訂正とお詫び、でございます

先ずはみなさん、ゴメンナサイ。
前回のブログにいくつか間違いがありましたので、訂正させてくださりませ。

「仁義隊・精忠隊・振武軍」は「精勇隊」の間違いでした。これは日誌本文、
つまり杢左衛門さんの記述には「精勇隊」と書いてあったのですが、巻末の
解説文には「精忠隊」と書かれていたため、そのままブログにも精忠隊と
書いてしまいました。
日誌を「そのまま猫でもわかるように紹介する」のが当ブログのコンセプト
ですから精勇隊に直しましたが、解説では何度も精忠隊と表記されている
ので、もしかしたら精忠隊の方が正しい名称なのかもしれません。
また、上野戦争を戦った彰義隊の中に精忠隊を名乗った一部隊が参加して
いたと書いてある本もあるので、こちらとの関連も気になるトコロです。
しかし、この時期は、幕府や各藩の脱走兵・脱藩兵、博徒、侠気にかられた
人たちによる武装諸隊があちこちに出現しました。それらがどのように作られ、
どういう運命を辿ったのかいちいち書いてある資料もないので、なかなか
追いきれません。

次に「撤兵隊」は「撒兵隊」の間違いです。コレは単純にワタクシのミス。
日誌の細かい字を読み間違えました。
ハズキルーペをかけて、出直します。
ところで、撒兵隊(さっぺいたい)とは、慶応3年(1867)に陸軍奉行小栗忠順
の建言でできたフランス式の鉄砲部隊のことです。
でも、ブログでご紹介した所沢に現れた部隊は、仁義隊と行動を共にしています。
杢左衛門さんの記述には「表向は撒兵隊ト号し」とあり、仁義隊が幕府の正規軍
を詐称していたように読み取れます。

さてもう一つ。
「田安殿」は田安亀之助ではなくその父の田安慶頼ではないかと、ご指摘を
いただきました。
慶喜が謹慎に入ってから、慶頼が徳川家をまとめ新政府との交渉役になります。
このとき田安家は長男の寿千代が継いでいました。
しかし、寿千代がすぐに亡くなったので弟の亀之助が田安家を継ぎます。
ですから「田安殿」を亀之助と書いたのですが、閏4月に亀之助が徳川宗家を継ぐと
慶頼は再び田安家の当主に治まります。
ですから、この時点での田安殿は田安慶頼ですね。
スミマセンでした。

精勇隊と撒兵隊については直しました。
田安殿についてはそのままにしてあります。

と、前回は間違った記述が多かったため、訂正に一回分使わせていただきました。
まだまだ勉強ですナ。
これからも、ワタクシにトンチキな記述があったらご指摘ください。
よろしくお願いいたします。


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仁義隊、八王子に屯集す!

慶喜将軍や幕閣たちが新政府軍に全面恭順することに納得がいかない旗本・
御家人たちは、各地でグループを作り、武力抵抗を試みます。

当時の江戸の人たちからすれば、薩摩や長州人など言葉も通じない「外国人」と
同じです。そんなヤツらに蹂躙されるくらいなら「死んだ方がまし」と一矢報いて
死に場所を探すサムライもいたでしょう。
それから、徳川本家が領地を没収されるということは、将軍から土地・屋敷を
与えられている幕臣は生活の基盤を失うことにもなり、「食うためにも何とか
しないと・・・!」との思いで仲間と集まる者たちもいたはずです。

幕府海軍や陸軍から戦力を率いて脱走した榎本武揚大鳥圭介らは、今後の
幕臣や旧幕府側につく諸藩をどうするかについて、もっと明確なビジョンを持って
動いていたのでしょうが、関東各地を中心に現れた旧幕府方武力集団はどこまで
の計画性を持って行動していたのでしょうか。

「里正日誌」には、この時期に東大和周辺に現れた3つの部隊について書かれて
います。それぞれ仁義隊・精勇隊・振武軍 と名乗る部隊です。
彼らはどう行動し、周辺の村々に影響を与えたのでしょうか。
先ずは仁義隊から見てみましょう。

