振武軍、金策して飯能で戦う!

彰義隊の隊長だった渋沢成一郎ですが、隊内の権力争いに敗北、
拠点を青梅街道(当時の呼び名は成木道)を西に下った田無村に移し、新たに
振武軍を立ち上げます。
なんだかこの辺り、小劇団の立ち上げみたいです。

振武軍は上野戦争の起きる2週間前、5月1日に田無村の西光寺に本陣を構え、
行動を起こします。
「里正日誌」を見てみましょう。

「(前略)所沢組合に所属する村々の指名された47人が、田無村に呼び出された。
5日雨の朝、重蔵(蔵敷村組頭)を連れ立って杢左衛門が出頭した。
(振武軍は)田無村西光寺に本陣を置き、兵士は光蔵寺・太子堂・観音寺4ケ寺に
5月1日より追々集まって、凡そ300人余りになり、諸方へ金策の呼び
出し
をしていたようだ。」


というコトで、今までご紹介した仁義隊、精勇隊と同じく先ずは金策に動いたようです。
日誌では続けて振武軍の幹部メンバーを書き出しています。

「総隊長        渋沢精一郎 変名 大寄隼人
中軍隊長 目付役兼            榛沢新六郎
前軍隊長                   野村立吉
後軍隊長                   渡辺 進
軍目付                    久保喜三郎
 他の役付姓名は略す                     」


渋沢の「成」の字が「精」になっていますが、これはよくあるコト。
彼は「大寄隼人」という変名を用いていたんですね。
榛沢新六郎は、渋沢の従兄弟の尾高新五郎ではないかと思われます。

「本陣の置かれた西光寺に着くと、列席にいた総隊長が仰るのには、この度徳川氏
再興のための献金の額を短冊に書いて申し達するので、その通り助力するようにと
いう依頼を申された。
金20両重蔵、と書かれた短冊を下げ渡され,品々の嘆願を求められたところ、強請に
脅し脅迫して言ってきたので、お申し付けの金額はとても自力では用意できないことを
再度嘆願した。結局、金5両を差し出し、ようやく勘弁してもらった。」


これまで見てきた仁義隊や精勇隊と同じですね。「多額の献金を強引に要求
する。」

振武軍は在方の商人層に献金を要求しました。重蔵さんは蔵敷村の組頭ですが、
組頭は村内で商いを行う家でした。そういうセレブ層に狙って金を出させようとしたん
ですね。
20両の要求を5両に「勘弁」してもらった重蔵さんですが、他の村々ではどうだった
のでしょう?
日誌には、蔵敷村が所属している所沢組合村で、誰がいくらを要求され、実際にいくら
支払ったかを書いたリストが載っています。全て書き出すのも大変ですから、目についた
ところを拾ってみましょう。赤字が要求額、青字が実際に支払った金額です。

下安松村(所沢市) 名主 新助 150両 50両
所沢村 百姓 伝右衛門 150両 50両
所沢村 百姓 弁蔵 100両 30両
所沢村 百姓 孫七 100両 30両
所沢村 百姓 源兵衛 100両 25両
粂川村 年寄 太座衛門 100両 20両
高木村 名主 庄兵衛 50両 10両
高木村 百姓 清五郎 20両 7両
高木村 百姓代 宇兵衛 20両 5両
蔵敷村 組頭 重蔵 20両 5両
計22ケ村 46人 2280両 726両 

要求金額が多い所と東大和市域の村を中心に挙げてみました。
所沢はやはり組合の寄場ということもあってか、12人から700両とダントツに要求され
ています。しかし、どの村々も要求額の三分の一から四分の一程度しか払っていません。
この辺りも仁義隊や精勇隊のときと同じですね。
振武軍は所沢組合の他からも、田無組合村々から730両、拝島組合村々から500両
扇町谷組合村々(入間市)から720両、日野組合村々から500両、府中組合村々から
500両の献金を受け取りました。
たぶん、どの組合も要求額よりは少なく納めたのでしょうが、それでも3500両近くの
金が集まったことになります。

杢左衛門さんの記述にあるように、村民にとって献金は強引に奪われたという印象が
あったようです。つまり、3500両という金額は大金ですが、それは決して村々が振武軍
を支持していたわけではないと言えるでしょう。

後に触れたいと思いますが、ちょうどこの時期は新政府の東征軍も人馬を差し出すよう、
村々に要求してきています。
多摩、狭山丘陵の村々は旧幕側、新政府側のどちらからも協力を求められることになり、
村の指導者はかなり頭を痛めたのではないかと思います。

さて、金を手に入れた振武軍はこの後どうしたのか?
「里正日誌」はこの後の振武軍の動きや、上野戦争の顛末を丁寧に記述しています。
杢左衛門さんが相当の関心をもって、彼らの動きを追っていたことを感じます。

