永倉新八百回忌

去る11月17日、新選組幹部・永倉新八の百回忌法要が東京
都内で行われると聞き、ワタクシ行ってまいりました。
なんたって、こんなブログを、マンガを描いているワケですから、お墓参りくらいは
しないとマズイでしょう。
永倉さんは許してくれても、杏ちゃんが許してくれません。
てことで、今回は「番外編」でいきますよ。

永倉さんは新選組を脱退後、松前藩に帰参が許され、医師・杉村松柏の養子に入り
「杉村義衛」と名前を改めます。晩年は北海道で暮らし、そこで亡くなりました。
ですから杉村義衛として、北海道の杉村家の墓所に眠っているのですが、東京にも
「永倉新八」としてのお墓があります。
今回の法要は、その東京の墓所で行われました。

永倉さんは大正4年(1915)に77歳で亡くなっています。しかし、命日はどの本
にも1月5日となっていまして・・・なぜ11月に法要をするのか、よくわからないん
ですけどね。
ま、いいや!

DSCF6244a.jpg

ハイ!来ました。
こちらJR埼京線の板橋駅東口でございます。この辺りは3つの区の境になって
おりまして、駅は豊島区と板橋区にまたがり、駅前は北区というややこしさ。
ま、いいや!
実はココ、東京では日野市と並んで新選組の聖地となっておりまして、それはナゼ
かといえば・・・

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ドーーーーン!、ほら、見えますでしょ。
「近藤勇墓所」って立て看板。
駅の真ん前に、近藤局長のお墓があるんです。
ちなみに、すでにココは北区。

まぁ、便宜上「板橋」って言っちゃいますけどね。
ここ板橋は、新政府軍に捕えられた近藤局長が処刑をされた場所。近藤さんの
終焉の地なんですね。
近藤さんのお墓と呼ばれるものは供養塔も含めて全国に何か所かありますが、
この板橋の墓所はその最も古いものです。
さらに、永倉さんのお墓もこの墓所の中にありますし、また、新選組隊士たちの
慰霊碑もありますから、この場所はほぼすべての隊士たちをお参りできる場所
なのです。
百回忌の法要はこの場所で行われました。

正確には「寿徳寺境外墓地」といいます。
ワタクシが着いたのは、法要の始まる11時の30分ほど前でしたが、すでにたく
さんの方がいらしていました。土方副長の法要と比べると、男性率が若干高いよう
です。杏ちゃんの姿はナシ。
ま、いいや!
ワタクシも記帳を済ませまして歩道に並んでおりますと、ダンダラ羽織を着た今回の
主催者らしき方から「もうすぐ始まりますので(墓域の)中に入ってお待ちください」と
声をかけられました。
そうだ、今のうちに写真を撮っとこう!と思い、カメラを取り出しお墓の前に・・・。
思えばこれが失敗でした。

DSCF6252a.jpg

墓所の中奥左側に「新選組永倉新八墓」と彫られた大きな
墓石があります。これが永倉さんのお墓です。
先ほども書いたように、永倉さんの遺骨は北海道の杉村家のお墓に眠っているの
ですが、遺族の手によってここに分骨されているそうです。
墓前には祭壇が設けられています。

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遺影は晩年の永倉さん。顎鬚を伸ばし、杖だか木刀だかを携えています。元々は
剣術仲間や弟子の方たちと撮られた有名な写真で、それをトリミングしたもので
しょう。
位牌が2つ見えますが、右側が「釈義潤霊」と書かれた永倉さんのもの。左側は
「新選組隊士一切精霊」と書かれてありまして、今日の法要は新選組隊士たち
全員の法要を兼ねるものだということがわかりました。

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おっと、何やら旗を持った人が登場。旗には「全国新選組サミット」の文字が。
どうも百回忌に合わせて、全国津々浦々の新選組研究会・ファンクラブみたいな
団体がやって来ているようですよッ。

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ズラッと並ばれた、各団体の方々。日野や流山方面の方々もいれば、遠くは宮古
や岡山からいらっしゃった方もいるようです。
「おぉ~、パネェな、マジで・・・!」
ムリヤリな若者ことばを胸の中で呟き、驚きをMAXで表現しようとするワタクシ。

・・・「アッ、しまった!!」
とココで気がつきました!
ワタクシ、奥に進んで写真を撮っていたもので、後から人が墓所に入ってきて戻れ
なくなってしまいました。周りを見れば、なんと「ご子孫・関係者様方御席」の真後ろ
に立っているではありませんか!
ワタクシの真ん前、近藤局長のご子孫の宮川様に、佐藤彦五郎資料館の館長様
ではないですかッ!

