最新式プラネタリウムに行こう!

いやいや、またまた東大和市の宣伝です。
すまんこってすタイ。
例によって、四月いっぱいはコチラの記事がフロントページになりますんで、
飛ばして先に進みたい方は下の方にずーーーっと行っていただくか、
おニューの記事 からお入りください。

一番新しい更新は、4月29日 です。

じゃ、本題にレッツ・ラ・ゴー!
今回みなさんにご紹介しますのは、コチラ。

IMG_0361a.jpg

以前にもご紹介しました東大和市立郷土博物館
ココにはプラネタリウムの施設があるんですが、今年三月に最新の
プラネタリウム投影機
を導入したそうなんです。
そこで、今回はそのリニューアルしたプラネタリウムのレポートをお届けしたいと
思います!

例によって、写真やらマンガやらもありますんで、「続き」からお読みくださいね。
では、どぞよろしく!
続きを読む »
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高木村の訴えは続く・・・!

前々回、「当分助郷に不正アリ!」の続編です。
高木村の名主・金左衛門さんが、民政裁判所に訴えた書状は尚も続きます。

「元々、当村々は甲州道中の裏街道で諸方への継ぎ立てを勤めており、さらに
昔から同道中府中宿へ賃高加助郷を勤めておりました。
ところが最近、東海道・東山道の両道中での御通行が集中する傾向にあり、
急用のある方々は甲州道中を往来するため、右の両道にも継ぎ立てが増えて
すでに甲州道中の宿々でも当分助郷、または増加(ましか)助郷などを願って
いる状況です。
私どもの村々が甲州道中の加助郷というのは名目で、実際には定助郷と同様の
人馬数を勤めています。」


増加助郷は当分助郷と同じく、臨時の加助郷です。
助郷は本来人馬などの労働力を提供するものですが、加助郷は定助郷よりも
遠くの村に割り当てられたために負担が大きかったのです。
そのため、時代が下がってくると労働力の代りに対価としてお金を納める、
賃高加助郷という形態が増えていました。

「ところが、去る丑年(慶応元年・1865)中、御変革御用の御旅行のため、
中山道大宮宿から当分助郷に指定されました。従来の村役も勤め兼ねるほど
だったので人馬を差し出すこともできず、仕方なく6月から10月までの5カ月限り
の賃銀勤めとすることで示談しました。
さらに、翌年寅年(慶応2年・1866)には東海道川崎宿からも当分助郷に指定
されてしまいました。そこは10里余りも離れている遠隔地であり勤めようもない
ので、仕方なく10月までの賃銀勤めとして示談いたしました。
また、今年(慶応4年・1868)3月には官軍御東下のため、東海道川崎宿から
御賄いの御用を高役で仰せ付けられました。高100石につき金3両の出金です。
尚、同じときに中山道大宮宿から同じ御用のためとして、日数に関わらず触当て
次第で当分助郷を勤めるように仰せ付けられました。
甲州道中日野宿からも同じ御用で当分助郷を勤めるよう、官軍御先鋒御用掛り
の御朱印をもって仰せ付けられました。
また、奥羽御出兵では多人数の通行になるため本街道は込み合い、脇往還を御
通行される方もあるので、当村々はじめ近村の御継場である小川村・所沢村など
へ急場の御用人足が仰せ付けられました。」


慶応元年の「御変革御用の御旅行」とは、14代家茂将軍の第2次長州征伐の
ための上洛を指しているのでしょう。
このように幕府時代から多くの加助郷を命じられていたことを、金左衛門さんは
書き上げます。

「今年の5月以来、蕨宿の差村になったので、大宮宿の御用は3里より5里まで
免除になりました。
このように近年引き続き諸方への人馬役高など勤めておりましたが、当村は元来、
武蔵野続きの悪地であるため土地の利も薄く、生活を潤す助けとなるような副産物
もありません。村々の男も伝馬役・高役・村役などに追い使われて農事余業にも
難渋しております。
そのため辺ぴの村々では脱走を企んだり、また押し込み強盗も少なからずあり、
とても難渋しています。
平年は、年貢を納めた残りを売った少しばかりのお金で、夫役代りの代金の足し
合いにしてきましたが、今年は予想外の凶作で食糧にも足らないほどです。
特に最近では人々の様子も不穏であり、全ての融通があまりありません。
高役や夫役は急激に増え、御年貢は5~6割増しにも課せられています。
蕨宿からも前書のように不正で過当な人馬を引き立てられ、本当に村々一同
暮らし向きも成り立たず、天を仰いでため息をつく他に解決法もなく、あまりの
当惑に仕方なく、この事を惣代をもって嘆願いたします。」


