農村ピンチなり!
慶応3年(1867)1月5日、幕末最大級のニュースが多摩の村々に廻って
きました。
「楽天・田中、ドラ1松井にケンカ上等!?」
・・・あ、間違えた。スポーツ面の記事が入っちゃった。
孝明天皇、崩御。
コレです、コレ。突然の訃報です。
実際に亡くなられたのは、前年の12月25日でしたが、公にもその死は
4日間伏せられ、一般国民に知らされたのは年が明けてからのようです。
「卯(慶応3年)正月5日お役所より回状
一主上(天皇のこと)崩御につき、普請や鳴り物は停止すること。
右のことにつき、松飾りは取り払うこと。
右のとおり仰せ出された間、その意を得るべきこと。以上。
卯正月五日 江川太郎左衛門役所」
この孝明天皇の死が、幕府滅亡へのカウントを早めたと言えるでしょう。
天皇は外国嫌いでしたが、「政治は幕府に執ってもらいたい」という考えを
強く持っていました。
これは幕府にとっては頼もしいことですが、一方皇室を担いで政権を幕府
から奪いたい薩長・公家勢力からすれば極めて不都合な考えです。
その天皇の突然の死去。
ですから、孝明天皇の死は暗殺ではないか、との説があるくらいです。
とにかく、この瞬間、時代は「倒幕」へ大きく傾いていきます。
さて、そんな頃。
前年に「武州世直し一揆」をはじめとして、全国的に一揆やら打ちこわしが
多発したのはお話した通りですが、この慶応年間というのは非常
に天候が不順で農作物被害がメチャ多かった時期なん
ですね。この頃凶作続きだったことは、歴史の授業で教わったかもしれま
せんが、当時の記録としてどのように残されているか、「里正日誌」で確認して
みることにしましょう。そうしましょう。
「武州多摩郡蔵敷村ほか8ヵ村役人惣代、蔵敷村名主の杢左衛門が申し上げ
奉ります。
去る寅年(慶応2年)は、春から夏になっても雨天続きで冷気が強く、農間稼ぎ
で重要な経営手段の養蚕が全滅同様の大不作でした。
その上、8月中旬の大風雨(台風か?)で田畑の作物が悉く吹き荒れ、数か月
耕した甲斐もなく、全滅同様の場所がたくさんあります。
大小の百姓は凌ぐべき手段もありませんが、この時期に恐れ入り奉りまして村
役人が必死に申し諭し、少しばかりの食糧分も売り払ったので御年貢は納め
済ませました。しかし、最近様々な夫役や村役が嵩み、一同疲弊しきっている
所なので日々の凌ぎ方が難しいのです。
もっともこれまでは村役人や有力者より融通や助成をいたしましたが、何分
今回は困窮者が大勢なのでその手段が尽き果てました。そこで、かねてより
非常時の手当として村々に積立を仰せつけられていた貯穀を出してくれます
よう願い奉ります。一同歎いておりますので、議論の余地なくこのことをお願い
歎き奉ります。
なにとぞお慈悲を以て右の願いの通り、村々の貯穀をお貸し渡しくだされ窮民
一同を助けていただきますよう、御救助のご沙汰を偏に願い上げ奉ります。」
杢左衛門さんは、蔵敷村、奈良橋村、高木村、宅部村、後ヶ谷村、廻り田村、
粂川村、野塩村、日比田村、9ヵ村の代表として、窮民救済のため貯穀を
出してくれと代官所に訴えています。日付は慶応3年2月18日です。
前年の慶応2年が雨続きで冷害が深刻であったことが伺えます。
そういえば、武州一揆で「一揆勢と農兵が戦った日」(
クリック!)6月15日
も大雨でした。
こうしたコトを考えると、ゲベール銃を担いでいった農兵たちも、雨空を見上げ
ながら「オレたちこんなコトしてるバヤイなのか?田や畑は大丈夫か?」と
モヤモヤしたものを抱えながらの遠征だったことでしょう。
しかし、冷害は慶応3年のこの年になっても続いていました。
