密偵に様子を探らせたり、目安箱を設置したり、新政府は不安定な江戸周辺に目を 配りながら、一方で確実に支配力を強めつつありました。 旧幕勢力は徐々に崩されつつあるものの、榎本武揚率いる海軍は強力でしたし、 戊申戦争を終結させるには、まだまだ時間とお金がかかることが予想されたため, 首都周辺の地固めが急がれたのでしょう。 新政府からすれば、早く東国の民衆を味方につけたい・・・というか手なずけたいと いう思いがあったはずです。 そんな新政府の「民衆懐柔策」と思える記述を見つけましたので、今回はそちらを ご紹介いたします。 「『御東巡につき孝行者、忠義者、高齢者への施し』 辰(明治元年)10月25日の御沙汰書 このほど、新政府軍の東巡に際して、その道筋の孝行者、忠義者、働き者へ御褒美 を与え、70歳以上の者且つ、火災や水害に罹災した者たちへ施しが振舞われるとの 仰せが出された。 よって、皇国中遠近なく前述の通り、広く行われるとのお考えであるから、府藩県に おいても御趣意を心にとめて、それぞれの支配所で速やかに褒賞や施しを受けて、 窮民撫育を徹底して行きわたらせるように取り計らうべし、との御沙汰である。」具体的にどれくらいの金品がいただけたのかはわかりませんが、いくらにしても 御褒美がいただけるというのは嬉しいものです。 幕府贔屓の江戸っ子や天領っ子もグラっときちゃう。 「皇国」、つまり「天皇の統治する国」であることをアピールしてますね。 薩長の政府ではなく、天皇の政府であることを前面に出すことが大事なのでしょう。 マジメに働いてればいいことあるよ、と前回ご紹介した「やさぐれ銀蔵」みたいな奴が 出るのを防ぐ意味もあったかも。 さらに、もう政権が固まった、旧幕時代は完全に終わったとアピールすることも必要 です。 実際には、まだまだ戊申戦争がもつれる可能性は大いにあったと見るべきでしょうが、 そんなコトを民衆にお知らせする必要はありません。 「『御凱旋につき御酒を下される』 一、辰11月4日晴、北陸道総督民部卿宮様の御凱旋で東京にお輿入れになったので、 朝廷より市中一同へ御酒を下されることになった。 幸橋御門内の東京府御役所へ町々の名主が麻の上下を着て、頂戴に罷り出て御酒錫 (しゅしゃく)一対づつ下された。これは、町々の名主だけだったそうだ。 その他、町内へ大樽およそ2本くらいづつ町ごとに下されるとのことで、車で引き取った。 そのとき、揃いの半纏を着てキヤリ歌を唄った人足が車を引きまわしたり、山車を花で 飾り付けたりした。各々思い思いの出で立ちで女芸者、金棒引きなど町の隅々まで賑わ い、まるで天王祭のように本当にこれまでないほどの騒ぎのようであったらしい。」「八重の桜」で記憶にも新しいでしょうが、9月には会津戦争が終結して本州は新政府軍が 制圧したと言っていい状況になったのは、間違いありません。 そのタイミングでの凱旋です。 おそらく、「官軍大勝利」と大々的に宣伝するために、朝廷からお祝いとして民衆に御酒 が下されたのでしょう。 日記の記述を見ればわかりますが、 「誠ニ是迄ニなき勇ミ立と思わる」と書いてあること から、杢左衛門さんはこの東京の賑わいを目撃したのではありません。 しかし、新政府軍が勝利を収め、東京の民衆が大喜びしてお祭りさわぎになっている ことが、首都から40km圏の村々まですぐに伝わったということです。 これは、政府の宣伝策としては十分成功と言えますね。 実際にはこの半月前に榎本軍は五稜郭を占拠。府民に御酒が振舞われた11月上旬には 土方歳三らが率いる陸軍隊、額兵隊、それに彰義隊が松前城を落として、蝦夷を平定。 12月には箱館新政府を樹立し、外国の領事も祝賀会に出席しています。 まだまだ、旧幕側はガンバッておりますぞ! 北海道の厳しい冬を目前にしての、休戦状態に過ぎなかったのです。 ところで細かいことですが・・・市史によると日記にある「北陸道総督民部卿宮」とは、 当時、軍務官知事兼北陸総裁だった小松宮彰仁さんのことだそうです。しかしこの方は、 民部卿ではなく兵部卿だったそうで、これは杢左衛門さんの誤記であろうとのこと。 何か調べものをされる方がいらっしゃいましたら、ご注意くださいね。   この2人は誰?ご存じない方は 「最新式プラネタリウムに行こう」 こちらをメガ・クリック! 「シレーヌ・・・そんな姿でクリックしても、君は美しい」   にほんブログ村 にほんブログ村