うっぎゃ~~~ッ、なんて気まずさだッ、全然空気読めねぇヤツみたいじゃんかッ、
こんなハンパな一介の新選組好きが最前列に来ちゃって!ゴメン、ゴメンよぉ~~、
参列者の皆さん、ベストポジションに立ってしまいスミマセン!!!
あぁ、もう後ろに下がりたい・・・。
「ドラえも~~ん、助けてよぉぉッ!」未来の世界の猫型ロボットにもすがる思い。
「ダイジョブだヨ、ノビ太クン」
・・・いや、ジャン・レノの方じゃなくて!!

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ワタクシの気持ちとは全くカンケイなく、法要が執り行われます。
司会者の方はどういった職業の方だったのでしょうか?とても丁寧な言葉づかい、
かつ軽妙な語り口。式典が和やかに進みます。
ご子孫を代表して、長倉様がご挨拶されました。
「アレ?永倉じゃないの?」
そうなんです。永倉さんは若気の至りで松前藩を脱藩したのですが、父や家族に
迷惑をかけてはいけないと、本姓の長倉から永倉へと変えていたのです。

菩提を弔っていらっしゃる寿徳寺から大師様がやってきて、読経。さらに故人の
功績を称えます。
写真でおわかりになりますかね?中央の緑の法衣を着た方が大師様だと思うの
ですが、お若いとてもきれいな女性なのですよ。
「美しすぎる大師様」です。
「新八っつぁん、羨ましいゼ」by 左之助。
ま、いいや!

御親族、関係者、各団体に続いて、一般(ファン)の焼香となり、ワタクシも永倉
さんと隊士方ご一同のご冥福を祈らせていただきました。
「日本発展の礎となっていただき感謝いたします。」
そして、ひと言お詫びを。
「こんなブログに、こんなマンガで登場させてスミマセン・・・」

さて、お参りを済ませたところで、もう少しこの墓所について見ていきましょうか。

立て看板にもありましたように、元々ここは近藤勇さんのお墓があった場所です。
なぜ、近藤さんのお墓があるかといえば、この場所で近藤さんが斬首されたから
だと云われています。
しかし、地元の伝承では、近藤さんが処刑されたのはここではなく、少し離れた
一里塚に作られた処刑場だったそうです。
近藤さんは慶応4年(1868)4月3日に流山で投降し、翌日の4日に板橋に連れ
て来られました。そして板橋宿の脇本陣に監禁され、処刑前日の4月24日に
石山家という家に移されます。
現在のこの墓所は、その石山家の庭だった場所なのです。

4月25日に斬首された近藤さんの首は、一里塚に一夜晒された後、京都に送られ
ます。で、胴体は刑場に埋められたんですが、その夜に掘り出し石山家の庭に
葬られたと云います。
新選組関係者らが遺体を盗みに来るのではないかと、相当新政府側の警備も厳重
だったようで、3日目に板橋の名主らの手で葬儀が行われ、翌明治2年(1865)
2月に何も刻まれていない石を立てました。

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この石が、そのようです。
墓所の一番奥にあります。

石山家は寿徳寺の寺総代であり、後にこの土地を寿徳寺に寄付しました。
ですから現在「寿徳寺境外墓地」となっています。

明治7年(1874)、ようやく戊辰戦争で旧幕方についた戦死者の慰霊が許される
ようになります。
新選組隊士で生き残っていた永倉さんは、同じく生存隊士の斎藤一さんや、元幕府
奥医師で当時陸軍軍医総監となっていた松本順(江戸時代は良順)に声を掛け、
明治9年(1876)この地に「新選組慰霊碑」を建立しました。

DSCF6346a.jpg

高さ約3.5m、幅約45cm、奥行き約44cmの大きな石碑です。
正面には近藤さんと土方さん二人の名前が刻まれています。
そして横に回ると、側面にズラリと亡くなった新選組隊士たちの名前が刻まれて
います。摩耗しちゃって読めない部分もありますが、全部で110人の名前が
あるそうですよ。
中には粛清されたり袂を分かった芹沢鴨や伊東甲子太郎の名前もあるそうです。
有名なハナシですが、近藤さんの諱(いみな)は「昌宜(まさよし)」が正しいので
す。でもこの石碑には「宜昌」と逆になっています。
永倉さんがそんな大事なコトを発注ミスするわけないので、墓石屋さんのミスかと
思われるのですが、現在でもその謎はわかっていません。