「辰(慶応4年)閏4月 脱走300人余り八王子宿へ屯集し金策した一件
閏4月11日より八王子宿寺町松門寺・観音寺・本立寺へ仁義隊の内脱走
した凡そ300人余りが屯集し、旅宿から毎日炊き出しを出させた。旅宿はもちろん
近くの村の実力者らを呼び出し、隊長の間宮金八郎がそれぞれ隊にかかる金の
相談を申し付けてきた。
千人隊からは鉄砲20挺を借り受け、木曽村組合(町田市)の農兵から鉄砲
30挺、八王子・拝島両組合の農兵からは鉄砲はもちろん刀・脇差・鎗などを押借り
した。
19日の昼後に一同出立して府中宿に泊まり、中野村宝仙寺へ屯集するつもり
だったところ、この挙に乗じて八王子近辺の博徒が20人余り仁義隊に入隊して、
前夜の18日夜に凡そ50人余りが何処かへ脱走したという。
大総督府より田安殿へご沙汰があり、田安殿より勝安房殿へ仰せ渡され、
勝殿より鎮撫方の歩兵頭・原嘉藤次殿へ仰せ付けられ八王子宿へ出張された。
同人より話し合いをするというので、嘉藤次殿も同道するため出立した。」


上の記述では「仁義隊から脱走した300人」となっていますが、正しくはこの300人
そのものが仁義隊と名乗る一団でした。
また彼らの中から30人ほどが5月2日に所沢村に行き、撒兵隊 と名乗って
屯集しています。
彼らは農兵から武器などを調達したようですが、村々に屯集した目的はそれだけ
だったのでしょうか。
「里正日誌」は上の記述の最後をこう結んでいます。

「(仁義隊は)屯集中、強談 で金策を言ってきた」

そして、どの村の誰々に、いくらの金額を要求したのかが書かれているのですが、
これがスゴイ。
1ケ村の代表者へ50両~150両を要求。八王子宿などは200両を出せと言って
いるのです。13ケ村から計1175両という、とてつもない高額の献金要求です。
所沢に現れた撒兵隊も同様で、6ケ村に400両を出せと言っています。

いくらなんでもムチャクチャでしょう。
杢左衛門さんが「強談」と書いているように、強引に金銭を出させようとしたことは
明白です。
では、要求された村々では、この金額に応じたのでしょうか。
中野の宝仙寺に入った仁義隊は、粂川村の年寄・太左衛門さんを呼び出し、上記
とは別に100両を要求しました。
それに対する太左衛門さんの返答は、

「一、金12両2分也
この度、民衆のため私たちこれまで200余年の間、御神君(家康)のご恩を受け、
四海太平安楽を仕り、少しの間もご恩を忘れ難く、未だそのご恩を返していません。
月光に雲がかかるように悲痛はこれ以上なく耐え難いものです。裏切り者は日々
盛んになり、本当の家臣は山林に隠れ、実に太陽は照らさないものです。
無邪気な庶民を刀で脅し、昼夜神役を申し付けられ、農業の暇なく私は膝を涙で
湿らせています。元来、無知無教養の俗民が何の分別もなく歎いているところ、
御神君のご恩に報いようとする方々が出動されたことは、我々もご助力申し上げ
たいと存じますが、低い身分なので畏れ入ります。
ご恩に報いるため前書の金額をご献金申し上げます。ご受納していただければ
ありがたく幸せに存じます。なにとぞ四海太平安楽にしていただけますよう願い
奉ります。以上。
                    粂川村 年寄 太左衛門
慶応4年5月2日 
   仁義隊 御役所中様    」


ヒジョーに遠回りな言い方で、相手を立てていますが払う金額は12両2分。
さすがに全く払わないというワケにもいかないだろうし、このくらい出してやれば
さっさと行ってくれるかな、てくらいの金額でしょうか。
で、仁義隊のリアクションですが
「テメー、なめんなよッ!ガキの使いじゃねェんだ、ゴルァ!!」
と、刀を抜いてスゴんだかと思いきや・・・