6月20日に、杢左衛門さんは次の報告書を代官所に出しています。
「去る18日の夕方七ツ時頃(16時頃)より雷鳴が強く、風雨が激しくなり、
暮れ六ツ時頃(18時頃)になって氷が降り出しました。重さはおよそ
50目(匁)より200目くらい(187.5g~750g)ありました。
もっとも村々一円では、風筋ではなかった様子ですが氷の大小多少は
ありました。田圃の稲を悉く打倒し、畑では大豆・小豆あるいは刈り遅れた
夏蕎麦は全滅。その他粟・稗はもちろん野菜ものに至るまで、殊の外の大荒れ
です。
大小の百姓はほとんど心を痛め、当惑しています。このことは非常時の天災で
すが、取り敢えずこのことをお届け申し上げ奉ります。以上。」
雹による被害届ですね。
硬式野球ボールだって150gはありませんから、そーとーデカい氷の塊が空から
降ってきたことになります。750gって子猫くらいあるでしょう。よくケガ人
が出なかったものですが、農作物が全滅したのは想像つきますわな。
こうした天候の不順により、幕府領ではまたしても大規模な一揆が発生するかも
しれない状況にありました。
興味深いのは、この年の3月に蔵敷村組合の惣代として杢左衛門さんが、代官所
にこのような願書を出していることです。
「当組合村々の農兵銃隊は元々組合も小さく少人数です。自然と病気やその他
不測の事態などで稽古を時々休み、いずれにしても上達はしていません。
そのようなことなので、この冬のことですがお屋敷内の御調練場へ召し出され、
腕前を試しにご覧なされることについて、一生懸命稽古を励むようにと仰せ渡され
ました。
特に最近はそこここの村で物騒なことが起こる時分柄、以上のように熱心に取り
組まないことが多いようでは、万が一にも非常時の時に役に立たないと心を痛めて
おります。
その時以来、農事その他に取り紛れ追々引き延ばして、この頃では手透きにも
なったので、稽古を始めたく相談いたします。
そのようなことなので、近々ご教示方にご出立ご廻村していただきたいことを
承知してもらいたく申し上げます。なにとぞお慈悲を以て、以上申し上げた始末
をお考えいただきご教示役様がご出立されましたら、当組合の農兵の訓練手始め
に教えていただけますようお願い奉ります。以上。
武州多摩郡蔵敷村惣代 蔵敷村 名主杢左衛門
慶応3年3月14日
江川太郎左衛門様御役所 」
てことで、農兵の訓練を再開したいから、先生を派遣してくれって言ってるんで
すね。
一揆やら悪党対策ってことなんでしょうが、ワタクシにはどうもこの辺りの真意は
計りかねます。
冷害による被害の真っ最中なのですから、農村に農兵訓練をしなければならない
というモチベーションやパワーがあったのかなぁと、思ってしまうのです。
ただ、「里正日誌」の解説によれば、この頃関東の幕領では各地で農兵が正式
採用され、その組織化が急速に進んでいたようです。そのような社会背景が
何かしらこの願書に影響しているのかもしれません。
冒頭書きましたように、時代は大きくその角を曲がろうとしています。
東大和市域の村々も、混迷の度合いを増してきたのでしょうか。

伊東甲子太郎センセーは新選組に入隊する以前、結婚して子供まで
いたんですね。
しかし「国事のため」に京に上り、家族は残して放ったらかしにしていま
した。淋しいのは奥さんです。ちょっと帰ってきてもらおうと思い、手紙
を出します。でも、ただ帰ってきて、と書いたのではそれに応じるハズ
もないと知っていた奥さんは、手紙にこう書きます。
「ハハ、キトク」
これには伊東先生もビックリ。急いで帰国いたします。
ところが着いてみれば、お母さんはピンピンしてる。伊東先生、大激怒!
