方歳三は、伝習隊や額兵隊に箱館方面に攻撃をかける
ように命令しますが、その約1~2時間後に一本木関門で戦死してしまいます。
ちなみに「蟠竜」の艦長は松岡磐吉。江川太郎左衛門の手代だった男です。
中島家には登の定めた家訓があるそうです。それは、
「一、食べ物の好き嫌いを云うな 一、碁・将棋などの勝負事はやるな、一、質屋・金貸し
は孫子の代までやるな」
の三つだそうです。二つ目と三つ目は登自身の失敗から来ているようですが(彼が千人
同心時代に人を斬ったのは、どうも勝負事が原因かと思われる)、中島家では4代経った
現在でもこの家訓が生きているそうです。
さすが新選組隊士の末裔。法度は永遠です!
あとね、1996年に一度、
中島登を主人公にしたテレビドラマが作られたらしいんです。
フジテレビの時代劇スペシャルで、タイトルは
「陽はまた昇る」。 主演は村上スカイライダー弘明! もう大成さんたちご子孫は大喜びで、放送を待っていたそうです。
ところがオンエアー当日、思わぬニュースが・・・!
「俳優の渡辺謙さんが白血病を再発し、今日入院しました。番組では予定を変更し、
渡辺さんを応援するため、渡辺さんの主演作品を放送します」
結局、放送は1年半待たされた挙句、午前2時からの放送だったとか・・・。
あぁ・・・ご子孫の方々もガッカリしたそうです。
CSでもBSでもいいですから、再放送していただけませんかねぇ?
というワケで、午前中は沖田総司さんのお墓参り。午後は中島登さんのお話と、とても
有意義な一日でございました。
最後に本日の戦利品。
講演会終了後に行われたくじ引きで当たりました!
土方歳三の涙サイダー!! 歳さん、いつ泣いたんだ?お姉ちゃんに殴られたときかナ?
誤解なきようにお願いしたいのですが・・・。
ワタクシは土方歳三さんや近藤勇さん方の立派なお墓を否定しているワケではござい
ません。
むしろ、いつ行ってもお参りができるし、ワタクシのようなファンにとってはとても
有難いと思っております。源さんのお墓なんて「誠」の旗が立ってるものね。
ご子孫の方々のご配慮に、いつも感謝しております。
ただ、沖田さんは作られたイメージがとても大きいので、あのお墓を見たときに、そう
いう創作で飾られる以前の沖田さんに出会えた気がした、ということが言いたかったの
です。
御不快に思われた方がいらっしゃいましたら、お許しください。
「これは人間の脳ミソをトコロテンにする機械だよ、和登サン」


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慶応3年(1867)6月22日、新選組副長助勤を勤めていた武田観柳斎さんが、竹田
街道の銭取橋付近で何者かに殺されました。
観柳斎は新選組を裏切り、薩摩藩へ走ったので新選組の手にかかり暗殺されたのだと
云います。その暗殺者が篠原泰之進と斎藤一だったのです。
なので、もう一度この世に生を受けた観柳斎さんが、ようやく果たしたささやかな復讐劇を
描いてみました。
ところが最近では、観柳斎さんを殺したのは斎藤さんたちではない、という説が一般的に
なっています。なぜなら、斎藤、篠原の二人はこの年の3月すでに伊東甲子太郎らと共に
新選組を分離していたからです。
新選組から別れた者に、暗殺命令を近藤さんが出すのはいくらなんでもおかしいだろ、
というワケです。そりゃ確かにそのとーり。
では、なぜ「斎藤犯人説」が長い間云われていたのかというと、当時西本願寺の寺侍を
していた西村兼文が書いた「新選組始末記」に、観柳斎暗殺が慶応2年9月28日だと
書かれていたからなんです。で、司馬遼太郎が「新選組血風録」のような有名な小説に
もそのまま書いちゃったもんだから、世の中に定着してしまったんでしょうね。
その後、尾張藩士の書いた「世態志」という記録に、この事件が慶応3年6月22日に
起きたことだと書かれてあることがわかり、「斎藤犯人説」が一気に疑われることに
なりました。
西村さんは、なぜこんな日付の間違いをしたのでしょう?
京都の三井両替店の記録に、観柳斎さんは慶応2年10月に新選組を脱退したことが
書かれてあります。おそらく、西村さんはこの脱退の時期と暗殺された日を混同して
しまったのではないか、というのが近年云われていることです。
まぁ、斎藤さんではないにしても、観柳斎さんが新選組の誰かに消されたことは間違い
ないのでしょうけどね。
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先日、こんな本を購入しました。