「5月12日朝、(振武軍は)田無村を引き払い出立、小川村(小平市)を通り箱根ヶ崎村
(瑞穂町)に泊まり15日の晩まで滞留した。
・・・中略・・・
(上野で戦争が起こったと聞き)15日夜中に箱根ヶ崎村を立出、小川で継ぎ立て田無村
を越え江戸近くの高円寺村(杉並区)まで駆けつけたが、もはや上野で敗走していると聞
き、田無村へ引き返し、逃げてきた彰義隊と合流した。
16日夜、田無村に止宿。二隊合わせておよその人数1500~1600人と聞く。
17日同所を出て、小川村を通り、一隊は分かれて箱根ヶ崎に泊まり、所沢で昼食を取り
扇町谷泊まり。
二隊が合流し飯能村に入る。飯仁寺・智観寺他2ケ寺に陣を張った。
20日頃、鷹巣山に物見楼を設置した。
官軍は21日、大村・筑前・備前・佐土原・久留米の5藩2000人が江戸を立ち田無村に
泊まった。この時、賄い方として御代官・江川太郎左衛門様御手附の大井田源八郎殿が
御付き添いで田無村へ炊き出しを仰せ付けられた。
蔵敷村組合までも同村へ呼び出され、兵士の食事の手伝いを申しつけられた。
22日同村を出立、所沢村で昼食、これは田無村より弁当持参。
所沢村でも組合村50ケ村へ高100石につき人足2人・馬1疋の助郷の触れを出した。
22日明け六ツ時詰にて扇町谷村へ継ぎ立て、騎馬4人・大砲3門、他に兵器は小銃で
鎗は無しと聞く。
総人数が扇町谷に泊まったが、夕食は所沢村から炊き出しを送ったようだ。
夜中に官軍は二手に分かれ、一手は本道黒須・笹井・野田通り、一手は間道小谷田村の
うち字牛沢より飯能川を越えて向かった。
23日未明より、脱走(振武軍)と官軍が戦い、双方に討死・手負いがあった。
23日午後、戦争は終り、脱走兵は諸方へ散乱していった。
兵火のために、飯能村の町並みは焼失。黒田候の菩提寺能仁寺・観音寺、中山候の菩提
寺中山村智観寺・真応寺は兵乱のため焼失した。」


だいぶ長くなってしまいましたが、飯能戦争へ至る経過と結果が詳しく書かれています。
江川代官所がすでに新政府軍の使い走りになってしまい、その煽りで蔵敷村もメシ炊きに
動員されているトコロに注目ですね。

振武軍のこの後ですが・・・。
渋沢成一郎は生き延び、残った同志らと江戸に潜伏し、榎本艦隊に合流します。
一方、彰義隊の隊長・天野八郎は上野戦争の約2カ月後に捕縛され、獄死(病死)していま
すが、200人余りの残存兵がやはり榎本武揚の元にやってきます。
ここで再び、彰義隊と振武軍は合流し渋沢が隊長に返り咲きます。
彼らを乗せた榎本艦隊は仙台へ。奥羽越列藩同盟と一緒に戦う覚悟でしたが、肝心の
盟主である仙台藩が「やっぱ、やめるッス。負けるのコワイっス。」とヘタレ丸出し。
同盟は一気に崩壊してしまいます。
宇都宮、会津と転戦してきた大鳥圭介率いる陸軍や新選組と合流して、榎本艦隊は北海道
へ向かいます。
しかし、箱館戦争において、またもや彰義隊は分裂。渋沢派の50人「小彰義隊」と旧天野
派180人「大彰義隊」とに別れてしまいます。
結局、最後まで両派の溝は埋まらなかったんですね。

そもそも渋沢と天野との反目のきっかけですが。
慶喜や幕府再興へ、両者の考え方の違いがあると言いましたが、もう一つ。
渋沢は彰義隊にいた頃から江戸の豪商などを訪れ、強引な金策をしていたといいます。
で、それを天野が快く思っていなかったらしく、そこから対立が始まったようなんですね。
「戦は気合いで勝んじゃい」精神論天野と「先立つモノは金でしょ」現実派渋沢でしょう
か。

まぁ、「里正日誌」に書かれた渋沢の多摩・狭山地域での広範囲な金策を検証してみると、
渋沢の性格の一端が見えるような気がいたします。
渋沢成一郎は箱館で敗戦後逮捕されますが、明治5年(1872)に赦されます。
その後生糸貿易などにたずさわり、従兄弟の渋沢栄一とともに実業界で成功。
大正元年(1911)75歳で亡くなります。
明治以降の世の中の方が、渋沢には合っていたのかもしれません。



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藤堂平助、斎藤一を疑う!

