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世直し一揆のその後

「あまちゃん」が終わっちゃったでしょ。
もーワタクシ「あまロス」ですわ。7:30からのBSプレミアムで見てました
からね。朝起きるモチベーションを無くしております。
今週から朝テンちゃん(猫)に顔を舐められても、起きられそうにない・・・。
「ファイナル勉さん?」
「ファイナル勉さんです」

武蔵国一帯に嵐のごとく吹き荒れた「世直し一揆」。
この騒動が治まった後に出てきたのも、一揆ロス症候群なんですね・・・
って、そんなワケはない!

一揆が治まって、みんなホッとしてますよ。
でも、農兵を出した村々では複雑な思いが交差していたことでしょう。
この一揆が江戸まで入らず、その手前で壊滅させられたのは、なんといっても
農兵隊の力に寄るところが大きいのです。
農兵はこのブログでもご紹介しましたが、ほとんどが経済力のある有力農家
の子弟で組織されています。
一方の一揆勢は貧しい百姓たち。
つまり、貧しい百姓の抵抗を、富豪層が鎮圧した・・・という構図になるワケで
すが、どんな村にも貧富はあります。一歩間違えれば、同じ村内で殺し合うと
いうことがあったかもしれないのです。
名主や組頭といった村の指導者たちも、きっとブルーな気持ちだったでしょう。

お上とて同じこと。
取り敢えず反抗を抑えるために「打ち殺せ」命令を出しましたが、これは見せし
め的な要素が強い。だって、抵抗するからって百姓を片っ端から殺していったら、
年貢が取れなくなってしまいます。
ただでさえ、第二次長州征伐が難航し幕府の権威がそーとー傾いている中、
足もとの武州の治安が悪化したら、これは幕府崩壊痛恨の一打になりかねない
のです。
この一揆の再発を防ぐべく、幕府は窮民に対する救済策を立てることに
なります。

「恐れながら書付をもって申し上げます。
近来だんだんと物価が上がり、特に昨寅年(慶応2年)は凶作で貧民は難儀して
いる時なので、今年の夏に麦を収穫するまで窮民が暮らしを続けていけるよう、
村々においてもその方法を立てます。
一村ごとに申し上げよとの仰せを受け、承知いたしました」


一揆の翌年、つまり慶応3年(1867)2月に、幕府からそれぞれの村に当てて
「救済策のアイデアを出せ」との諮問が出されたようです。
各村々では、救済策を立て代官所に回答を出しました。

然るところ当村におきましては、支配お役所へ貯穀の拝借を願い、それを窮民
に貸渡し凌がせます。それでも足りなければ村方の有力者たちより、お金や
穀物を施し遣わし、誰もが麦の収穫までは暮らしが続けていけるようにいたし
ます。きっと弛みのないようにしますので、このことを申上げます。以上。
                    江川太郎左衛門代官所
                       武州多摩郡奈良橋村
  慶応3卯年2月               百姓代 冨右衛門
                            組頭 儀兵衛
                            名主 藤九郎   」


奈良橋村ではこのように代官所に答えたようです。
「里正日誌」には、他の東大和市域の宅部村、高木村、後ヶ谷村からの回答書
も記録されていますが、内容は一緒です。おそらく村役人の間で話し合いが
持たれ、統一の回答を出したのでしょうね。

一揆の起きた慶応2年(1866)は凶作で、全国的に米不足ではありましたが、
米価が高騰する大きな理由はそれだけではなく、米穀の流通過程
大きな問題がありました。
次にご紹介するのは、関東取締出役からのお達しの一部ですが、これを読むと
幕府がそこを指摘しているのがわかります。

「・・・・元来山中のような通常の年でも食べ物が不足する場所はなお更、通常の
場所でも最近は米穀・野菜の類まで値段が高くなっている。
これは、中流以上の百姓は収入が多く貯えもあるので、米穀を急いで売り払わな
くても困らないから市場に持ち出さない。
すると、人口の多い町や宿場では食糧不足になる。これに乗じ、仲買人という者
たちが奔走し、言葉巧みに米穀を買い取る約束を僅かの手附金を渡して取り付け
る。それを穀屋へ買い取らせるときに手数料として利徳を取って世間に売られる
のだから、手数料が直接米穀に上乗せされる。
その上、富んでいる穀屋は仲買人をも手先に使って、他国の米穀まで手広く買い
入れ、買占めするに及び、江戸表はもちろんのこと他国へも売り捌くようになる。
全ての仲買人がこのようなことをしているので、小規模の穀屋たちは、米穀を買い
取る相場が見込みと違う場合には、「穀質」といって米穀を質入れし、相場が進み
次第請け戻すことをしている。
また、最近では米穀を貯めていれば、利益が出ない間金銀を手回しする者もあり、
米穀を扱い練れていない者までも買い入れて貯めている。
これらは、悪巧みであり、米穀の融通を妨げていることが一つ一つある。」
 

