鳥羽・伏見の戦いが起きて

慶応3年(1867)の暮れから翌年の正月にかけては、日本史上最も激動の
年末年始だったかもしれません。
10月に徳川慶喜が大政奉還を決めると、12月には王政復古が宣言され、徳川
方天領の没収や官位の剥奪が決まります。そして江戸で薩摩藩と庄内藩を中心
とする幕府方が武力衝突、これが正月3日の鳥羽・伏見の戦い
きっかけとなりました。
この戦争については、たくさんの本が出ていますから特にココでは書きませんが、
京都周辺で15000人の兵力を有していた幕軍が5000人の兵力しかなかった
新政府軍に敗れてしまったことは、両軍のその後に大きな影響を与えたことで
しょう。

日本史では、この時のことは京・大坂にだけクローズアップしていますので、他の
地域がどうだったのかは、ほとんどの方がわからないままです。
でも、全国を揺るがす内戦の勃発ですから、その地方・地域で様々な影響や対応
がなされていたハズです。
さぁ、東大和市域ではどうだったのでしょうか?

「里正日誌」では慶応4年(1868)正月5日に、「野火止用水の大浚い」について
の回状が廻ってきたことが書かれています。野火止用水っていうのは、玉川上水
から分水され埼玉県の川越方面に向かって引かれた用水路です。
東大和市域は玉川上水は通ってないんですが、野火止用水は通っています。
この用水の大掃除を近隣の村々で一斉にやりますよ、という回状です。

5日といえば京都では、淀千両松に布陣した幕府軍が新政府軍に敗北を喫していま
した。幕軍は体制を立て直すために老中・稲葉正邦の居城である淀城に入ろうと
しましたが、なんと!淀城は城門を固く閉ざし、幕兵を中に入れません。
寝返りです。
藩主の稲葉正邦はこの時江戸にいて、寝返りは留守居役ら重臣たちの独断だった
ようですが、それにしても幕府老中の居城から裏切りが出たというのは、戦っている
幕兵らに大きなショックを与えたことでしょう。

そんな日に大掃除の連絡が廻ってくるくらいですから、狭山丘陵一帯ではなんか
のんびりとした雰囲気ですね。民間レベルの情報伝達ではまだ緊迫感が伝わって
いない様子です。
しかし、これがお役所からの回状だと、書状の中身も違ってきます。

「 正月5日御府内出口の関門取り建てについての回状
江戸近郊取締りのため、当分の間江戸への出入り口となる所へ関門を建てて、そこ
を通る武士はその主人か上司より、どこへ家来を差し遣わせるのかを断り書きさせる。
百姓町人は在所の役人の添え書きを持参していなければ、出入りの一切を差し止める。
断り書き、添え書きは関門にて改め、怪しい様子がないようであれば同所において切手
を渡す。関門を越して切手を所持していない旅行者は、御府内はもちろん街道沿いや
所々でも決して宿泊させないこと。
さらに右の改めを受けずに無理に通行しようとした者、または旅行切手を所持してい
ない旅行者は問答無用で召し捕え、手向かいに及んできたときは斬り捨てること。
もっとも当節、出府途中で関門を通行するのに理由を言わない者どもは、関門で十分
に吟味し、怪しいところがなければ通すこと。
右の趣旨は天領、私領、寺社領とも漏らさず触れを出すこと。
右の通りお触れを出された。

右の通り御書付を出したことにつき、その意を得て御書付の趣旨を小前末々の百姓
まで漏らさぬよう申し伝えるべし。この回状の村名の下に名主の請印を押して、以下
略す。
   辰(慶応4年)正月5日  江川太郎左衛門役所   」


用水の大浚いから一転、なにやら緊迫した内容になっています。
文中に「鳥羽・伏見の戦い」は触れられていませんが、日にちから言ってその影響を
受けて出されたことは間違いないでしょう。
前年12月からの薩摩藩と幕府方の小競り合いは、江戸市中だけではなくその周辺
地域の治安も悪化させていました。
「里正日誌」の解説文によれば、この頃「博徒・浪人あるいは貧農層が起こす事件が
日増しに多くなった」とあります。