20140222.jpg

彰義隊の話を書くためにいくつか本を読みましたが、その中の一冊「彰義隊遺聞」
(森まゆみ・新潮社)の中に面白い記述がありました。

彰義隊は本隊の他に諸藩の藩士や、有志たちで構成された諸隊からの応援も受けて
いました。その中のひとつに「臥竜隊」というのがありました。
その臥竜隊が上野戦争の起きる5月15日当日に、根岸の米屋から玄米の前借りを
しようとした証文を紹介しているのです。
面白いと思ったのは、その臥竜隊の隊長の名前です。

間宮金八郎、というのです。

この名前は、八王子に駐屯した仁義隊クリック!)の隊長の名前と一緒です。
仁義隊は八王子で金策をしたり、千人隊(八王子千人同心)から武器を調達して
中野の宝仙寺に移りました。そこで新政府軍の呼びかけに応じて解散した可能性が
高いと云われています。
しかし、仁義隊の隊長・間宮が、臥竜隊の間宮と同一人物だとすれば、仁義隊は
中野で解散せず、あるいは形を変えて上野に向かったということになります。

「彰義隊遺聞」によると、臥竜隊の人数は300余人、隊士は旧幕府の歩兵隊では
ないかとのことです。
仁義隊の一部は所沢で金策をしたとき、幕府の歩兵銃隊である撒兵隊を名乗って
いましたが、仁義隊=臥竜隊であるなら、その意味もわかってきます。

仁義隊の金策に応じた粂川村に間宮が感謝状を出したのが、5月2日です。
そこから中野に屯集し、上野で戦争に参加するのは時間的にも無理がないように
思えます。
仁義隊の間宮金八郎と、臥竜隊の間宮金八郎は同一人物だったのか。
仁義隊と臥竜隊の関係は?

この二つを結びつける史料はないでしょうか?
絶賛大募集中であります!

彰義隊遺聞彰義隊遺聞
(2004/11/25)
森 まゆみ

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猫でもわかる彰義隊 2

前回までのあらすじ。
  
  彰義隊は天野八郎と渋沢成一郎の二派に分かれた。
  天野八郎は遠藤太津郎に似ている。 以上。

さぁ、前回の復習も済んだところで、今回もいってみまショーン・コネリー。

渋沢らと袂を分かった天野率いる彰義隊は上野に入り、寛永寺の寒松院に本営を
置きます。この時隊士は1000人を超え、さらにまだ入隊者が増えているという
状況が続いていました。
江戸っ子たちは内心「薩摩や長州の田舎モンに征服されちまうのかよ、悲しいねぇ」
と思っていましたから、江戸を守ろうと集まる彰義隊はカッコ良く見えたようで、拍手
喝采を送ったといいます。
吉原でも薩長藩士は全く人気がなく、「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」がおネェちゃん
たちの合言葉でした。

彰義隊の目的は「輪王寺宮をお守りする」ということでした。
輪王寺宮は皇族ですから(しかも名義上天皇の子)、征討の勅諚でも出ないかぎり
宮をお守りしていれば朝敵にはならないのです。
これは後の話になりますが、佐幕側の東北・北陸雄藩が「奥羽越列藩同盟」を結成
したときに、輪王寺宮に即位していただき「東日本政権」を樹立させようという計画が
ありました。
天野がどこまで考えていたかわかりませんが、幕府を再興させるにしても、慶喜より
輪王寺宮の方がずっと大事であるという考えはあったでしょう。
宮は天皇にもなれるお方ですが、徳川将軍は慶喜でなくてもいいのです。

渋沢成一郎は慶喜の家臣だったので、主君の命がとにかく第一でした。
天野も慶喜が水戸へ行くときには千住大橋まで見送っていますので、忠義の心はあった
でしょうが、渋沢ほどの慶喜個人への忠誠心は無かったと思います。
それよりも幕府を再興させることが大事なのです。

しかし、彰義隊を取り巻く空気は次第にキビしくなって行きます。
新政府が田安亀之助(徳川家達・いえさと)に徳川家を相続させる許可を出すと、市中
警備も新政府が行うと通達してきました。勝海舟はこれを機会に、彰義隊に武装解除を
持ちかけますが、これにおとなしく応じる天野らではありません。
江戸市中では日ごとに新政府側と彰義隊士の衝突が多くなってきます。
ついに新政府は彰義隊を賊徒と定め、5月15日に攻撃すると決定したのです。

上野の山に入った彰義隊は2000人とも3000人とも云われています。
正確な名簿は残されておらず、また、神木隊(高田藩)とか万字隊(関宿藩)というような
諸藩からの参加部隊もあったので、実際の人数はわかりません。
しかし、15日の戦争が起きたとき、彰義隊側には1000人ほどの人数しかいませんで
した。
というのも、隊士らは各組み分けがされ、持ち場も決まっていましたが、比較的自由に
遊びに出たりしていたみたいなんですね。
彰義隊は新選組のような局中法度もなければ、血の粛清もありません。来る者は拒まず、
去る者は追わず。だからスパイも相当入り込んでいたし、「ちょっとサムライ気取ってみる
か」みたいなハンパ者も3000人の数の中にはいたようです。
なので、彰義隊を「烏合の衆」と決めつけるものもあります。