「感状のこと
一、金12両2分也
この度、徳川家復興のため当地へ仁義隊が出動したところ、神君が280年の間
平和に治められたご恩に報いるため、軍用金を差送られたので受納した。
徳川家が御再興となったときは、厚く恩賞があるので、後日のため感状を書く。
  慶応4年5月2日        仁義隊  間宮謹八郎
                   粂川村  太左衛門     」


あっさりOKしています。
最初からダメもとで、吹っかけたのがアリアリですね。
1ケ村からこのくらいの金額が取れれば上出来と、最初から目論んでいたのかも
しれません。

さてその後、仁義隊がどうなったかは「里正日誌」には書かれていません。
ただ、5月16日に関東取締役から仁義隊の脱走者15人に対して
「旧悪大罪の者なので、立ち廻ったならば逮捕するように」
との命令が出ています。
日誌の最初の記述に大総督府から「田安殿」へ沙汰があったとありますね。
田安殿とは、徳川御三卿のうちの一つ田安家の当主・田安亀之助のことです。
徳川慶喜は謹慎に入ったため徳川宗家の座を降り、亀之助に譲っていました。
つまり、このとき、田安亀之助が徳川家の総本家だったのです。
ちなみに「勝安房」はモチロン、勝海舟。
仁義隊は徳川のために戦うという大義名分を旗頭にしていたものの、その徳川
からも追われていたということになります。

蛇足ながら・・・。
新選組隊士だった中島登が、会津戦争から箱館戦争終結時に至るまでの隊士
名簿を残しているのですが、その中に「右四人之者元仁義隊ニテ五月十一日
台場ニテ合兵ス」とあり、田中忠蔵、植本金三郎、立田鉄之蒸、藤本進二郎の
名前を記しています。
これは、八王子に屯集した仁義隊と同じものだったのでしょうか?

20140125.jpg

沖田さんと医者の娘との恋といえば、司馬遼太郎「新選組血風録」の中の
一編、「沖田総司の恋」ですね。
半井(なからい)玄節という医師の娘、お悠がその恋の相手です。
てことで、マンガにも同名で登場していただきました。

今後、次々に登場、「隊士たちの恋」編!
え、マジで?

精忠隊は精勇隊の誤りでしたので、直しておきました。スミマセン。(1/26)


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新政府軍、江戸に入る

慶応4年(1868)3月、新政府東征軍は東海道・東山道・北陸道の三方向
から江戸に進軍してきます。
彼らの目標は、江戸城と江戸の町を武力によって完全制圧することです。

では、一方の攻め込まれる側、江戸やその周囲では新政府軍をどのように
待ち構えていたのでしょうか?
旧幕府は新政府軍が江戸に入ってくるにあたり、民衆に対してお触れを出し、
その指示に従うように命じています。

「辰(慶応4年)3月 江戸町触れの写し
この度京都より新政府軍の御軍勢が差し向けられたことについては、実に
畏れ多いことである。将軍家は慎んでそのご沙汰を待っているところなので、
御軍勢に対してうっかりとした振る舞いを決してしないこと。
もし、そのようなふるまいがあったときは、京都に対して畏れ入ることは申す
迄もなく、さらに江戸の多くの人に戦争の苦しさを受けさせることになって
しまう。これは大きな不忠義である。
もし、このことを聞き入れず、お差し向けの御軍勢に手向かいした者は、私
(将軍慶喜)の心に背き、私の身体に刃物を当てたも同じことであるから、
このことはしっかりとわきまえ、心得違いのないようにすることをそれぞれへ
達し置くので、市中末々まで漏らさず触れ置くよう申すべきことである。
   3月
右の通り仰せられたことにつき、市中の者どもは決して動揺せず、諸事慎し
み、火の元は特に厳重に気を付けるようにすること。土地を借りている者、
人に仕えて働いている者に至るまで、よくよく申し聞かせるよう早々に触れ
るべきことである。
   辰3月   」


「里正日誌」にはこのように、江戸で出された触書の写しが残されています。
おそらく、蔵敷村にも同様のお触れが出たものと思います。
注目するのは「御軍勢に手向かうことは私(慶喜)に手向かうことと同じだよ」
と言い切っていることですね。
この触書を見て、庶民も末端の御家人たちも、将軍が全面的に恭順したこと
を知ったのでしょう。

