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振武軍、金策して飯能で戦う!

彰義隊の隊長だった渋沢成一郎ですが、隊内の権力争いに敗北、
拠点を青梅街道(当時の呼び名は成木道)を西に下った田無村に移し、新たに
振武軍を立ち上げます。
なんだかこの辺り、小劇団の立ち上げみたいです。

振武軍は上野戦争の起きる2週間前、5月1日に田無村の西光寺に本陣を構え、
行動を起こします。
「里正日誌」を見てみましょう。

「(前略)所沢組合に所属する村々の指名された47人が、田無村に呼び出された。
5日雨の朝、重蔵(蔵敷村組頭)を連れ立って杢左衛門が出頭した。
(振武軍は)田無村西光寺に本陣を置き、兵士は光蔵寺・太子堂・観音寺4ケ寺に
5月1日より追々集まって、凡そ300人余りになり、諸方へ金策の呼び
出し
をしていたようだ。」


というコトで、今までご紹介した仁義隊、精勇隊と同じく先ずは金策に動いたようです。
日誌では続けて振武軍の幹部メンバーを書き出しています。

「総隊長        渋沢精一郎 変名 大寄隼人
中軍隊長 目付役兼            榛沢新六郎
前軍隊長                   野村立吉
後軍隊長                   渡辺 進
軍目付                    久保喜三郎
 他の役付姓名は略す                     」


渋沢の「成」の字が「精」になっていますが、これはよくあるコト。
彼は「大寄隼人」という変名を用いていたんですね。
榛沢新六郎は、渋沢の従兄弟の尾高新五郎ではないかと思われます。

「本陣の置かれた西光寺に着くと、列席にいた総隊長が仰るのには、この度徳川氏
再興のための献金の額を短冊に書いて申し達するので、その通り助力するようにと
いう依頼を申された。
金20両重蔵、と書かれた短冊を下げ渡され,品々の嘆願を求められたところ、強請に
脅し脅迫して言ってきたので、お申し付けの金額はとても自力では用意できないことを
再度嘆願した。結局、金5両を差し出し、ようやく勘弁してもらった。」


これまで見てきた仁義隊や精勇隊と同じですね。「多額の献金を強引に要求
する。」

振武軍は在方の商人層に献金を要求しました。重蔵さんは蔵敷村の組頭ですが、
組頭は村内で商いを行う家でした。そういうセレブ層に狙って金を出させようとしたん
ですね。
20両の要求を5両に「勘弁」してもらった重蔵さんですが、他の村々ではどうだった
のでしょう?
日誌には、蔵敷村が所属している所沢組合村で、誰がいくらを要求され、実際にいくら
支払ったかを書いたリストが載っています。全て書き出すのも大変ですから、目についた
ところを拾ってみましょう。赤字が要求額、青字が実際に支払った金額です。

下安松村(所沢市) 名主 新助 150両 50両
所沢村 百姓 伝右衛門 150両 50両
所沢村 百姓 弁蔵 100両 30両
所沢村 百姓 孫七 100両 30両
所沢村 百姓 源兵衛 100両 25両
粂川村 年寄 太座衛門 100両 20両
高木村 名主 庄兵衛 50両 10両
高木村 百姓 清五郎 20両 7両
高木村 百姓代 宇兵衛 20両 5両
蔵敷村 組頭 重蔵 20両 5両
計22ケ村 46人 2280両 726両 

要求金額が多い所と東大和市域の村を中心に挙げてみました。
所沢はやはり組合の寄場ということもあってか、12人から700両とダントツに要求され
ています。しかし、どの村々も要求額の三分の一から四分の一程度しか払っていません。
この辺りも仁義隊や精勇隊のときと同じですね。
振武軍は所沢組合の他からも、田無組合村々から730両、拝島組合村々から500両
扇町谷組合村々(入間市)から720両、日野組合村々から500両、府中組合村々から
500両の献金を受け取りました。
たぶん、どの組合も要求額よりは少なく納めたのでしょうが、それでも3500両近くの
金が集まったことになります。

杢左衛門さんの記述にあるように、村民にとって献金は強引に奪われたという印象が
あったようです。つまり、3500両という金額は大金ですが、それは決して村々が振武軍
を支持していたわけではないと言えるでしょう。

後に触れたいと思いますが、ちょうどこの時期は新政府の東征軍も人馬を差し出すよう、
村々に要求してきています。
多摩、狭山丘陵の村々は旧幕側、新政府側のどちらからも協力を求められることになり、
村の指導者はかなり頭を痛めたのではないかと思います。

さて、金を手に入れた振武軍はこの後どうしたのか?
「里正日誌」はこの後の振武軍の動きや、上野戦争の顛末を丁寧に記述しています。
杢左衛門さんが相当の関心をもって、彼らの動きを追っていたことを感じます。