「鳥羽・伏見の戦い」はある程度の局地戦であり、まだその戦いが全国に及ぶことは
ありませんでした。
これは、大坂城にいた幕軍総大将の慶喜が密かに大坂を脱出して江戸に帰っちゃっ
たことにあります。このことで慶喜は「敵前逃亡」だの「腰抜け」だの後世云われてし
まうワケですが、一時的にでも戦いを終息させるには効果があったと言えるでしょう。
もっともその陰で死んでいった幕府方兵士はたくさんいたんですけどね。

戦争はまだ多摩地域・狭山丘陵には近づいてはいないようですが、治安の悪化という
形で徐々にその影を落としてきたようです。
このタイミングで関門を建てる命令を役所が出してきたことに、関西での状況の悪化
を憂慮する旧幕府の動揺が見えますね。

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鳥羽・伏見の戦いでは、新選組も多くの隊士を失います。
今回の記事でご紹介した正月5日の淀千両松の戦いで亡くなったのが、六番
隊組長の古参隊士・井上源三郎です。
ドラマや漫画などでは「源さん」と親しまれているキャラクターですが、ホントに
そう呼ばれていたかはわかりませんよ。
源さんは日野宿の八王子千人同心の三男として生まれました。八王子千人同心
というのは、甲州道中の江戸入口の守りとして家康が武田家の遺臣を引き取り
役目につかせた人たちです。源さんの先祖は元は今川家の家臣でしたが、桶狭
間の戦いののちに武田家の家臣になったと云います。
源さんは勇さんよりも5歳年上ですから、天然理心流でのキャリアは上です。
おそらく新選組幹部(試衛館一派)の中では「兄さん」的な存在だったことでしょう。
新選組結成以前から、勇さんや歳さんを支え続けてきた源さんの死は、大きな
損失となったはずです。

また、この戦争では監察として活躍していた山崎丞、「壬生義士伝」の吉村貫一郎
らの有名隊士が亡くなっています。

さて、今年一年、当ブログ「幕末多摩・ひがしやまと」にお付き合いいただき
本当にどうもありがとうございました。
まだ、来年も続けていく予定ですので、どうぞお付き合いください。
・・・ただねぇ。
もう内容が慶応4年(つまり明治元年)まで来ちゃってるんで、幕末ってテーマだと
あとちょっとしかないんですよね。
さて、その先どーしよーかなぁ・・・と。
新選組マンガだけでも続ける?
んー・・・まぁ、紅白の「あまちゃん特集」を見ながら、当ブログの大幹部・テンちゃん
、ポンちゃんと相談して決めたいと思いまス。

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皆さま、よいお年を!




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侍にはなりませんのだ

江戸ではついに幕府方と薩摩が、武力衝突を起こしてしまいました。
まぁ、とにかく「なんとか戦争にもちこみたい」薩摩藩=西郷どんは、
あらゆる手段で幕府を挑発します。なにせ、江戸城にまで放火をする
くらいですから。世界貿易センタービルに自爆テロを仕掛けたアル
カイダとやってることはほぼ一緒。
そーゆー薩長がブラックな所も、再来年の大河ドラマはちゃんと書け
よ、NHK!

結局、その挑発に乗っちゃったんですね。
庄内藩ら幕府方が、三田の薩摩藩邸を襲って焼き討ちしちゃいました。
これが慶応3年(1867)12月25日のことです。
「雨は夜更け過ぎに~、戦さへと変わるだろ~、サイレンナイ~、
ホーリーナイ~
とんだクリスマスになっちゃいました。

で、こうした流れから、江戸周辺の治安は一気に悪化していきます。
便乗して略奪・乱暴をする悪党の類などもいたでしょうからねぇ。
支配を任されている代官所にとっては、かなり頭の痛い問題であり、
また早急に対策を立てなければならなくなりました、

「この頃江戸近郊では、浮浪の者や悪党が立ち廻るので、この防衛の
ために関八州御取締御出役の渋谷鷲郎様がご廻村した折に、入間郡
南永井村(所沢市)の新次郎と申す者が村の重立った人物で、所沢寄場
の中で都合50人余りを新規に侍分として取り立て、所沢村内へ屯所
を作り、御取締り遊ばされる旨を仰せ渡された。」


代官所では、治安維持のため農兵ばかりでなく、寄場組合の中から「使え
そうな」人材をスカウトして「侍」の身分にし、屯所を建てて取締りに
あたらせようとしたんですね。
農兵は、身分は百姓のままですが、こちらは身分を武士にするって言う
んです。