少し泣き落としが入ってきたでしょうか。
土地柄の問題やら、時事的な問題やらを切々と並べて訴えます。

「前述の通り蕨宿へは、これまでに特別な人馬負担もありませんでした。
私ども村々は年来引き続き、右のような諸方への助郷、夫役、高役などに苦しみ、
一同疲弊困窮している状況です。食糧も足らないほどの凶作で生活もままなら
ないほど難渋が極限に達していることを、幾重にもお考えください。
蕨宿への当分助郷は、今年10月の一の宮への行幸への御用だけにして、それ
以外はぜひ免除していただきたく、御一新の仁政のご沙汰をひとえにお願い
申し上げます。以上。
          武州多摩郡  高木村 後ヶ谷村 粂川村 奈良橋村
                 蔵敷村 芋窪村 横田村
 明治元年辰年11月17日
          右八ヶ村惣代 高木村 名主 金左衛門
民政裁判所                             」


「右八ヶ村」と書いてあるのに、村の数は7つしかありません。
そのため、もう1ヶ村含まれていたのでは、と考えられています。
杢左衛門さんが写し書きをするときに落としてしまったのでしょうか?

さて、本来であれば、村々の問題は江戸時代であれば代官所に訴え出るのが
スジってもんでございます。
新政府は慶応4年に、江戸周辺地域を「府」、その他の天領を「県」と改めます。
全国的な廃藩置県はまだ先の話ですが、江戸=東京は早くから手が付けられ
たんですね。
東大和市域を含む江川代官領は、江川太郎左衛門さんの所領があった「韮山県」
に入ることになりました。
ちなみに、江戸周辺の私領(旗本領)は政府に没収されたのち、「品川県」に改め
られます。
つまり、金左衛門さんたちの訴えは、先ず韮山県役所に出されなければならなかった
のです。
ところが・・・

「前書の通り嘆願いたしたいと存じますが、ご支配所である韮山県役所では、『各
宿場の助郷については検討中なので、書状の提出は差し控えるように』と仰せ渡され
てしまいました。
畏れ多いことですが、蕨宿から厳しい触れ当てがあり、村々一同本文の通り非常に
難渋しております。
書状の提出を許していただけなければ、惣代に不行き届きがあると村民一同が
騒ぎ出し、まことに進退差し迫ってまいります。
重々恐れ入りますが、御一新の折、お上の慈悲にすがり御愁訴申し上げます。
なにとぞ格別の御慈悲をもって受理していただき、本文願いの通り御仁政のご沙汰
をいただけますよう、お願い申し上げます。以上。
                       右 金左衛門
 辰11月17日 
   民政裁判所                            」


どうも、韮山県役所ではこの問題を取り上げてくれなかったようなんですね。
「世直し大明神」と呼ばれた江川代官も、遠い昔の話になってしまいました。


メガ2


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斎藤一、戻る!

20140425.jpg

すでにご存じの方も多いと思いますが、4月20日の読売新聞に「署員・斎藤
一」の名簿発見
という記事がありました。
ご覧になっていない方に、どのような記事だったかを説明しますと・・・。

斎藤さんは明治以降、警視庁に出仕して西南戦争に参加したことなどはわかっていた
のですが、正確にどの部署にいたのかはわかっていませんでした。
ところが、このほど彼が警視庁のどの部署に配属されていたのかを書いた名簿が
発見されたというのです。
名簿は警視庁第六方面第二署のもので、その中の「書記兼戸口取調掛」という役職
の中に「斎藤一」の文字があることがわかったのです。
第六方面第二署は現在の小松川署(江戸川区)にあたるそうで、名簿には当時の
同署員174人の名前が記載され、斎藤さんの名前もその内の一人として載っていま
した。斎藤さんの所属先が公文書で確認されたのは初めてだそうです。

名簿は京都市にある霊山歴史館が、明治期に警視庁に勤めた関係者のご子孫から
昨年末に入手したものだそうです。
名簿の冒頭には「署長 永田盛庸」とあり、この方が第六方面第二署の署長だった
時期は明治8年(1875)12月~明治9年6月までだったそうなので、名簿はその頃
のものと考えられます。

