農村ピンチなり!

慶応3年(1867)1月5日、幕末最大級のニュースが多摩の村々に廻って
きました。
「楽天・田中、ドラ1松井にケンカ上等!?」
・・・あ、間違えた。スポーツ面の記事が入っちゃった。

孝明天皇、崩御。
コレです、コレ。突然の訃報です。
実際に亡くなられたのは、前年の12月25日でしたが、公にもその死は
4日間伏せられ、一般国民に知らされたのは年が明けてからのようです。

「卯(慶応3年)正月5日お役所より回状
一主上(天皇のこと)崩御につき、普請や鳴り物は停止すること。
 右のことにつき、松飾りは取り払うこと。
 右のとおり仰せ出された間、その意を得るべきこと。以上。
  卯正月五日 江川太郎左衛門役所」


この孝明天皇の死が、幕府滅亡へのカウントを早めたと言えるでしょう。
天皇は外国嫌いでしたが、「政治は幕府に執ってもらいたい」という考えを
強く持っていました。
これは幕府にとっては頼もしいことですが、一方皇室を担いで政権を幕府
から奪いたい薩長・公家勢力からすれば極めて不都合な考えです。
その天皇の突然の死去。
ですから、孝明天皇の死は暗殺ではないか、との説があるくらいです。
とにかく、この瞬間、時代は「倒幕」へ大きく傾いていきます。

さて、そんな頃。
前年に「武州世直し一揆」をはじめとして、全国的に一揆やら打ちこわしが
多発したのはお話した通りですが、この慶応年間というのは非常
に天候が不順で農作物被害がメチャ多かった時期なん
ですね。
この頃凶作続きだったことは、歴史の授業で教わったかもしれま
せんが、当時の記録としてどのように残されているか、「里正日誌」で確認して
みることにしましょう。そうしましょう。

「武州多摩郡蔵敷村ほか8ヵ村役人惣代、蔵敷村名主の杢左衛門が申し上げ
奉ります。
去る寅年(慶応2年)は、春から夏になっても雨天続きで冷気が強く、農間稼ぎ
で重要な経営手段の養蚕が全滅同様の大不作でした。
その上、8月中旬の大風雨(台風か?)で田畑の作物が悉く吹き荒れ、数か月
耕した甲斐もなく、全滅同様の場所がたくさんあります。
大小の百姓は凌ぐべき手段もありませんが、この時期に恐れ入り奉りまして村
役人が必死に申し諭し、少しばかりの食糧分も売り払ったので御年貢は納め
済ませました。しかし、最近様々な夫役や村役が嵩み、一同疲弊しきっている
所なので日々の凌ぎ方が難しいのです。
もっともこれまでは村役人や有力者より融通や助成をいたしましたが、何分
今回は困窮者が大勢なのでその手段が尽き果てました。そこで、かねてより
非常時の手当として村々に積立を仰せつけられていた貯穀を出してくれます
よう願い奉ります。一同歎いておりますので、議論の余地なくこのことをお願い
歎き奉ります。
なにとぞお慈悲を以て右の願いの通り、村々の貯穀をお貸し渡しくだされ窮民
一同を助けていただきますよう、御救助のご沙汰を偏に願い上げ奉ります。」


杢左衛門さんは、蔵敷村、奈良橋村、高木村、宅部村、後ヶ谷村、廻り田村、
粂川村、野塩村、日比田村、9ヵ村の代表として、窮民救済のため貯穀を
出してくれと代官所に訴えています。日付は慶応3年2月18日です。
前年の慶応2年が雨続きで冷害が深刻であったことが伺えます。
そういえば、武州一揆で「一揆勢と農兵が戦った日」クリック!)6月15日
も大雨でした。

こうしたコトを考えると、ゲベール銃を担いでいった農兵たちも、雨空を見上げ
ながら「オレたちこんなコトしてるバヤイなのか?田や畑は大丈夫か?」と
モヤモヤしたものを抱えながらの遠征だったことでしょう。