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少し前になりますが、NHKのBSプレミアムで「新選組!土方歳三最期の一日」の再放送 がありましたね。 ちょうど、土方さんの命日と箱館戦争終結日に合わせての放送だったのでしょうね。 ご覧になった方はもうお気づきだと思いますが、今回のマンガはその中のワンシーンを 使って描いてみました。 このシーンは、土方さんが試衛館時代を回想するところで、ワタクシの好きな場面です。 さて、土方さんはドラマの中で、どんな動物が最強だと言ってたのでしょう? 「土方歳三最期の一日」は、「新選組!」が近藤さんの処刑で最終回を迎えたことに対し、 「ぜひ、箱館戦争までドラマをつくってくれ」というファンのリクエストに応える形で作られた そうですね。 ドラマの時間を土方さんが戦死する一日に絞り、しかも新政府側を一切出さず完全に 旧幕側からの視点だけで描き切ったところが、秀逸だと思います。 榎本武揚の片岡愛之助さん、大鳥圭介の吹越満さんなど、キャスティングも良かった ですが、今回の再放送で改めて気づいたのが市村鉄之助を池松壮亮さんが演じていた ということですね。 現在、TBS系で放送中のドラマ「MOZU」で、「マジ、怖ぇぇ~」と評判の殺し屋を演じて 話題の俳優、池松さんがココに出ていたんですね~。こういう発見があるのも、再放送の 楽しみですね。 でも・・・ こういうスペシャルだけじゃなく、「新選組!」の全編、どこかで再放送してもらえませ んか? 「シレーヌ・・・そんな姿でクリックしても、君は美しい」   にほんブログ村 にほんブログ村
新政府は慶応4年(1868)8月に「江戸」を「東京」と改称することを発表します。 その翌月には元号も「明治」と改まるわけで、表面上は日本の国がすっかり 旧時代から入れ替わった印象を受けます。 しかし、東北から北ではまだまだ旧幕府軍との戦争が続いていました。 結果的には崩壊してしまいますが、奥羽越列藩同盟内部では「東日本政権」の 樹立も話し合われていましたし、特にその時点では制海権を榎本艦隊が握って いましたから、旧幕府方が再逆転する可能性は0ではなかったのです。 新政府は東京周辺も完全に支配下に治めていたかというと、それもまた疑問 です。 圧倒的な軍事力を見せつけて民衆を押さえてはいるものの、村々の統治シス テムは幕府時代をそのまま踏襲しただけでしたし、ようするにまだ時間がなくて 目が届いていないという状況だったのでしょう。 狭山丘陵の村々に、蕨宿へ助郷に出すなどという距離間を無視したような 命令もそのせいなのでは、と思います。 当然、村々の反発が予想されますから、政府では 密偵に探らせる(  クリック!) などして村々の情勢を常に気にかけていたのではないでしょうか。 さらに新政府はこういうことも始めました。 「『目安箱創置』 辰(慶応4年)8月 東京府日本橋に建てた高札の写し
王政御一新となったことで、それが下々にまで行き渡り、万民が安堵して各々 の生業を安心して暮らせるようにと、この上ない思し召しを仰せられている。 しかしながら、朝廷の尊厳を気にしたり、役人の権威を恐れるあまり、民衆の 実情を知ることが閉塞してしまっては仕方がない。 そこで、この度目安箱を設置するので、その間下々の者たちは右のような お考えを謹んでいただき、朝廷のためのことは申すに及ばず、役人たちの 良し悪しや不正、民間の苦しみなどどんなことでも恐れることなく、封書をして この箱に入れるように。 お取り上げに価する意見は、直ちに採用するものである。 辰8月 鎮将府 」このように、民衆の声を組み入れようとしたんですね。 一方、支配される側の村々は新政府をどのように受け止めていたのでしょう。 慶応4年8月16日に、武蔵国の組合村々の寄場役人たちが民政裁判所に 次のような意見書を提出しています。 「去る文政10年(1827)からのご改革で、関東地域の取締りのため御代官 の手付、手代の中から取締出役(八州廻り)が選ばれました。最寄りの組合 でも申し合わせ、用件があれば寄場親村役人、大小惣代みんなで御取締り の御用を取り扱ってきました。 現在、御一新以降は取締出役もご廃止になり、当時の村々の者たちも、もう 寄場親村や大小惣代役、組合村々といった組織も同様にご廃止になるもの と心得ておりました。 銘々一つの村ごとに御用の筋を勤めるように心得て、村々それぞれに村立ち をいたしました。