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慰霊碑の向かって右側にある小さなお墓が「近藤勇の墓」です。
昭和4年(1929)に墓所を改修するときに立てられたものかと思うのですが、
墓石の裏に刻まれた文字が消されていてわかりません。
正面に刻まれた戒名は「勇生院頭光放運居士」です。

DSCF6256a.jpg

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その他にあるのは、こんな近藤さんの石像や石盤です。
石像は1mくらいと小ぶりですが、甲州柏尾史跡クリック)の兵馬俑チックな
像よりはビジュアル勝ちしています。でも、刀の柄部分が折れてしまって中から
鉄芯が見えてしまっています。誰か直してあげて!

それから、こんなのもありますよ。

DSCF6351a.jpg

右から近藤勇、土方歳三、永倉新八、3人の肖像画です。
近藤さんと土方さんは写真から起こしたものでしょうけど、永倉さんのこの顔って
他で見たことないんですよね~。誰か元ネタご存じですか?
ま、いいか!

板橋肖像画より

・・・ってコトで、当ブログのマンガはこの顔で許してくだされ!

21131124.jpg

近藤さんの首は京都に送られた後、三条河原に晒され、当時の瓦版に
刷られましたが、その後の消息は不明です。
胴体の方は、本文で寿徳寺境外墓地に埋葬されたと書きました。
ところが、近藤さんの出身地三鷹市の龍源寺にある近藤さんのお墓にも、
胴体が埋葬されていると云われています。
近藤さんの甥で、養子に入り天然理心流五代目を継いだ近藤勇五郎が、
板橋の墓を掘り起こして遺体を運び出し、龍源寺に埋めたというんですね。
これが本当なら、板橋の墓には何も埋まってないことになりますが、昭和
4年の改修では首のない人骨が確かに出てきたそうで・・・。
この辺り、ナゾであります。
近藤さんのお墓としては他に、岡崎の法蔵寺、会津の天寧寺があります。
ココには先ほど書きました「近藤さんの首」が埋められているといいますが
・・・果たしてその真偽のほどは?


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またもや支配替えですかッ・・・!?

長州征伐も失敗に終わり、大藩である薩摩藩が敵に回ったことも明らかに
なり、いよいよ崖っぷちに立たされた徳川幕府。
ここで15代将軍に就いた慶喜さんは、なんとか戦争を避け、なおかつ幕府が
政権の中心にいられるべくウルトラCの大技を繰り出しました。
大政奉還です。
「徳川家は、もうみんなついてきてくれないので、政権を朝廷にお返しします。
みんなが尊敬する朝廷が政治のリーダーになってください」
と徳川家が270年間握っていた政権を返上したのです。
慶喜さんの考えはこうです。
「政権を返されて一番困るのは朝廷じゃん。だって、この700年近く政治なんて
したことねぇんだし。結局、大藩の藩主による合議制になるんだろうけど、国政を
執ったことがあるのは徳川だけだし。ま、結局は徳川がまた政治の中心になる
ワケさ。」

焦ったのは薩長です。
まさか慶喜が自ら政権を手放すとは思わなんだ。確かにこのままでは慶喜の描いた
青写真通りになってしまう!
彼らはイギリスから大量の近代兵器を揃える目途も立っていたので、戦争による
武力革命を目論んでいたのです。でも、慶喜が政権を手放したのでは、戦争の
大義名分が立ちません。
「困ったでゴワス~、なんとか戦争がしたいでバッテン!!」

西郷隆盛は江戸藩邸の藩士らに命じます。
「おはんら、江戸でケンカでも乱暴でも火付けでもなんでもしてたもっせ。
とにかく江戸人を怒らせればよかよか。向うが堪えきれなくなって拳を上げたら
シメたもんでゴワス。ウルトラQはゴメス。」
(※当ブログの方言はファンタジーとご理解ください)