実はこのブログではスルーしてしまったんですが、幕末期には「兵賦」
(へいふ)という制度がありました。
これは、旗本や御家人の私領地からその石高に応じて一定の領民を差し出す
というものです。選ばれた者はそのまま幕府の歩兵組に入れられ、幕府正規
軍の末端に組み込まれました。
長州征伐のときには、これが天領にまで拡大されたので、蔵敷村組合でも3人
(江川代官所全体で24人)を差し出していました。
兵賦によって選ばれた農民は、身分が最下層ながら武士として認められ脇差を
差すことが許されました。また、働きによっては正式な幕臣としての出世も
可能であったと云います。

ということで、今回の代官所からのお達しは、農兵と兵賦の中間のようなモノ
だということがわかります。
武士の身分に取り立てるというところは兵賦と同じですが、仕事の中身が地域
の防衛であるという点は農兵と同じですね。
武士になれるって言うんですから、さぞ希望者がいたものと思いますが・・・

「しかしながら私たちの村では、兼ねてより申上げておりますように小さな
組合で、農兵も取立てております。この上新たに新役として差し出す人材は
おりません。
つきましては、どんなこともお許し願いたい心境ではございますが、兼て
それぞれ他の組合では出来ている様子なので、この上どんなことを申しつけ
られるかも計り難く、前もってこの事を訴え申し上げ奉ります。以上。
   慶応3卯年12月27日
      武州多摩郡蔵敷組合 役人惣代
                 野口村名主 勘左衛門
                 後ヶ谷村同 彦四郎
                 粂川村同  徳左衛門
   江川太郎左衛門様 御役所                  」  


ということで、蔵敷村組合ではこの新規に武士として取り立てられる農民の
推薦を辞退しているのです。
この辞退策の中心となっている人物が、前回ご紹介した「農兵を新銭座の
警備に行かせることに反対」した一件に関わった3人だというのも、ちょっと
面白いですね。

細かいことはわかりませんが、しかし「里正日誌」にこの書状の写しが残って
いるということは、ほぼ蔵敷組合のまとまった意見だったのでしょう。
代官所の面目は丸つぶれ。
村々にしてみれば、危険な場所に行きたくはないという思いや、所沢などより
まず自分の住む村を守りたいという思い。さらには、先行きどうなるかわから
ない「旧幕府」にこのまま身を預けてもいいのか?という思い・・・など、
様々な考えが頭を廻らせていたように思います。

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このマンガの主役である近藤局長のことを、今さら言うのもアレなんですが。
局長は上石原村(調布市)の富農、宮川久次郎の三男として生まれました。
当時の名前を宮川勝五郎といいます。なので、上のマンガの2コマめで「勝
ちゃん」と呼ばれてるワケですね。
兄弟3人で天然理心流三代目宗家・近藤周助の門下に入りますが、勝五郎
の腕前がズバ抜けて良かったようで、子供のいなかった周助の養子に入り
名前を島崎勝太と改めます。
島崎というのは周助の元の姓です。周助自身も、天然理心流二代目・近藤
三助の実子ではなく、門下生から三代目を継いだ人でした。
安政4年(1857)23歳の頃から名前を「勇」と改め、安政6年あたりから
近藤の姓を名乗るようになります。そして、文久元年(1861)天然理心流
四代目を襲名するのです。

周助と勇の試衛館道場は市ヶ谷にありましたが、弟子の多くは多摩川沿いの
村々の名主や組頭といった豪農層が中心でした。従って、収入はかなり安定
していたものと思われます。
ちなみに勇が各村々を廻り稽古をつけると、一人2朱(12000円くらい)
の教授料だったそうです。
その安定した生活を捨ててまでして、なぜ勇さんは道場を休業し危険な京都
まで行き、幕府方の先兵になろうとしたのでしょうか?
ここに「新選組」最大の謎と魅力が詰まっているとワタクシは思います。
「オレはホンモノの侍になるんだ!」だけじゃ、説明つかないでしょ?

みなさん、どう思われまする?



江戸市中、衝突!