さて、前回のこのブログのマンガで「彰義隊に金がない」という意味のマンガを描きました。
けどこれはウソです。だから詐欺なんですよ、奥さん!
彰義隊は銃火器でバンバン撃ってくる新政府軍に対し、刀鎗で向かっていったイメージが
あります。当時の錦絵もそう描いてあります。だから武器を調達するお金がなかったのか
しら・・・なんて思ってしまうんですが、これは間違い。
お金はあったんです。
だって、正式に幕府(暫定統治機構)から市中見廻りを拝命していたのですから、お金は
出ていました。さらに、明治の江戸時代考証家の三田村鳶魚(えんぎょ)って人が書いて
るんですが、寛永寺は大名への金貸しをしていて慶応3年には500万両の蓄財があった
らしいです。
でも、彰義隊は全体でも小銃400~500挺、弾丸も平均で5~6発。大砲も11門しか
なかったと云われています。
要するに、金はあったんだけど、十分に準備しておかなかったというのが真相のようなん
ですね。

15日の午前7時、いよいよ開戦。
まぁ、戦いの推移は他でいろいろ本など出ていますので参照してください。
ココでは上野が戦場になってしまったもう一つの理由に触れてみたいと思います。

新政府側は輪王寺宮に何度も山を下りるように呼びかけました。
しかし、宮は一向に上野を出る気配を見せませんでした。
といっても、これは宮ご自身だけの考えではなく、周りもそうさせていたんですね。
輪王寺宮は寛永寺のトップではありますが、これはモチロン形式上のこと。
実際には執当というポジションの者が寺務一切を取り仕切っていました。
この時期、その執当にいたのが覚王院義観という坊さんです。この人がゴリゴリの主戦派
なんですね。ボーズなのに。

ま、理由はあるんですよ。
慶喜が寛永寺で謹慎していた時、つまりまだ新政府軍が江戸に総攻撃をしようとしていた
時。輪王寺宮である公現法親王と覚王院義観は、駿府まで来ていた大総督府に出向いて
戦争の回避と慶喜の助命を訴えたんです。
総督の有栖川宮熾仁親王とは同じ皇族ですし、有栖川宮家からは過去に輪王寺宮も出て
いる、話も通じやすいと思ったのでしょう。
ところがドッコイ。「あンたなー、そないなコト言うてもさっぱワヤですねん。早よ江戸へ
お帰りはって、幕府の主戦派を押さえたほうがよろしおまっせー。ホンマでっせー。」
と冷たくあしらわれちゃった。
これには宮さまも義観もアタマにきたワケです。
結局、戦争を回避させたのは山岡鉄舟とか勝海舟とか、元々は身分の軽い幕臣たちでしょ。
プライドを傷つけられた宮さまと義観は
「天野ッチ、軍資金はたんまりあるわさッ。思いっきりおやんなさいな!」
てコトで、これもまた上野が戦場になった理由でありましょう。

戦争は、当初彰義隊が押す場面があったものの、やはり新政府軍の人数と銃火器には
勝てず、午後4時には勝敗が決しました。新政府軍側死者43人に対し、彰義隊側死者
300人以上という大敗です。
輪王寺宮は北口から逃れ、後に榎本武揚らと合流し仙台に行きます。
彰義隊は結成から4ヶ月、わずか半日の戦いで壊滅してしまいました。実際にはその残党が
箱館戦争まで戦うんですが、彰義隊が歴史の主役となったのはこの1日だけです。

上野戦争と彰義隊とは、いったい何だったのでしょうか?

伊勢八という呉服太物を商う店の、加太民之助という商人が彰義隊に参加し、そのまま
帰らなかったそうです。彼は妻子にその理由として「江戸っ子として薩摩が威張っている
状況にガマンできねェんだ、こんちきしょう!」と言い残していったそうです。
彰義隊にはそういう人が、幕臣、町人問わずたくさん参加していたのでしょうね。
薩摩が鳥羽・伏見の戦いのきっかけを作るまで、さんざん江戸で乱暴に及んだことをみんな
忘れていなかったのですよ。
天野がその人たちを引き入れ、それは一見「烏合の衆」に見えたかもしれませんし、そう
いった側面は確かにあったでしょう。しかし、江戸っ子の心もまた上野にあったのだと
思います。

新政府軍が半日で戦争を終わらせたのは、戦いが長引けば周りで様子を見ている幕臣らが
加勢してくる恐れがあったからでした。
戦いの済んだ後で新政府軍は火を放ち、上野の山にあった多くの堂塔伽藍が焼失しました。
戦後、彰義隊の残党狩りは執拗に行われ、天野も隠れている所を見つけられ捕縛。獄中で
病気になりそのまま息を引き取ります。38歳でした。

彰義隊マンガ2

彰義隊の中にも頭並を務めた春日左衛門という「君容貌美麗にして尤も強気あり」
と云われたメンズもいたようですが、如何せん絵とか写真が残ってないのです。
まぁ、新選組でも沖田さんのように肖像画が残ってなくてもイメージでイケメン扱いされ
てる人もいるワケで・・・結局、彰義隊そのものがマイナー扱いだから隊士たちも語られ
ないんでしょうね。
東京の人だったら、語り残さなきゃいけないよね。彰義隊。

よしッ、東京オリンピックの公式マスコットは「天野八郎ッチ」だッ!フガー!


