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東征軍からの呼び出し・・・どうする江川代官!?

明けましておめでとうございます。
今年も、気がついたら更新してるよ。くらいのペースで幕末(明治初期もね)の
多摩地域、東大和市域のお話をしていきたいと思います。
ときどき番外編、そして毎回のお楽しみ「新選組マンガ」もオシャレ小鉢のごとく
洩れなくついてきますので、お時間のある時にでもどうぞ遊びにいらしてください。

で、今年の1回目です。
正月3日に京都で起きた鳥羽・伏見の戦い。この戦争に勝利を収めた薩長を
中心とする新政府は、7日に慶喜の追討令を出します。
「錦旗の御旗」を掲げた新政府軍に刃を向けたというのが、その理由。
しかし、よく知られた話ですが、この御旗は天皇から授かったホンモノではなく、
薩摩が用意した真っ赤なニセモノ。つまり、旧幕府は新政府の詐欺にまんまと
引っ掛かっちゃったんですね。

でも詐欺であれ何であれ、天皇が新政府側についているのは紛れもない事実。
ていうか、薩長の手に天皇が握られている、といった方がいいかもしれません。
だから慶喜さんが平清盛や足利尊氏みたいに、「そんな天皇がナンボのもんじゃい!
俺様が真っ当な天皇を立てちゃるわい!」と屁とも思わないキャラだったら、また
違った展開もあったでしょうが、彼は尊王思想の老舗・水戸藩の出身です。
即位した天皇に逆らうなんてことは、「空はひび割れ、太陽は燃え尽き、海は枯れ
果てて、月が砕け散っても」出来ようはずがありません。
で、寛永寺に籠ってひたすら謹慎。謹慎。また謹慎。
新政府軍は望み通り武力討伐の口実ができたってんで、江戸へ進軍を開始します。

大ざっぱに日本を東西で分けると、西日本諸藩は新政府側につき、東日本諸藩は
未だ旧幕府側というのが、戊申戦争開始直後の勢力図でした。
そこで新政府東征軍は進軍途中でその先の領主らに先遣勅使を送り、
「お前ら、ワシら朝廷・新政府と、ヘタレ幕府とどっち側につくんじゃい!態度をハッキリ
させたらんかいッ」
と、敵か味方かを確認しながら進んで行きました。
幕府側に味方するといえば戦争に持ち込まれ、新政府に味方するといえば兵力や
食糧・弾薬などを供出しなければなりません。鳥羽・伏見の戦いまで幕府側だった藩
や領主にはキビしい選択が待っていました。

そしてついに、多摩地域を支配する江川代官の本拠地・韮山にも、東征軍からの
使者がやってくるのです。
「里正日誌」には、このときの東征軍勅使と江川代官とのやりとりの様子が細かく
記録されています。

「江川英武御用召
このほど、朝敵をことごとく追討するようにお上が仰せられたことについては、御用
の筋からわかっていることと思う。
そこで、これまで支配してきた地所の絵図面、石高帳、人別帳などを持って、伊勢国
桑名の駅まで至急罷り出ること。
  辰(慶応4年)2月        柳原侍従殿
                   橋本少将殿
    伊豆国韮山江川太郎左衛門殿
病気であったとしても押して罷り出ること。万が一桑名を立った後になってしまったら、
その御出陣の場所に罷り出ること。   」


柳原侍従と橋本少将という2人の勅使が、まず支配地の情報を渡すように江川代官に
言ってきたことが書かれています。
名目上幕府はなくなったとはいえ、そのシステムは事実上生きていましたから代官所を
統括している勘定奉行所に、江川代官はお伺いをたてます。
この出頭命令に従ってもいいのかどうか・・・?
江川家は鎌倉時代から続く名家であり、この韮山の地を治めてきていたのが、その代
官所を引き渡せというのは受け入れられない。
江川代官は非常に悩んだようですが、新政府軍に逆らうこともできないでしょう。
手代を派遣して時間稼ぎをしましたが、結局名古屋で面会をすることになります。
ちなみに、尾張徳川家は御三家の一つではありますが、早々に新政府側についていま
す。