その場で奥さんを離縁してしまいます。
4コマめに出ている三木三郎は、伊東先生の2歳年下の実弟です。
鈴木三樹三郎と名乗っていた時もありますので、そのように書いてある
本もあるます。
戦闘能力はそれほど高くはないのですが、新選組では小隊を任される
幹部待遇でした。たぶん、兄キの引きですね。
後に伊東先生らと新選組を離脱。戊申戦争では薩摩藩に属して会津戦争
にも従軍しています。
維新後は警察畑などを歩み、晩年は故郷の茨城県で過ごし82歳で亡く
なりました。途中で袂を分かったとはいえ、新選組幹部経験者の中では
一番の長命を保ちました(行方不明者を除く)。
「だって早く押さないと、古代くんが死んじゃうッ!」

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きました。
「楽天・田中、ドラ1松井にケンカ上等!?」
・・・あ、間違えた。スポーツ面の記事が入っちゃった。
孝明天皇、崩御。
コレです、コレ。突然の訃報です。
実際に亡くなられたのは、前年の12月25日でしたが、公にもその死は
4日間伏せられ、一般国民に知らされたのは年が明けてからのようです。
「卯(慶応3年)正月5日お役所より回状
一主上(天皇のこと)崩御につき、普請や鳴り物は停止すること。
右のことにつき、松飾りは取り払うこと。
右のとおり仰せ出された間、その意を得るべきこと。以上。
卯正月五日 江川太郎左衛門役所」
この孝明天皇の死が、幕府滅亡へのカウントを早めたと言えるでしょう。
天皇は外国嫌いでしたが、「政治は幕府に執ってもらいたい」という考えを
強く持っていました。
これは幕府にとっては頼もしいことですが、一方皇室を担いで政権を幕府
から奪いたい薩長・公家勢力からすれば極めて不都合な考えです。
その天皇の突然の死去。
ですから、孝明天皇の死は暗殺ではないか、との説があるくらいです。
とにかく、この瞬間、時代は「倒幕」へ大きく傾いていきます。
さて、そんな頃。
前年に「武州世直し一揆」をはじめとして、全国的に一揆やら打ちこわしが
多発したのはお話した通りですが、この慶応年間というのは非常
に天候が不順で農作物被害がメチャ多かった時期なん
ですね。この頃凶作続きだったことは、歴史の授業で教わったかもしれま
せんが、当時の記録としてどのように残されているか、「里正日誌」で確認して
みることにしましょう。そうしましょう。
「武州多摩郡蔵敷村ほか8ヵ村役人惣代、蔵敷村名主の杢左衛門が申し上げ
奉ります。
去る寅年(慶応2年)は、春から夏になっても雨天続きで冷気が強く、農間稼ぎ
で重要な経営手段の養蚕が全滅同様の大不作でした。
その上、8月中旬の大風雨(台風か?)で田畑の作物が悉く吹き荒れ、数か月
耕した甲斐もなく、全滅同様の場所がたくさんあります。
大小の百姓は凌ぐべき手段もありませんが、この時期に恐れ入り奉りまして村
役人が必死に申し諭し、少しばかりの食糧分も売り払ったので御年貢は納め
済ませました。しかし、最近様々な夫役や村役が嵩み、一同疲弊しきっている
所なので日々の凌ぎ方が難しいのです。
もっともこれまでは村役人や有力者より融通や助成をいたしましたが、何分
今回は困窮者が大勢なのでその手段が尽き果てました。そこで、かねてより
非常時の手当として村々に積立を仰せつけられていた貯穀を出してくれます
よう願い奉ります。一同歎いておりますので、議論の余地なくこのことをお願い
歎き奉ります。
なにとぞお慈悲を以て右の願いの通り、村々の貯穀をお貸し渡しくだされ窮民
一同を助けていただきますよう、御救助のご沙汰を偏に願い上げ奉ります。」
杢左衛門さんは、蔵敷村、奈良橋村、高木村、宅部村、後ヶ谷村、廻り田村、
粂川村、野塩村、日比田村、9ヵ村の代表として、窮民救済のため貯穀を
出してくれと代官所に訴えています。日付は慶応3年2月18日です。
前年の慶応2年が雨続きで冷害が深刻であったことが伺えます。
そういえば、武州一揆で「一揆勢と農兵が戦った日」(

も大雨でした。
こうしたコトを考えると、ゲベール銃を担いでいった農兵たちも、雨空を見上げ
ながら「オレたちこんなコトしてるバヤイなのか?田や畑は大丈夫か?」と
モヤモヤしたものを抱えながらの遠征だったことでしょう。
しかし、冷害は慶応3年のこの年になっても続いていました。
6月20日に、杢左衛門さんは次の報告書を代官所に出しています。
