東大和市よりお知らせ

スミマセン。
このブログの舞台となっている東大和市からのお知らせです。
興味のある方は、どぞヨロシク。

3月29日までは、このページがトップになりますので、飛ばして先に進みたい
方は 下に進んでいただくか、
おニューの記事クリック)
からお入りくださいませ。

地域デビューa 
地域デビューチラシ表
地域デビューチラシ裏
地域デビューb


ちなみに江戸時代、与力・同心など幕府の役人に定年はありませんでした。
やる気と体が動けば、90歳だろーが100歳だろーが、現役で仕事ができた
んですね。たいていは子供や養子に家督と仕事を譲って、隠居しますが。

ワタクシは定年まで、まだまだ大分先があるけどね。
っつーか、定年のある仕事じゃないんだけどね。


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ここでもあそこでも・・・人馬負担(汗;)

中山道蕨宿への当分助郷を命じられた東大和市域の村々ですが、「え~、
またっスか・・・?新政府、めっちゃウゼえんスけど」という思いでいっぱい
だったハズです。
蕨宿への助郷を伝えられたのは慶応4年(1868)5月のことですが、実は
それ以前に東大和の村人たちは他の地域に人馬を供出するように、すでに
命じられていたからなんです。

先ずは慶応4年1月に府中宿への加助郷です。
「最近、新政府軍御用のご通行が多いので宿場は疲弊している。そこで
あなた方の村々で人馬の負担をご相談申します。ご承知していただくのは、
人足3人、馬1疋を間違いのないようお勤めしていただきたい。
もっとも、大人数が通行するときは、みな高く見積もって人馬を負担して
いただくよう取り決めました。後日のため、文書を取り替えて定めます。
  慶応辰4年正月 甲州道中府中宿 問屋斎兵衛 午之助 長左衛門

   多摩郡 後ヶ谷村 高木村 清水村 奈良橋村 蔵敷村 宅部村
   右村々お役人中   」


続いて3月、川崎宿からの廻状。
「このほど、勅使の御下向につき、警護のための官軍諸家が大人数通行
する。そのため、川崎宿の継ぎ立て人馬その他の割振りを、当お代官へ
御用掛りとして仰せつけられた。
そこで、我々が出役いたしそれらの村々に申し渡すことがある。名主ごとに
自分の印鑑を持参してこの書状を読み次第、同宿の我ら御用先へ罷り出て
届け出るべし。もしも、いいかげんにする村があったならば、厳重に問い質す
のでそのつもりでいるように。
この書状は時刻をつけて順次送り、最後の村より返すこと。以上。
   官軍人馬御賄い御用掛り
 辰3月19日 江川太郎左衛門手代 駒崎清五郎

 多摩入間両郡入会
  所沢村 高木村 清水村 廻り田村 後ヶ谷村 宅部村 奈良橋村 蔵敷村
  三ケ嶋村 菩提木村 打越村 氷川村 山口堀之内村 岩崎村 大鐘村
  勝楽寺村 川部村 岩岡新田 新堀村 荒幡村 堀口村 町谷村 
  右村々それぞれの役人中   」


そして4月には日野宿から。
「廻状をもってお達し申します。当然のことながら官軍方の御用で各村々が増
助郷として人馬や代りの代金を、これまでの五分高とする。
およそ積高100石につき金5両の割り当てとして、内金を取り立てる。
来る18日、間違いのないように日野宿問屋役所へ支払われるようにすること。
もっともその時、人馬供出についてご相談したいことがあるので、名主の方々は
不参加のないように出張してください。
この廻状に承知の印を押して早々に順送りして、最後の村よりご返却してくだ
さい。以上。
  辰4月15日   日野宿  問屋 佐藤芳三郎
           助郷惣代 柴崎村名主 中嶋次郎兵衛
           同      粟須村同  井上忠左衛門
           同      蓮光寺村同  富沢忠右衛門