ところが、御一新になってもやはり前の時代通りの御触書、または御沙汰 書などが寄場親村へ書付をもって仰せ渡されます。 親村より組合村々へ、御用の筋を伝達することは差支えなく取り計らえます が、こうすることは畏れながら、その度ごとに経費もかかり割合も差支え、 特に大小惣代たちは前書に申し上げました通り、とにかく用件を済ませること ができず、親村にとっては困難なことなのです。
今まで通りの機構を用いるのであれば、これまで通りお取締りのために時々 御出役を派遣していただき、寄場親村名主兼大惣代、並びに組合内大小 惣代役をあらためて決めていただき、組合役人ともども以前からやってきた 通り、御用の筋、諸経費を惣高割で出金いたしますので、仰せ渡してください。
さもなき場合は、御用件が済まされなくなるように自然となっていくと、申し上げ 奉ります。何とぞ格別の御憐憫をもって、申上げました通りお取り計らいして いただきたく偏に願い上げます。 右の願い通りにお聞きくだされたなら、お取締りの方もよくなり有難く幸せに 存じ上げ奉ります。以上。 慶応4辰年8月16日 武州 布田宿組合 府中宿組合 日野宿組合 八王子宿組合 小仏駒木野宿組合 青梅村組合 扇町谷村組合 拝島村組合 飯能村組合 所沢村組合 田無村組合 右寄場役人連印 民政御裁判所
右は慶応4年8月16日、御代官江川太郎左衛門様御役所より民政御裁判所 へお差出しになった 」村々では、政権が替わって少しでも負担の軽い統治が行われるものと考える向き もあったようです。しかし実際には、先ほども書いたように旧幕時代の機構が そのまま使われ、負担はさらに増すばかり・・・というわけでこのような訴えを起こ したのでしょう。 ほぼ多摩全域の組合の訴えです。 村々の不安は次のような形となって表れます。 以下、2例をご紹介。 「『失踪届』 武州多摩郡蔵敷村 百姓藤助次男 銀蔵(辰29歳) 右の者は親元で農業の手伝いをしていましたが、農業を嫌い大酒を好み、昼夜 方々を遊び歩いて金銭の無駄使いをし、親たちへたくさんの迷惑をかけました。 これまで親類、組合村役人たちからも度々意見をしましたが、聞く耳をもたず、 次第に品行の悪さも増長して、最近は4~5日も家へ帰らないこともあります。 しかしながら、これまで悪事を起こしたことは一切ありませんでしたが、このような 者がこのままいたのでは、この上どのような変事を仕出かし落ちぶれるほどの 迷惑をかけることも考えられ、心底が見届け難いのです。 この度一同相談の上、勘当して人別帳から外す決心をしましたので、このことを もうしあげます。ついては何とぞ御慈悲をもって、前書の銀蔵の身分を勘当と して人別帳から外すことを仰せ付けられたく願い上げ奉ります。以上。 慶応4辰年9月23日 右 藤助 親類組合惣代 親類 籐七 村役人惣代 杢左衛門 江川太郎左衛門様 御役所 」おおおーーーッ! 銀蔵ーーーッ! みなさん、覚えていますか? 以前、このブログでご紹介した銀蔵が、また登場です。 ご存知ない方、忘れてしまった方は 「銀蔵ものがたり」 こちらをクリック! コイツ、更生してなかったんですねぇ・・・。 「『〇』 武州多摩郡蔵敷村 百姓徳兵衛(辰60歳) 右の者は石高1石3斗1升5合を所持し、家族2人暮らしで農業を営んでいます が、先月27日ふと家を出たまま戻らないので心当たりの所々を訪ねましたが、 さらに行方がわかりません。 もっとも、これまで悪事出入りなどは一切ないものの、右の者は実際借財が嵩み、 返済手段に差支え出奔したのかと思われます。右のようなことで行方知れずと なって余儀なくこのことを訴え奉り申し上げます。以上。 慶応4辰年9月23日 右徳兵衛親類組合惣代 親類勘兵衛 役人惣代 名主 杢左衛門 江川太郎左衛門様 御役所 」こちらは 欠落(かけおち)といって、領民が勝手に土地を捨て出奔 してしまう状況です。江戸時代には重税・飢饉・貧困でこのような人が多数出て 無宿人となって都市に流入し、犯罪を犯すなど社会問題になったこともあります。 銀蔵の場合も「失踪届」とあるので、以前のように素行不良というだけでなく、 家を出てしまったので犯罪者となる前に家族の者が勘当したのではないで しょうか。 徳兵衛さんは60歳という、当時でいえば高齢者。家族2人とはもう1人は女房 でしょうか。年寄りが2人土地を捨てて何処へ行ったというのでしょう? 慶応から明治へ切り替わった時期、江戸周辺の村々では新政府の支配は まだ確立せず、かといって旧代官所はその機能を失い、不穏な空気に包まれ ていたように思われます。   この2人は誰?ご存じない方は 「最新式プラネタリウムに行こう」 こちらをメガ・クリック! 「シレーヌ、そんな姿でクリックしても、君は美しい」   にほんブログ村 にほんブログ村