もうすぐクリスマスですな。早いものです。
思えば今年の正月はいきなり風邪をひいてのスタートでした。
しかも、温泉に遊びに行っての発熱ですよ。
風呂入れねーし。何しに行ったんだかわかんねーし。
そーゆータイミング悪い人生の1ページから、早よ一年。
アッという間ですね。

しかし新年を迎えるまで、まだ年内2つの忘年会をこなしていかねばなり
ません。でないと、年越せねーだ。
ヤルッツェ、ブラッキン!

さて前回の続き。
野口村の勘左衛門さんと後ヶ谷村の彦四郎さんは、江川代官所からの「農兵
を屋敷の警備によこせ」
という命令に「勘弁してください」という内容の書状を
出したため、宿預けになってしまいました。
慶応3年(1867)12月23日(あるいは24日)のことです。
勘左衛門さんらはよほどビビッたのでしょう。
「里正日誌」によると

「お役所は殊の外ご立腹して、両人は宿預けになってしまった。このことで、
農兵を差し出して取り計らってくれるよう、勘左衛門は飛脚を送って申し越して
きた。
そこで相談の上、農兵を3人連れて粂川村(東村山市)名主の徳左衛門が26
日に出立し、27日に2人の赦免願いを差し出した。」


とあります。
徳左衛門さんは、村の農兵たちが江戸屋敷の警備につくことを恐れていると
しながらも、

「他の組合への影響もありますでしょうからお咎めを受けたことは、一同恐縮
しております。仰せ渡されたことは、早速村元へ飛脚を送り村役人たちから
村民へ申し諭します。厳命されたことは承知しましたので、今日中に農兵たちを
連れて粂川村名主の徳左衛門が江戸に着きました。取り敢えずこの事を申し
上げます。
危険な緊急の時にお呼び立てなさり、農兵やその他の者たちも難渋してはおり
ますが、何をしてでもできるだけ申し諭して、早々に人数を召し連れることに
異論はありませんので、お許しの願書を差し上げることは今さらながら恐縮
奉ります。」


とまぁ、このように、平謝りに謝ります。おそらく、蔵敷組合で協議して出した
対応策でしょう。お役所の怒りはスッゲーぞ・・・と想像していたものと思われ
ます。
ところが、代官所の反応は、

「色々とご理解の上、宿預けをお許しになった。さらに農兵も用はないと仰せ
渡された。」


あっさりと許しちゃったんですね。
すぐに怒りが治まったの?
でもあれだけ出せと言っていた農兵までいらないとは、どういうコト?
実は勘左衛門さんらが江戸に入った夜に、事件は起きていたのです。

「12月26日、悪徒立ち廻りのことについてお役所より回状
この頃、悪徒どもが市中で乱暴を働き、下野国(栃木県)その他において
徒党を組んで、危険なことをずるく立ち回っている。この程、それぞれ召し
捕ろうとしたところ彼らの同志が、松平修理太夫の屋敷内(薩摩藩邸)に
潜伏していた。
去る23日夜、市中取締りとして出張していた酒井左衛門尉の屯所へ乱入し、
発砲に及んだ行為は捨てておけない。同人より召し捕えた犯人の引き渡しの
話し合いをもったが、理不尽にも発砲してきたため仕方なく戦闘になってし
まった。
ついてはなお、脱走した者もいるようなので、これらの者を見聞きしたならば
速やかに召し捕え、手に余るようであれば討ち捨てた上で早々に訴え出る
ようにすること。万が一、見聞きしたのにそのままにした者があれば厳重に
罰するものである。
このことは、天領私領寺社領とも漏らさず触れるべきこと。」


戦争を起こして徳川方を武力で滅亡させたい西郷どんは、とにかくあらゆる手
を使って徳川方を挑発していました。
慶喜や勝海舟らは「絶対に挑発に乗るなよ!」と厳命していたのですが、ついに
薩摩藩と江戸市中取締りの庄内藩が衝突
してしまいました。
そして薩摩藩士や討幕浪士らは四方に広がり、関東一円に動乱が広がって
いったのです。

代官所としては、もう屋敷の警備なんて悠長なコトを言ってられなくなりました。
上の回状には続けて、こう記されています。

「追って新銭座屋敷へ農兵を差し出すよう達しおいたことは、もはやそれには
及ばないことである。」


勘左衛門さんや彦四郎さんも、釈放を喜んでばかりもいられなくなったようです。
戊申戦争へのカウントダウンが始まりました。

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さて、上の記事の続きですが・・・。
「里正日誌」には後日談が書かれています。