しかし、冷害は慶応3年のこの年になっても続いていました。
6月20日に、杢左衛門さんは次の報告書を代官所に出しています。

「去る18日の夕方七ツ時頃(16時頃)より雷鳴が強く、風雨が激しくなり、
暮れ六ツ時頃(18時頃)になって氷が降り出しました。重さはおよそ
50目(匁)より200目くらい(187.5g~750g)ありました。
もっとも村々一円では、風筋ではなかった様子ですが氷の大小多少は
ありました。田圃の稲を悉く打倒し、畑では大豆・小豆あるいは刈り遅れた
夏蕎麦は全滅。その他粟・稗はもちろん野菜ものに至るまで、殊の外の大荒れ
です。
大小の百姓はほとんど心を痛め、当惑しています。このことは非常時の天災で
すが、取り敢えずこのことをお届け申し上げ奉ります。以上。」


雹による被害届ですね。
硬式野球ボールだって150gはありませんから、そーとーデカい氷の塊が空から
降ってきたことになります。750gって子猫くらいあるでしょう。よくケガ人
が出なかったものですが、農作物が全滅したのは想像つきますわな。

こうした天候の不順により、幕府領ではまたしても大規模な一揆が発生するかも
しれない状況にありました。
興味深いのは、この年の3月に蔵敷村組合の惣代として杢左衛門さんが、代官所
にこのような願書を出していることです。

「当組合村々の農兵銃隊は元々組合も小さく少人数です。自然と病気やその他
不測の事態などで稽古を時々休み、いずれにしても上達はしていません。
そのようなことなので、この冬のことですがお屋敷内の御調練場へ召し出され、
腕前を試しにご覧なされることについて、一生懸命稽古を励むようにと仰せ渡され
ました。
特に最近はそこここの村で物騒なことが起こる時分柄、以上のように熱心に取り
組まないことが多いようでは、万が一にも非常時の時に役に立たないと心を痛めて
おります。
その時以来、農事その他に取り紛れ追々引き延ばして、この頃では手透きにも
なったので、稽古を始めたく相談いたします。
そのようなことなので、近々ご教示方にご出立ご廻村していただきたいことを
承知してもらいたく申し上げます。なにとぞお慈悲を以て、以上申し上げた始末
をお考えいただきご教示役様がご出立されましたら、当組合の農兵の訓練手始め
に教えていただけますようお願い奉ります。以上。
        武州多摩郡蔵敷村惣代 蔵敷村 名主杢左衛門
 慶応3年3月14日
  江川太郎左衛門様御役所 」


てことで、農兵の訓練を再開したいから、先生を派遣してくれって言ってるんで
すね。
一揆やら悪党対策ってことなんでしょうが、ワタクシにはどうもこの辺りの真意は
計りかねます。
冷害による被害の真っ最中なのですから、農村に農兵訓練をしなければならない
というモチベーションやパワーがあったのかなぁと、思ってしまうのです。
ただ、「里正日誌」の解説によれば、この頃関東の幕領では各地で農兵が正式
採用され、その組織化が急速に進んでいたようです。そのような社会背景が
何かしらこの願書に影響しているのかもしれません。

冒頭書きましたように、時代は大きくその角を曲がろうとしています。
東大和市域の村々も、混迷の度合いを増してきたのでしょうか。

20131028.jpg

伊東甲子太郎センセーは新選組に入隊する以前、結婚して子供まで
いたんですね。
しかし「国事のため」に京に上り、家族は残して放ったらかしにしていま
した。淋しいのは奥さんです。ちょっと帰ってきてもらおうと思い、手紙
を出します。でも、ただ帰ってきて、と書いたのではそれに応じるハズ
もないと知っていた奥さんは、手紙にこう書きます。
「ハハ、キトク」
これには伊東先生もビックリ。急いで帰国いたします。
ところが着いてみれば、お母さんはピンピンしてる。伊東先生、大激怒!
その場で奥さんを離縁してしまいます。