かくして、江戸とその近郊では急激に治安が悪化し出します。
幕府も手を打たなくてはならなくなりました。

この年、慶応3年(1867)11月、多摩の村民たちは「マジかよッ!?」という
話を関東取締出役から聞かされました。
治安維持のため、八王子宿に陣屋を設置することになり、武蔵・相模の
19の寄場組合は江川代官所の支配から離れ
る、
というのです。

陣屋とは、小規模な城だと思ってください。
江川さんは伊豆の韮山が本拠地ですから、武蔵や相模には役宅くらいの住居しか
ないんですね。これではいざというときの戦闘基地になりません。
なので、八王子に基地を置き、そこを本拠地とする戦闘武官の旗本と兵士を置こうと
いうのが幕府の狙いだったのでしょう。

江川支配地の多摩の村々には、これまでに何度も支配替えの波がやってきました。
安政5年(1858)には細川家の預所クリック!)に入れられました。
また、文久3年(1863)と元治2年(1866)にも支配替えの話が出ましたが、
駕籠訴や張訴に出てクリック!)回避しました。文久3年については東大和市が
「里正日誌」を出版していないので当ブログでご紹介できませんでしたが、元治2年
のケースはご紹介した通りです。

当然、今回も多摩の村々では反対運動が起こりました。
すでに江川代官所は、英龍時代の善政も遠い昔となり、農村にとって頼れる存在では
なくなっていたことが想像されます。しかし、それでも尚、江川代官支配地であることに
こだわったのはなぜなのか?
村々の名主ら代表者が、勘定奉行所の役人に出した嘆願書が「里正日誌」に残って
いますのでご紹介します。
ちょっと長いですが、ゴメンチャイ。

「畏れながら書付をもって嘆願奉ります。
武蔵・相模の江川代官所支配の村々の役人一同が申し上げ奉ります。
去る文政年間に関八州一般の村々が組合寄場を定め、大小の惣代を立て、お取締り
が万端行き届くようにいたしました。
私どもの村々は昔から江川太郎左衛門様のご支配地で、中でもお取締りはもちろん、
衣食住を質素倹約にするなどその時々にご趣旨を厳しく仰せ付けられました。厚く
お世話していただき一同ありがたいことだと話しております。だんだんと村々の人々の
間柄も和み、訴訟ごとなどもなくなりました。大小の百姓は安心してこのまま続くと思って
おりましたところ、先月お役人様方が八王子宿にお越しになり、寄場組合の村々の
役人たちをお呼び出しの上、八王子宿に陣屋をお建てになり、お奉行様の支配地にする
べきというのは、かつて陣屋においてはお奉行様がご支配されたからだと仰せられ
ました。
このことは畏れながら全く良い方法で、厚い思いやりを一同ありがたく伏して奉ります。
しかし、私どもの宿村では別段差支えはないのですが、万が一これまでの江川代官の
支配を離れれば、年来ご恩を受け安心して生活することができず、最近お取立になった
農兵については一同誠意を尽くして引き続き練習しております。すでに昨年には一揆が
乱暴に及んだとき、農兵が漸くこれを防ぎました。
農兵の中には稽古が未熟な者もいます。しかし、他のご支配を受けるようになっては
せっかくの誠意も空しくなってしまいます。その上
八王子宿は道中の継ぎ立て宿とは申しながら五街道では稀な盛過の土地柄、市ごとに
諸国の商人たちが入り多くの取り引きをし、最近では生糸の改所も建てられました。
酒食はもちろん、かつて物価などに至っては高値になり、元々村方では年々衰微して
いっています。
八王子宿は横浜ご開港以来だんだんと繁栄し、ご当地よりも物価の高い場所。万が一
陣屋を建てられては、諸々のご用向き一式が陣屋に詰めるので余計な雑費
がかかります。
村々の困窮が増し難渋に及ぶのは眼前のことだと、村々
大小の百姓はもちろん、村役人たちにおいても悉く心を痛めております。
予測を立てアレコレ難渋を申し立てることはなんとも畏れ入り奉りますが、村々の人
たちの生活にも関わることですので、以上のことでこれまで通りご支配は離れず、
農兵はもちろんすべて変更なく従来の通り据え置き、永久に安穏な生活を続けたく心底
より村々役人たち一同ご愁訴申し上げ奉ります。
しかし、多人数が出府して嘆願したのでは畏れ入りますのでそれはやめて、畏れ多い
ことですが私共一同惣代が止むを得ずご愁訴申し上げます。何とぞ特別のお計らいで
憐れみをいただき右の願い通り、かつてのお代官様ご支配はもちろん永久に据え置き、
大小の百姓一同が安心して相続できますよう、思いやりのご沙汰を偏に願い上げ奉り
ます。以上。
  慶応3年卯年12月11日                        」