 大神村 田中村 上河原村 作目村 宮澤新田 殿ヶ谷新田 中里新田
 蔵敷村  」 


と、どうでしょう。すでに各方面からの助っ人要請が、頻繁に来ていたことがわか
ります。
日野宿ではその一月前に、佐藤芳三郎と交代で問屋を務める佐藤彦五郎が
「春日隊」を組織して近藤勇の「甲陽鎮撫隊」の応援に行っているのですから、時代
の変化の速さに驚きます。

しかし、「里正日誌」を読むとなかなか面白い事実も発見できます。
人馬の経費として蔵敷村は5両1分2朱と永18文6分5厘を負担することになった
ようです。
ところが、4月18日に杢左衛門さんが日野宿の定助郷の惣代たちから受け取った
受取書には、4両と永111文5分と別の金額が書かれています。
これについて杢左衛門さんは、

「右(5両1分2朱と永18文6分5厘)は表向きの割り当て金であるが、実際には
右(4両と永111文5分)の金額に示談して、助郷の惣代一同、並びに日野宿問屋
芳三郎も承知したことだ。
このことは当村に限り、惣代の役人と杢左衛門のほかは、他人へは知らさぬように
して、表向きは他の村と同様に出金したことと、帳簿にも記載したことである。」


と、日誌に書いています。
どのように工作したんだかわかりませんが、ちゃっかりとサービスしてもらったようです。
杢左衛門さんは
「是は平生之自愛ニ依而示談候・・・」
と書いているのですが、なんか面白いですね。

とはいうものの、新政府郡が江戸に入って以来、村々の負担が大きくなってきた
ことに違いはありません。
そして、このような状況の中で、前回ご紹介した「中山道蕨宿への当分助郷」の話が
降りかかってきたのです。


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勘定方 河合耆三郎参る!

20140322.jpg

前々回、河合耆三郎(きさぶろう)さんのことをチラッと書いたら、けっこう皆さまの
ご反応がよろしかったので河合さんマンガを描いてみました。
河合さんというと事務方というイメージで、戦闘能力は低かったんじゃないかと
思っているのですが、コメントでご指摘があったように池田屋討入りに参加して
いますし、もしかして何か裏ワザを持っていたのでは・・・?ということでこんな
マンガです。ラストのセリフはちょっと男塾が入ってますね。

ドラマでは大河の「新選組!」で大倉孝二さんが演じた河合さんが印象深いですね。
子母澤寛の小説に沿って隊費不始末の責任を負わされ、死んでしまいました。
でも、その原因が武田観柳斎にあるようなストーリーでしたよね。
同じように河合処分を扱ったものとして、ちょっと古い映画ですが1969年の「新選組」
では、中村賀津雄(現・嘉葎雄)さんが河合さんを演じていて、これがすっごく悲しい
シーンに作られています。

ところが、1970年にNET系で放送されたドラマ「燃えよ剣」では、河合さんを香月
凉二さんという俳優が演じているのですが、河合切腹(あるいは斬首)というシーン
は一切ありませんでした。河合さんは土方さんの良き片腕として、鳥羽・伏見の戦い
にも参戦しているという描かれ方でした。
新選組を扱った映像作品でも、その作品によって隊士の扱いはそれぞれです。


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新政府軍の要求

このところ狭山丘陵一帯にやってきた武装集団の話を書いてきました。
その中には精勇隊のように正体のよく掴めない部隊もありますが、
仁義隊、振武軍のように旧幕側による新政府軍への抵抗勢力といった
類の部隊が多かったようです。
しかし、現実的には江戸城は開城され江戸は新政府軍の手中に落ちて
しまいました。
江戸から約50kmの距離にある東大和市域の村々に、新政府の影響は
どのように出ていたのでしょうか?

