長州征伐も失敗に終わって、慶応2年も暮れてゆきます。
12月には、徳川慶喜が15代将軍に就任しました。
明けて慶応3年(1867)。
幕末もいよいよラストスパートです。
この年の「里正日誌」はいきなり、村内での火事の記載から始まっています。
しかも正月1日から。
なんてツイてない人なのでしょう・・・。
「恐れながら書付を以て御訴え申し上げ奉ります。
武州多摩郡蔵敷村
百姓 直右衛門 42歳
同人倅 佐吉郎 16歳
一、梁間3間 桁行9間 居宅1棟
一、梁間2間 桁行3間 土蔵上家1ヶ所
一、梁間2間半 桁行5間 物置1ヶ所
一、梁間7尺5寸 桁行2間 穀箱上家1ヶ所
一、梁間2間 桁行4間 下モ家1ヶ所
〆
右の直右衛門は石高8石7斗8升1合を持ち、家内6人で暮らし農業一統で
生計を立てている者ですが、当月朔日(1日)暁八ツ時頃(午前2時)、同人の
居宅より出火に及びました。
早速近隣の者たちが駆けつけ、消火に一生懸命尽くしましたが、時節柄北風
が激しく吹き、しばらく燃え上がり消し止めることはできずに、書類などは焼失
してしまいました。
もっとも、御高札や貯櫃などは無事に類焼を逃れ、人馬ともケガはなかったので、
鎮火の後は念入りに出火したときの様子を調べました。
直右衛門は前日の暮れ六ツ時頃(午後6時)、台所のかまど下の灰を取り、水を
かけて家の軒下へ置いていたところ、火の気がまだ残っていたと見えて、この灰
より出火したので、まったくの過失であり不審火ではないのですが、すでに家財、
金銭など残らず焼失してしまいました。
かねてより農兵にお貸し渡しになっていた、鉄砲並びに付属の品々は
日頃から大切に心に留めており、奥座敷の床の間に置い
てありましたので、持って逃げるべきだと佐吉郎はもちろん、直右衛門
ともども心を悩ませましたけれども、もはや火の手が一円に廻り、取りに部屋へ
入っていくのは困難になりました。
鉄砲と付属品の御品々を焼失しましたことは、深く恐れ入り奉ります。
これによって、直右衛門、佐吉郎の両人は菩提寺に入り謹慎いたします。この
ことを御訴え申し上げ奉ります。以上。
右直右衛門親類組合惣代
慶応3年正月5日 組頭 常七
村役人惣代
名主 杢左衛門
江川太郎左衛門様御役所 」
この直右衛門さん。百姓とはいってもかなりの富裕層だったようですね。
土蔵があるし馬も飼っていたようです。「下モ家」とは離れのことでしょう。
高札や貯櫃を保管する役目もあったようですね。
ワタクシがこの記事で注目したのは、この直右衛門さんが
農兵であった
ことと、幕府から支給された
小銃がどのように保管・扱われ
ていたかが、とてもよくわかるトコロです。
農兵たちは幕府から銃を渡されたとき、
大切に保管するように(

クリック)言われました。
直右衛門さんの家では、奥座敷の床の間に置いてあったようです。
まるで武士が刀を扱うようですね。
もちろん、お上から渡された大事な預かりものだ、というのはあるでしょう。
しかしこの銃が、ただ悪党を追い払うためだけに支給されていたら、直右
衛門さんはわざわざ奥座敷の床の間に置いていたでしょうか。
ここに、直右衛門さんの農兵としての自覚が伺えるような気がするのです。
農兵に選ばれたのは、それほど重い責務なのだという自覚ですかね。
・・・と言いつつも、
裏の読み方もあります。
コレは名主の杢左衛門さんが、代官所に出している報告書ですから、直
右衛門さんが銃を焼失させてしまったことについて、
「彼は普段から銃を大切にしていたんだけれど、火災になってかえって
そのことが仇になってしまったんですよ」
と、庇って報告しているようにも取れなくはないです。
まぁ、どちらにしても、幕府から預かった銃というものが、農兵になった村民
にはかなーりの責務を背負わされた象徴であったことが、この報告書でも
わかるのではないでしょうか。

さて、「東大和市史」には、元治2年(1865)3月の蔵敷村組合の農兵
一覧が出ていまして、確かに「蔵敷村 百姓倅 佐吉郎」の記載があり
ます。持高は8石7斗8升ですから、火事の報告書と合致します。
しかし、佐吉郎の年齢は39歳となっており、家族も8人と書かれています。
おそらく、年齢を考えると、火事を出した直右衛門が元治2年時の佐吉郎
なのでしょう。
3年の間に家族2人が亡くなり(1人は父親か?)、当主の名前である
直右衛門を継いだと考えられます。
となると、父の先代直右衛門は60歳前後で亡くなったのでしょうか。
わりと富裕層である農家の当主の、これが平均寿命だったのでしょうかね?
「だって早く押さないと、古代くんが死んじゃうッ!」

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