4コマめに出ている三木三郎は、伊東先生の2歳年下の実弟です。
鈴木三樹三郎と名乗っていた時もありますので、そのように書いてある
本もあるます。
戦闘能力はそれほど高くはないのですが、新選組では小隊を任される
幹部待遇でした。たぶん、兄キの引きですね。
後に伊東先生らと新選組を離脱。戊申戦争では薩摩藩に属して会津戦争
にも従軍しています。
維新後は警察畑などを歩み、晩年は故郷の茨城県で過ごし82歳で亡く
なりました。途中で袂を分かったとはいえ、新選組幹部経験者の中では
一番の長命を保ちました(行方不明者を除く)。


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慶応3年正月 燃え~。

長州征伐も失敗に終わって、慶応2年も暮れてゆきます。
12月には、徳川慶喜が15代将軍に就任しました。
明けて慶応3年(1867)。
幕末もいよいよラストスパートです。

この年の「里正日誌」はいきなり、村内での火事の記載から始まっています。
しかも正月1日から。
なんてツイてない人なのでしょう・・・。

「恐れながら書付を以て御訴え申し上げ奉ります。
          武州多摩郡蔵敷村
               百姓 直右衛門 42歳
               同人倅 佐吉郎 16歳
一、梁間3間 桁行9間  居宅1棟
一、梁間2間 桁行3間  土蔵上家1ヶ所
一、梁間2間半 桁行5間  物置1ヶ所
一、梁間7尺5寸 桁行2間  穀箱上家1ヶ所
一、梁間2間 桁行4間  下モ家1ヶ所
  〆
右の直右衛門は石高8石7斗8升1合を持ち、家内6人で暮らし農業一統で
生計を立てている者ですが、当月朔日(1日)暁八ツ時頃(午前2時)、同人の
居宅より出火に及びました。
早速近隣の者たちが駆けつけ、消火に一生懸命尽くしましたが、時節柄北風
が激しく吹き、しばらく燃え上がり消し止めることはできずに、書類などは焼失
してしまいました。
もっとも、御高札や貯櫃などは無事に類焼を逃れ、人馬ともケガはなかったので、
鎮火の後は念入りに出火したときの様子を調べました。
直右衛門は前日の暮れ六ツ時頃(午後6時)、台所のかまど下の灰を取り、水を
かけて家の軒下へ置いていたところ、火の気がまだ残っていたと見えて、この灰
より出火したので、まったくの過失であり不審火ではないのですが、すでに家財、
金銭など残らず焼失してしまいました。
かねてより農兵にお貸し渡しになっていた、鉄砲並びに付属の品々は
日頃から大切に心に留めており、奥座敷の床の間に置い
てありましたので
、持って逃げるべきだと佐吉郎はもちろん、直右衛門
ともども心を悩ませましたけれども、もはや火の手が一円に廻り、取りに部屋へ
入っていくのは困難になりました。
鉄砲と付属品の御品々を焼失しましたことは、深く恐れ入り奉ります。
これによって、直右衛門、佐吉郎の両人は菩提寺に入り謹慎いたします。この
ことを御訴え申し上げ奉ります。以上。
           右直右衛門親類組合惣代 
 慶応3年正月5日        組頭 常七
           村役人惣代
                   名主 杢左衛門
 江川太郎左衛門様御役所                       」
  
 

この直右衛門さん。百姓とはいってもかなりの富裕層だったようですね。
土蔵があるし馬も飼っていたようです。「下モ家」とは離れのことでしょう。
高札や貯櫃を保管する役目もあったようですね。
ワタクシがこの記事で注目したのは、この直右衛門さんが農兵であった
ことと、幕府から支給された小銃がどのように保管・扱われ
ていたか
が、とてもよくわかるトコロです。
農兵たちは幕府から銃を渡されたとき、大切に保管するように
クリック)言われました。
直右衛門さんの家では、奥座敷の床の間に置いてあったようです。
まるで武士が刀を扱うようですね。