上野で彰義隊の戦争があった翌日の5月16日、江川代官所から
「領内の取締りを厳しくすることはもちろん、兵備を整え、賊徒が落ちて
きたときには速やかに討ち取るべし」

という廻状が回ってきました。
さらに5月20日には、このような廻状が代官所から出されます。

「一、最近天皇の大権が復活し、政治にすべて打ち込み国内を平定して
万民の安堵を考えておられる。天領はもちろん私領に至るまで、全国
隅々まで速やかに朝廷の命令を戴き奉り、忠勤勉励すべきこと。

一、旧幕府は不正であり、自然と世情にも通じず人心不和を抱き、事件
など起きたときは、憚らず申し出ること。
(中略)

一、伊豆・相模に賊徒が屯集、潜伏していたときは見かけ次第早々に討ち
取ること。知っていながら見逃した者は、きっと大総督府よりご沙汰がある。、
家中末々に至るまで心得違いのないよう、念を押して達する。

一、何れの土地でも賊徒が来たときには、兵隊を繰り出し早々に討ち取る
べきこと。担当の役所までこのことを申し出ること。

一、万が一その領内へ賊徒が潜伏し隠した者が、後でいたと聞いたときには、
賊徒と同罪に処分するので、末々に至るまできっと心得違いのないように
達する。

一、賊徒は言うに及ばず、怪しき者は見当たり次第早々に召し捕え、所定の
所に置いておくべきこと。

一、無刀の者といえどもよく調べ、不振な点がないときは赦すべきこと。

一、両刀を差し、機械を持っている者は、早々に討ち取るべきこと。

右の通り、伊豆・相模両国の監察使よりお達しがあったことなので、その意を
心得て、早々に村へ送り名主の印を押して返すこと。以上
    辰(慶応4年)5月20日  江川太郎左衛門役所   」


天領の村民と幕府の間に入り管理をする者が代官です。つまり、村々にとって
代官といえば幕府のフロントマンだと、ずっと思ってきたワケです。
ところが、そのお代官さまが幕府再興のために戦った彰義隊を「賊徒なので
見かけ次第討ち取れ」と言っちゃってるんですね。
しかも以前お話したように、このときの江川代官クリック!)は、新政府軍に
なんとか所領を安堵してもらおうと、京都に行って精一杯言い訳している最中
です。
廻状は代官所の役人が出したものでしょうが、この書状を受け取った村人の
誰もが「江川代官はもう幕府の人間ではない」と思ったことでしょう。
まぁ、幕府の総大将だった慶喜さんが謹慎、謹慎、また謹慎で、勝海舟らも
一生懸命に火ダネを消しまわってるときですから、この江川代官の動きは、
むしろ幕臣のスタンダードだったのかもしれませんが。

直接の支配者である代官が「新政府軍に協力しろ」って言ってるんですから、
新政府軍は遠慮なく狭山丘陵地域に要求を突き付けます。

「最近、官軍のご通行について人馬が多数必要である。これまでの定助郷だけ
では支障があるので追って宿村にてこれまで調べたところ、当分の間は武州
足立郡飯塚村はじめ他6ヵ村、同州新座郡田嶋村はじめ他18ヵ村、同州多摩
郡中里村はじめ他62ヵ村、同州入間郡堀口村はじめ他17ヵ村、同州埼玉郡
加倉村はじめ他10ヵ村、当分助郷を申し付けるようにとご沙汰があり、蕨淑の
役人たちより連絡が入り次第、人馬を差し出し滞りなく平等に務めること。
もし、遅れたり参加しなかったりしたときは、追って取り調べた上で必ずご沙汰
があるので、心得違いのないようにまじめに勤めるべきことである。
    辰(慶応4年)5月       東山道
                       総督府
                        道中取締方
                           右村々
                             名主
                             組頭
                             百姓    」
 

村々に出された要求は、中山道蕨(わらび)宿への助郷でした。
以前にも書きましたが、助郷とは多くの人や物資の移動を可能にするための労働
税ですね。江戸時代の街道整備はこの助郷制度によって支えられていたと言って
もいいでしょう。
新政府軍の移動に際しても、大量の人と物の移動となるので近隣の村々も
当分助郷(とうぶんすけごう)として協力しろという命令です。
当分助郷というのは臨時の助郷という意味で、幕末にでてきた形態の助郷です。