こうなってくると、もはや買占めなどというレベルではなく、マネーゲームになって
しまっている状況が浮かんできますね。
「里正日誌」の解説によれば、慶応3年(1867)の米価は10年前の安政4年
(1857)に比べて10倍近くも跳ね上がっていたそうです。
主食ですよ。そりゃ、一般ピーポーは大弱りですよね。

ココにさらに拍車をかけているのが、「酒造」です。
酒って米から作るでしょ。
この当時、酒造業って盛んでしてね。各村によくあったんですね。
こういった農産物の加工品は、お金になりやすかったのでしょう。
食べることに困っている人がいる一方で、大量の米を買って酒を造り、利益を
上げるってどうなのよ?と、幕府は酒造制限も出しています。

「寅(慶応2年)10月27日、小川村百姓弥五左衛門、寅年生まれ54歳、
高7石余りを所持、一家6人暮らし。
濁り酒を隠して造ったことにつき、同日昼九ツ時(12時)お召し捕りになった。
道具取り調べ書き。
一、丈3尺3寸5分(約100cm) 口2尺4寸5分(約74cm) 明樽1本
一、同                同               明樽5本
一、丈2尺2寸4分(約67cm) 口1尺7寸5分(約53cm)  明樽3本
一、1斗樽         明樽18本
一、4斗樽  2本 内1本濁り酒2斗7升 1本同1斗 〆て3斗7升これ有り
一、4斗樽  3本 粕これ有り
一、丈3尺3寸5分 口2尺4寸5分 1本
この分は今年仕込んだものだが、売り捌く目的は明らかである。
右は取り調べの上、田無村の大惣代名主・下田範三方へ、調書、樽類を封印
の上、御預けになる。追って嘆願があったときにはお払い下げになる。」


これは、小川村(小平市)で密造酒がバレてパクられた様子です。
お上も結構本気(とかいてマジ)に取り締まってますよね。
もー、弥五左衛門さん、家族が泣いてるよ~!

幕府にとって、一揆対策を含んだ米穀対策・米穀問題がいかに重要だったかが
わかる資料だと思います。
一揆はさまざまな問題点を浮かび上がらせたんですね。

20130929.jpg

さて、冒頭の話の続き。
次の朝ドラって、主役が杏ちゃんなんですよね。
KEN WATANABE(渡辺謙)の娘。
このドラマも、たぶんワタクシ見るっスよ。
杏ちゃん、新選組ファンらしいし。
永倉新八ファンらしいし。



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[ 2013/09/29 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(6)

新選組史跡を行く 甲州勝沼編

今週はなんか忙しくて。
「里正日誌」読んでないんですよ。モッくん(杢左衛門さんのこと。本木雅弘に
非ず。ましてや元木大介には絶対非ず)ゴメンね。
てことで、今回は番外編です。

8月の終わりに家族提案で山梨県の勝沼にぶどう狩りに行きまして。
まぁー、ワタクシ的にはあまり果物が好きではない、ということもありまして、
ぶどう狩りなどサラッサラッのサラサーティに興味なく、オレ留守番してるよ
的なオーラを発散させていたのですが、
「アレ?勝沼っていったら、新選組の史跡があるトコロだよな・・・」
と、思い出しましたら急に上機嫌。
「勝沼イイねー、ナイス・チョイスだねー、レッツ・ら・ゴー!」
と甥や姪を車に放り込んで、いざ出発となったのです。

東大和から車で勝沼に行くとなりますと、やはり中央高速を使います。
以前は八王子インターから高速に乗ったのですが、外環ができてからは
青梅インターで乗るのが便利です。
青梅から中央高速に合流するまで、ほぼトンネルばかりと、風景は味気ない
ですがアッという間に相模湖近くまで行っちゃいます。