もちろん、お上から渡された大事な預かりものだ、というのはあるでしょう。
しかしこの銃が、ただ悪党を追い払うためだけに支給されていたら、直右
衛門さんはわざわざ奥座敷の床の間に置いていたでしょうか。
ここに、直右衛門さんの農兵としての自覚が伺えるような気がするのです。
農兵に選ばれたのは、それほど重い責務なのだという自覚ですかね。

・・・と言いつつも、裏の読み方もあります。
コレは名主の杢左衛門さんが、代官所に出している報告書ですから、直
右衛門さんが銃を焼失させてしまったことについて、
「彼は普段から銃を大切にしていたんだけれど、火災になってかえって
そのことが仇になってしまったんですよ」
と、庇って報告しているようにも取れなくはないです。

まぁ、どちらにしても、幕府から預かった銃というものが、農兵になった村民
にはかなーりの責務を背負わされた象徴であったことが、この報告書でも
わかるのではないでしょうか。

20131019.jpg

さて、「東大和市史」には、元治2年(1865)3月の蔵敷村組合の農兵
一覧が出ていまして、確かに「蔵敷村 百姓倅 佐吉郎」の記載があり
ます。持高は8石7斗8升ですから、火事の報告書と合致します。
しかし、佐吉郎の年齢は39歳となっており、家族も8人と書かれています。
おそらく、年齢を考えると、火事を出した直右衛門が元治2年時の佐吉郎
なのでしょう。
3年の間に家族2人が亡くなり(1人は父親か?)、当主の名前である
直右衛門を継いだと考えられます。
となると、父の先代直右衛門は60歳前後で亡くなったのでしょうか。
わりと富裕層である農家の当主の、これが平均寿命だったのでしょうかね?


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将軍の死と停戦と献金と

ワタクシね、脱出できたみたいですよ。
何がって?
「あまロス」ですよ、「あまちゃんロス症候群」。
というのもね、先日仕事をしていましたら、「ハッ」と気がついたんです。
ワタクシ、ハナ歌で「雨のち晴れルヤ」を無意識に口ずさんでいるではないですか!
「ごちそうさん」の主題歌ですよッ!
先週まで「でも、はぁとはサバイバァー♪」だったのに、ですよ。
気がついたら「ゆず」になってました。
これって、「あまロス」脱出と見ていいですよね。ね、先生ッ。

慶応2年(1866)8月、「まじロス」な話が全国を駆け抜けました。
14代将軍徳川家茂が、遠征先の大坂で亡くなったのです。21歳の若さでした。
実際に亡くなったのは7月12日なんですが、「里正日誌」には8月27日に江川
代官所から回状が廻ってきたことが記されています。
しかし、同書状に
「一橋中納言様(慶喜)がご相続遊ばされ、去る20日より上様と称し奉られ
ました。」

とも書いてあるので、杢左衛門さんたちは「こりゃ、もうちょっと前にお隠れ遊ばされ
たな・・・」と勘づいたハズです。
徳川家では、徳川宗家を相続すると「上様」と称され、その後に征夷大将軍に任官
されると「公方様」と呼ばれる習わしでした。
13代将軍家定が亡くなったときも、その死はひと月の間隠されました。
家茂さんは亡くなったのが大坂ですし、多摩の村々に情報がこの程度遅れて入る
のは当時の常識の範囲かもしれませんね。