「名古屋にて官軍に応接
一、辰2月12日韮山の県令江川太郎左衛門様、並びにお付き添いの手附柏木総蔵殿、
御用人雨宮新平殿たちが出発し、向かっていたところ、鎮撫使が尾張国名古屋に御滞
在とのことで、彼らの御用向きをお伺いなされた。
付き添いの長州藩応接役は兵隊を差し出すように、と申してきた。
代官が、誰の命令で遣わされてきたのか、と答えると、応接役は、お上からの仰せであ
るので、遣わせた者は分かったので言わなかった。
代官は、軍事力は僅かの代官なので兵隊はいないと答えると、彼は農兵を差し出すべ
きだと言った。
代官が、農兵はその土地の損害を防ぐために取り立てたもので、軍備に差し出すのは
難しいと答えた。
彼は、もっとものことではあるが、仰せ渡されたことでもあるので上京されることを申し
聞かされた。
そこで名古屋を出立上京して、その筋に付け届けをしてお伺いをしていたところ、御用
とのこともあるので滞在するように言われ、町の旅宿に泊まり、御用の連絡を待っていた。
 尾州名古屋応接は長州藩木戸準一郎の由     」


木戸準一郎というのは、後の木戸孝允のことです。
彼の若い頃の名前としては桂小五郎が有名ですが、33歳で木戸貫治と名乗り、次いで
準一郎、そして36歳から孝允と名乗りました。

江川代官はさっそく京都に行き、なにやら裏工作をしていたようです。
もしかしたら、木戸さんからアドバイスがあったのかもしれません。

ところで、江川代官が京都へ上っていたのは、ちょうど甲州街道の柏尾で新選組を
中心とする甲陽鎮撫隊クリック!)が新政府軍と一戦交えているときでした。
甲陽鎮撫隊には、江川代官領である日野宿の名主・佐藤彦五郎が率いる「春日隊」と
いう、農兵や剣術家で構成された部隊も参加していました。
領地の支配者である代官は京都に陳情に行き、領民は幕軍の一員として新政府軍と
戦うという、ヘンな状況が生まれています。

さて、京都でひたすら沙汰を待っていた江川代官の元に、新政府からの結論が出た
のは4月になってからでした。
この間、東征軍は3方向から進軍し江戸を包囲、総攻撃の準備に入ります。
江戸の町を戦火から救うため、勝海舟が西郷どんに会談を持ちかけたのが3月13、
14日でした。

「辰4月伊豆韮山の私領地・屋敷についての届け書き
(中略)江川家は古くは鎌倉時代前より伝え所持している屋敷や私領地を、国に返上
するべきか。あるいはこれまで通りに所持することを認めるか、太政官へ伺い奉った
ところ、家柄も代々続く名家であると別格の評価をもらい、これまで通り領地を預る
ことを許され、献上するには及ばずと仰せ渡された。
今もって、代官の身分をどうするかのご沙汰はなく、京都で謹慎をしております。
よってこのことを申上げます。以上。
  辰4月                江川太郎左衛門
    御勘定所    」


新政府から出された回答は、私領地についてはこれまで通り。新政府に返上しなくて
もよい、とのことでした。
上の通り、江川代官は早速このことを江戸の勘定奉行所へ報告しています。
4月の何日にこの回答が出されたのか、この書状だけではわかりませんが、江戸城は
11日に開城され、江戸は戦火を免れています。
江川代官への回答は、この江戸での動きを見計らってのものだったのでしょうか?

徳川家は大幅に領地を削られたのですから、土地を失った旗本・御家人は大勢います。
その中で江川英武さんは、自分の領地を守ることができました。
別の見方をすると、新政府への「借り」が一つできたことになります。

英武さんはその後秋になるまで京都に留まりました。そして10月、明治天皇(9月に
改元)が東幸し江戸城に入るとき、その先供としてようやく帰国するのです。

20140104.jpg

新選組の試衛館以来のメンバーは、ほとんどが江戸や多摩など東日本出身者で、
そうじゃないのは左之助さんくらいでしょう。
だけど、京都で入隊した隊士には播磨(兵庫県)出身の松原忠治、出雲(島根県)
出身の武田観柳斎、備中(岡山県)出身の谷三十郎などの幹部をはじめ、西日本
出身の人が結構います。
正月に雑煮を食べたか知りませんが、もし作ってたのなら東と西のどちらの雑煮
だったのでしょう?賄い方は両方用意したのでしょうか?


年明け早々、ワタクシ鹿児島県の屋久島に行ってまいりました。
そのために更新が遅れましてスミマセン
屋久島は一つの島の中に、亜熱帯から亜寒帯までの気候が同時に共存している
島だそうで、全島の2割にあたる部分が世界自然遺産に指定されています。
今回は積雪が30cmほどあるとかで、縄文杉などは見に行けなかったのですが、
2時間ほど原生林の中を歩いてマイナスイオンをビシャビシャになるほど浴びて
まいりました。

DSCF6676a.jpg

仏陀杉 樹齢1800年だそーです。

では、今年もよろしくお願いいたします。


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[ 2014/01/05 ] 未分類 | TB(0) | CM(8)