ハイ、勝沼。
紙面の関係で早いです。
家族をぶどう園において、私は一人車をリ・スタート。
目指すは「柏尾古戦場跡」。

慶応4年1月、「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた幕軍は江戸に戻ってきます。
もちろん、その中に新選組も含まれていました。
江戸に戻った新選組は、甲州街道をやってくる新政府軍を食い止めるために
甲府城に入る計画を立てます。
この辺りの事情については、諸説あり、話せば長くなってしまいますのでここ
ではその過程は省略。
とにかく、近藤勇は新隊員や日野農兵隊などの協力も受けて甲府に向かうこと
となります。ちなみにこの時、「新選組」ではなく「甲陽鎮撫隊」と名前を
変えて行きました。
しかし、行軍の途中で「甲府城が新政府軍の手に落ちた」との情報が鎮撫隊に
入ります。
心の準備も不十分なまま、甲府からかなり手前の勝沼柏尾で、近藤さんたち
鎮撫隊は土佐を中心とする新政府軍と戦うことになったのです。

甲州街道を勝沼から東京へ向けて進むと、左側に大善寺という奈良時代に
創建されたという古刹があります。そのすぐ先が「柏尾古戦場跡」です。

DSCF0255a.jpg

柏尾橋を渡ると北に上る坂道がありますが、その交差点に案内板があります。

DSCF0257a.jpg

で、そのそばには「近藤勇像」が。
いつ頃作られたのかはわかりませんが、比較的新しそうですね。

「なんで近藤さんだけなの?土方さんのはないの?」
ないんです。
土方さんはこのとき、援軍を求めに江戸方面に引き返しているので、戦闘には
参加してないんです。

DSCF0264a.jpg

周りには、このような「勝沼戦争」の資料がプレートになって置いてあります。

DSCF0259a.jpg

img011.jpg

近藤先生、解説ありがとうございます。
当時は、現在の近藤像の辺りまで大善寺の敷地があり、勝沼戦争時の弾痕が
刻まれた鳥居が太平洋戦争直後まで残っていたそうです。
慶応4年(1868)3月5日に起こった戦ですが、兵士の数や武器の差、さらには
士気の低下から脱走者も出て鎮撫隊は敗走します。
わずか2時間の戦いであったと云います。

近藤さんは京都で狙撃されて右肩に重傷を負い、鳥羽・伏見の戦いには参加して
いません。この勝沼戦争が自ら指揮を振るった唯一の近代型戦争です。
「池田屋事件」など屋内や町中での斬り合いでは無敵の強さを誇った近藤さん
ですが、近代型戦争では十分に力を発揮できなかったことになります。

この辺りで近藤さんは自らの限界を感じてしまったのかなぁ・・・と想像してしまい
ます。流山での出頭に至る心境の変化は、この辺りから始まっているのかな、と。
敗戦を契機に武士から軍人へと考え方を変え、その後の戦いで自らの戦闘スキル
を高めていった土方さんと、そこが両者の大きな違いだったのではないでしょうか。

DSCF0268a.jpg

柏尾橋の方角から、谷を挟んで山側を望みます。

DSCF0265a.jpg

付近には、この戦で亡くなった兵士の墓もあるようです。
その中の一人、会津藩士・柴田八郎という人のお墓はすぐ近くのようなので、
行ってみることにしました。
上の案内板の中央の写真ですよ。

新選組関連のガイドブック「多摩{新選組}の小道」(けやき出版)には、道を
少し進んだブドウ畑の中にある、と書かれているので、坂道を登ります。
近藤像から100mばかり進んだ、一段高くなっている畑の中を覗くと・・・

DSCF0281a.jpg

ありました!
見え辛いので赤い矢印をつけておきます。
畑のド真ん中です。
もっと近づきたかったのですが、柵があってコレ以上は近づけません。
まぁ、人の土地だし、しょーがない。

DSCF0280a.jpg

アップで。
現在でも丁寧にご供養されているようですね。
「会津藩士・柴田八郎謙吉の墓」

ところで、案内板に紹介されている墓の他の二つは、「官軍・木村伊助武則の墓」
と「幕軍・池田七三郎の墓」と紹介されています。
池田七三郎は新選組の隊士ですが、実際には昭和13年まで存命し、新選組
最後の一人として子母澤寛の取材も受けています。
ということで、この墓は別人のものということになりますが、いったいどちらの方
のお墓なのでしょう・・・?