「(農兵を新銭座屋敷警備に出すことで)臨時の経費が14両あまりかかった。
この引き替えとして、他の組合では取り敢えず農兵を差し出した期間に手当
や賞金が与えられた。
ところが、当組合では村役人の勘左衛門がこれに取り計らないとしたことに
より恩賞に与れず、村は大いに激動した。」


あぁ・・・
勘左衛門さん、「やってくれたよ」アリアリですね。
村に帰り辛れェ~~・・・(泣)

農兵江戸へ行く・・・のか?

2回ほど「番外編」が続きましたが、今回は軌道修正。幕末の東大和市域の話に
戻りまして御座候。

江川英龍さんが生存中は、英龍さんがいくら「やりましょうよ、絶対イケるッスよ!」
と建言しても、幕府がなかなか首をタテにふらなかった「農兵」ですが、遅ればせ
ながら採用してみるや否や、一揆鎮圧に貢献したりでその有効性は実証されて
ゆきます。
こーなると、幕府はさらに農兵を使おうとするワケですが、今度は農民が「NO」を
突き付けます。
幕府権威の弱体化が、支配構造の底辺にまでジワジワと迫ってきつつありました。

さらに慶応3年(1867)12月9日、「王政復古の大号令」
が発令されます。
日本政府の形を奈良時代以前のスタイルに戻して、天皇親政で政府をつくるって
いうんですよ。
もちろん、そんなこと現実には無理ってことは当たり前田のマエケン体操。
薩長・公家側の、武力を背景にしたポーズなんですが、ただこの発令によって、ホン
トに幕府はなくなっちゃったワケです。

なくなったとはいっても、新政府の支配力がすぐに江戸まで影響するワケではない
んで、東大和市域のような天領は幕府があったときと同じように代官が支配して
いました。
ただ、治安の悪化は今まで以上にひどくなり、村々ではそのことに頭を悩ませること
になります。
そうした中で、慶応3年12月17日、蔵敷村組合を代表して名主の杢左衛門さんが
江川代官所に書状を差し出しました。

「近頃ご府内ならびに地方では悪者どもが押し歩いており、容易ならざる状況です。
兼てよりお取立ていただいていた農兵を使って差し押さえ、もし手に余るようであれ
ば打ち殺しても構わないとの仰せを承知いたしております。
また、組合村々の農兵たちへ前もって申し渡してあるように、御出役様からご命令
があったときは、何時なりとも出動しお指図を受けますよう仰せ渡され、恐れ入り
奉っております。
しかる上は、帰村次第組合の農兵たちに申渡し置き、一先ず差支えのないように
いたします。このことの請書を差し上げ申します。」


悪者どもがやってきて暴れるようなら、いつでも農兵を出動させる用意ができてい
ます、という請書です。
農兵制度へのモチベーションは、同じ江川代官領でも地域によってまちまちだったと
思うのですが、蔵敷村組合ではそれほど高くなかったのではないかというのが「里正
日誌」を読んでいるワタクシの印象です。
しかし、それなりの時間とお金を費やして育てた組織ですし、いざという時には自分
たちの村を守るために汗をかこう、という決意表明ですね。

ところが、この3日後。代官所から次のようなお達しが蔵敷村に届きます。

「ご府内が物騒なので、そちらの組合の農兵5人をしばらくの間、新銭座屋敷内へ
早速来て詰めるように取り計らいなさい。鉄砲などは持参に及ばず、稽古着のまま
で来るようにしなさい。この書付は追って返却するように。以上。
  卯(慶応3年)12月20日  江川太郎左衛門役所 」


おい、おい、おい・・・。
確かに農兵一団となって治安維持に努めます!とは言いましたよ。
でも、そのことと江戸の屋敷を警備しろってのは、話の次元が違うんじゃないの?
新銭座クリック!)ってのは、芝にあった江川家の屋敷並びに小銃や大砲の
練習場です。
代官所では、村民たちの言い分を自分らの都合のいいように解釈してしまった
んですかね。