西南戦争が起きたのは明治10年(1877)ですから、斎藤さんはここから戦地に赴い
ていったのかもしれません。

ところで、不思議に思ったのは名簿にあった名前が「斎藤一」と書かれていたことです。
斎藤さんは「幕末出世魚」と言いたいくらい名前を変えた人です。
本名は山口一、新選組時代は斎藤一、会津戦争では山口次郎、斗南に移されるとき
一瀬伝八、そして明治以降の藤田五郎
会津の阿弥陀寺にある彼の墓の墓石には「藤田家之墓」と刻んでありますし、ご子孫
も藤田姓を名乗られています。
明治以降は松平容保公から賜ったという、この「藤田五郎」の名前で生涯を過ごして
きたと思っていたのですが、この名簿には「斎藤一」という新選組時代を一番象徴
している名前を提出。これは意外でした。

霊山歴史館副館長の木村幸比古氏は、名簿の名前は新選組にいた斎藤本人に間
違いないだろうとした上で、「時代とともに新選組が忘れられ、もとの斎藤姓を名乗り
やすくなったのではないか。」と仰っているのですが、どうなんでしょう?
確かに明治7年の太政官達で、戊申戦争で幕軍側につき死んだ人たちの慰霊など
が認められるようになりました。
しかし、たとえば日野高幡不動にある近藤・土方の忠節を讃えた「殉節両雄之碑」は
明治9年に完成しても、建設許可が下りたのは明治21年だったというようなことが
あるワケです。
とても、新選組が忘れられた・・・とは、まだ言えない時期だったと思うのです。

この名簿以降、彼はまた藤田五郎で生涯を過ごしていますし、なぜこの第六方面
第二署時代は斎藤一を名乗っていたのか、非常に興味のある所です。


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当分助郷に不正アリ!

兵藤雷太郎なる新政府の密偵がやって来たその頃、狭山丘陵の村々は
急に往来の激しくなった街道の宿場へ、助郷に借り出されている真っ最中
でした。
東大和市域は東西に青梅街道(当時の呼称は成木道)が走っています。
この街道は甲州道中の裏街道という位置付けがありました。
ですから、東大和市域の村々は本道である甲州道中宿の助郷をする、という
義務を元々負っていたのです。

そこへ戊申戦争の東国への拡大により各街道の通行量が増えると、本来の
助郷だけではなく、離れた街道への助郷にも行くよう命令が出されました。
特に中山道蕨宿への助郷は、東大和市域から距離もあり、本来の助郷との
掛け持ちもあって、村々には相当の負担になったようです。

そんな中、慶応4年9月に元号が「明治」と改められます。そして、10月には
明治天皇が東京に入都されると、早速氷川神社(大宮市)に行幸されました。
これは宗教的意味を持つと同時に、関東の民衆にあまり現実感のなかった
「天皇」を浸透させる、新政府の政治的思惑が強かったと思われます。
しかし、それは同時に人馬の供出を増やすことにもつながります。
村々にとっては、助郷の負担が増えるだけの事に過ぎなかったのです。

ついに溜まりに溜まった村民の、不満のガスがバーストする日がやってきます。
高木村、後ヶ谷村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村、粂川村、横田村の7ヶ村は
高木村の名主・金左衛門を惣代にして訴願運動を起こし、民政裁判所に
訴えることに出たのです。
民政裁判所とは、かつての勘定奉行所のこと。つまり、代官支配地を管轄して
いた役所ですね。
また、訴えに出たのは廻り田村を入れた8ヶ村だった可能性も指摘されて
います。

「畏れながら書付をもって嘆願奉ります
武州多摩郡高木村ほか7ヶ村の惣代である、同村名主の金左衛門が申し上げ
奉ります。
今年5月から官軍が御東下されるにあたり、当村も中山道蕨宿より当分助郷
に指定されました。右は急場の御軍役であり、いろいろと申し上げるのは畏れ
多いことなので、難渋することながら蕨宿よりの触れ通り遅れることなく
勤めをいたしました。
ところが、引き続き際限無く多くの触当てがあります。
蕨宿までの往復は18~19里(72~76km)も離れている遠村であり、1回を
勤めるのに3~4日もかかってしまいます。
壮健な者は肝心の農作業をすることも困難で、困惑しております。
宿に最寄の村、手空きの村々もあるので、助郷の変更を願い出てくれるよう
宿方へ願い出ましたが、聞き入れてもらえませんでした。」