「去る18日の夕方七ツ時頃(16時頃)より雷鳴が強く、風雨が激しくなり、
暮れ六ツ時頃(18時頃)になって氷が降り出しました。重さはおよそ
50目(匁)より200目くらい(187.5g~750g)ありました。
もっとも村々一円では、風筋ではなかった様子ですが氷の大小多少は
ありました。田圃の稲を悉く打倒し、畑では大豆・小豆あるいは刈り遅れた
夏蕎麦は全滅。その他粟・稗はもちろん野菜ものに至るまで、殊の外の大荒れ
です。
大小の百姓はほとんど心を痛め、当惑しています。このことは非常時の天災で
すが、取り敢えずこのことをお届け申し上げ奉ります。以上。」
雹による被害届ですね。
硬式野球ボールだって150gはありませんから、そーとーデカい氷の塊が空から
降ってきたことになります。750gって子猫くらいあるでしょう。よくケガ人
が出なかったものですが、農作物が全滅したのは想像つきますわな。
こうした天候の不順により、幕府領ではまたしても大規模な一揆が発生するかも
しれない状況にありました。
興味深いのは、この年の3月に蔵敷村組合の惣代として杢左衛門さんが、代官所
にこのような願書を出していることです。
「当組合村々の農兵銃隊は元々組合も小さく少人数です。自然と病気やその他
不測の事態などで稽古を時々休み、いずれにしても上達はしていません。
そのようなことなので、この冬のことですがお屋敷内の御調練場へ召し出され、
腕前を試しにご覧なされることについて、一生懸命稽古を励むようにと仰せ渡され
ました。
特に最近はそこここの村で物騒なことが起こる時分柄、以上のように熱心に取り
組まないことが多いようでは、万が一にも非常時の時に役に立たないと心を痛めて
おります。
その時以来、農事その他に取り紛れ追々引き延ばして、この頃では手透きにも
なったので、稽古を始めたく相談いたします。
そのようなことなので、近々ご教示方にご出立ご廻村していただきたいことを
承知してもらいたく申し上げます。なにとぞお慈悲を以て、以上申し上げた始末
をお考えいただきご教示役様がご出立されましたら、当組合の農兵の訓練手始め
に教えていただけますようお願い奉ります。以上。
武州多摩郡蔵敷村惣代 蔵敷村 名主杢左衛門
慶応3年3月14日
江川太郎左衛門様御役所 」
てことで、農兵の訓練を再開したいから、先生を派遣してくれって言ってるんで
すね。
一揆やら悪党対策ってことなんでしょうが、ワタクシにはどうもこの辺りの真意は
計りかねます。
冷害による被害の真っ最中なのですから、農村に農兵訓練をしなければならない
というモチベーションやパワーがあったのかなぁと、思ってしまうのです。
ただ、「里正日誌」の解説によれば、この頃関東の幕領では各地で農兵が正式
採用され、その組織化が急速に進んでいたようです。そのような社会背景が
何かしらこの願書に影響しているのかもしれません。
冒頭書きましたように、時代は大きくその角を曲がろうとしています。
東大和市域の村々も、混迷の度合いを増してきたのでしょうか。

伊東甲子太郎センセーは新選組に入隊する以前、結婚して子供まで
いたんですね。
しかし「国事のため」に京に上り、家族は残して放ったらかしにしていま
した。淋しいのは奥さんです。ちょっと帰ってきてもらおうと思い、手紙
を出します。でも、ただ帰ってきて、と書いたのではそれに応じるハズ
もないと知っていた奥さんは、手紙にこう書きます。
「ハハ、キトク」
これには伊東先生もビックリ。急いで帰国いたします。
ところが着いてみれば、お母さんはピンピンしてる。伊東先生、大激怒!
その場で奥さんを離縁してしまいます。
4コマめに出ている三木三郎は、伊東先生の2歳年下の実弟です。
鈴木三樹三郎と名乗っていた時もありますので、そのように書いてある
本もあるます。
戦闘能力はそれほど高くはないのですが、新選組では小隊を任される
幹部待遇でした。たぶん、兄キの引きですね。
後に伊東先生らと新選組を離脱。戊申戦争では薩摩藩に属して会津戦争
にも従軍しています。
維新後は警察畑などを歩み、晩年は故郷の茨城県で過ごし82歳で亡く
なりました。途中で袂を分かったとはいえ、新選組幹部経験者の中では
一番の長命を保ちました(行方不明者を除く)。
「だって早く押さないと、古代くんが死んじゃうッ!」



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