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またもや支配替えですかッ・・・!?

長州征伐も失敗に終わり、大藩である薩摩藩が敵に回ったことも明らかに
なり、いよいよ崖っぷちに立たされた徳川幕府。
ここで15代将軍に就いた慶喜さんは、なんとか戦争を避け、なおかつ幕府が
政権の中心にいられるべくウルトラCの大技を繰り出しました。
大政奉還です。
「徳川家は、もうみんなついてきてくれないので、政権を朝廷にお返しします。
みんなが尊敬する朝廷が政治のリーダーになってください」
と徳川家が270年間握っていた政権を返上したのです。
慶喜さんの考えはこうです。
「政権を返されて一番困るのは朝廷じゃん。だって、この700年近く政治なんて
したことねぇんだし。結局、大藩の藩主による合議制になるんだろうけど、国政を
執ったことがあるのは徳川だけだし。ま、結局は徳川がまた政治の中心になる
ワケさ。」

焦ったのは薩長です。
まさか慶喜が自ら政権を手放すとは思わなんだ。確かにこのままでは慶喜の描いた
青写真通りになってしまう!
彼らはイギリスから大量の近代兵器を揃える目途も立っていたので、戦争による
武力革命を目論んでいたのです。でも、慶喜が政権を手放したのでは、戦争の
大義名分が立ちません。
「困ったでゴワス~、なんとか戦争がしたいでバッテン!!」

西郷隆盛は江戸藩邸の藩士らに命じます。
「おはんら、江戸でケンカでも乱暴でも火付けでもなんでもしてたもっせ。
とにかく江戸人を怒らせればよかよか。向うが堪えきれなくなって拳を上げたら
シメたもんでゴワス。ウルトラQはゴメス。」
(※当ブログの方言はファンタジーとご理解ください)

かくして、江戸とその近郊では急激に治安が悪化し出します。
幕府も手を打たなくてはならなくなりました。

この年、慶応3年(1867)11月、多摩の村民たちは「マジかよッ!?」という
話を関東取締出役から聞かされました。
治安維持のため、八王子宿に陣屋を設置することになり、武蔵・相模の
19の寄場組合は江川代官所の支配から離れ
る、
というのです。

陣屋とは、小規模な城だと思ってください。
江川さんは伊豆の韮山が本拠地ですから、武蔵や相模には役宅くらいの住居しか
ないんですね。これではいざというときの戦闘基地になりません。
なので、八王子に基地を置き、そこを本拠地とする戦闘武官の旗本と兵士を置こうと
いうのが幕府の狙いだったのでしょう。

江川支配地の多摩の村々には、これまでに何度も支配替えの波がやってきました。
安政5年(1858)には細川家の預所クリック!)に入れられました。
また、文久3年(1863)と元治2年(1866)にも支配替えの話が出ましたが、
駕籠訴や張訴に出てクリック!)回避しました。文久3年については東大和市が
「里正日誌」を出版していないので当ブログでご紹介できませんでしたが、元治2年
のケースはご紹介した通りです。

当然、今回も多摩の村々では反対運動が起こりました。
すでに江川代官所は、英龍時代の善政も遠い昔となり、農村にとって頼れる存在では
なくなっていたことが想像されます。しかし、それでも尚、江川代官支配地であることに
こだわったのはなぜなのか?
村々の名主ら代表者が、勘定奉行所の役人に出した嘆願書が「里正日誌」に残って
いますのでご紹介します。
ちょっと長いですが、ゴメンチャイ。