この後、旧幕府側はなんとか江戸市中での戦闘を避けようとして、新政府軍側
と交渉に入ります。
「里正日誌」には3月9日から18日まで若年寄川勝備後守から「その間に決し
て動揺しないように」との仰せ渡しがあったことが記録されています。

「この度、御征討軍を御遣わしになったことにつき、今月15日に江戸城攻撃の
噂もあるので、これを控えていただけるよう嘆願しているところである。
大総督府へお伺いを済ませるまで総攻撃は見合わせると、西郷吉之
が答えたので、武家も市中庶民もみだらに動揺し、思わぬ不都合
なことを起こすのはもっての外である。諸事静かにご沙汰を待つように、この
ことをあらゆる場所へ漏らさず触れること。」


これは3月15日に備後守から勘定奉行に出された命令書です。
そのまま代官所→杢左衛門さんへと伝わったものでしょう。
18日には東山道総督の岩倉具定(具視の次男)が市ヶ谷の尾張藩邸に入る
ので、やはり騒いだりしないようにとのお触れが出たことが記載されています。
このように、旧幕府の中枢は完全に新政府に恭順しご沙汰を待っている状態
だということを、リアルタイムに近い形で江戸周辺の村々は知っていたという
ことになります。
となると、江川英武代官が新政府軍に呼ばれて京都まで行き、今後の身の振り
方を考え始めたのも、わからないではありません。

しかし、幕臣たちの中にはこの恭順に納得できない人が多数いました。
徳川家が領地を失えば、全員失職し、住む家も失ってしまうからです。
「こいつァ一丁、ヤマでも踏むしかねェッ」
彼らは互いに連絡・連携を取りながら新政府軍への抵抗グループを作っていき
ます。有名なのが彰義隊ですが、そういった部隊が多く結成されました。
新選組なんかはまさにその老舗ですね。彼らは新政府東山道軍と3月6日に
甲州柏尾で戦闘しています。
つまり、親玉の将軍は降参してるけれど、子分たちの中には「まだ戦いは終わっ
ちゃいねェぜ!」とファイティングポーズをとっている者たちがいた、というのが
当時の状況です。

で、こういった抵抗部隊は、まさか江戸市中に「われら青春 抗戦派!」などと
看板出して屯集するワケにもいきませんよね。
自然と郊外の江戸周辺に集まるようになります。
狭山丘陵周辺も、彼らの姿を見かけるようになってきました。

20140118.jpg

土方さんの実家が扱う薬は何種類あって、有名なのが「石田散薬」という
打ち身などのケガに効く薬です。家のすぐ近くを流れる浅川に自生する
牛革草(ぎゅうかくそう)という野草が原料ですが、この製法については
土方家のご先祖様が浅川のカッパから教わったと云われています。
もう一つ知られているのが「虚労散」という薬。これは、歳さんの姉が嫁いだ
佐藤家に伝わるもので、結核や肋膜炎に効果があったといいます。なので、
沖田さんが服用していたのはこちら、虚労散の方でしょうね。
この虚労散は、多摩地方最大の名名主である押立村(府中市)の川崎平
右衛門から伝わったものだそうです。
ところが、その川崎家には「虚労丸」というやはり家伝の薬があるのですが、
これは日野の佐藤家から伝わったと云われているそうでして。
この二つの薬は散薬と丸薬の違いはあれど、ほぼ同じ薬らしく、どちらかから
どちらかに伝わったんでしょうけど、なんかゴチャゴチャになっちゃったみたい
ですね。
もしかしたら、こちらもルーツはカッパかも・・・?