さぁ、この要請に組合では名主たちが集まって協議を重ねます。
「そりゃあんまりだゼ、セニョール!!」
野口村(東村山市)名主の勘左衛門さんと、後ヶ谷村名主の彦四郎さんは勢い
余って、こんな書状を代官所に出してしまいました。

「この頃のご府内が物騒なので、当組合の農兵を5人、お役所へ詰めるようにとの
お達し承知いたしました。しかしこの頃は、近郊においても浪士たちが立ち廻り、
殊の外物騒です。農兵の江戸詰めを仰せつけられては、村方がカラになって取締り
に影響を与えるので恐れながら当惑しております。
また、農兵たちについてもどのような御用向きの筋を仰せつけられるのか、と深く
心配しており、江戸詰めの件は難しいとのことをしきりに嘆いております。
何分、それぞれが承服せず、村役人たちにおいても重々恐れ入ることでございます
が、何とぞお慈悲をもって右のことをお考えくださり、当組合の農兵を江戸詰めに
することは免除していただきたくお願いいたします。」


この書状を受け取った代官所、どんなリアクションを見せたかというと・・・
大激怒!!
「里正日誌」は「御役所殊之外御立腹」と書いてます。
メンツをツブされた、という気持ちがあったのでしょうかねぇ。
「御役所」と書かれているところから、代官本人ではなく、手代・手付の怒りに触れた
ものでしょうか。
「そうそう百姓どもの意見が通ると思うなよッ!」

勘左衛門さんと彦四郎さんの両人は、すぐさま「宿預け」にされてしまい
ました。拘留と同じです。
さぁ、どうなる、二人の名主!
どうなる、蔵敷村の農兵たち!?

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再来年の大河ドラマが発表になりましたね。「花燃ゆ」ですか。
「吉田松陰の妹」のドラマで、演じるのは井上真央さんだそうです。
またまたずいぶんな変化球できたなぁ、というのが正直な感想です。
井上真央さんじゃなくてね、彼女が演じる方のヒト。
松陰の妹なんて、今まで注目されたことなんてあるんでしょうか?
ハッキリ言いまして、ワタクシ全く知らない人物です。
まぁ、新島八重だって、大河で取り上げる以前は地元の会津でさえ
あまり知られていなかったそうですけどね。
でも、それ以上のマイナー選手でしょ。松陰の妹ってのは。

原作はなくて、オリジナル作品だそうですけど。
主人公が無名ですから、先入観なく見られるってのはいいかもしれま
せん。作る方もそうでしょうけど、それだけに外角へ大きくハズれて
いく「ファンタジー歴史風ドラマ」にならないか、それだけが心配ですね。
「江」みたいに・・・

時代背景が幕末ってのは、個人的には嬉しいんですけどね。でも主役
側が長州ですからね。
新選組はまた悪役ですね。極悪非道の人斬り集団ですね。
えぇ、いいんです。もう。
「久坂さんや稔麿さんを殺した人殺しよ!」って真央ちゃんに言われる
んですね・・・。

近藤勇終焉の地・ブラリ幕末板橋宿

前回からの続きでござる。

永倉さんと新選組隊士たちのお参りを済ませたワタクシは、ようやく墓所の
外に出られました。
司会者のマイクの隣には和太鼓が置いてあります。ご焼香が済んだあとに
何か慰霊イベントが行われるのでしょう。
しかし、歩道に出てみれば、一般の参列者の多いことに改めて気づかされま
した。この方たちがご焼香を済まされるにはまだまだ時間がかかります。
それをずっと待つのもなぁ・・・。

ワタクシ「その場でじっと待つ・並ぶ」ということが何よりも苦手。
落ち着きのなさは、全米ドラフト2位クラスですから。
気がついたら道路を渡り、旧中山道に向かって歩き出していました。

そうです。
境外墓地から北へ50mも歩けば中山道。そして埼京線の踏切を渡れば、そこ
は江戸時代に中山道の江戸から最初の宿場「板橋宿」があった所。
まぁ、せっかく来たんだし、宿場町をブラブラ歩くのもいいではありませんか。
てことで、板橋宿を旧中山道に沿って歩いてみることにします。

現在は商店街となっておりますが、当時の面影を残す史跡も少なからず
あるワケで。まぁ、それら一つ一つ追っていくと長くなりますので、幕末に
関係のある史跡を中心に、いくつか見学していきましょう。