「畏れながら書付をもって嘆願奉ります。
武蔵・相模の江川代官所支配の村々の役人一同が申し上げ奉ります。
去る文政年間に関八州一般の村々が組合寄場を定め、大小の惣代を立て、お取締り
が万端行き届くようにいたしました。
私どもの村々は昔から江川太郎左衛門様のご支配地で、中でもお取締りはもちろん、
衣食住を質素倹約にするなどその時々にご趣旨を厳しく仰せ付けられました。厚く
お世話していただき一同ありがたいことだと話しております。だんだんと村々の人々の
間柄も和み、訴訟ごとなどもなくなりました。大小の百姓は安心してこのまま続くと思って
おりましたところ、先月お役人様方が八王子宿にお越しになり、寄場組合の村々の
役人たちをお呼び出しの上、八王子宿に陣屋をお建てになり、お奉行様の支配地にする
べきというのは、かつて陣屋においてはお奉行様がご支配されたからだと仰せられ
ました。
このことは畏れながら全く良い方法で、厚い思いやりを一同ありがたく伏して奉ります。
しかし、私どもの宿村では別段差支えはないのですが、万が一これまでの江川代官の
支配を離れれば、年来ご恩を受け安心して生活することができず、最近お取立になった
農兵については一同誠意を尽くして引き続き練習しております。すでに昨年には一揆が
乱暴に及んだとき、農兵が漸くこれを防ぎました。
農兵の中には稽古が未熟な者もいます。しかし、他のご支配を受けるようになっては
せっかくの誠意も空しくなってしまいます。その上
八王子宿は道中の継ぎ立て宿とは申しながら五街道では稀な盛過の土地柄、市ごとに
諸国の商人たちが入り多くの取り引きをし、最近では生糸の改所も建てられました。
酒食はもちろん、かつて物価などに至っては高値になり、元々村方では年々衰微して
いっています。
八王子宿は横浜ご開港以来だんだんと繁栄し、ご当地よりも物価の高い場所。万が一
陣屋を建てられては、諸々のご用向き一式が陣屋に詰めるので余計な雑費
がかかります。
村々の困窮が増し難渋に及ぶのは眼前のことだと、村々
大小の百姓はもちろん、村役人たちにおいても悉く心を痛めております。
予測を立てアレコレ難渋を申し立てることはなんとも畏れ入り奉りますが、村々の人
たちの生活にも関わることですので、以上のことでこれまで通りご支配は離れず、
農兵はもちろんすべて変更なく従来の通り据え置き、永久に安穏な生活を続けたく心底
より村々役人たち一同ご愁訴申し上げ奉ります。
しかし、多人数が出府して嘆願したのでは畏れ入りますのでそれはやめて、畏れ多い
ことですが私共一同惣代が止むを得ずご愁訴申し上げます。何とぞ特別のお計らいで
憐れみをいただき右の願い通り、かつてのお代官様ご支配はもちろん永久に据え置き、
大小の百姓一同が安心して相続できますよう、思いやりのご沙汰を偏に願い上げ奉り
ます。以上。
  慶応3年卯年12月11日                        」


江川代官所の支配からハズされれば、農兵も廃止となります。それでは今までやって
きたことが無意味となってしまいますし、掛けてきたお金もムダになってしまいます。
それと、陣屋にかかる雑費で難渋する者が出る心配もしていますが、それにプラスして
助郷のような人的な負担がかかる心配もあったかもしれません。

この嘆願書を名主たちが手分けし、4名の勘定奉行所の役人の宿所へ持っていきまし
た。勘定奉行所は代官所を支配している所だからです。「里正日誌」によればそれぞれ
小栗上野介の宿所駿河台へ、日野宿名主・芳三郎 五日市村名主・利兵衛
岡田安房守の宿所早稲田へ、蔵敷村名主・杢左衛門 寸沢嵐村名主・八郎右衛門
小野友五郎の宿所両国浜町へ、福生村名主・重兵衛 四ツ谷村組頭・平八
斎藤辰吉の宿所下谷和泉橋通へ、小田原村名主・杢左衛門 新町村名主・文右衛門

「11日に勘定奉行所のお役人方へ、重立った村役人が2人づつ嘆願書を持参して駆け
込み訴え申し上げたところ、全員が宿預けを仰せ付けられた。13日に馬喰町の役所に
呼び出しとなり、一通りお調べの上、いずれもそのうち評議するつもりだとした。
村々に動揺がしないよう小前末々の者まで申し聞かせよと注意を受け、帰村を仰せ付け
られた。」


杢左衛門さんら名主たちは、一時身柄を預けられたようですが、十分な注意を受けた後
釈放されたようです。
同じ頃、松村忠四郎という代官が支配していた府中宿など22ヵ村でも、八王子陣屋設置
中止の嘆願書が勘定奉行に提出されました。
これだけの近郊農村の反対にあっては、幕府も強硬手段は取れなかったのでしょう。
ついに八王子に陣屋が置かれることはありませんでした。
江川・松村両支配地とも、従来のまま据え置かれることになったのです。

・・・ってコトで、支配替えの話はお流れになり、杢左衛門さんたちもホッとしたことで
しょう。
にしても、幕府の打つ手打つ手は空振りばかりが目立つようになり、農村の意志が通る
姿がここでも垣間見えました。

20131118.jpg

島田魁(かい)は文久3年(1863)以来の古参幹部隊士です。身長が6尺
(198cm)体重が45貫目(169kg)あったといいますから、元大相撲大関の
貴ノ浪とほぼ同じ体格です。今だって十分デカイですが、江戸時代でこの体
格は大巨人クラスですね。ま、記録が正しければ・・・ですが。
大垣藩士の家に養子に入り、江戸で剣術修行をしていたときに、同じく修行中
だった永倉新八と知り合ったといいます。京都で新選組に入隊したのは、間違
いなく新八っつぁんの引きでしょうね。

引きといえば、島田さんの有名なエピソード。
鳥羽・伏見の戦いのとき、敵の銃撃が激しくなったので新選組は退却を余儀
なくされます。ところが永倉さんの装備が重すぎて、土塀を乗り越えることが
できませんでした。すると島田さんが塀の上から重装備の永倉さんを軽々と
引き上げた、と云います。
幕末怪力伝説です。


「だって早く押さないと、古代くんが死んじゃうッ!」
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[ 2013/11/18 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(8)