将軍が亡くなったのは「武州世直し一揆」のおよそ1ヶ月後ですが、幕府としては
第二次長州征伐の真っ最中です。
この戦い、表面だけを見れば「政府軍VS一地方軍」の図式ですから、圧倒的に
政府軍=幕府軍が有利のように見えますが、内情はまったく逆。
幕府が軍事的に一番頼りにしていた薩摩が、すでに長州と水面下で同盟を結んで
いたために(薩長同盟)、戦ってくれねーわ、密かに最新式の武器を長州に横流し
するわのチョー裏切り行為。
長州は高杉晋作の元、奇兵隊などのように兵制改革も進んでいましたし、各地で
連勝。幕軍は士気も上がらず、結局長州領内に足を踏み入れることすらできない
アリス様、もといありさまです。
そんな中での将軍の死でしょ。幕府側は「まじロス」どころのショックじゃないです。
ただ、これをチャンスと見たのが慶喜さん。
「戦争を中断して将軍の喪に服したいんで・・・」と、朝廷に停戦の仲介をお願いします。
勝てない戦争は真っ先にヤメるに限るゼってトコロでしょうか。
で、幕府代表の勝海舟と長州代表の広沢真臣らが9月2日に会談を持ち、一応の停
戦となったワケです。

ところが、ですよ。
9月29日に江川代官所の手附、石川政之進からこのような回状が多摩の村々に
廻ってきました。

「御進発につき、再度献金または御用金について、別紙のとおり稲葉美濃守殿から
仰せ渡された。
当8月中において、御勘定所の小栗下総守が仰せ渡されたことは、宿村組合の村々
は去る丑年(慶応元年)は多分に精を出し、献金も致し、暇なく働いた。
また、特に今年は蚕、米作とも通常の収穫通りに行かず、広く一同骨折りしている
ところではあるが、長州への討入りの形勢が実に容易ではないと恐れ入り聞く。
且つ、武蔵国や相模国の宿村は戦地とは遠く隔たっている。
そのため、人を差し出すことは免除され、一同無難に家業の農業ができ、まことに
有難いことである。
身元の者(しっかりと収入のある有力者)たちはしっかりと聞き分け、軍費として献金、
あるいは御用金などを願いたい。有志の者はなるだけ精を出すべきで、金高・名前を
一人づつ金高順に半紙堅帳に認め、銘々調印して、その宿村ごとに村々に通達して
調べ上げ、我々が廻った村先へ差し出すべきこと。(以下略)」


長州征伐で苦戦しているために、献金せよとのお達しです。
先ほど書いたように、9月の始めには長州との間で一応停戦が成立しています。
一応というのは、長州が停戦後も幕府方の小倉藩への攻撃はやめないでいまして、
これは条約違反なんですが、幕府としてもこの時点でこれを止めることも小倉に助勢
することもできないでいたのです。結果、小倉の一部は長州の手に落ちてしまうの
ですね。

と、まぁ、この時点で幕府から長州征伐のための献金要請が出るというのは、時期的
に考えてもおかしい気がするのですが・・・。
でも、この要請に対し、多摩の各村々ではその献金に応じています。
東大和市域では、後ヶ谷村が8両、宅部村が4両、高木村が11両、奈良橋村が11
両、蔵敷村が11両、支払っています。蔵敷村組合全体では141両が献金されて
いるようです。

同じ回状が廻ったのは、相州藤沢宿、磯部村勝坂分、武州木曽村、八王子宿、
津久井県中野村、日連村、武州小仏宿、五日市村、氷川村、檜原村、青梅村、
拝島村、日野宿、田無村の各宿村です。
各地区、どれだけの献金があったのかは調べていないのでわかりませんが、蔵敷村
組合程度の献金をしたとすれば、トータルで2000両は集まったでしょう。

これらのお金、どのように使われたのでしょうか・・・?

20131012.jpg

ワタクシのバヤイ、次のドラマの主役がファンである杏ちゃんだった、ていうのも
「あまロス」から早く抜けられた要因かもしれません。
まぁ、まだ勉さんと水口さんのコトを思わない日がないではないのですが・・・。


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幕末和製西洋式小銃を追う!