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猫でもわかる彰義隊 1

彰義隊マンガ

奥さん、このようにお子さんを名乗る人物から「彰義隊にはいったから金を送れ」
という電話があっても、絶対にお金を振り込まないでください!
それは100%、詐欺です!
周りの人に一度相談するなどして、気を付けましょう。
KC庁子猫署からのお願いです。

「でも私彰義隊ってよく知らないし・・・騙されたら主人からラリアット喰らってしまい
ますの、どうしましょう・・・!」
「それは困りましたね。では、彰義隊について少しお話しましょうか。」

つーわけで、やっと本題に入りますのだ。
これからマジメな話になるので、その前にジャブを一発かましてみました。

幕末の狭山丘陵一帯にやってきた武装集団のうち、残る一つは「振武軍」です。
この振武軍をお話するには、どうしても彰義隊 のことを知っていただかないと
話が前に進みません。
彰義隊は慶応4年(1868)頃の旧幕府方武装集団の中では、一番大きく、また有名
な部隊です。この彰義隊と新政府軍が上野で戦争をしたのですが、日本史の教科書
ではこのことが、ほとんど触れられていません。
東京の明治維新は江戸城の無血開城で平和的に行われたと思いがちですが、真実
は決してそうではないのですよ、というお話です。
今回はちょっと多摩を離れて、この彰義隊にスポットを当ててみたいと思います。

まずは2人の人物をご紹介します。
1人目は天野八郎
彼は上野国(群馬県)の庄屋の次男として生まれました。
本名は大井田林太郎。父親が江戸で公事宿を経営していたので彼も江戸へ出て、
学問や撃剣を学びます。背が低くて小太り、歯並びも悪かったと云われイケメンには
ほど遠かったようですね。
唯一残っている写真を見ると、往年の名悪役俳優・遠藤太津郎さんみたいです。
しかし正義感が強く、意外に身も軽く、幅2間(3.6m)の堀なら簡単に飛び越えたそう
で、リーダーシップと身体能力は高かったんですね。
後に与力の広浜家の養子に入りますが、やがて離縁。姓を天野と改めますが、
その理由はわかっていません。
天保2年(1831)生まれなので、戊申戦争時は37歳です。

もう1人は渋沢成一郎
武蔵国榛沢郡(埼玉県深谷市)の血洗島という、なんやら横溝正史の小説に出てきそう
な名前の村の出身です。藍玉の生産と養蚕で財を成した農家の分家に生まれました。
天保9年(1838)生まれで、2歳下の従弟に明治の大実業家渋沢栄一がいます。
成一郎と栄一は江戸に出て、一橋家用人の平岡円四郎という人と知り合いになります。
平岡は主君・一橋慶喜のためにデキる家臣を探している最中でした。
成一郎と栄一は平岡に誘われ、一橋慶喜の家臣になります。そして慶喜が慶応2年
(1866)に徳川宗家を継いだことにより、幕臣になったのです。
栄一はフランスで行われた万国博に参加した慶喜の弟・徳川昭武の随行員として欧州
に派遣される、成一郎は陸軍奉行支配調役から奥右筆格に抜擢されるなど、大活躍。
平岡の目に狂いはなかったんですね。

さて。しかしながら時代の風は徳川方に大逆風。
慶喜は上野寛永寺に謹慎に入ります。
なぜ、謹慎場所が寛永寺だったのでしょう?
一つは徳川家の菩提寺だから。徳川の菩提寺は芝の増上寺もありますが、上野の
方が山もあり守りやすい、北への逃げ道が確保しやすいこと。
もう一つは寛永寺の貫主・輪王寺宮の存在です。
現在は天台宗の頂点は比叡山延暦寺ですが、江戸時代は徳川氏の力により上野寛永
寺がそのトップの地位にありました。
さらに輪王寺宮は、東照宮のある日光輪王寺の門跡でもあり、徳川氏の影響は
非常に大きいものでした。
代々の輪王寺宮には、一品(いっぽん)法親王という位の皇族が務めることになって
います。一品とは皇族の中でも最高位の位で、天皇の子(大抵は養子ですが)に与え
られることになっていました。
天皇の子ですから、いざという時には還俗して即位も可能です。
つまり、輪王寺宮とは「徳川氏の力により奉じられた東国の天皇」であったのです。