これら助郷は各村が単独で請け負うのではなく、いくつかの村々で組合を作ります。
東大和市域の蔵敷・後ヶ谷・奈良橋・清水・高木・芋窪の村は、下里・前沢・柳窪・
南沢・小山・落合・門前・神山(以上東久留米市)・中藤・横田(以上武蔵村山市)・
砂川(立川市)・廻り田・粂川(以上東村山市)と一つの当分助郷組合を構成
しました。


しかしですよ。
これらの村々って、果たして中山道に近い地域でしょうか?
お時間のある方はYahoo!でもGoogleでも地図検索してみてください。
そーとー距離があることを確認されるハズです。
事実、江戸時代を通じて、これらの村々が中山道蕨宿へ助郷に行かされるなんて
ことはありませんでした。和宮さんがお輿入れをするときに、警備として浦和や大宮
に行かされたことがあったくらいです。

このブログの史料・ネタ本として使わせていただいている「里正日誌」。何度も書いて
いますが蔵敷村名主だった内野杢左衛門さんが書き残した記録です。
この慶応4年(明治元年)は上中下の3巻からなりますが、下巻まるまる一冊がこの
中山道蕨宿への当分助郷に関する記事でできています。
これは杢左衛門さんが当分助郷組合の惣代を務めたからでもあるのですが、いかに
この負担が大きいものだったかを表している結果だとも言えるでしょう。

どんな苦労話があったのか・・・そのあたりを、チョイと見てみようと思います。
次回、お付き合いのほど、どぞヨロシク。


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深雪太夫と近藤局長

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深雪太夫を身請けするのに500両の隊費を使った話は、子母澤寛の「新選組物語」の
中に出てきます(本の中では御幸太夫)。
この時に隊費が50両なくなっていることがわかり、勘定方の隊士・河合耆三郎が責任を
取らされ斬首される(切腹説もあり)という悲劇を生んでいます。

では、ここで問題です。
近藤局長と深雪太夫は、どんな話で盛り上がっていたのでしょう?

近藤さんの正妻、ツネさんの話
近藤さんが子供の頃、家の手伝いに来ていた「姉や」の話
近藤さんの故郷、上石原村一番の相撲取りの話


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精勇隊にいた新選組隊士 菅野六郎


20140306a.jpg

こんなアジャパーなブログですが、ありがたいことにたくさんのコメントをいただいて
おります。「ありがとぅーーッ」谷村新司風に感謝のごあいさつです。

その中で前回、東屋梢風さんからとても興味深いコメントをいただきました。
フツーにご返答するだけではモッタイナイと思いましたので、今回は東屋梢風さんから
のコメントをご紹介しながら、本文をススメたいと思います。
ちょっとマニアックな番外編ですが、みんな最後までノリノリでついてきてね!

では、早速ですが、いただいたコメントをご覧ください。

「振武軍の「甲州で再挙」説、
『指田日記』18日にもそう言って箱根ヶ崎を去った旨があるそうですが、
これは新政府軍の追跡を攪乱するための嘘という説を見かけました。

飯能戦争の時、あの精勇隊は、さほど遠くない所沢でどうしていたのか。
実は、大村藩の記録に「稲田藩精忠隊」2人が所沢宿に配置されたとかあるそうです。
これが精勇隊のことだとすれば、飯能戦争では新政府軍に協力していた、しかし
掛川藩はこれを知らずに振武軍残党と疑って捕えた、ということかもしれません。

なお、精勇隊に菅野六郎という人物が所属していたそうですが、
『里正日誌』には記載されていますか?
新選組の初期にも同姓同名の隊士がおり、同一人物の可能性が高いようです。」 