さて、次のポイントに向かいましょう。
笛吹市方面に車を20分ほど走らせます。
着いた所は笛吹市春日居町にある、地蔵院というお寺。

DSCF0270a.jpg

このお寺には、新選組隊士だった立川主税という人のお墓があります。
ハイ、ここが今日の2番目の目的地。

「立川しゅぜい・・・?誰?知らないよ、そんな人?」
主税と書いてチカラと読みます。
まぁ、この方はドラマなどには出てこない、いわゆるマイナー系隊士ですな。
でも、その経歴といい、残した功績といい、新選組を語る上ではとても重要な
方ですので簡単にご紹介いたしましょう。
マニアックでゴメンね。

主税さんは筑前(福岡県)出身。慶応3年頃に新選組に入隊したと思われます。
局長附きを務めながら、鳥羽・伏見の戦い、勝沼戦争、会津戦争を戦い、箱館
まで従軍します。
彼は土方歳三が戦死したときもその側にいたとされ、箱館降伏後謹慎中に
「立川主税戦争日記」という従軍記を執筆します。
謹慎が解けると、土方さんの故郷日野や石田村の実家を訪れ、その最期の
様子を語ったといいます。
現在、日野市の「土方歳三資料館」には、このとき主税が持参した「戦争日記」
の写しが陳列されています(原本は所在不明)。
貴重だと思った歳三さんの遺族が、総出で書き写したものです。
主税さんが生き残り、こうした従軍記を残したことにより、現在ワタクシたちが
箱館戦争の経過や歳三さんの最期を知ることができるのですね。

さて、その後の主税さんですが、いろいろと思うところがあったのでしょう。
仏門に入る決意を固め、新選組の同僚であった斎藤一諾斎(秀全)という人に
相談します。
この一諾斎さんは、坊さんから還俗して新選組に入隊したという変り種。
「じゃ、オレが以前住職を務めていた寺を紹介してやろう」
ってことで、山梨県都留郡の全福寺に入り出家。
その後、修行を重ねた主税さんは独竜巨海と名前を改め、明治18年(1885)
からこの地蔵院の住職を務めるのです。
巨海(主税)さんは明治36年(1903)に亡くなり、地蔵院の墓所に眠って
います。

DSCF0271a.jpg
DSCF0272a.jpg

「二十三世 獨龍巨海 大和尚 武士 谷村長昌寺修業」の文字が見えます。

DSCF0273a.jpg

地蔵院代々住職の墓域です。
この中のどれが主税さんのお墓でしょう?
ご住職のお墓は通常、卵型の「卵塔」という墓石が使われますが・・・

DSCF0274a.jpg

ハイ。こちらが独竜巨海大和尚こと立川主税さんのお墓です。
卵塔ではないんですね。意外でした。
もっとも、この墓石は主税さんの娘・春子さんが大正13年に建てたものなので、
その前は卵塔だったのかもしれません。

幕末史を勉強している者として、「立川主税戦争日記」などを後世に残された
偉業に感謝し、手を合わせました。

てことで、今回の「新選組史跡を行く 甲州勝沼編」以上です。
なんかマニアックでスミマセン。でしタ。

20130921.jpg

ちゃんと帰りはぶどう園に寄りまして、家族と合流。
漫画の中で永倉さんが「皮ごと食べられるヤツがいい」と言っていますが、
ワタクシもソレ派です。
シャイン・マスカットってのが、いま、農園でイチ押しのぶどうらしいん
ですが、これが皮ごと食べられて「美味いこと山の如し」であります。
買ってきて、家でいただきました。



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[ 2013/09/22 ] 史跡へゴー | TB(0) | CM(7)

一揆、鎮圧せり!

慶応2年(1866)6月に起きた「武州世直し一揆」。同時多発的に各地の
村々で打ちこわしが発生しました。
その暴徒たちを抑えるために活躍したのが、江川農兵でした。

前回は東大和市域の蔵敷村組合農兵が、どのような活躍を見せたのかを追って
みました。つーか、活躍はしなかったんですけどね。行ってみたけど終ってたよ、
みたいなね。
でも、その他の場所ではどうだったのでしょう?
「里正日誌」には、6月16日に3か所で打ちこわしがあり、出動した農兵が
それを鎮圧した状況が書かれています。