11日の巻 会場をJR日野駅前から川崎街道入口まで、甲州道中旧日野宿通りに移して「ひの 新選組まつり」の模様を、ざーっと一部ですがお送りいたします! 午前10時半頃、日野駅に到着しましたワタクシが真っ先に向かったのはココ。 「渡邊家土蔵」。 甲州街道に面した古い建物で、昔から気になってたんですよね。 昔は土蔵だったのを、関東大震災をきっかけに大谷石の蔵になったらしいのですが、 東京都歴史建造物に指定されています。 この蔵の中が、まつりの期間中だけ公開するということなので、真っ先に駆けつけた というワケなのです。 中へ入ると6畳間くらいの部屋があり、梯子のような急階段で二階へ上がることが できます。 ドーン! 立派なケヤキの梁です。江戸末期から明治初期あたりの建造らしいです。 昔の建築物ってのは、威圧感がありますな。 渡邊家は江戸時代は塩などを扱う商売をしていたそうで、明治に入ってからは日野 銀行の経営にも参加していたそうです。 でまぁ、このように古銭なども展示してありました。 矢印の先にある天保銭のような貨幣は琉球通宝。初めて見ました、ワタクシ。 念願だった土蔵見学を終えて、通りに出ます。 いや、それにしても今日は暑いぞ・・・!昨日もいい天気でしたが、今日はそれ 以上かもッ・・・。 その暑さの中、交通規制された甲州街道ではさまざまなパフォーマンスが 繰り広げられています。 剣劇、有りーの。 獅子舞、有りーの。 演歌歌手が、唄いーの。 歌はモチロン、新選組がテーマですわさ。 あ、そうそう。ゆっくりパフォーマンス見てる場合じゃなかった! 「よッ、ちょっくら八坂神社まで行ってくんねェ」 「合点でェ!行くぜ、相棒ッ」 えっほ、えっほ、えっほ・・・! 駕籠をかいていらっしゃるのは、日野自動車ラグビー部レッド・ドルフィンズの方々 です。 あ、ワタクシは乗っていませんよ。 こちら 「八坂神社」、江戸時代は牛頭天王社と呼ばれていました。 ここには、安政5年(1858)に奉納された天然理心流一門の額がありますが、 普段は非公開になっています。 それが、このまつりの時だけ公開されるのです。 こりゃ、見とかなくちゃでショ! 八坂神社の本殿は全体に細かい彫刻が施され、非常に立派なのですが、劣化を 防ぐためにこのように鞘堂に覆われて、見ることができません。 しかし、まつりの期間だけは鞘堂の中に入ることができ、本殿と天然理心流奉納額 の両方を見ることができるのです。 写真撮影は不可ですが、奉納額の絵ハガキをいただきました。 新選組のメンバーでは井上源三郎、沖田惣次郎(総司)、嶋崎(近藤)勇の名前が あります。土方さんは正式入門が翌年なので、ココにはまだ名前がありません。 刀掛けに掛っている木刀は、オリジナルがなくなってしまったためレプリカだそうです。 本殿と奉納額を十分堪能しまして、屋台の焼きそばなどを食しておりますと、境内に 徐々に人が集まります。 お待ちかね! 「天然理心流勇武館演武」です。 本日三つめの目的がコレですね。 ワタクシも新選組の追っかけをしていながら、実は今まで天然理心流の実際の剣技 ってのは見たことがないもので・・・どんなモノだろうと興味シンシン丸でした。 天然理心流は、江戸時代からすでにいくつかの流派・道場に分かれて現在まで 続いています。「勇武館」はその中の一つです。 写真左の白い着物を着ていらっしゃる方は、宮川家(近藤勇実家)、井上家(源三郎) ご子孫の方々です。 演武は、天然理心流の目録に書かれてある「型」を再現して行われます。 見て、このブっ太い木刀。土方資料館や奉納額に掛っていたのと同じ太さの木刀 です。こんなので江戸時代の人は「リアルに人を倒す」稽古をしていたのですね。 ワタクシなら敵を倒す前に、己の腕の血管がブチ切れます。 女性の剣士もいます。 近藤勇先生の頃にはいなかったでしょうけどね、たぶん。 