江川代官所の支配からハズされれば、農兵も廃止となります。それでは今までやって
きたことが無意味となってしまいますし、掛けてきたお金もムダになってしまいます。
それと、陣屋にかかる雑費で難渋する者が出る心配もしていますが、それにプラスして
助郷のような人的な負担がかかる心配もあったかもしれません。

この嘆願書を名主たちが手分けし、4名の勘定奉行所の役人の宿所へ持っていきまし
た。勘定奉行所は代官所を支配している所だからです。「里正日誌」によればそれぞれ
小栗上野介の宿所駿河台へ、日野宿名主・芳三郎 五日市村名主・利兵衛
岡田安房守の宿所早稲田へ、蔵敷村名主・杢左衛門 寸沢嵐村名主・八郎右衛門
小野友五郎の宿所両国浜町へ、福生村名主・重兵衛 四ツ谷村組頭・平八
斎藤辰吉の宿所下谷和泉橋通へ、小田原村名主・杢左衛門 新町村名主・文右衛門

「11日に勘定奉行所のお役人方へ、重立った村役人が2人づつ嘆願書を持参して駆け
込み訴え申し上げたところ、全員が宿預けを仰せ付けられた。13日に馬喰町の役所に
呼び出しとなり、一通りお調べの上、いずれもそのうち評議するつもりだとした。
村々に動揺がしないよう小前末々の者まで申し聞かせよと注意を受け、帰村を仰せ付け
られた。」


杢左衛門さんら名主たちは、一時身柄を預けられたようですが、十分な注意を受けた後
釈放されたようです。
同じ頃、松村忠四郎という代官が支配していた府中宿など22ヵ村でも、八王子陣屋設置
中止の嘆願書が勘定奉行に提出されました。
これだけの近郊農村の反対にあっては、幕府も強硬手段は取れなかったのでしょう。
ついに八王子に陣屋が置かれることはありませんでした。
江川・松村両支配地とも、従来のまま据え置かれることになったのです。

・・・ってコトで、支配替えの話はお流れになり、杢左衛門さんたちもホッとしたことで
しょう。
にしても、幕府の打つ手打つ手は空振りばかりが目立つようになり、農村の意志が通る
姿がここでも垣間見えました。

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島田魁(かい)は文久3年(1863)以来の古参幹部隊士です。身長が6尺
(198cm)体重が45貫目(169kg)あったといいますから、元大相撲大関の
貴ノ浪とほぼ同じ体格です。今だって十分デカイですが、江戸時代でこの体
格は大巨人クラスですね。ま、記録が正しければ・・・ですが。
大垣藩士の家に養子に入り、江戸で剣術修行をしていたときに、同じく修行中
だった永倉新八と知り合ったといいます。京都で新選組に入隊したのは、間違
いなく新八っつぁんの引きでしょうね。

引きといえば、島田さんの有名なエピソード。
鳥羽・伏見の戦いのとき、敵の銃撃が激しくなったので新選組は退却を余儀
なくされます。ところが永倉さんの装備が重すぎて、土塀を乗り越えることが
できませんでした。すると島田さんが塀の上から重装備の永倉さんを軽々と
引き上げた、と云います。
幕末怪力伝説です。


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代官所へ申し上げます!

老中からの命令により、江川代官領の農兵たちは、相州観音崎の警備に
派遣されました。
彼らが警備に就いていたのはどれくらいの期間だったかといいますと、およそ
3週間ほどだったようです。
というのも、翌月の7月に入り交代要員としての農兵が観音崎に向かって
いるんです。
彼らは7月6日に蔵敷村を出て、やはり3日かけて観音崎まで行き、7月9日
に先発隊と交代。先発隊は7月11日に蔵敷村に帰っています。