「5月12日朝、(振武軍は)田無村を引き払い出立、小川村(小平市)を通り箱根ヶ崎村
(瑞穂町)に泊まり15日の晩まで滞留した。
・・・中略・・・
(上野で戦争が起こったと聞き)15日夜中に箱根ヶ崎村を立出、小川で継ぎ立て田無村
を越え江戸近くの高円寺村(杉並区)まで駆けつけたが、もはや上野で敗走していると聞
き、田無村へ引き返し、逃げてきた彰義隊と合流した。
16日夜、田無村に止宿。二隊合わせておよその人数1500~1600人と聞く。
17日同所を出て、小川村を通り、一隊は分かれて箱根ヶ崎に泊まり、所沢で昼食を取り
扇町谷泊まり。
二隊が合流し飯能村に入る。飯仁寺・智観寺他2ケ寺に陣を張った。
20日頃、鷹巣山に物見楼を設置した。
官軍は21日、大村・筑前・備前・佐土原・久留米の5藩2000人が江戸を立ち田無村に
泊まった。この時、賄い方として御代官・江川太郎左衛門様御手附の大井田源八郎殿が
御付き添いで田無村へ炊き出しを仰せ付けられた。
蔵敷村組合までも同村へ呼び出され、兵士の食事の手伝いを申しつけられた。
22日同村を出立、所沢村で昼食、これは田無村より弁当持参。
所沢村でも組合村50ケ村へ高100石につき人足2人・馬1疋の助郷の触れを出した。
22日明け六ツ時詰にて扇町谷村へ継ぎ立て、騎馬4人・大砲3門、他に兵器は小銃で
鎗は無しと聞く。
総人数が扇町谷に泊まったが、夕食は所沢村から炊き出しを送ったようだ。
夜中に官軍は二手に分かれ、一手は本道黒須・笹井・野田通り、一手は間道小谷田村の
うち字牛沢より飯能川を越えて向かった。
23日未明より、脱走(振武軍)と官軍が戦い、双方に討死・手負いがあった。
23日午後、戦争は終り、脱走兵は諸方へ散乱していった。
兵火のために、飯能村の町並みは焼失。黒田候の菩提寺能仁寺・観音寺、中山候の菩提
寺中山村智観寺・真応寺は兵乱のため焼失した。」


だいぶ長くなってしまいましたが、飯能戦争へ至る経過と結果が詳しく書かれています。
江川代官所がすでに新政府軍の使い走りになってしまい、その煽りで蔵敷村もメシ炊きに
動員されているトコロに注目ですね。

振武軍のこの後ですが・・・。
渋沢成一郎は生き延び、残った同志らと江戸に潜伏し、榎本艦隊に合流します。
一方、彰義隊の隊長・天野八郎は上野戦争の約2カ月後に捕縛され、獄死(病死)していま
すが、200人余りの残存兵がやはり榎本武揚の元にやってきます。
ここで再び、彰義隊と振武軍は合流し渋沢が隊長に返り咲きます。
彼らを乗せた榎本艦隊は仙台へ。奥羽越列藩同盟と一緒に戦う覚悟でしたが、肝心の
盟主である仙台藩が「やっぱ、やめるッス。負けるのコワイっス。」とヘタレ丸出し。
同盟は一気に崩壊してしまいます。
宇都宮、会津と転戦してきた大鳥圭介率いる陸軍や新選組と合流して、榎本艦隊は北海道
へ向かいます。
しかし、箱館戦争において、またもや彰義隊は分裂。渋沢派の50人「小彰義隊」と旧天野
派180人「大彰義隊」とに別れてしまいます。
結局、最後まで両派の溝は埋まらなかったんですね。

そもそも渋沢と天野との反目のきっかけですが。
慶喜や幕府再興へ、両者の考え方の違いがあると言いましたが、もう一つ。
渋沢は彰義隊にいた頃から江戸の豪商などを訪れ、強引な金策をしていたといいます。
で、それを天野が快く思っていなかったらしく、そこから対立が始まったようなんですね。
「戦は気合いで勝んじゃい」精神論天野と「先立つモノは金でしょ」現実派渋沢でしょう
か。

まぁ、「里正日誌」に書かれた渋沢の多摩・狭山地域での広範囲な金策を検証してみると、
渋沢の性格の一端が見えるような気がいたします。
渋沢成一郎は箱館で敗戦後逮捕されますが、明治5年(1872)に赦されます。
その後生糸貿易などにたずさわり、従兄弟の渋沢栄一とともに実業界で成功。
大正元年(1911)75歳で亡くなります。
明治以降の世の中の方が、渋沢には合っていたのかもしれません。



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[ 2014/02/26 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(8)