先ず最初の「甲州で再挙」の話ですが。
渋沢成一郎率いる振武軍が、上野から敗走してきた彰義隊の一部と合流して飯能へ行き、
新政府軍と戦ったこと(飯能戦争)はご紹介しました。
ところが、やはり当ブログの読者でいらっしゃる甚左衛門さんから、「当初、振武軍は青梅
で戦闘するつもりであったが、名主らの説得で行く先を飯能に変更した」というお話を伺い
ました。青梅市資料館で開かれた展示会のパンフに記載されているそうです。
この話に補足するように、東屋梢風さんから「青梅を戦場に選んだのは、そこがダメになっ
ても甲州からの援軍があるので塩山で戦えるからだと振武軍が考えていた」、という説が
あることをご紹介していただきました。
今回のコメントは、それが振武軍の撹乱だったのでは?という話です。

これについて検証してみます。
「指田日記」は以前にもご紹介しましたが、武蔵村山市の中藤村(なかとう)の名主だった
指田家に残されている日記です。
慶応4年(1868)5月17日「雨。江戸合戦、浅草正義隊の人、箱根ヶ崎に脱走」
記述があります。
この正義隊が彰義隊のことです。上野ではなく浅草と書かれているのは、彰義隊の屯所が
最初は浅草本願寺に置かれていたことによるものでしょう。
そして、問題の18日。
「雨。箱根ヶ崎に入り脱走、甲府をさして行く由を申して去る」

指田日記では彰義隊と振武軍の区別はつけていません。大元は同じという考えがあった
のでしょうか。
そして向かう先は飯能でも青梅でもなく、甲府と書いています。「申して去る」と書いてあ
る所を見ると、渋沢らは箱根ヶ崎の村民に、自分たちの行く先をハッキリと言って立ち去っ
たということでしょう。

しかし、これはあまりに不用心過ぎますね。不自然です。
「21日 雨。官軍の勢、砂川(立川市)に来ると噂ありけれども来ず」
追手が迫ってきているのに、自分たちの進路をわざわざ言っていくなんて考えられません。
よっぽど信頼している人ならともかく、要求した三分の一ほどしか献金しない村々です。
これは、東屋梢風さんが仰るように「甲州で再挙」は振武軍の撹乱作戦と見ていいのでは
ないでしょうか。

そもそも、この時点で甲府に彰義隊の味方になってくれるような勢力があったとは考え難い
ですよね。新選組(甲陽鎮撫隊)も甲府を取られてボコボコにヤラレてるんですから。

さて、次。
所沢村にやってきた精勇隊は、阿波の稲田藩と関係が深かったようです。
新政府側の大村藩の記録に「稲田藩精忠隊」とあるそうで、これを考えると、「里正日誌」
本文では「精勇隊」と書かれ、解説分で「精忠隊」と書かれていたことがなんとなく納得
できる気がいたしました。
ここで、「指田日記」から精勇隊が捕縛された頃の記述を見てみましょう。

「18日 所沢に行く。先日より脱走兵、40日ばかり所沢に居り横行していたのを、
八王子を守備していた太田備中守(掛川藩)の手勢が来た。50人ばかりを逮捕して江戸
に引いていった。後でどうなったかは知らない」


稲田藩は新政府側ですから、当然精勇隊も新政府寄りの部隊であろうと思います。
ところが勝手な金策などをしたため、掛川藩に捕まったというストーリーを考えていたので
すが、指田さんは「脱走兵」と書いています。
てことは、旧幕側?
精勇隊は江戸にいた総隊長の柏尾嘉平次と、前線の鈴木織之助らとでは意見や方向性の
違いがあったかもしれないと書きましたが、果たして本当はどんな部隊だったのでしょう?