慶喜との関係で言えば、彼の母は有栖川宮家の出身ですが、10、11、12代の
輪王寺宮も有栖川宮家から出ていて、慶喜とは親戚関係なんですね。
この当時は代替わりして、13代の公現法親王という方(伏見宮家出身)が輪王寺宮を
継いでいましたが、慶喜が上野寛永寺に籠ったのには、「守ってもらえる人脈と場所」
という理由があったようです。
この辺りの話、すっげーメンド臭いんですが、このことを知っていないと「なぜ上野で
戦争があったのか」がわからないままになってしまいます。

慶喜が謹慎に入ると、「慶喜様をお守りするための警護隊を作ろう。そのための会合を
開くので集まってください」という回状が、一橋家家臣、撒兵方(幕府仏式鉄砲隊)らに
回ってきました。
言い出しっぺは一橋家家臣の本多敏三郎と、陸軍取調役並の伴門五郎でした。
第1回目の会合は雑司ヶ谷鬼子母神門前の茶店で行われましたが、新政府の目を気に
してか集まったのはたったの17人。
とりあえず、隊の名称を「尊王恭順有志会」と定め、これが彰義隊の第一歩となったの
です。

しかし、17人じゃどーしよーもねーだろ、OLの女子会じゃねーんだから(←ウソ)、って
ことになり、四谷の円応寺で再びミーティング。
すると、呼びかけが功を奏したのか2回目の会合が30人、3回目は67人と段々と人が
集まってきます。
その3回目の会合にやってきたのが、先に話した天野八郎と渋沢成一郎の2人。
彼らはその場で血誓書に署名血判を押し、正式に入隊します。そして、尊王恭順有志会
の名称も「彰義隊」と改められたのです。

彰義隊のリーダーには渋沢が推されました。農民の出身とはいえ、奥右筆格という重職
にも就き、頭もサエるというのがその理由でした。
ちなみに、栄一はこの時徳川昭武に付いてフランスにいました。もし、日本にいたならば
間違いなく彰義隊に参加していたでしょう。
驚くのは一橋家家臣でも幕臣でもない天野が、ナンバー2の位置に就いたことです。
おそらく、天野は以前から幕臣らと交流を持ち、「アイツ、見た目は遠藤太津郎みたい
だけど、頭もいいし剣も使うナイスガイだね」という高評価を受けていたものと思われます。

というように、彰義隊は慶喜の身辺警護を目的とした部隊であり、決して「薩長と一戦
やらかしてやろうゼ」という目的で作られたものではありませんでした。
特に頭取の渋沢は一橋家家臣でしたから、「当主慶喜様のお命だけは、何としても
守らなければならぬ」という気持ちが大きかったのです。
ところが次第に彰義隊の評判が広がり、入隊希望者がわんさかと集まってくるように
なりました。
幕府がなくなり「明日はどっちだ・・・」という状況に身を置いた幕臣らの受け皿と、
彰義隊が見られてきたようです。
いよいよ隊士が300人を超えると、勝海舟らは「ヤバイ、新政府に余計な建議をかけ
られる」と心配します。しかし、前将軍を守ると言っている者らを解散させるわけにも
いかない。ということで、彰義隊に江戸市中の見廻りという仕事を与えることにしました。

ところがこの頃になると、彰義隊の中で意見の対立が起こり、渋沢派と天野派という
二つの派閥ができてしまいます。
渋沢は先にも話したように、彰義隊の目的は慶喜の護衛であるというスタンスです。
新入隊士も幕臣に限る、としていました。
しかし、集まってくる者の中には「薩長のヤツらに江戸の町を大手を振って歩かれる
のはガマンできねぇ。一戦やらかして、あわよくば幕府の再興だ!」と考える者が
多く、その意を汲み取っていたのが天野だったんですね。
天野は隊士募集も「身分・前歴問わず」、薩長への反抗心があり戦う気持ちがあれば
誰でも引き受けました。
簡単に言ってしまうと、慎重論の渋沢派と主戦論の天野派です。

次第に二派の衝突は表面化することになります。
そしてついに「新政府に寝返らないこと」「降伏はしないこと」を約束して天野派と
渋沢派は分裂してしまいます。
この頃、4月11日、慶喜は水戸で謹慎するために江戸を出ます。
彰義隊の大多数を率いることになった天野は、1000人余りに増えた隊士とともに
上野の山に入ります。
輪王寺宮を奉じて、新政府を撃退し、幕府再興!
それが天野率いる彰義隊の目的となったのです。

一方の渋沢は100人の隊士を連れて江戸を出ました。
慶喜のいない江戸にいても仕方がないし、水戸は他藩ですから入れません。
彼らは青梅街道を西に進み、田無村(西東京市)に駐屯しました。
「ここで新たに編成し直し、新しい部隊を作る!」
振武軍 の誕生です。


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総司とおゆうさん

20140409.jpg

土曜日(8日)は関東地方で大雪でしたが、みなさんの所はどうだったでしょうか。
このブログでおなじみ、ワタクシの住む東大和市は東京都の北多摩という地域に
属しています。
で、さらにワタクシの住んでいる場所は市内でも北部で、標高も150mほどあり
ますから気温も都内より確実に2℃は低い場所です。
テレビのニュースでは「新宿や渋谷の積雪は25cm・・・」などと言っていましたが、
ワタクシの家の前の道路では40cmは積もりました。
距離にして新宿とは30kmしか離れてないんですけどねぇ。