書状の冒頭、金左衛門さんは蕨宿までの遠距離を理由に、本来の農作業が
できないことを訴えています。
また、「高木村外七ヶ村」と書かれていることから訴えに出ているのは8ヶ村の
ハズなのですが、この書状の末尾には7つの村しか明記されていないのです。
このことは、また後に触れます。
さて、問題なのはこの次からです。

「元々当分助郷については、5月中からおよそ6ヶ月間勤めるという約束でした。
御通行量が減り次第、勤めが免除されることは承知しておりますが、宿方は
巧妙な手段で不用な人馬を過分に触当て
ております。

また、賃金勤めの分は横領しているのです。
過当の人馬を御用に差し出していることは、だいたい承知しておりますが、御通行
の多少や宿方の不正については容易に糾明もできないので、これまで黙って
おりました。」


さぁ、とんでもないことが出てきました。
蕨宿の問屋が不正を働いていたと暴露!
コレは事実なのでしょうか?
ともかく、ココから金左衛門さんの怒りのボルテージは急上昇し始めます!

「しかし、当10月中の一の宮(氷川神社)の行幸に事寄せ、左の通りの過分の
人足の触当てを申しつけてきたのです。

10月25日夕詰め
一、高100石につき人足10人  御用中は宿方へ詰め、食事は村方で用意

11月2日夕詰め
一、高100石につき人足3人余り  右に同じ

右のような触当てが村々にありました。行幸はこれまでにない有難いことであり、
御国の恩恵に報いるのはこの時とばかり小前末々までもが、生活に難渋切迫
している中でも厭わず、触れ通りに遅れることなく宿方へ詰めました。
ところが、駅逓司(えきていし 交通通信担当の役所)様からはそのような過分
の人足を出せとの命令は出していないとの回状がありました。
せっかく宿方へ詰めた人足のおよそ7割ほどが余分となり、引き返すことと
なったので、莫大な失費となりました。
右のことは、只今申し上げたような他の村からの賃金横領のために企んだこと
です。規定外の過分の触れを出した不正の始末は、今度の御一新明白な御処置
によってたちまち露見するにもかかわらず、恥じ入る様子もなく、引き続き人馬
を引き立てられとても難渋しております。」


明治天皇の行幸でも、それに事寄せて不正が行われていると訴えていますね。
さらに、このことは担当の役所とも確認済みのような記述です。
確かにここに書かれていることが事実だとすれば、苦労をして人馬を出している
村々はバカみたいですからねぇ・・・。

さらに金左衛門さんら村々の訴えは続きます。
長くなりますので、「次回へ」でございます。


文字ばかりだと退屈かもしれませんので・・・
アノ方々にご登場していただきます。

メガ1


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深雪太夫と近藤局長 2

20140419.jpg

そろそろ皆さまもお気づきかと思いますが、ワタクシ新選組のファンであります。
そんなワタクシでも「え~、ソレちょっとズルくない?」と思うのは、幹部隊士たちの
「休息所」と呼ばれる施設ですな。
言ってみれば、愛人を囲う家でございます。
一般隊士たちは屯所の大広間に雑魚寝状態ですが、幹部ともなりますと一軒家を
宛がわれ、身請けした太夫たちとヨロシク過ごしていたというワケです。

幹部隊士の中で、唯一京都で正妻を迎えたのは原田左之助さんです。
妻となった人は水商売系ではなく、苗字帯刀を許された京の町人の娘で名前を
まささんと言いました。
このまささんの証言に、日に三度賄い方から炊き出しが支給されたという話が
あります。
小説などだと小女を置いて、身の周りの世話をさせたりする様子が描かれて
いますが、そういうこともあったでしょう。

さて、身請けされた深雪太夫ですが、その後「お幸」と名乗ったと書いてある本も
あるのですが(大河ドラマ「新選組!」ではそうでした)、彼女の妹「お孝」を
「お幸」と書いてあるモノもあり、よくわかりません。
ココでは混乱を避けるため、わかりやすく「深雪」とさせていただきました。


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新政府の密偵現る!

慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いに勝利を収めた新政府軍は、
東海道・東山道・北陸道の3ルートから一気に東国に向かって兵を進め
ました。
江戸を戦火から回避しようということで、江戸城は無血開城となりましたが、
新政府軍の東征が予定通り進んでいたかといえば、決してそうではなかっ
たんですね。

幕府の中心地だった武蔵国は幕府領や旗本領が多く、局地的な武力抵抗
やそれらに協力する民衆なども多かったのです。
これらのことは、今までもお伝えした通りです。

「この抵抗力はなんじゃろか?誰か裏で糸を引いてる者がおるのじゃろう
か、ばってんたい」(注※ ブログ内方言はファンタジーです)
対策に行き詰った新政府は、ついに苦肉の作戦を取ることにします。
それは、密偵 を農村に送り情報を収集することでした。
密偵は村々の実力者に接近し、聞き取りをして動静を探り、新政府の政治
的方針を徹底させる任務が与えられました。

その新政府軍・密偵が東大和市域にもやってきたのでした!

慶応4年9月6日、右肩に金織錦の印をつけた上着を着た男が2人蔵敷村に
現れました。彼らは名主の杢左衛門さんの家に来ると、そのうちの1人が
玄関先から声をかけました。
「拙者、兵藤雷太郎と申すが杢左衛門殿はおられるかな?」
「はぁ、用があって八王子宿まで行ってますだが・・・」
家の者が不在を告げると、
「では、お帰りになられたら、今日明日のうちに田無村の旅宿へご連絡いた
だけるようお伝えください」
と、手札を置き、雷太郎と名乗る男はもう一人と去っていきました。

杢左衛門さんが八王子から帰宅したのは、7日も夕刻になってからでした。
翌日8日の午後4時頃、小雨の中を「雷太郎の家来」と名乗る者が杢左衛門
さんを訪ねてきます。
「主人が所沢村の武蔵屋幸次郎方に旅宿しております。ご苦労ながら早速
来ていただきたい」
使いの者はそう丁寧に言ったので、杢左衛門さんは快くそれに応じます。

人足2人を連れて所沢村の武蔵屋幸次郎方に着くと、奥から男が出てきます。
「夜中に雨の中をご苦労でした。明朝ゆっくりと話しましょう」
そう挨拶したのが、兵藤雷太郎でした。
杢左衛門さんは人足たちを帰し、その晩は武蔵屋に泊まることにしました。
そして、翌日。

9日曇り。朝面会したところ、常州志筑藩兵兵藤雷太郎という者で、彼は
大総督府の密命を請けて種々探索をしたいことがあり、
行く先々で貴殿のことを調べたところ、7ケ所のうち6ヶ所
から引き合いがあったので、この人なら正絽実直と思い
ぜひ面会したかった。
そのために7日まで滞在したが、ようやくお会いでき
ましたと、とても喜んでいるように見えた。

さて、上段に雷太郎殿と御同役1人~2人の都合4人が列座し、次の間に家来2人
がいたようである。問われたことは、
第一 精勇隊の実情
第二 遠近の重立った村役人の日頃の取り扱いぶり
第三 人気の動静
第四 脱走人の金品や穀物の略奪の様子
第五 周辺の村の重立った村役人の正・不正、役立つ者か否か、気質の良し悪し
などを内々にお尋ねになったので、事実をありのままに申し述べた。
御同役はそれをいちいち書き取られた。

また、2人の質問者から、他に色々と聞いていることがあるがこれは本当のことか
嘘か、と言われたので、実は実、嘘は嘘と答えた。
また、何村の誰はこのように言っているが真偽のほどはどうなのか尋ねられたので、
潔白に弁解した。
その他いろいろと問われたが、委細をありのままに申し上げた。
すると雷太郎殿が申されるには、これまで霧が晴れず事情がわからなかったが、
貴殿の答弁で誠に明白にわかった。お陰で大総督宮へ返答ができる、と言った。

そして茶菓をくだされ、これからは懇意にしていただきたく、出府のときには芝愛宕
下町の私の家に訪ねてくるようにと申された。
この会談は早朝から昼過ぎまでかかり、ようやく終わった。午後に一同帰府された
ので、私も帰宅した。」


「里正日誌」には、この時の兵藤雷太郎と名乗る人物と杢左衛門さんの会談の
様子がこのように書かれています。
この兵藤雷太郎こそが、新政府が狭山丘陵に送り込んだ密偵でした。
彼は方々で調査した結果、蔵敷村の杢左衛門さんにターゲットを絞って、周辺の
村々の実情、思惑などを探りに来たようです。