慶応2年(1856)7月、「里正日誌」には次のような記載があります。
「武州世直し一揆」騒動の翌月です。

「  小筒(小銃)取り入れの儀につき願い奉り候書付け
私の韮山屋敷御用達場の警固をするために、農兵たちへ舶来ミニー銃
150挺お渡しいただけますよう申し上げましたが、その命令は済んだものの、
お渡しに はなられませんでした。
追って、代替案とのことで和製ミニー銃15挺をお渡しになるとのことです
が、品質が劣るのでなるべく舶来の銃をいただきたい。
最近の時勢はいつ、どこから、いかなることが沸き起こると申すべきか計り難く、
有効な武器がなくては勝算はありません。
(以下略)
     寅(慶応2年)7月      江川太郎左衛門 印
 御勘定所                              」


てことで、今回は幕末の「小銃」事情についてお話してみたいと思います。

ご紹介した資料によると、当時の日本には輸入品と国産の両方のミニー銃が
あったことがわかります。で、どうも性能的には輸入品の方が勝っていたよう
ですね。
このブログでもご案内しましたが、先日まで東大和市郷土博物館
幕末から明治にかけて市内に残る歴史資料の企画展が行われていました。
この展示資料の中に、上の書状に出てくる和製ミニー銃と思われる小銃
があったのです。

ミニー銃というのは、いわゆるミニエー銃のことです。
1840年代におフランス人のミニエーさんが、それまでのゲベール銃に替
わる銃として発明した新式銃です。
ゲベール銃は鉄の筒の中を球形の弾丸がピューッと飛んでゆくだけなので、
射程距離も短いんですが、ミニエー銃は銃腔に螺旋状の線条(ライフル)を刻んだ
ので、弾丸にスピンがかかり格段に射程距離や命中率が向上しました。
実はそれ以前に、ゲベール銃にライフルを刻むことも行われてはいました。これを
ヤーゲル銃と言います。でも、弾丸はゲベール銃と同じものを使い、装填に
手間を取ったので、狙撃用としてしか使われませんでした。
ミニエー銃は弾丸にも工夫がされ(後ほどご紹介)、装填も短時間でできるように
なったので、世界中に普及していったんですね。

日本にはゲベール銃が伝わり、遅れてミニエー銃が入ってきた印象がありますが、
実は安政元年(1854)ペリーが再来日したときに、オミヤゲとしてライフル銃を
持ってきています。
でも、その頃の西洋事情はアロー号事件が起きる直前だし、南北戦争もこれから
だったりしたので、新式銃は日本まで輸入されず旧式のゲベールが大量に入って
きたのでしょうね。
でも、幕府は早くからこの新式銃に着目し「コレ、俺たちでも作ろうゼ」ってことで
江川太郎左衛門(英敏)に命じて研究させていたようです。和製ミニー銃の製作
着手です。

一方、農兵たちはといえば、訓練として支給されていたのはブログでもご紹介した
ようにゲベール銃です。これは輸入品と国産の両方があったものと思われます。
「武州世直し一揆」で農兵が使用したのもゲベール銃でしょう。

しかし、現在、東大和市に残されている小銃はミニエー銃であり、しかも国内で
作られたものなののようなのです。
2001年に東京大学の保谷(熊澤)徹先生が「幕府の米国式施条銃生産について」
という研究報告を行っています。
それによると、「国産ライフルと思われる洋式小銃が、現在も多摩地域に数挺残され
ている。」
とし、西東京市(田無)に1挺、東大和市に1挺、武蔵村山市に3挺とその
数を上げています。
通常地板や銃身に製作地や商標が刻印されるらしいのですが、これらの銃には
それが見当たらず、米国製とは考えられないというのが先生の見解です。

先生が調査をされた時、東大和市内の銃は「里正日誌」の著者・内野杢左衛門さん
のご子孫の家に残っているもの、1挺だけでした。
ところが、最近になって、幕末当時に蔵敷村組頭をしていたS家からも新たに小銃が
見つかり、今回の企画展では2挺の小銃が展示されていたのです。

S家から見つかった小銃は、内野家の小銃とほぼ同形なので、国産ミニエー銃である
ことがわかります。しかし、こちらの銃にはなんと銃剣がそのまま着いた状態で保存
されてありました。