女性剣士ってカッコイイよね。 カノジョたちも凛々しいです。 真剣での据え物斬りも披露してくれました。 イケメン師範代(かどうかは知らないが)が、バッサリとやってくれます。 以前聞いた話では、この藁を巻いたモノって人を斬ったときと同じ感触なんだそう ですね。そーゆーことを想像して見物すると、なんか恐ぇー・・・。 天然理心流は多摩地域に広く広がった剣術です。 幕末から明治期には、東大和地域にも入ってきていました。 いずれ「東大和市域の天然理心流」を当ブログでも検証してみたいと思っています。 そのためにも、イイものを見せていただきました。 再び甲州街道に出ますと、御神輿がやってきましたよ。 まつりといえば、欠かせませんよね。 おっとーーーッ、ココでも「誠」の一文字! 日野では新選組はすでに神さまなのでしょうか!? そして、まつり最大のクライマックス! 「新選組パレード」が甲州街道をやってきました。 昨日、高幡不動で行われた「新選組コンテスト」で優秀なパフォーマンスを演じた 方々が中心となって行われる、まつりのメインイベントです! あ、来ましたッ。 先頭は白馬に乗った近藤局長!そして続くは隊士たち! あれ~・・・ッ なんか小っちゃくないかい? そうです、先ずパレードを先導するのは「新選組幼稚園部隊」の良い子たちです。 会津の白虎隊を超えた、最若年層佐幕隊。さすが天領日野、恐るべし。 「しゃいごーどんなんか、きっちゃうじょー!」 いよいよ本隊の御出陣! 大河ドラマ「新選組!」のテーマ曲がガンガンに流れ、甲州街道日野宿は慶応の 昔へタイムスリップいたします! 白馬に乗って先頭を行くのは、やっぱりこの人。 土方歳三副長。 なかなかのイケメントシさんであります。 続いて、 近藤勇局長。 なぜか、馬を降りて歩いていらっしゃいます。 墨染で馬に乗っているところを狙撃されたのが、トラウマになっているのでしょうか? 一番隊組長 沖田総司、 二番隊組長 永倉新八、 三番隊組長 斎藤 一、 みなさん、女性なんですよね。 その他パレードに参加した方々も、女性が多いのが目立ちます。 十番隊組長 原田左之助、 こちらも女性です。 ところで、原田さんの衣装ってたいがいコレですよね。茶色の胴に鉢金、袖ナシ。 「新選組!」での原田さんのイメージが強いのでしょうか。 山本太郎さん、政治的発言よりも左之助キャラ確立の方が民意を得ているようですよ。 パレードには、全国各地の新選組&幕末サポーターの方々も大集合! 福島県白河の新選組隊士の方々。 滝野川は、近藤さん最期の地板橋宿の近くです。 こちらの洋装部隊は、「宮古港海戦の会」。 めちゃ、カッコイイです。そのコート、どこで売ってるの? 一番後ろの女性は 甲賀源吾のコスプレですよ! マニアック過ぎて涙ちょちょギレますな、セニョール! 「高島秋帆西洋流火術鉄砲隊保存会」の方々。 市役所の近くで実演されたようですが、ちょっと離れていた場所なので見に行けま せんでした。 中野竹子さま率いる娘子隊(じょうしたい)の勇ましいお姿。 市内にある実践女子大学なぎなた部のみなさんです。 こんなカンジで、今年の「ひの新選組まつり」を見てまいりました。 当日はもっとたくさんのイベントがありましたし、各資料館なども特別展示をしてい ましたが、なかなか回り切れるものではないですワ。 「新選組」が歴史的にどう評価されるのか、これは一先ず置いといて。 この「まつり」を見て思うのは、日野市は新選組を観光資源として最大に有効活用 しているということですね。 かつては賊軍の汚名を着せられ、今でもヒールのイメージがつきまとう新選組。 「ふるさと」を自認する市としては、歴史的に正当な評価をして正しく理解してもら いたい、という気持ちがあるでしょう。 しかし、歴史うんぬんは別にして、漫画だろーがアニメだろーがゲームだろーが、 キャラが好き、カッコイイ、めっちゃヤバい、そんな理由でも新選組が好きなら 大いにけっこう、みんなで盛り上がりましょうと割り切って、新選組を観光資源と している日野市はスゴイと思いますね。 新選組のしたことで一番大きい仕事は、日野市の観光収入に貢献したことじゃね? なんて錯覚もしてしまいます。 長いブログで失礼いたしました。 最後に、本日の戦利品(おみやげ) ジャ~ン、「新選組のふるさと日野」切手第二弾! 第一弾は土方副長の写真だけでしたが、今回は全て違う写真が使われています。 石田散薬の作り方も出ていまっさー! 第一弾切手入手のスリリングな展開を描いた記事は 「土方歳三切手を求めて」(  こちらクリック) それから同人誌を売っているブースで入手しました。 「幕末ヤ撃団」(どーゆー意味なんでそ?)という会が発行されている冊子3冊。 こういうの、面白そうでショ。 横倉喜三次(きそうじ)ってのは、近藤勇の首を斬った人です。 売っていらっしゃった方が、当ブログをご存じのようだったのでビックラしました。 「シレーヌ・・・そんな姿で押しても、キミは美しい」   にほんブログ村 にほんブログ村