先ずは、近藤さんが処刑されたと云われる場所。
地元の伝承では宿場はずれの一里塚ということです。
その場所がコチラ。

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板橋駅北の踏切の東側。ここが「一里塚跡」です。
この場所で近藤さんは最期のときを迎えました。
現在はご覧のように建物が建て込んでいて、当時の面影は全くありません。
一説には馬捨て場だったとも云います。

板橋宿はさらにその中を、江戸から近い順に平尾宿・中宿・上宿と分かれていました。
一里塚は平尾宿の外れにあり、当時は寂しい場所だったのでしょうね。

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この「地蔵尊」は高さが2mはある大きな石像ですが、一里塚にあった
ものだそうです。
現在は中山道からちょっと奥に入った東光寺というお寺の境内にあります。

旧中山道を北西に進み、国道17号を横切ると「板橋宿」商店街の看板が出て
きました。

DSCF6269a.jpg

ここから先が平尾宿の中心ですね。
板橋宿全体の町並みの長さは約1,7km、道幅は4間(7,2m)でした。
多少拡張されてるかもしれませんが、ほぼそのままですね。
江戸後期の頃で2500人の人が暮らしていたそうです。

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ここが「脇本陣跡」。当時平尾の名主を務めていた豊田家の屋敷跡
です。
慶応4年(1868)4月4日に板橋に連行された近藤さんは、同月23日までの
約20日間をここで監禁されて過ごしました。
板橋の本陣には、新政府軍の東山道総督府が置かれていて、その間近藤さんの
処遇をどうするかが話し合われていたのです。
当時、豊田家には7歳になる女の子がいて、近藤さんはこの女の子をとても可愛い
がっていたそうです。自宅に残してきた一人娘の姿を重ねていたのかもしれません。
現在はマンションになっているようですね。

さらに道を進むと、中宿へ入ります。現在は「仲宿」です。
三宿の中で一番活気がありそうな商店街です。
大きなスーパーが見えてきました。

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ここが「板橋宿本陣跡」です。中宿の名主だった飯田家の分家が
経営していたそうです。
この本陣に置かれた東山道総督府では、連日近藤さんの 処遇を巡って、「身柄を
京都に送って裁くべし」とする薩摩側と、「即刻処刑にすべし」 とする土佐側の激論
が交わされたといいます。
当時は坂本龍馬を殺ったのは新選組だと信じられていましたので、土佐は一歩も
引かない構えでした。
一方の薩摩は会津と手を組んでいた時もあり、比較的冷静。特に近藤さんを逮捕
した有馬藤太という隊長は、同情的だったと云います。

で、このスーパーの角を曲がってちょっと行きますと、文珠院というお寺があります。
ここにはある意味、とても宿場らしいモノ・・・とも云える史跡が残されております。

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それが、こちら。「遊女の墓」です。
宿場というのは、少なからず苦界に身を落としていった女性が多く集められた
場所でもあります。江戸時代は街道整備がとても進んだ時代でしたが、それは
同時に宿場女郎や飯盛り女を多く生んだことにもつながります。
いわば、このお墓は日本史の「裏遺産」というべきものでしょうかね。
でも、こういった史跡もしっかりと残していくことが、必要なんだと思います。

ちなみに、近藤さんが預けられた脇本陣の豊田家の伝承によれば、元隊士など
が面会に来ると「女郎屋に行って遊んでこい」と小遣いをやったり、なんと自分も
遊びに出たりしていたんだとか・・・!
「ホントかなぁ・・・そんなにフリーなの?」とも思うんですがね。
ま、いいや!

本陣からさらに中山道を進みますと、石神井川にでます。

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川に掛けられた橋が「板橋」です。地名の語源にもなっていると云われ、
「義経記」(南北朝~室町期に成立)にはすでにこの場所が板橋と呼ばれて
いた、と「江戸名所図会」は書いています。
江戸時代の橋は長さ9間(16,2m)、幅3間(5,4m)。
現在の橋は昭和47年(1972)に掛けられました。ここから先が上宿です。
現在は「本町」。


この辺りで一番有名なモノといえば・・・

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コチラでしょう。「縁切榎」です。
この榎の下を嫁入りの列が通ると縁が切れると云われ、14代将軍家茂に嫁いだ
和宮さんが中山道を通ってきた際は、この木の幹を菰で覆ったと云います。
しかし、説明板によれば、約1kmほどの迂回路をつくって榎を避けて本陣に入った
ことが名主の飯田家の古文書に出ているそうです。菰の話は、その時に出された
触書に「不浄のものは菰で隠すように」という命令があり、それが広まったためと
ありました。どっちがホント?
ま、いいや!
ところで、なぜこの榎が「縁切榎」と呼ばれるか?