勝楽寺村の屯集騒動~江戸の空白期~

大政奉還から約半年の間、江戸は政治の空白期にありました。
幕府という大きな箱はなくなってしまいましたが、江戸の町やその周辺では
新政府の実効支配はされておらず、相変わらず幕府時代の奉行所や代官所
による支配が続いていたからです。
こうした社会が不安定な時期には、治安が悪化します。2年前に「武州世直し
一揆」が発生した多摩地域では、その後も動揺が激しかったようです。
おそらく、天領、私領、寺社領などが入り組んでいる土地柄だからでしょう。

そして、慶応4年(1868)4月、事件が起こります

「辰(慶応4年)4月1日未明に中藤村(なかとう・武蔵村山市)の名主・佐兵衛
より書状が至急をもって届いた。
もはやご承知かと思いますが、昨夜より勝楽寺村の城山という所に悪人どもが
集まり、最初は14~15人だったのがだんだんと集まってきておよそ100人
ほどになりました。今後どのような大事に至るかわかりかねますので、取り敢え
ずお知らせ申し上げます。早々、以上。
  4月1日      中藤村  佐兵衛  」


勝楽寺村というのは、埼玉県入間郡にあった村です。現在、山口貯水池(狭山湖)
となっている部分に村のほぼ全域がありました。村には村名の元となった勝楽寺
というお寺がありましたが、貯水池ができるときに移転し、現在は所沢市内に
仏蔵院と名前を変えて存在しています。
杢左衛門さんの蔵敷村や中藤村からは、ほんの目と鼻の距離です。
杢左衛門さんらの脳裏には、きっとあの「世直し一揆」が過ぎったに違いありません。
しかも、前回書きました通り、代官は京都に上っている最中です。
村では出川哲郎が「やべーよッ、やべーよッ」と大騒ぎ。

「里正日誌」には、この騒動の一部始終が細かく記録されています。それだけ、周辺
の村民にとっては関心の高い事件だったことが伺えます。
少々長いですが、ご紹介。

「右の注進があったので、当組合の村々へ農兵を出動させるよう大急ぎで回状を差し
出した。小川村(小平市)・田無村(西東京市)へも急ぎの手紙を出した。
駆けつけた農兵に玉カン・玉薬などをそれぞれ配り、午後2時頃に農兵15~
16人を召し連れて
中藤村の佐兵衛方に繰り出した。
佐兵衛は勝楽寺村へ向けて出かけたのことだった。
もっとも今朝、組頭の半左衛門に申し付け、斥候として勝楽寺村へ差し向け、昼前に
帰宅し聞いたところでは、宇根古屋城山に登り様子を見たところ、三ケ嶋(所沢市)・
宮寺(入間市)辺りの博徒どもが立ち交じり、凡そ100人余りも屯集していた。
山口谷村々(所沢市)から炊き出し・酒盃を持って来させ、朝食の最中で握り飯の
支度をしていたところを見届けたと言うので、より一層非常態勢を取った。
そして、中藤村より山伝いに勝楽寺村へ繰り出す途中に、砂川村(立川市)の源五
右衛門に行きあった。彼は屯集場所近くまで行ったが、もう散会した様子だったので
帰ってきたと言った。
しかし、鎮静化したとも思えない。すると、勝楽寺村の和三郎の家に繰り込んだようだ
とのことを聞いた。
砂川村・中藤村は引き上げたが、所沢組合は近くの川部・氷川に詰めているので、
農兵や人足は和三郎方に屯集している堀口村(所沢市)に出張った。
所沢村名主の助右衛門・上新井村(所沢市)名主の市右衛門、その他村々の役人が
人足を引き連れ出動し、市右衛門の号令で博徒どもに農兵が発砲したところ、
その銃声に恐怖を抱き、博徒たちは散乱した。」


ということで、大きな被害が出る前に騒動は治まったようです。一揆にまで発展せずに
良かったです。出川の哲ちゃんもホッと一息。
ここでも農兵隊の小銃が効果的だったようですね。
実は後の聞き取りで、博徒たちも6~7人が「鉄炮」を持っていたようなのですが、農兵
の威嚇射撃で降参しているところを見ると、火縄銃程度のモノだったのではないでしょう
か。