この交代した第2次隊の詳しい行程ルートが「里正日誌」に出ていました。
それによると、
蔵敷府中関戸小野路木曽村原町田(宿泊)鶴間村長後村
亀井野村藤沢雪ノ下金沢(宿泊)横須賀村鴨居村
となっているんですが、注目するのは金沢から横須賀まで船を使っていること
です。250文を払って「船壱艘」をチャーターしています。
てことは、先発隊の佐吉郎さんたちもそうしたのか・・・と言いますと、それは
わかりません。
8月にこの第2次隊も任務を終えて帰村してくるのですが、その時は船を使って
ないんですよね。それでも3日間で蔵敷村に着いています。
ちなみに途中泊まった場所も、帰りは藤沢と府中です。
時間とか天候とか、その都度の状況によって同ちゅうの細かいことは、農兵たち
に任されていたのかもしれません。

と、ここまで読み進めてみて、観音崎警備の仕事はほぼ1ヶ月交代で行われて
いたんだなぁということが見えてきました。
このまま行けば、8月にも第3次隊が出発したことになりますね。

ところが先発隊が帰ってきたその日、7月11日。杢左衛門さんは代官所の手付、
柏木総蔵さんの元を訪ねています。

「7月11日、柏木様がご出勤する前にご自宅に伺い、農兵のことについて事実
を内密に申し上げた。その中身は、当組合は生産量3300石余りであり、相州
御備え場警備のために農兵3人を差し出すことは、服装を整えることはもちろん
経費として3人に10両余りがかかります。
また、軍人として行くので非常時の際は、家族も心配します。とにかく差し出す
方は歓迎しませんので、村々役人が相談の上手当として一人につき15両
をつけることを約束いたしました。
すでに3人差し出した所については、
一番勤めには55両あまりかかり、二番勤めには110両余りの金額を分担しまし
たが、この先なお出動を命じられましては、経費が堪えられず難渋すると言う者も
あります。丁寧に説明いたしますが、他の代官所にこんなことをしている所はなく、
ご支配様の領地に限って費用が嵩み、難儀に及ぶなど口々に苦情を申す者もあり
ます。
私どもが愚考いたしますに、元々堀田相模守・松平丹波守の両大名が御警備して
いた後任に、わずか俸禄150俵の当お代官へ仰せ付けられたことは、本当に
御先々代(英龍)の名声が続いていて、その威光が輝いているからなのです。
そのご支配下の農民ももったいないことだと存じ奉っておりますが、村々の愚かな
小作人の末々の者は、最近の指導に当惑していますことを申上げます。
柏木様の仰せには、子細を始めに承り驚きましたが、かかる経費は一切が代官所
の賄いですむとのことで、村々の雑費はないものと思っておりましたところ、内情
の事実をお洩しになっていたことを初めて知りました。

なるほど、予想外の出費があっては零細農家から苦情が出るのはもっとものこと。
ほかの組合ではどのようにしているのか、聞き込んでもあるので、遠慮なく質問
せよとのことなので、杢左衛門は次のように言った。
だいたいどこの組合でも農兵を選べとのご沙汰なので、村役人の倅、あるいは
役人本人、または身元が確かで村の重要な人物を差し出し稽古致しましたところ、
武家方の勤め向きが遠慮勝ちなので組合の役人が相談しました。すると前段の
通り誰もが同様だと申しました。
しかる上は、もはや三番交代の回状を差し出されましても、その筋へ申し立て
必ずこれまでとし、今後は免除していただけますよう取り計らっていた
だき、安心できますようそのことをお上に仰ってください。」


丁寧な口調ではありますが、村としては「今後の観音崎出張は断固お断り」という
強い意見がぶつけられています。
その理由として、警備に行くことは出兵するに等しいことであり、村民の賛同を得られ
ないこと。説得を含めた費用が掛かりすぎること。経費負担について事実を知らされて
いなかったこと、が上げられます。

確かにこれまで大名2名が担当していた番方の仕事(軍事)を、旗本の代官に押し
つけるというのはスジが通ってないように思えます。代官とは本来徴税官であり、
役方(事務官)なのですからね。
このムチャ振りに江川代官所は、何も言えずに従ってしまったことになります。
いや、代官が英龍さんであれば、何かウルトラCを使ってこの難問を幕府・農村納得
のいく形で解決したかもしれません。
しかし、当代の代官所はすでにノー・アイデアだったのです。

また、杢左衛門さんからすると代官所が都合のいいことばかりを言って、真実を隠し
ていたことに失望したことも感じられます。
代官所の苦しい内情を打ち明けてくれていたら、村としても協力できることはあった
かもしれない。でもウソをつかれていたわけです。英龍時代の善政を知る杢左衛門
さんにとって、この代官所の堕ちようはショックだったことでしょう。

最後の3行部分。
丁寧な言葉使いではありますが、心の中ですでに代官所を切り捨ててしまった
杢左衛門さんの意志が感じられるのですが、いかがでしょうか?