「むかーし、むかし。この前に旗本のお屋敷があってな。その垣根に榎とケヤキの古
木が生えておったんじゃそうな。ケヤキは別名を槻(ツキ)と言うてな。「エノキがツキ」
「エンがツキ」で「縁尽き」とこじつけられたんじゃそうな・・・」


「まんが日本昔ばなし」の常田富士夫さんの声で読んでいただけると、雰囲気が出る
と思います。え?市原悦子さん?もちろん、OKです。
で、今では縁切りの解釈も変わってきているようでして。
「DV夫と別れられますように」とか「ブラック企業を辞められますように」、
「病魔が離れていきますように」といった願掛けでお参りする人が絶えないようですよ。
そういう縁を切りたい方はぜひ、どうぞ。

街道沿いに交番がありまして、その後ろに櫓のような建物がドーーンと建っています。
「これは何ぞや」と、交番にいたお巡りさんに聞いてみると、
「あ、最近作った倉庫です。歴史的なものの復元?全然違います」
だそうでございます。なーんだ・・・。
でもね、その扉にこんなプレートが貼ってありましたんですよ。

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クリックすると大きくなります)

この絵は「江戸名所図会」に出ている板橋宿の様子です。
かなり賑やかだったことがわかりますね。
絵の左上に、侍が出入りしている立派な門の屋敷があるのがおわかりでしょうか?
この家が上宿の名主の家です。

このまま旧中山道を北上しますと環七通りに出て、都営三田線の板橋本町駅に
出られます。
でもワタクシ、もう一度永倉さんや近藤さんのお墓が見たいと思ったものですから、
境外墓地まで旧中山道を引き返して行きました。

仲宿まで来まして、編照寺というお寺(かつて馬の継ぎ立て場があり、馬市も立った
場所。馬頭観音もあります)の隣りに、なんとも昭和レトロな佇まいの喫茶店を発見。

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こちらで本日最初の休憩。お昼も過ぎていたので、ピザトーストセットを注文します。
で、気がついたんですが、店内は懐かしい雰囲気をつくりつつも、内装は新しそう
な感じです。
リニューアルしたばかりか、あるいは新しい店だけど店主の趣味で昭和風にしたの
か・・・?

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板橋喫茶店より

そのとーりです。スミマセン。
白いカップは、セットについてきた抹茶ゼリー。ゼリー大好き。

さて、境外墓地に戻ってみると、祭壇やら記帳受付のテントやらはすっかり片付け
られ、何人かの方がお墓の前で手を合わせていたり、写真を撮っていたりと、先
ほどの様子がウソのようです。時間は14時を回っています。
ワタクシももう一度お参りをして、さらに写真を何枚かパチパチ。
ちょっと確認したいことがあったので、そばでお連れの方に説明していらした「よく
知っていそうな」男性に声を掛けさせていただきました。

するとこの方、「西洋流火術鉄砲隊保存会」という高島流銃術保存会の会員の方で
いらっしゃいました。
こちらもこんなブログを書いてます、とご挨拶させていただき、しばしゲベール銃や
江川太郎左衛門を話題に談笑。
日野の新選組祭りでは、実演なども披露されるそうなので、今度見に行ってみま
しょう。

そんなこんなで2回に渡ってお届けした「永倉新八百回忌と幕末板橋宿レポート」。
また長いブログになってしまいました。
画像が多いからか、それともやはり余計な駄文が多いのか?
ま、いいや!

では、近藤先生。シメの一言を。

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帰り際、夕暮れせまる中山道を十数名の羽織を着た集団が京都方面に歩いて
ゆくのを目撃しました。アレはもしや、未だ時空を彷徨う新選組隊士たちの
魂だったのではないでしょうか・・・・。

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都市伝説、キターーーーーッ!



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ニセ都市伝説には注意してね!(by 音無月子)