雷太郎のいる志筑藩は、慶応4年7月にできたばかりの非常に新しい藩です。
場所は常陸国新治郡ですが、この場所を領地としていたのが本堂親久という
交代寄合でした。
交代寄合・・・なんだか聞きなれない言葉ですね。身分なの?仕事なの?
そのあたりのコトを俳優・遠藤憲一さんの声で解説してもらいましょう。

「交代寄合とは、知行高が1万石未満という旗本と同じ収入でありながら、大名
のように参勤交代を義務付けられた家である。大身の旗本と同様の役職を
勤めたが、知行地に陣屋を構え、江戸に屋敷を持って往き来するなど大名と
同じ扱いを受けた。外様大名の一族が多い。」


なるほど。
やはり、エンケンさんの声で言っていただくとわかりやすいですね。
でしょ!

本堂家は明治新政府に早くから恭順して、その功により1万110石に高直しされ
藩として成立しました。
「里正日誌」の解説によれば、この時期、戊申戦争の情報探索のために藩兵を
各地に派遣していたようです。雷太郎もその一人だったのでしょう。

雷太郎が杢左衛門さんに訪ねた各項目の中で注目したいのは、精勇隊について
最初に聞いていることです。
この部隊については、当ブログで何度も取り上げています。
精勇隊一件については6月19日に一同が江戸に送られ、審議が済んでいたと
思っていたのですが、9月になってもさらにこうして聞き取り調査が行われていたと
いうのは、何を意味しているのでしょうか。単なる確認でしょうか。
仁義隊や振武軍ではなく、精勇隊だけ。
興味のあるところです。
日誌には各項目について、具体的な話の内容が書かれていないのが残念ですが、
新政府がどのようなことを危惧していたのかが、わかります。

密偵と聞いて、鬼平犯科帳の「小房の粂八」や「大滝の五郎蔵」をイ村々はメージされた
方もいらっしゃったんじゃないかと思います。
小説は小説。実際は案外紳士的に接触してきましたね。

前回までお話したように、この時期村々は当分助郷に苦しんでいます。
新政府は実効的な支配を進める一方で、このように信頼できそうな村役人に目をつけて
いろいろと探りを入れていたんですね。
新政府の支配方法の一端が垣間見えるエピソードではないでしょうか。


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沖田総司、桜の木の下

20140410.jpg

東京多摩地方はすっかりソメイヨシノは散ってしまいました。
今はシダレザクラが真っ盛り。ヤエザクラもチラホラ咲いてきています。
みなさんのお住まいの近くはいかがでしょうか?

ところで、今回のマンガ。実は絵が気に入ってません。
というのも、いざペン入れをする段になったら、愛用のペンがどこにもないのです。
机のペン皿に置いておいたハズなのになくなってる・・・10年以上も愛用している
ペン軸です。

犯人の見当はついています。
ワタクシの部屋に自由に出入りし、机の上に上がってときどき物色している者。
これはもう、大幹部たちのイタズラに違いありません。
サッカーのボール代りにくわえていって、夢中で転がしてどこかにやってしまった
のでしょう。昼間、ワタクシ留守にしておりました・・・。

仕方がない・・・予備のペン軸を引き出しから出してペン先をつけマンガを描きました。
同じタイプの木製ペン軸なんですけど、重さとか持ち具合とか、微妙に違うんですよねぇ。
「たいした絵じゃなかろうし、前と変わんねぇよッ」
そうお思いでしょうが、確かにそうなんでしょうが、自分としましてはどうもしっくり
こないものです。

IMG_0360b.jpg
犯人と思われる大幹部たち
このあと「緊急取調室」で天海祐希の追及を受ける予定です!


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蕨宿、当分助郷の難渋

幕府が敗れ、新政府が江戸に入り、時代が変わってきたのか・・・と言えば
それは少しづつ目に見えてきたことでしょう。
しかし、その変化が江戸近郊の村々にとって明るいものであったかというと、
それはちょっと違っていたようです。

関西方面から多数やってくる新政府軍のために、人馬を提供しなさいという
命令が出され、東大和市域の村々も当分助郷という臨時の助郷に
借り出されます。
その場所は府中宿、日野宿。
東大和市域の村々は元々、甲州道中の助郷を義務付けられていましたから、
まぁ、この場合は負担が少し増える程度だったかもしれません。
しかし、川崎宿、さらに元号が変わった明治元年10月には小田原宿への
助郷を命じられてしまします。この二つの宿場は東海道です。ここへの
人馬供出は相当の負担になったでしょう。