歴史の教科書では近世の農村において、農民は支配者である武家の完全なコント
ロール下にあったという印象がとても強いと思います。
しかし、現実には農村の指導者は早くから経済力をつけ、お上とは巧みな交渉術で
少しでも有利な条件を引き出し、この幕末期に至っては代官所に強く意見するだけ
の実力をつけていたのです。

観音崎へ第3次以降の農兵派遣は、ついに行われませんでした。
「農村がモノを言う」時代へと変わりつつあるようです。

20131110.jpg

ぜんっぜん関係ない話なんですが、現在日曜夜にBSフジで放送されている
コメディ時代劇「猫侍」がとても面白いです。
北村一輝さん演じる「まだら鬼」の異名を持つスゴ腕浪人が、化け猫退治の
依頼を受けます。ところが現場にいたのはとってもカワイイ白猫。まだら鬼は
斬り捨てたとウソを言って、その白猫を飼うことに・・・てのがストーリー。
布団や着物にオシッコされたり、ノミを移されたりと猫に振り回されながらも
その猫を愛してやまないまだら鬼が面白いんですが、なによりもこの白猫が
とってもカワイイので、ワタクシのような猫好きは必見です。


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農兵、相州台場へ出張する!

江川太郎左衛門さんてのは、名代官なんですよ。
これはどの歴史本みても書いてあるし、疑いの余地はないのです。
その功績を見れば、幕末のスーパーヒーロー間違いナシなのです。
・・・ただね・・・。
それはあくまで江川家の36代当主・英龍さんのこと。

安政2年(1855)早々、過労が祟って(たぶんね)英龍さんは55歳の
働き盛りで亡くなります。
で、三男の英敏さんが江川家当主と代官職を引き継ぐのですが(長男
と次男は早世)、この人も文久2年(1862)に23歳の若さで他界して
しまいます。
そして、その後を継いだのは、秀敏さんの弟で英龍さんの五男の英武
さん。家督を継いで代官になったのはわずか10歳のとき。

つまりこの時期に、この多摩の代官を務めていたのは、まだローティーン
の少年だったのです。
フツー、こんなコトはあり得ないんです。代官は任命職ですから。
でも江川家っていうのは鎌倉以来の名家なので、世襲代官という特別職
だったんですね。だからこんなこまわり君みたいな、パタリロみたいな、
少年代官が出てきちゃう。

当ブログにお集まりの皆さん、中二男子に地方行政のトップが務まると
思いますか?平和な時代ならともかく、国内は内戦や一揆やらで混迷
している最中です。
当然、実務はオトナの手付・手代が仕切る実情になっていたでしょう。
清廉潔白を謳っていた英龍さんの時代は遥か昔。代官所も平気で
賄賂を要求するようにクリック)なってきています。

同じ江川太郎左衛門代官所ではありますが、文久以前とそれ以降では
代官所の内情が大きく変わっていたということに注意しない
と、この時期の多摩地域の様子は正しく理解できないと思います。

その江川代官所に、慶応三年(1867)3月、ある命令書が出されました。

「 慶応3年3月お代官江川太郎左衛門殿へ相州観音崎御備え場の警備
 を仰せつけられた書付けの写し
  
申し渡し
この度、堀田相模守・松平丹波守の御預所となっている御備え場の警備役が
外されることとなった。この御預所、石高33000石余りを江川代官所に仰せ
付ける。兼ねてより取り立てておいた農兵を御備え場へ向かわせ
て警備させる
ように取り計らうこと。
このことは松〇周防守が仰せ渡されたことなので、その意を得られるべきこと。
帳簿は追って渡されるべきこと。
   慶応3年  3月14日   」


松〇となっているのは、おそらく虫食いかなにかで原文が読めないのだと思い
ますが、「松平」でしょう。松平周防守康英さんが、このときの老中です。
その御老中からの命令なんですね。
神奈川県横須賀の観音崎。灯台で有名な所ですが、当時は台場がありまして、
そこに多摩地域の農兵を連れていって、警備させろっていうんですよ。
村民にとっては迷惑な話ですがこの時点では、代官所にその命令が出ただけ
です。
「いや、それは村方の治安維持という、農兵設置の理由からはずれます」
代官はそのように建言することもできたハズです。