「一、16日朝五ツ時(午前8時)頃、田無村組合柳久保村の七次郎の家に
打ちこわしがあり、田無村へ御鉄砲教示役の長澤房五郎様・田那村淳様ご両人
の指揮で柳久保村へ農兵と人足を召し連れてご出張になった。打ち払いの時に
一揆勢の即死者8人、逮捕者13人がでた。すぐに田無村に引き立て、19日に
田無村から人を出し、20日に奉行所へ送って即日品川溜(ため)へ下げ、26日
にお呼び出しとなり、一通りお調べの上で一同溜を出て、手鎖をして公事宿に
預けられた。

一、16日昼八ツ(午後2時)頃、宮沢村(昭島市)酒造業の田村屋金右衛門を
一揆勢が打ちこわし、築地河原へ押し出したところ、かねてより日野宿へ代官
所の御手代増山健次郎様がご出張されていたので、日野宿組合農兵・八王子
組合・駒木野組合3組の農兵を召し連れて多摩川南へ出動し、指揮をお取りに
なり一揆勢を打ち払った。即死者18人、逮捕者41人をすぐに日野宿に引き立て、
21日同宿より奉行所に差立て、そこから23日に伝馬町へ入牢させた。26日、
27日の両日にお取調べの上出牢、手鎖をして公事宿預けを言い渡された。

一、16日夕六ツ時(午後6時)頃、五日市村へ一揆勢が押し込んできた。北裏
の難所に代官所御手代の羽鳥為助様がご出動して、五日市組合の農兵を指揮
してお打ち払いになった。即死者10人余り、逮捕者26人、これらは28日に
お奉行所へ送り、即日入牢となった。」


※溜・・・病気になった囚人を保護したり、未決囚を収容するところ。

最初の一件は前回ご紹介した、大雨の中の一戦ですね。
2番目の築地河原(昭島市)の戦いは日野宿の農兵隊が出動していますが、この
中に新選組土方歳三の義兄・佐藤彦五郎もいて、増山さんと共に
指揮を執ったようなんです。
というのも、彦五郎さんの家は天然理心流の道場で、彦五郎さんは近藤勇の
兄弟子でもあり免許皆伝。この築地河原の戦いでは農兵隊の他に撃剣組20数
人も加わり、彦五郎さんはその撃剣組を率いて戦いました。
まぁ、農兵云々以前に、日野の辺りは土地の防衛・軍事面の関心が、他の多摩
地域(たとえば蔵敷組合等)に比べて格段に高かったということでしょう。

この日野農兵隊の築地河原での活躍は「聞きがき新選組」(新人物往来社)に
詳しく紹介されています。特に「里正日誌」には書かれていない一揆勢の具体的
な様子などが書かれていて、とても興味深いです。

それによると一揆勢は、ムシロの旗や紅白の吹流しを数十本も立て、ほら貝を
吹いて鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、鍬・鋤・鎌・鎗・丸太で武装し気勢を
上げ「なかなかに物凄まじ」かったようです。
その数約2000人いたようですが、農兵が装備していたゲベール銃を空砲の
脅し程度にしか考えてなく、一斉射撃を受けて「堤上堤下混乱狼狽」し、助命を
願う者が多かったとのこと。
もっとも、ケガを負った暴徒に彦五郎が「逃げよ」と忠告しても動かぬ者もいて、
彦五郎はこれを斬ったといいます。

さて、武州一帯を巻き込んだこの「世直し一揆」ですが、そのピークは6月16~
17日にかけてのようで、この日あたりにご紹介したような農兵隊との戦いが
あり、鎮圧されていったようです。
人数では圧倒的多数の一揆勢も、銃を備え訓練を受けた農兵隊の敵ではなか
ったというところでしょうか。

しかし、一揆の勢いも治まった6月22日。杢左衛門さんたち蔵敷村組合の名主
たちは、代官所手代の根本慎蔵に呼ばれ、根本さんの出張先である箱根ヶ崎
(瑞穂町)に呼ばれます。

「根本様より仰せ渡されたことは、以降万が一にも打ちこわしが起きたときでも、
食べ物の炊き出し、道具の貸し出しはもちろんのこと、人足などを差し出すこと
はならず、厳しく断り、二念を持たず打ち殺すべき旨を厳重に仰せ渡された。」


「里正日誌」にはこのように書かれてあり、幕府が相当の厳しい姿勢で一揆の
再発を防ごうとしていたことが見てとれます。
しかしこのようなことは、力だけで押さえつけても根本的な解決策にはならない
ワケで。
これ以降、慶応3年にかけて、領主や豪農らによる大規模な貧農・貧民への
救済対策が行われていくようになるのです。