スプリングフィールド銃 クリックで大きくして見てね(by 原田左之助)

内野家の銃も、田無、武蔵村山市に残る銃も銃剣はなくなっていますので、左之助
さんの言うように、貴重なものだと思います。
ワタクシのへたなスケッチで申し訳ないのですが、サーベルの根元が筒状になって
いて銃口の先にポコッとはめ込むようになっています。
銃の形は前装式(前込め式)の「三つバンド」と呼ばれる3つのバンドで銃身を固定
させるタイプです。銃剣を入れない長さは1420ミリ。重さは約3,8キロとのことで、
当時の日本人にはそーとー大きかったでしょうねぇ。
ちなみに、ウチのテンちゃん(猫)の体重も3.8キロです。

さて、先ほどからこの銃をミニエー銃と呼んでいますが、正式にはスプリング
フィールド銃
と呼ぶ銃のようです。
簡単に言いますと、当時ミニエー銃には英国製のエンフィールド銃と米国製の
スプリングフィールド銃の2種類がありました。
どちらも基本的な構造は一緒なのですが、スプリングフィールド銃はライフルが3本
しか切っておりませんでした。コストのためでしょうかね?
それなもんだから、命中精度などはエンフィールド銃に劣っていたといいます。
でもペリーが持ち込んだのが自国製のスプリングフィールド銃だったんで、幕府も
こちらの製造を始めちゃったんでしょうね。

ついでなので、さらにマニアックなこと言いますと、この和製銃はスプリング
フィールドM1855
という形式です。
このタイプの大きな特徴が、撃鉄部分に10円玉くらいの窪みがあることです。
コレが何のためにあるかと言いますと、この窪みの中にテープ雷管という発火薬
を巻紙に着けたタイプの雷管を入れて、使用するためなんですね。
子供の頃、紙火薬で遊ぶオモチャのピストルがあったでしょ。アレと同じだと
思えばいいです。
多摩地域に残る幕末小銃には、全てこの10円玉大のくぼみがありますので、
当時、幕府が作成していた西洋式小銃は米国製のスプリングフィールドM1855だ
ということがわかるのです。

では、その仕組みをご紹介。

撃鉄 テープ雷管

沖田さんの言うように、元々は雷管を守るフタが着いていたようですが、たぶん
チャチな仕組みだったんでしょうね。どの銃も紛失しています。アメリカ製のオリ
ジナル銃の写真を見ると、このフタにイーグルが刻印されてあってカッコイイですよ。

冒頭に書いたように、ミニエー銃には専用の弾丸が使われました。
これをプリチェット弾と言います。ドングリみたいな形なので「椎の実弾」とも
言います。

プリチェット弾

副長、解説ありがとうございます!
ワタクシ、何も言うことございませんだみつお。ナハ、ナハ、ナハ。
・・・アレ?でも近藤局長が気になるコトを言ってますね。
プリチェット弾は溝が刻んであることがミソで、それが膨らむことで力を発揮するハズ
ですが・・・。

ここで重大発表。聞いて、聞いて!
この和製スプリングフィールド銃の最大の特徴・・・それは・・・
銃腔にライフルが刻んでない!
て、ゆーコトなんです!!
じゃ、ライフル銃じゃないじゃん!ジャン・アレジ!嫁さんゴクミ!
・・・おっと、興奮のあまり失礼をば・・・。

当時のメイド・イン・ジャパンの限界だったんでしょうか。ライフルを刻む技術力が
当時の日本にはなかったようなんです。
正確に言うと、ヤーゲル銃は国産化に成功していましたから、線条を入れることは
できたようです。でもヤーゲル銃は狙撃用なので連射はしません。
スプリングフィールド銃は一般歩兵用の銃なので、連射に耐えなければ実戦では
使えません。この連射実験に国産銃は耐えられなかったようなんです。

というワケで、外見はスプリングフィールド銃・・・なれど中身はゲベール銃という
シロモノが今回ご紹介した和製西洋式銃の正体です。
銃と共に弾丸も多く保存されているのですが、近藤局長の言われるように、なんか
ヘンなプリチェット弾も交じっているんですよね。
これらの弾丸は、この和製銃のために作られた弾なのでしょうか?