ところが!
5月下旬になって、代官所からこのような回状が廻ってきました。

「卯(慶応3年)5月26日お役所より回状
各宿村々組合農兵たちのうち、一組合に4~5人づつ、相州のお台場へ警備と
しておよそ一ヶ月ほどの間出張に行くことを仰せつけられた。
人選をして名前を書き、来月の4,5日頃までに間違いなく送ってよこすこと。
もっとも、それに見合うお手当をくだされる予定なので、着物その他身の周りの
ものは普段使っているもので差支えない。
この回状を早々に順送りし、最後の村より返却すること。
  卯5月26日 江川太郎左衛門役所  」


あららら・・・江川代官は、あっさりと引き受けちゃったようですね。
代官所は村々の防波堤にはなってくれなかったようです。
結局、江川代官の管轄領である武州・相州の14組合村から、54人の農兵が
選抜されて観音崎台場の警備に出て行きました。

「慶応3卯年6月お役所からのご沙汰により、当組合農兵3人が6月12日出立
して、府中宿で田無組合の農兵5人と待ち合わせた。鉄砲長持ち一棹が田無
組合より差し出された。
一同、宿村を継いで行き、同夜に武州木曽村(町田市)に泊まる。13日相州
藤沢宿泊まり。14日相州鴨居村観音崎御台場へ到着。」


この記事からルートを推察すると、青梅街道から府中街道に入り、鎌倉街道を
南下していったようですね。藤沢からは鎌倉を経由していったのかと思いますが、
もうちょっと詳しく書いていてくれればよかったのに、と思います。
以前、江川代官領が細川家の預所クリック)になったとき、村民が人足として
横須賀まで行かされました。そのときの日誌には詳しい行程ルートが書かれて
いませんでしたが、きっとこの観音崎ルートと同じ道を行ったのでしょうね。
やはり3日間はかかったハズです。
町田や神奈川の史料に「農兵が泊まっていったよ~」なんて記事があると、面白
いんですが、どなたかご存じないでしょうか?

ところで、この台場警備に蔵敷村組合から派遣された3人は、いずれも東大和
市域の農兵でした。
後ヶ谷村の名主・勘左衛門、蔵敷村の百姓倅・佐吉郎、高木村の組頭倅・伝蔵と
なっています。
この2人目の佐吉郎さんは、正月に火事を出したクリック)直右衛門さんの
息子です。火事で大事な小銃を焼失してしまいましたよね。田無組合から鉄砲
1挺を譲り受けたのは、このためかもしれません。

さて、観音崎に集合した14の農兵組合の中には日野宿の農兵隊も含まれて
いましたが、「里正日誌」に書かれている名簿の中に佐藤源之助という名前を
見ることができます。
この人は、日野宿名主・佐藤彦五郎と妻のぶの長男。つまり新選組副長・
土方歳三
の甥です。源之助クンこの時18歳でした。

20131103.jpg

このマンガ描いてて思ったんですが、農兵たちはどんな格好で観音崎まで
行き、警備に就いていたのでしょう。
代官所からの回状には「普段使っているもので差支えない」とありますが、
まさか野良着で行ったりはしないでしょう。
「どこかに絵なり写真なりないかな?」と思って、yahooで「江川農兵」の
画像検索をかけてみました。
・・・ところが、これが全然ないの。
だって、トップで当ブログの四コママンガが出てきちゃうくらいだもの。
静岡県三島市に「農兵まつり」ってのがあるらしくて、農兵像もあるようなん
ですけど、これは「踊る人」の像のようで、当時の農兵ではないみたい。
そこで、このブログでもご紹介した東大和市郷土博物館クリック)に
展示された農兵隊服が思い出されます。
上着、チョッキ、ゲートルなどが残されていましたが、これらを着こんだ
洋装スタイルに、お決まりの韮山笠。
蔵敷村組合では、せっかくだからこのスタイルで出動したものと思いたい
ですね。
ということで、源之助くんにもその恰好をさせてしまいました。

日野宿農兵隊は、武州世直し一揆鎮圧のときは「筒袖にだんぶくろ(股引)」
という出で立ちで出動しました。
なので、実際にはその時と同じスタイルで観音崎まで行ったのかもしれま
せん。


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