ところで、そもそもこの騒動の原因は何だったのでしょう?
日誌にはその動機と、彼ら騒動を起こした者たちへの処分の様子が書かれています。

「2日晴れ。
屯集した者たちの要求は、最近質屋で休業している所が多く融通に支障がある。円滑に
していただけないだろうか。その他に動機はないと申し出、不埒な申し分も農兵にはなく、
打ちこわしも初めてだと言った。
しかし、そのままにはしておけないので、取締り御出役へ報告するかを話し合ったところ、
一先ず猶予して処分を話し合おうと市右衛門が申し出たので、しばらく待って処分を申し
聞かすかどうかを保留し助右衛門宅に泊まった。」
「4日晴れ。
村々の役人7~8人が並んで面談した。今回城山に集まった者たちは罪を後悔し、何とぞ
お目こぼしをしてくれと嘆願を申し出て、きっと改心して帰農したいのでお咎めを与えず
内済してくれるように申し出た。
村役人たち共々も理解を示し、絶対に不都合なことはいたさぬよう言い渡し、今後は慎ん
で暮らすように申し渡した。万が一、悪いことをしたときには問答無用で召し捕えることを
助右衛門・市右衛門が同席で申渡した。」


質屋が休業しているので、融通に差支えがあるので、その訴えのための屯集であった
ようです。そして、村役人たちも彼らに理解を示し、取締り出役に突き出したりせずに、
村役人同志の話し合いの中で解決したようです。
被害もせいぜい人足を出させたり、炊き出しを要求したりと、その程度で済んだからで
しょう。

しかし、被害が少なかったからといって、処分を村々の名主たちで決めてしまったという
のには、ちょっと驚きです。

翌月の閏4月には、狐塚と呼ばれていた場所で強盗事件がありました。現在、多摩
都市モノレールの桜街道駅がある付近です。
このとき強盗は10両の金を取ったのですが、後に村人たちに捕まります。そして、村民
らの合議によって打ち首に処せられました。
ここでも、村民らが自分たちの判断で処分を下しています。
この事件の詳細はワタクシのブロ友の「野火止用水さん」が書かれていますので、そちら
「狭山丘陵の麓で」クリック!)をご参照ください。

江川代官当人が京都に行っていたということもあったでしょう。
しかし、江戸の町・その近郊が政治上の空白期だったことで、周辺の村々では自立に
向けての歩みを一歩づつ始めていたのかもしれません。

20140110.jpg

伊東甲子太郎一派が新選組を分離したのは、慶応3年(1867)3月のことです。
彼らは孝明天皇の陵墓を守る「御陵衛士」(ごりょうえじ)を拝命し、東山高台寺
月真院を本拠としたので「高台寺党」と呼ばれました。
伊東先生は新選組から分かれるとき、永倉さんか斎藤さんのどちらか1人をいた
だきたいと近藤局長に言ったそうです。
新選組が誇る剣術の達人のうち、どちらか1人引き込みたいという思いがあったの
でしょう。(沖田さんは来るハズないしね。)1人加われば、新選組と戦うことになった
としても互角に戦うことができる、と。
しかし、近藤局長はこれをチャンスと見て斎藤さんを送り出しました。スパイとして
使うには、無口な斎藤さんの方が適任と考えたのです。



東征軍からの呼び出し・・・どうする江川代官!?

明けましておめでとうございます。
今年も、気がついたら更新してるよ。くらいのペースで幕末(明治初期もね)の
多摩地域、東大和市域のお話をしていきたいと思います。
ときどき番外編、そして毎回のお楽しみ「新選組マンガ」もオシャレ小鉢のごとく
洩れなくついてきますので、お時間のある時にでもどうぞ遊びにいらしてください。

で、今年の1回目です。
正月3日に京都で起きた鳥羽・伏見の戦い。この戦争に勝利を収めた薩長を
中心とする新政府は、7日に慶喜の追討令を出します。
「錦旗の御旗」を掲げた新政府軍に刃を向けたというのが、その理由。
しかし、よく知られた話ですが、この御旗は天皇から授かったホンモノではなく、
薩摩が用意した真っ赤なニセモノ。つまり、旧幕府は新政府の詐欺にまんまと
引っ掛かっちゃったんですね。