東京都って幕末期から現在にかけて、関東大震災があったり空襲があったりで、
歴史的な建造物って残ってないんですよね。
だいたいが木造建築ですから火災には弱いし。
神社仏閣なども建て替えられている場合がとても多い。
ということで、史跡と云われる場所に行っても何も残ってないことが多いわけです。
ただ、そんな場所に、「かつてこの場所にこういう物があったんだよ」と記した石碑が
置かれていたりしますでしょ。
歴史ファンは、そーいった石碑を眺めては「おぉッ、ここが、この場所が〇〇が××
した現場なのかッ!!」と妄想に耽るワケですね。コレ、歴史の醍醐味。
石碑は歴史への扉を開く「妄想スイッチ」と言えましょうか。
この本は東京都のあちこちにある、そんな妄想スイッチである石碑を各地域ごとに
紹介したガイドブックです。
石碑に刻まれてある文章やその背景、また関連する同系統の史跡はまとめて紹介
してあったりするので、史跡巡りのお供には便利な一冊だと思います。
さてさて、この本の中に当ブログで先日触れた高札が
「蔵敷高札場
の碑」として紹介されています。

蔵敷村の高札場は名主の内野杢左衛門さんの家の前に置かれました。
前を旧青梅街道が通り、現在高札場の前は西武バスの「蔵敷前」バス停に
なっています。
写真の右側に見えるのが「史跡 蔵敷高札場」と刻まれた記念碑です。
昭和5年(1930)3月に東京府史跡に指定され、昭和30年(1955)1月に碑が
建てられました。
写真を見ていただくと、柵の中に高さ60cmほどの四角い石が見えますが、コレ
が高札を建てるときの基壇です。
この基壇が残っているのが貴重で、故に東京府史跡指定を受けたのでしょうが、
都内では
府中高札場と共に現存する唯二つのもの、だそうです。
というわけで、こちらが府中の高札場。

さすが国府・府中の高札場だけあって立派ですね。
甲州道中府中宿の真ん中にあるワケですから、多くの人の目に留まらなきゃいけな
いんで、デカくて立派なのは当然です。
けど、蔵敷村の高札場も、これはこれで当時の村のリアル感が伝わって、なかなか
イイ感じの佇まいでしょ。
妄想スイッチ・オン!
本書にはもう一つ、高札場跡として東村山市の
「高札場跡の碑」を
紹介しています。
こちらは東村山市恩多(おんた)町にある碑ですが、基壇などはすでになく、昭和11
年(1936)に建てられた角柱碑があります。

高札場が作られた場所は「恩多辻」という五差路です。西は青梅、東と南は江戸、
北は所沢へと向かう道が交わり、かつては地蔵堂があったそうです。

恩多辻を南側から見ます。矢印の下に高札場の碑があります。
現在、高札場跡の前にはスーパーができて交通量の多い場所ですが、江戸時代
当時も人通りの多い場所だったそうです。
なんとなく、雰囲気が伝わりますね。
妄想スイッチを、どうぞ!

道路の向かい側はガストだしね。

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新聞に来年の大河ドラマ
「花燃ゆ」の追加キャスティングが発表されましたね。
吉田松陰に伊勢谷友介さん、高杉晋作に高良健吾さん、久坂玄瑞に東出昌大さんだ
そうです。みんな、朝ドラOBですね。
ま、それはいいとして。
「龍馬伝」で伊勢谷さん、高杉晋作やったばかりじゃないスか!
あの高杉役はすごくハマってたと思うんですよね。ザンギリ頭で三味線弾くところなんか、
とても印象的。
それが今度は松陰ですか。・・・なんか混乱しそうです。
プロの俳優さんですから、いろんな役を演じていいと思うんですが、同じ「大河ドラマ」と
いうシリーズであまりにも接点が多い役をされると、なんか違和感を感じちゃうんですよ。
あの、ホラ。「八重の桜」で新島襄のオダギリジョーさんが、斎藤一の降谷建志さんと
飲み明かしてたシーンでの、あの違和感ですよ。
「新選組!」でのオダジョー斎藤がすっごく良かったもんだから、どう見ても斎藤一が
斎藤一のコスプレしてる男と飲んでるようにしか見えなかったワタクシです。
あと、それとはまた違うんだけど。
今期放送中のドラマ「ホワイト・ラボ」と「スモーキング・ガン」。
二つとも科捜研を舞台にしたドラマですが、どちらにも谷原章介さんが、これまたよく
似たキャラの刑事役で出てくるでしょ。
どっちがどっちだか、わからなくなる・・・。
これも、もーちょっと考えてほしかったなぁ。
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前回、新政府は村々に対して高齢者、孝行者、罹災者などに施しをするなど
懐柔策を提示し、さらに東京府民に御酒を振る舞い、戊申戦争の勝利を庶民に
印象づけたことをご紹介しました。
「里正日誌」によれば、東京府民たちは朝廷から下された御酒にとても喜び、
まるで
天王祭のような賑やかさだった(