そんな中で、さらに命じられたのが中山道蕨宿への助郷でした。
慶応4年5月8日に、蔵敷村に最初の回状がやってきます。クリック)
この要請に対し村では

「当方の村々では甲州道中府中宿へ定助郷、同道中日野宿へ加助郷を勤めて
いて、さらに御官軍様方が御通行されるので引き続き両宿場へ人馬を出す
ことを勤めてございます。この下げ札(甲州道中の助郷を勤めているという
証拠)を以て、お断り申し上げます。
   慶応4年辰5月8日    蔵敷村組頭 半左衛門        」 


と、お願いを出したのですが、5月13日に板橋宿に逗留中だった道中取締方
から出頭命令が出されます。なんか、イヤな予感・・・。
14日に半左衛門さんは板橋に行きますと、翌15日に北陸道総督府付目付
の大嶋健司という人物が出てきました。

「この度、北陸道御総督府様が御下向されることとなり、ついては道中に大勢の
御役人が御通行になる。蕨宿より、これまでの助郷では人馬とも不足になるので
度々願い上げの印状があった。
かねてより蕨宿は全助郷が他の宿場より少ないので、板橋宿より上りの5宿場を
平等にする。そこで蕨宿へ5~6ヶ月の間、人馬を差し出すよう目付から言い渡さ
れた。
我々の村は甲州道中府中宿へ定助郷、同道中日野宿へ加助郷、さらにまた東海
道川崎宿の御賄い所へ御用金と兵糧米を差し出している。この上の蕨宿への
助郷は格別の思し召しを以て免除していただきたいとお願いした。
すると、甲州道中ではもはや新政府軍の通行は少しばかりとなったので、蕨宿へ
勤めるように仰せつけられた。
畏れ奉ることだが3宿も勤めることは甚だ難渋である。蕨宿の役人へも勤務の
量をなるべく勘弁してくれるよう、仰っていただきたいとお願いした。もちろんの事
であると宿場役人へ分担を減らすように申し聞かせると仰ってくれたので、すぐに
宿に帰り、蕨宿の役人詰所へ行き仮受け印をした。            」


助郷が重なってこれ以上はムリ!と言っても、総督府からは却下されてしまった
ようです。
さらに、5月21日には江川代官所から次の書状が届きます。

「官軍の兵糧、その他賄いを田無村で引き受けているが難渋しているので、この
ことについて相談したい。この書付を読み次第、早々に出頭するように。以上。
    田無村御用支 江川太郎左衛門手附 大井田源八郎
 辰5月21日
          蔵敷村  名主 杢左衛門             」


田無村に呼ばれた杢左衛門さんと、大井田さんの間で話された具体的な内容は
わかりません。しかし、この記事が「里正日誌」の蕨宿当分助郷に関する記述の中に
入っているということは、おそらくこの時に大井田さんから当分助郷に協力するよう
説得されたと見ていいでしょう。代官所もすっかり新政府側です。

当分助郷の負担はどれぐらいだったのでしょう。
日誌には
「高100石に付き 人足2人 馬1疋」
とあります。
東大和市域の村々の石高は
「清水村326石、後ヶ谷村203石、高木村174石、奈良橋村167石、蔵敷村81石
芋窪村378石」

となっておりまして、そこから割り出される人足は
「清水村8人、後ヶ谷村5人、高木村4人、奈良橋村4人、蔵敷村2人、芋窪村9人」 
と決められたようです。
ご覧になってお分かりかと思いますが、端数は全て繰り上げなんですね。
小さな村々でこの人数は、相当な負担だったことでしょう。

思い出していただきたいのは、この時期です。
慶応4年5月といえば、狭山丘陵一帯に仁義隊、精勇隊、振武軍などの武装部隊が
次々とやってきて「金をよこせ」だの「炊き出しをしろ」だのと迷惑を押し付けてきた
時と重なります。
さらにこの年は天気の悪い日が多く、武蔵村山市域中藤村の名主指田家の「指田
日記」によれば慶応4年5月はひと月のうち22日が雨と記されています。当然、作物
にも影響があったことでしょう。

元号が明治に変わろうとしていたその頃、多摩・狭山の村々は非常に厳しい状況に
置かれていたようです。


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