でも詐欺であれ何であれ、天皇が新政府側についているのは紛れもない事実。
ていうか、薩長の手に天皇が握られている、といった方がいいかもしれません。
だから慶喜さんが平清盛や足利尊氏みたいに、「そんな天皇がナンボのもんじゃい!
俺様が真っ当な天皇を立てちゃるわい!」と屁とも思わないキャラだったら、また
違った展開もあったでしょうが、彼は尊王思想の老舗・水戸藩の出身です。
即位した天皇に逆らうなんてことは、「空はひび割れ、太陽は燃え尽き、海は枯れ
果てて、月が砕け散っても」出来ようはずがありません。
で、寛永寺に籠ってひたすら謹慎。謹慎。また謹慎。
新政府軍は望み通り武力討伐の口実ができたってんで、江戸へ進軍を開始します。

大ざっぱに日本を東西で分けると、西日本諸藩は新政府側につき、東日本諸藩は
未だ旧幕府側というのが、戊申戦争開始直後の勢力図でした。
そこで新政府東征軍は進軍途中でその先の領主らに先遣勅使を送り、
「お前ら、ワシら朝廷・新政府と、ヘタレ幕府とどっち側につくんじゃい!態度をハッキリ
させたらんかいッ」
と、敵か味方かを確認しながら進んで行きました。
幕府側に味方するといえば戦争に持ち込まれ、新政府に味方するといえば兵力や
食糧・弾薬などを供出しなければなりません。鳥羽・伏見の戦いまで幕府側だった藩
や領主にはキビしい選択が待っていました。

そしてついに、多摩地域を支配する江川代官の本拠地・韮山にも、東征軍からの
使者がやってくるのです。
「里正日誌」には、このときの東征軍勅使と江川代官とのやりとりの様子が細かく
記録されています。

「江川英武御用召
このほど、朝敵をことごとく追討するようにお上が仰せられたことについては、御用
の筋からわかっていることと思う。
そこで、これまで支配してきた地所の絵図面、石高帳、人別帳などを持って、伊勢国
桑名の駅まで至急罷り出ること。
  辰(慶応4年)2月        柳原侍従殿
                   橋本少将殿
    伊豆国韮山江川太郎左衛門殿
病気であったとしても押して罷り出ること。万が一桑名を立った後になってしまったら、
その御出陣の場所に罷り出ること。   」


柳原侍従と橋本少将という2人の勅使が、まず支配地の情報を渡すように江川代官に
言ってきたことが書かれています。
名目上幕府はなくなったとはいえ、そのシステムは事実上生きていましたから代官所を
統括している勘定奉行所に、江川代官はお伺いをたてます。
この出頭命令に従ってもいいのかどうか・・・?
江川家は鎌倉時代から続く名家であり、この韮山の地を治めてきていたのが、その代
官所を引き渡せというのは受け入れられない。
江川代官は非常に悩んだようですが、新政府軍に逆らうこともできないでしょう。
手代を派遣して時間稼ぎをしましたが、結局名古屋で面会をすることになります。
ちなみに、尾張徳川家は御三家の一つではありますが、早々に新政府側についていま
す。

「名古屋にて官軍に応接
一、辰2月12日韮山の県令江川太郎左衛門様、並びにお付き添いの手附柏木総蔵殿、
御用人雨宮新平殿たちが出発し、向かっていたところ、鎮撫使が尾張国名古屋に御滞
在とのことで、彼らの御用向きをお伺いなされた。
付き添いの長州藩応接役は兵隊を差し出すように、と申してきた。
代官が、誰の命令で遣わされてきたのか、と答えると、応接役は、お上からの仰せであ
るので、遣わせた者は分かったので言わなかった。
代官は、軍事力は僅かの代官なので兵隊はいないと答えると、彼は農兵を差し出すべ
きだと言った。
代官が、農兵はその土地の損害を防ぐために取り立てたもので、軍備に差し出すのは
難しいと答えた。
彼は、もっとものことではあるが、仰せ渡されたことでもあるので上京されることを申し
聞かされた。
そこで名古屋を出立上京して、その筋に付け届けをしてお伺いをしていたところ、御用
とのこともあるので滞在するように言われ、町の旅宿に泊まり、御用の連絡を待っていた。
 尾州名古屋応接は長州藩木戸準一郎の由     」