5月11日は新選組・土方歳三副長の命日です。 彼の出身地日野市では、その命日に合わせて 「ひの新選組まつり」を 毎年開催しています。 てことで、当ブログ恒例 「東大和市には全く関係ないけどサ、新選組について ちょっと書いてみようじゃないかい」の企画~! はじまり、はじまり、よしむらまり~! まずは 10日の巻 今年は10日に土方副長の法要 「歳三忌」が行われました。これは 墓前供養のあと、高幡不動尊で新選組研究家の方の講演会があるというもので、 「ひの新選組まつり」とはカンケーありません。 しかし、ご住職様が読経されている中を御焼香できる機会ですので、ワタクシも 毎年このときに墓前でお参りをさせていただいております。 歳三さんのお墓は日野市石田の石田寺(せきでんじ)にあります。 交通手段としては、多摩都市モノレールを使うのが便利です。 最近、立川にIKEAができて、それがこのモノレールと提携してるみたいなのね。 で、車内のシートがIKEA製になってる「IKEA仕様車両」も走ってる多摩モノです。 降りる駅は 「万願寺駅」です。 西武線玉川上水駅から15分、JR立川駅から7分、京王線高幡不動駅から3分、小田急線 多摩センター駅からなら17分くらいってトコロでしょうか。 ちなみにココに万願寺ってお寺はありません。万願寺は地名です。 中世以前にそーゆーお寺さんがあったらしいんですが、どの場所にあったのか詳しいことは わかってないそうです。 石田寺までは歩いて約5分くらい。 住宅地の中を歩いていきます。 日野市は用水路の町ですね。多摩川、浅川という2つの大きな川が近くを流れているので その水を、かつては農業用水として村々に引き入れていました。 多摩地域有数の米どころとなった由縁でありましょう。 このあたりが、ワタクシの住む東大和あたりと違うトコロですな。 同じ多摩地域でありながら、全く異なる土地条件が、それぞれ異なった歴史や文化を 作っていったのですね。 石田寺到着~。 樹齢400年と云われる大きなカヤの木が目印です。 「お前、この写真去年の使い回しじゃね?」 そう仰る方もいそうですが、だったら昨年の 歳三忌レポート(  クリック)をご覧になって おくんなまし。 あ・・・カヤの木はほぼ同じにしか見えないや・・・。 11時からの法要ですが、30分前にはこのとーり。 境内はお参りの人たちでいっぱいです。 ご住職さま方の読経が始まりまして、ワタクシたち参列者も順番に焼香をしていきます。 お坊様の陰になって、歳三さんのお墓が見えませんね。 ということで・・・ これは、別の日に撮っておきました歳三さんの墓石です。 「あれ?僕の持ってる本に載っているお墓の写真と違う・・・」という方、いらっしゃい ますか? そうなんです。以前の墓石が劣化したため、平成12年(2000)に現在の新しい 墓石になりました。 墓石に刻まれている戒名は 「歳進院殿誠山義豊大居士」 です。これは亡くなった箱館の称名寺でつけられました。 歳三さんには他に、同じく箱館の乗玄寺でつけられた 「広長院釈義操」、会津で つけられた 「有統院殿鉄心日現居士」の戒名があります。 さて、お墓参りも済ませたところで、ここまで来たら寄らなければなりますまい。 「土方歳三資料館」です。 石田寺から万願寺駅に戻り、徒歩約3分。歳三さんの実家がそのまま資料館になって います。 土方副長が実際に使用していた木刀や鎖帷子、池田屋事件の時に身につけていた鉢金 など貴重な資料がいっぱいなのですが、毎年GWからこの時期にかけて特別公開されて いるモノがあります。 それが、土方副長が愛用していたと云われる愛刀 「和泉守兼定」。 通常は鞘に納めた姿で展示してあるのですが、この時期だけ刀身を鞘から出して展示 されているのです。