さらに昨日の雪は、東京では45年ぶりの大雪とかで。
送電線がどうかしたのかわかりませんが、ワタクシの住む地域一帯が夜7時半から
10時過ぎまで停電しちゃいまして。
部屋の暖房はガスなんですが、ファンヒーターだから停電すると使えないんですね。
もー寒いから、布団かぶって猫抱えて寝ちゃいましたよ。

幸いにして、今日(9日)は日中陽射しもあって、気温も高かったので溶けてくれる
のも早そうで良かった良かった。
ま、明日以降、道路の凍結には注意ですが・・・!


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精勇隊、名主を捕える

仁義隊が八王子に現れたのと同じ頃、東大和市域と同じ組合をつくる所沢村に
精勇隊 と称する一隊がやってきました。
「里正日誌」には
「六月頃ニは凡七十人余ニ相成候ニ付、種々妨害相働騒動及ひ候」
と書かれています。
どう甘く読んでみても、ありがたい存在ではなかったようですね。
この精勇隊とは、どのような集団だったのでしょうか。

「慶応4年閏4月19日頃、城憲隊 と名乗る14~15人が所沢川原宿の
新光寺へ来て滞留した。段々とその人数が増えおよそ30人余りになり、所沢村の
薬王寺に引き移ると、賊徒を制圧する撫育隊 と改称した。
5月に入り50人余りになると、官軍阿波国稲田藩の付属である精勇隊 と改称
し、総隊長は江戸に住む柏尾嘉平次、所沢出張屯所隊長に小野民之丞と鈴木織之助、
調役に市村郡司、ほか諸役に10人余りの者がいた。
訴訟を受け付ける役所の体裁を取り繕い、民事・刑事その他のことを取り扱った。」


この書き出しで、すでにイカガワシさ全開でしょ。
名前をコロコロ変えてるし、最終的には新政府方付属軍を名乗ってます。
挙句の果てには裁判まで取り仕切ろうって、何様ですかッ、アンタたち?

ところでワタクシ、薩長側を「官軍」と呼ぶことにはヒジョーに抵抗があります。
決して徳川方を「賊軍」だと思ってはいませんし、事実そうだからです。
なので当ブログでは「新政府軍」と表記していますが、日誌などの史料で「官軍」と書いて
ある時はそのまま引用させていただきます。

「6月になり追々人数も増え70人余りになった。そんな折の6月6日、所沢村名主の助
右衛門を呼び出して召し捕ってしまった。屯所の二階へ番人4人を付けて鎮め置き、10日
未明に笠蓑を着せて、上安松村(所沢市)組頭の武右衛門方に連れて行った。そこから
駕籠で江戸の神田三嶋町加賀屋長三郎方に住んでいる、精勇隊隊長の稲田藩柏尾
嘉平次の元に差立てた。すでに西ノ丸下の糺問所まで送るべき様子のところ、柏尾が取り
計らって12日まで村預けとした。」


名主の助右衛門さんを拘束するという、ただならぬ事態が起きたようです。
「里正日誌」はこの辺りに推移を、日を追って書いています。全部書くと長くなるので要約
いたしますと、

6日 助右衛門の家にやって来て、刀・脇差・鎗3本を押収。さらに旧幕府脱走兵や
官軍が通行したときの人馬継立帳2冊も押収し、土蔵へ封印をする。

9日 村内にある木炮と合薬、鎗、鉄砲を残らず差し出すよう村役人に指示。村の主立った
者の土蔵まで探索し、木炮11挺、合薬700目、鎗22本、鉄砲7挺を差し出させた。

10日 上安松村組頭の武右衛門は、精勇隊屯所隊長の鈴木織之助と懇意の仲なので、
砂川村名主の村野家などが間に入り交渉をしたところ、金策を申し出てきた。

11日 500両を差し出すように言ってきたが、嘆願して200両にまで勘弁してもらえ
るよう訴えた。

12日 白米50俵、金30両まで下げてもらった。


結局は武器とお金が欲しかったのね、キミたち。って思われても仕方ないですね。
しかし、最初は大金を吹っ掛けておきながら、すぐに現実的な金額で妥協するあたり、
あまり強気にも出られない事情があるような気もいたします。
ところで、助右衛門さんはなんで拘束までされちゃったのでしょう?