クリック!)そうです。
ここに至って新政府は、自らの方針をハッキリと民衆に呈示するため、旧来の
高札に新たに墨入れをして書き替えることにしました。
「辰(明治元年)11月6日御高札墨入れ願い
『太政官高札新掲』
畏れながら書き付けを以て願い上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷村役人惣代の名主、杢左衛門が申し上げ奉ります。
このほど、王政御一新の御布告の趣をありがたくお受けし、御制札の書き替えを
お願い致したく、新板3枚を添えてこのことをお願い申しあげます。
なにとぞ御慈悲を以て墨入れをしてくだされますように、お願い致します。以上。
当御支配所 武州多摩郡蔵敷村
役人惣代 名主 杢左衛門
明治元年辰11月3日
韮山県 御役所 」注目されるのは、高札を建てるのは村民の「お願い」である、という点でしょうか。
その通りに受け取れば、村が早く高札を書き改めて欲しいと願っていることになり
ます。
しかし、
「何卒以 御慈悲御墨入被成下置度奉願上候」とは、ちょっと言い過ぎか
なぁ。
そこまで言う?
なんか、言わされてる感をヒジョーに強く感じるのですが・・・。
そもそも高札って、どんなコトが書いてあるのでしょうか?
蔵敷村には旧来4枚の高札がありました。「里正日誌」によれば、その4枚に書かれて
あった内容は次の通りです。
「正徳元年(1711) 火をつけた者について云々
同年5月 キリシタン宗門について云々
享保6年(1721)2月 そこここの村々でもし鉄砲を撃つ者がいたら云々
明和7年(1770)4月 何事によらず云々」最後の明和のものは具体的に何を指しているのかわかりませんが、全体として言える
のは細かな法令や規則などではなく、守るべき基本的なルールが書かれているという
ことでしょうか。
さて、結果的に新しく墨入れされた高札が3枚、新政府から掲示されました。
その内容は以下の通り。
まず、1枚目から見てみましょう。
「一、人間である以上、五倫の道を正しくすること
『五倫とは君臣、父子、夫婦、長幼、朋友』
一、老いて妻や夫を亡くした者、親や子供のいない者、病身・障がいのある者を
憐れむべきこと
一、人を殺し、家を焼き、財産を盗むなどの悪行はしないこと
慶応4年3月 太政官 」読んでいただければおわかりのように、中身はほとんど道徳ですね。
日付を見ると半年前に太政官から、以上の方針が発表されていたようです。
太政官(だじょうかん)とは、明治新政府初期の最高官庁のことです。明治18年
(1885)に内閣制度が発足するまでありました。
高札を建てるというのは、村がこういった方針を出している政権の下に入りましたと
言ってるようなものなのですね。
2枚目はこんなかんじ。
「 定
どんな事においても、良くない事をしようと大勢で申し合わせて徒党を組み、志を立てて
願い事を企てることを強訴という。また、申し合わせをして居住する村や町を立ち退く
ことを逃散という。これらを堅く禁止とする。
もし、右の類のようなことを見聞きしたら、早々にその筋の役所に申し出ること。
御褒美が下されることである。
慶応4年3月 太政官 」そして3枚目
「一、邪宗門についてはこれまで禁止していた通り、堅く守ること。
一、キリシタン宗門については、固く差し止める。
慶応4年3月 太政官 」集会の禁止、勝手に土地から離れることの禁止、キリスト教の禁止、いずれも徳川時代
に定められたルールそのまま。特に目新しいことが書かれているワケではないようです。
慶応4年3月・・・といえば、江戸やその周囲には彰義隊やら新選組やらがまだ反撃の
機会を伺っていた頃ですから、新政府としても新しいことを決める時間もなかったので
しょう。
重要なのは、書かれている内容よりもむしろ、「新政府が作った高札を村に掲げる」と
いう行為そのものだったのでは、と思います。
狭山丘陵周辺の村々も、新政権がすでに動かないであろうことを実感として感じ取って
いたのかもしれません。

・・・とはいってもレプリカですが。
ホンモノはすでに字が読めなくなっているそうです。

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近藤局長に身請けされた深雪さんですが、1年ほどすると病死してしまったそうです。
しかし、妹のお孝さんが姉に劣らず美人だったため、局長がこちらにも手をつけて
しまったということです。
ところが異説もありまして、深雪さんは身請けされた後リウマチを患い、臥せっていた
ときに局長が妹に手を付けた、というものです。
・・・どちらが本当かわかりませんが、姉と妹二人いっしょに出した方が面白そうなので、
ココではそのように描きたいと思います。
ところで、6月3日放送のテレビ東京「開運!なんでも鑑定団」に、
近藤勇の
直筆書簡なるモノが鑑定依頼で出てきました。
みなさん、ご覧になりました?
まだご覧になってない方にはスマンですが、言っちゃいます。
ホンモノ、お値段350万円ナリ!
近藤さんの書ってなかなか出てこないらしいです。
この方、頼めばけっこう気を良くして、何か書いてくれそうな感じがいたしますが、
明治政府の目を恐れて処分されてしまったモノがけっこうあるのでは、とも思います。
この書簡は、近藤さんが桑名藩主・松平定敬と会ったときのことや、政治的な意見
などを書き留めた忘備録の一部ではないか、とのこと。
どこかで写真版と解読版の出版をしてくれませんかねぇ・・・?
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