抜き身を見ることができるのは、今だけ!なんですな。 そんなワケもあって、お参りをすませた方、お参りに行く前に寄られる方々で館内は人で いっぱいでした。 館長の土方愛(めぐみ)さんは、歳三さんのお兄さん喜六さんのご子孫。 ワタクシが以前、日野の歴史歩きガイドをしたときにお世話になったので、訪れる度に ご挨拶させていただくのですが、今回はお会いした早々、 「あ、髪切ったんですね!わからなかった!」 と言われました。 ええ、ワタクシ、昨年までラモスのような髪型でしたので・・・。 最近、バッサリと短くしたもので、久しぶりに会った方みんなにそう言われます。 資料館を出たら、せっかくですから 高幡不動尊まで足を延ばしてみましょう。 歩いて25分くらいですが、モノレールなら1駅です。 土方歳三さんの菩提寺は、実は高幡不動尊なのです。 お墓は末寺の石田寺にありますが、過去帳や位牌などはここにあります。 立派な山門ですね。 この仁王門は室町時代の作だそうです。 歳三さんが子供の頃、道行く人に向かって鳥の卵を投げつけるイタズラをしたという のがこの門の上からでしょうか。 もっとも、当時は楼上の主要部を覆うように切妻の屋根がかけられていて、今の 門の形ではありませんでした。昭和34年(1959)の解体修理のときにこの楼門の 形に復元されました。 みんな、この前で記念写真撮ってますね。 土方歳三像です。台座からの高さは4.3m。 平成7年(1995)11月に除幕されました。 「ひの新選組まつり」のイベントとして、新選組隊士のコスプレをしてなりきる、隊士 コンテストが行われたようです。 それから、「歳三忌」のイベントとして新選組についての講演会も開かれていました。 しかし、ワタクシの時間がなかったもので、両方とも見ることができず、屋台で お好み焼きを食べて帰りました。 コンテストの優秀者は、明日11日にパレードをするそうですよ。 さて、今日の戦利品(おみやげ) 今年の春に出版されたばかりの「土方歳三資料館 目録」です。 資料館に納められている品々がカラー写真と解説で紹介されています。 和泉守兼定など細かく写真に撮られていて、なかなかゴーカ! そうそう、兼定の抜き身公開は、今月18日もやってます! スウェーデンボルグだったか、丹波哲郎さんだったかの話で、人は何歳で死んで も「あの世」では自分の一番輝いていた年齢でいられるんだそうです。 明日は、大阪よみうりテレビ・・・ではなくて! 11日の「ひの新選組まつり」の模様をレポートいたします。 「シレーヌ、そんな姿で押しても君は美しい・・・」  にほんブログ村 にほんブログ村
蕨宿への当分助郷から外してくれるよう、高木村の名主・金左衛門さんが 中心となって嘆願が行われました。 村々からお上へこのような訴えがあるときは、まずすぐ上の役所に届ける ことがルールです。 東大和市域は天領でしたから、代官所ということになりますね。 当時はすでに多摩の 江川代官領は「韮山県」と改まっていましたから、 韮山 県役所に届けなければならなかったのです。 ところが韮山県役所が、この問題解決に消極的だと見た金左衛門さんらは さらにその上の機関、 民政裁判所に直訴という強行手段に訴えます。 民政裁判所とは、江戸時代の 勘定奉行所です。 さらに、 駅逓役所という元の 道中奉行所に当たる役所にも、この訴えを届ける のです。 当時、このような「代官」を無視するような行為は許されない違法行為。 助郷を外してもらうどころか、不届き者として処罰されても仕方のない行動です。 よく、ここまで思い切ったと思います。 それほどこの「当分助郷」は村々の生活に与える影響が大きかったのだ、と 想像できるのですが、しかしここまで思い切った行動に出るにはそれなりの 計算があってのことでしょう。 「里正日誌」を読むにつれて、当時の名主たちのしたたかさはだんだんと知り つつあります。 嘆願書が出された日から一月後の12月16日、「里正日誌」には今回の嘆願に 掛かった経費と、その額を村々でいくらづつ分担したのかが書きだされています。 「 金16両 廻り田村名主太郎右衛門出府入用(11/7~12/8迄) 金4両3分1朱と1貫300文 太郎右衛門出府中臨時入用 金13両2分 高木村名主金左衛門出府入用(11/9~12/5迄)