江川さんが農兵のために舶来のミニー銃を回してくれと言っているのも理解でき
ます。国産では性能は旧式と同じなんですから。
で、そんな銃がなぜ多摩に残っているのでしょう?

当時、鉄砲製作にかかる勘定御用を務めていた日下部成章という人の「留記」に
よると、文久元年(1861)から翌年にかけて、湯島の製作所で「アメリカより献上
されたものに倣った銃」を215挺作り、うち120挺にライフルの施条加工がなさ
れたといいます。
先ほど言いました耐用試験に合格しなかった銃は、これらの120挺と思われます。

元治元年(1864)に銃砲製作所は湯島から関口(文京区)に変更になりますが、
その時、幕府は鉄砲製作をそれまでの職人による手作業ではなく、アメリカから
製作機械を輸入して機械製作に切り替える計画を立てるのです。
ところが、幕府とアメリカ側とで手違いがあり、そのマシーンが輸入されません
でした。
以降、明治期に入るまで、国内で新式銃の製作は行われなくなり(試作を除く)、
輸入銃に頼るしかなかった、とのことです。(保谷先生の研究文による)

となると、多摩地域に残されているこれらのスプリングフィールド銃は、湯島で
製作されたライフルを入れる以前の95挺の中の何挺かでしょうか?
当然、幕府陸軍に支給するワケにはいきませんやね。
たぶん、一揆後の治安維持として「ないよりはマシ」程度のことで、村々に払下げ
られたのではないかと思われるのですが、いかがでしょう。
保谷先生によれば、同型の銃が国内で生産されたという報告はこれまでに
ないそうで、その性能はともかくとして、歴史的に貴重な資料であることに間違い
はないようです。


さて、蛇足ながら。
M1855最大の特徴は先ほども言いましたが、テープ式雷管です。アメリカのメイ
ナード博士って方が発明して、「湿気にも強いんだゼ」ってのが売りだったらしい
んですが、言うほどのことはなくて雨に弱かったらしいんですね。
「ダメだ、こりゃ」「次行ってみよう、次ッ」
てことで、後継機種のM1861ではこのテープ雷管は採用されていません。
よく、日本に入ってきた銃は南北戦争終結で銃が余っていたからだ、と言いますが、
M1855に関して言えば、南北戦争当時にはすでにクラシック扱い。
M1855が活躍したのは1858年のフォー・レイクの戦いというインディアン
掃討作戦のときだったようです。

この後に起こる戊辰戦争では、新政府軍も旧幕府軍もエンフィールド銃やスプリング
フィールド銃で戦います。しかし、会津の白虎隊はヤーゲル銃を装備していたと
いいますから、旧式銃で戦う兵士も多かったのでしょう。
前装式のミニエー銃を改造して後装式(後込め式)にした銃をスナイドル銃
言います。こっちの方が便利。
でも、当時はまだ銃尾のガス漏れがあったりして、信頼性が低かったそうです。
箱館戦争の時でさえ、後装式銃を持っていたのは両軍でも一部の将兵であったと
云います。

20131005.jpg

大河ドラマ「八重の桜」で、会津若松城に立て籠もった八重(綾瀬はるか)が
バンバン撃っていたのはスペンサー銃という、当時最新式の後込め式
7連発の騎兵用に開発された銃です。
三つバンドのゲベール銃やミニエー銃より全長が短いので(997ミリ)、それら
の銃より軽かったろうと思いきや、約5キロあったそうです。
やはりメカニズムが複雑になったからでしょうか?



「だって早く押さないと、古代くんが死んじゃうッ」
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