木戸準一郎というのは、後の木戸孝允のことです。
彼の若い頃の名前としては桂小五郎が有名ですが、33歳で木戸貫治と名乗り、次いで
準一郎、そして36歳から孝允と名乗りました。

江川代官はさっそく京都に行き、なにやら裏工作をしていたようです。
もしかしたら、木戸さんからアドバイスがあったのかもしれません。

ところで、江川代官が京都へ上っていたのは、ちょうど甲州街道の柏尾で新選組を
中心とする甲陽鎮撫隊クリック!)が新政府軍と一戦交えているときでした。
甲陽鎮撫隊には、江川代官領である日野宿の名主・佐藤彦五郎が率いる「春日隊」と
いう、農兵や剣術家で構成された部隊も参加していました。
領地の支配者である代官は京都に陳情に行き、領民は幕軍の一員として新政府軍と
戦うという、ヘンな状況が生まれています。

さて、京都でひたすら沙汰を待っていた江川代官の元に、新政府からの結論が出た
のは4月になってからでした。
この間、東征軍は3方向から進軍し江戸を包囲、総攻撃の準備に入ります。
江戸の町を戦火から救うため、勝海舟が西郷どんに会談を持ちかけたのが3月13、
14日でした。

「辰4月伊豆韮山の私領地・屋敷についての届け書き
(中略)江川家は古くは鎌倉時代前より伝え所持している屋敷や私領地を、国に返上
するべきか。あるいはこれまで通りに所持することを認めるか、太政官へ伺い奉った
ところ、家柄も代々続く名家であると別格の評価をもらい、これまで通り領地を預る
ことを許され、献上するには及ばずと仰せ渡された。
今もって、代官の身分をどうするかのご沙汰はなく、京都で謹慎をしております。
よってこのことを申上げます。以上。
  辰4月                江川太郎左衛門
    御勘定所    」


新政府から出された回答は、私領地についてはこれまで通り。新政府に返上しなくて
もよい、とのことでした。
上の通り、江川代官は早速このことを江戸の勘定奉行所へ報告しています。
4月の何日にこの回答が出されたのか、この書状だけではわかりませんが、江戸城は
11日に開城され、江戸は戦火を免れています。
江川代官への回答は、この江戸での動きを見計らってのものだったのでしょうか?

徳川家は大幅に領地を削られたのですから、土地を失った旗本・御家人は大勢います。
その中で江川英武さんは、自分の領地を守ることができました。
別の見方をすると、新政府への「借り」が一つできたことになります。

英武さんはその後秋になるまで京都に留まりました。そして10月、明治天皇(9月に
改元)が東幸し江戸城に入るとき、その先供としてようやく帰国するのです。

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新選組の試衛館以来のメンバーは、ほとんどが江戸や多摩など東日本出身者で、
そうじゃないのは左之助さんくらいでしょう。
だけど、京都で入隊した隊士には播磨(兵庫県)出身の松原忠治、出雲(島根県)
出身の武田観柳斎、備中(岡山県)出身の谷三十郎などの幹部をはじめ、西日本
出身の人が結構います。
正月に雑煮を食べたか知りませんが、もし作ってたのなら東と西のどちらの雑煮
だったのでしょう?賄い方は両方用意したのでしょうか?


年明け早々、ワタクシ鹿児島県の屋久島に行ってまいりました。
そのために更新が遅れましてスミマセン
屋久島は一つの島の中に、亜熱帯から亜寒帯までの気候が同時に共存している
島だそうで、全島の2割にあたる部分が世界自然遺産に指定されています。
今回は積雪が30cmほどあるとかで、縄文杉などは見に行けなかったのですが、
2時間ほど原生林の中を歩いてマイナスイオンをビシャビシャになるほど浴びて
まいりました。

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仏陀杉 樹齢1800年だそーです。

では、今年もよろしくお願いいたします。