金1朱 御腰掛入用(11/11) 金1両1朱 鰹節両人(11/12) 金3分 御先々方へ 金1分 蕨宿まで平重郎が向かったので飛脚賃 金1両1分 その筋へ肴代 金3朱 後ヶ谷村まで飛脚賃 金1分 和泉屋下代 仁平を遣わす 金1朱 紙代
金1分 御腰掛入用(11/17) 金3両 その筋へ酒食代2回分
金1分1朱と200文 御腰掛入用(11/25)
金1分2朱 御腰掛入用(11月晦日) 金2朱 和泉屋下代 長蔵を遣わす 金1分 右定宿 菓子代 金5両 先方 金5両 先方 金3分 同 金2分 同
金4両2分 後ヶ谷村平重郎出府入用(11/17~11/25迄) 金6両2分 中藤村市郎右衛門出府入用(11/19~12/1迄)
合計 68両3分3朱と1貫500文 」ちょっと計算が合わないのですが、日誌の記載をそのまま書き出してみました。 この合計金額を、訴え出た村々で分担した額が以下の通りです。 村の生産高ごとに平等に振り分けたようです。 「金1両3分3朱と660文 横田村 金13両1分3朱と453文 中藤村 金9両3朱と470文 芋窪村 金4両2朱と100文 蔵敷村 金4両1分3朱と251文 奈良橋村 金3両2朱と610文 高木村 金3両3分2朱と304文 後ヶ谷村 金7両2朱と303文 清水村 金8両と404文 廻り田村 金13両3朱と453文 久米川村」ここで前回ご紹介した訴状に記載されていなかった廻り田村の名前が出てきま した。ということで、訴え出た村の中に廻り田村も入っていたことがわかります。 この書き出しを見ると、訴状の代表は高木村の金左衛門さんですが、各村々の 代表者らが江戸の宿(和泉屋)にほぼ一月の間滞在して交渉に及んでいた ことがわかります。 腰掛というのは、役所内で訴え出た人たちが控えている場所のこと。 つまり、この腰掛入用のあった日にお上との交渉があったのでしょう。 さぁ、問題は太字で表した部分、「その筋」へ掛かったお金です。 交渉の行われた日にかかった酒食代金ということは、間違いなく接待費です。 しかも「民」から「官」への接待ですから、贈賄が公然と行われていたという ことになりますね。 明治新政府は、徳川政権下とは違う新しい地域支配制度を作ろうとしました。 かつての天領や旗本支配地を改め「県」を置く、というシステムです。 しかし、わずかの時間でそんな大がかりな改革ができるわけがなく、名称が 変わっても中身は旧幕時代と同じというのが実情だったのですね。 「東大和市史」では当時の状況について、このようにまとめています。 『特に韮山県の場合、それまでの寄場組合という村どうしのつながりをその まま継続し、地域の村むらを支配するという方法をとったため、代官の支配 地域が県と呼び名を変え、代官が知県事になったに過ぎなかった。しかも村の 内部では、これまでどおり「名主」「組頭」「百姓代」が村の代表としての仕事を 担う状況に変化はなかった。』ところで、この金左衛門さんらの訴えを政府はどう処理したのでしょう? 残念ながら、その後のことは不明なようです。 「里正日誌」にも記載がありません。 しかし、この「接待作戦」などが功を奏し、特にお咎めはなかったのではないで しょうか。  「シレーヌ、そんな姿で押しても君は美しい・・・」   にほんブログ村 にほんブログ村
以前にもちょっと書きましたが、深雪(太夫)さんには妹がいます。 大坂新町で太夫をしていたとか、芸妓であったとか云われていまして、名前も「お孝」 だったり「お幸」だったりと諸説あるようです。 大河ドラマ「新選組!」では、優香さんが姉の深雪太夫と妹のお孝さんの二役を 演じられていましたね。似ていたのでしょうか?姉妹ともかなりの美人だったとは云われ ています。 このマンガでは、姉妹のキャラがわかりやすいように、庶民的な「お孝」さんとして描いて みました。たぶん、フツーの町娘です。 さて、5月11日は新選組副長だった土方歳三さんの命日です。 今年も出身地の東京都日野市では、5月10、11日に「ひの新選組まつり」を開催する ようです。 10日にはお墓のある石田寺で法要が行われます。 ワタクシも毎年訪れて手を合わせているのですが、今年も行けるかなぁ・・・。 「シレーヌ、そんな姿で押しても君は美しい・・・」   にほんブログ村 にほんブログ村
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