「13日 三嶋町加賀谷長三郎方へ助右衛門ほか一同罷り出て、精勇隊総隊長・柏尾嘉平次
へ面会し、同人から尋ねられたことへ杢左衛門が申し立てた。
官軍が江戸攻めで通行するときと、旧幕府の脱走兵が通行するときの人馬継立人足の賃銭
を未だに受け取ってはいないが、村々においていささかも差し障りはありません。
所沢の村役人たちは御用の仕事が多く、割り渡し方が行き届かないのでそのことを
屯所へ書類にして差し出しました。屯所のお役人のお指図なのでやむを得ず、只々村々で
賃銭を受け取らないとしたことを、書類を書き換えるよう話をうけた。
9日に認め直し、差し出したことを申上げると柏尾氏のお疑いも晴れて、助右衛門の身柄は
速やかに表向き村預けとなった。」


継ぎ立て人足の賃金を、各村々に支払っていなかったため助右衛門さんは逮捕されたよう
です。しかし、杢左衛門さんたちは支障が起きてないのだから、助右衛門さんを許して
くれるように精勇隊に訴えました。
精勇隊は官軍を名乗っていましたから、所沢村に不正があるとみて助右衛門さんを拘束
したのでしょうか。彼らにそういう捜査権が与えられていたということなんでしょうかねぇ。
と思っていたら・・・

「16日 御取締りとして八王子宿陣の官軍、掛川候の家臣団の中から、隊長菅具市右衛門・
御目付梶野新左衛門・同伊藤与一郎・同浜野六郎左衛門・御賄い菅沼敬助らが兵隊およそ
100人余りを召し連れて朝四ツ頃(午前10時)所沢村に向けて出兵した。
精勇隊屯所の薬王寺へ話し合いに来たところ、精勇隊は降参して、一通りお取調べを受けた
上で大小の兵器を取り上げられて謹慎を申し付けられた。」


八王子から新政府の正規軍がやってくると、精勇隊はあっさりと降伏してしまいました。
ということは、やはり彼らは「官軍」を詐称して金集めをしていた集団だったようです。
いったいどんな人たちが精勇隊を作っていたのでしょうか?

19日に精勇隊の隊士らは江戸に送られました。
「里正日誌」には彼らの名前や生国などが書き出されています。
総隊長の柏尾嘉平次は稲田藩の剣術師範で年齢は60歳だったとあります。
隊士たちの生国は武蔵国が多いものの、上総、下総、上野、常陸など関東のほか、信濃、
加賀、播磨、越後、大和、紀伊など全国に渡っています。そして多くの隊士が柏尾の
剣術の門弟でした。柏尾は江戸で道場を開き、江戸詰めの藩士等がそこに集まるよう
になったではないでしょうか。
一方、屯所隊長だった鈴木織之助は元尾張藩の御鷹頭、小野民之丞は元別手組出役
(外国人警護)という人物だったようです。
「おや?」と思うのは、柏尾が鈴木らに「金策は決してしてはならないと厳重に申し
渡し」ていたと杢左衛門さんが書き残していることです。

柏尾は常に江戸にいたようです。所沢で実際に活動していた鈴木らと、隊内で方向性の
違いのようなものがあったのかもしれません。

結果だけ見れば、精勇隊は所沢で武器や金銭をかき集め、名主を拘束し、組合の村々
を巻き込んだ挙句、一発の弾丸も撃たないまま新政府に投降するという、お騒がせ部隊
だったようです。


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木津屋の深雪太夫

20140201.jpg

今まで記事を先に書いて、それから漫画を描くか。あるいは漫画を先に作ってから
記事を書くか。どちらにしても、両方できてからブログをアップしてたんですね。
そんなこんなで、更新が週イチのペースだったんですけど、考えてみたら記事に
しても漫画にしても出来上がった順からアップしていけばいいんじゃないか、と思い
まして。
だいたいお前のブログ長ぇーんだよ、っていうご意見もあるようですし、二つに分けれ
ばちょーどイイんじゃないでしょうか。
そんなワケで、今回から漫画と記事を交互に更新していきます。
ヨロシク、どーぞ。

さて、近藤局長は妻帯者でありますが、京都ではお茶屋遊びがお好きだったようで。
馴染みの女性は何人かいたようですけど、深雪太夫は大河ドラマでも優香さんが
演じていたように一番有名な愛人でしょう。
しかし、局長が一番入れ込んでいたのは島村屋の君尾という芸妓だったといいます。
ところが彼女、別名を「勤王芸者」と呼ばれたほどの勤王好き。長州の井上聞多(もん
た・後の井上馨)
のコレだったんですな。
実は上の漫画の「京の女は美しいが人形のようだ・・・」は、局長がその君尾さんをクド
いたときのセリフなんです。
けっこう強引に迫る近藤局長に君尾さんは言います。
「近藤はんが天子さまのために尽くす勤王党になってくれはるのなら、私も近藤はんに
惚れますえ」(注;ワタクシの京言葉はファンタジーです)
すると近藤局長、
「新選組は会津候に従う者。今さら、そちの言葉に従うわけには参らぬよ。そちとは
もはや、無い縁じゃのう・・・」
と言って、潔く引き下がったといいます。
「あら、江戸の男もけっこうキレイな所があるのやなぁ」
と、君尾さんは好印象をもったそうです。


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