ラスト。
ファンの方お待ちかね、新選組の話題です。

菅野六郎 という隊士は初期の新選組に実在したようです。
文久3年(1863)6月頃に入隊するも、翌年6月の池田屋事件前には離隊していたよう
なので、ホントに初期の頃だけにいた隊士ですね。
その彼が江戸に来ていたのでしょうか、精勇隊にいるというんですね。
「里正日誌」には、掛川藩に捕えられた精勇隊士のリストが書かれています。
「慶応4辰年6月所沢村薬王寺屯集精勇隊名前」の中に「菅野六郎」の名前が記されていま
す。名前の上に〇印があり、これは江戸に送られた後に荷物を残していった者のことと
注意書きが あります。
隊士の中には風呂敷包みや長持ち、両掛け箪笥、陣笠、半弓、鎗、薬などを持っていた
者がいたようです。さらに所沢の商人から50両ほどの買い物をして、代金が未納だった
らしく、これらの品々のいくつかはそうやって集めたものかもしれません。

さらに「掛川御人数御調べ御手控え写し」と書かれた一覧には「生国紀州 柏尾馬之助門弟 
 菅野六一郎」
とあります。同一人物でしょう。
柏尾馬之助は柏尾嘉平次の倅であり、すでに死亡と書かれています。
馬之助は千葉定吉・重太郎から北辰一刀流剣術を学び、新徴組の剣術教授方、肝煎を務め
た人のようです。
ということで、菅野も北辰一刀流を使ったことは間違いないでしょう。
また、精勇隊の中には「千葉重次郎門弟」という人が何人かいます。これが重太郎のことだ
とすると、精勇隊には柏尾門弟と合わせて北辰一刀流を学んだ人が中心であったことが
想像できます。
また、取調べを受けた精勇隊の全員が刀と脇差を持ち、鎗24本を装備をしていたのに対
し、鉄砲は9挺、短筒は3挺、木炮が10挺しかなかったことも記されていて、彼らが剣術
者集団であったことも臭わせます。

江戸に送られた精勇隊はどうなったのでしょうか?
ワタクシ、前回見落としていたのですが、このような記述を見つけました。

「19日、精勇隊一同は江戸表西ノ丸下の糺問所へ差送りになり、赤心隊・報国隊にて
お受取りになった」


赤心隊、報国隊とも新政府側の部隊です。精勇隊の面々はこれらの部隊に入れられた
ということでしょうか。
菅野もその中の一人として、戊申戦争を戦ったのでしょうか?

東屋梢風さん、甚左衛門さん、興味深いコメントをありがとうございました。
ワタクシもより史料を読み直すことができ、勉強させていただきました。

ちょっと、今回はマニアックでしたか。
まぁ、歴史に興味薄い方は(そーゆー人はココに来ないと思うけど)マンガだけ見てくれ
てもOK牧場ですので。

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東屋梢風さんのブログはこちらからどーぞ!
「新選組の本を読む ~誠の栞~」

雪と近藤局長

20140302.jpg 

大雪の降ったときにアップすりゃよかったマンガですね。
でも今日(2日)も所によっては雪だ、なんて聞いたもんですから。
ワタクシの住んでいる辺りは、どうやら雨で済むようなので一安心です。
あ、でもね。
45年前には、東京で3月に入ってから大雪が降っていますから、まだまだ用心に
こしたことはありません。

えーと、それでね。
ワタクシったらむかし、「鎌倉幕府」ってすっごい雪国にあったと思ってたンすよ。
「ショーグンったら雪の中で何すんだ?餅でも焼くのか?」
なんて妄想をしてね。
「かまくら」って同じ字を書くと思ってたの。すっげー、ヴァカ。
「鎌倉」と「釜倉」の違いに気がついたのが・・・うーん、作家のあさのあつこさんが
W浅野の片方じゃない、って知った時と同じくらい?
「遅ッ!!」

そんなバービーブーなワタクシめと違って、近藤局長は歴史ツウだったと思うんですよ。
子供の頃から「三国志」を父親から聞くのが好きだったといいますしね。義兄弟の盃を
交わした小野路の名主・小島鹿之助は漢学者でもありました。
けっこう歴史オタクだったんじゃないかなぁ・・・と。
でも、雪だるま作りは下手そうね。


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