ところで、「聞きがき新選組」によれば、一揆勢は「横浜を廻わって江戸に
侵入すると叫んでいた」
そうです。もし、そうなれば江戸は大混乱となり、外国
からの干渉を受けた恐れもあります。
これを防ぎ、一揆勢を早期に鎮圧・壊滅させたのが江川農兵だったというところ
に、太郎左衛門英龍さんの先見性があったと言えるかもしれません。

20130914.jpg

上の記事でもご紹介しましたが、武州世直し一揆での彦五郎さん、並びに
日野宿農兵隊の活躍は「聞きがき新選組」に詳しく出ています。
この時の活躍で、彦五郎さんの佐藤家では幕府より、彦五郎さんと息子の
代まで苗字御免を仰せつけられたそうです。相当名誉に感じたことでしょう。
しかし、この時の日野農兵隊や撃剣組は、拝みながら命乞いする者に「助けるよ」
と油断させながらバッサリと斬ったり、物陰に隠れてる者の背後から近付いて
ズドン!と撃ったりしていて、それを後日の宴会で爆笑しながら話してる。
「なんだかなー・・・」と思わないでもありません。
確かにお上からは「見つけ次第打ち殺せ」と、007が与えられているより
お手軽な「殺しのライセンス(対象者限定)」を言い渡されてはいますけど、
この躊躇の無さはナニ!?

彦五郎さんが実際に使った刀は、日野市の「佐藤彦五郎新選組資料館」に
行けば実物を見ることができます。
無銘らしいのですが、武骨で飾り気が一切なく、いかにも戦うための武器と
いう存在感がただよう一品です。


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[ 2013/09/14 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(6)

蔵敷村組合農兵は一揆勢と戦ったのか!?

東大和市域の農兵は、芋窪村が拝島村組合に組み込まれた以外、残る全村が
蔵敷村組合に入っています。その農兵たちは、一揆勢とどのように関わったので
しょうか?

6月16日、粂川村の役人から「大岱(おんた)、柳久保で打ちこわしが発生!」と
連絡を受けた杢左衛門さんは農兵を引き連れて現場に急ぎます。しかし、事態は
沈静化した後だったので、人足たちを村々に返し、残りは警備に着かせました。

ところが今度は、そんな杢左衛門さんの元に日比田村(埼玉県所沢市)から
緊急の知らせが届きます。

「同日(16日)粂川村に出張中、日比田村から早打ちで知らせてきた。
打ちこわしの者どもから、人足を急いで差し出すように言ってきた。断るようなら
村の責任者たちの家を打ちこわすと言っているので、一時も安心できない。
早急に農兵を出動していただき、この危機をお救いくださいとの申し出である。」


一揆勢もトンデモないことを言ってきますね。
日比田村は蔵敷村組合に属していますが、この度の粂川出張には参加して
いません。杢左衛門さんは粂川村警備中であることを理由に、いずれ様子を
見て出動するからと日比田村に伝えますが、日比田村からは再三に渡って
「一亥も早く」との要請が入ります。
そこで杢左衛門さんは、粂川村の名主と年寄を連れて

「同夜九ツ時過ぎ(午前1時頃)に粂川村を出立し、田無村のご宿泊所である
名主の下田半兵衛宅へ17日暁六ツ時(午前6時)頃着いた。代官所の教示
方である長澤様・田那村様ご両人にお目見えの上、日比田村の危機が切迫
していることを申上げ、農兵出動の許可をお願いすると、放ってはおけないと
早速お聞き届けになった。よって、田無村組合の農兵を召し連れて清戸通り
に差し向かわせ、蔵敷村組合の農兵を連れ立って早急に出動するように仰せ
渡された。」


さァ、蔵敷村組合農兵は一揆勢にガツンと言ってやることはできたのでしょうか?
代官所教示方の長澤・田那村の両名が農兵隊を引き連れ、日比田村へ向かいます。

「日比田村へ夕刻に着き、村内を警固している所に南永井村(所沢市)の役人が
来て申し出るには、村で酒造をしている惣左衛門方に、今晩打ちこわしに来ると
一揆勢が話している。心配のあまり、何とぞ農兵を連れて滞在してくれと願い
申しだされ、答えるにお気の毒とは思えども、ご支配様にお伺いをたてご命令が
ないうちは、勝手に他の支配地へ任せ頼るのも取り計らいかねる。このことを
悪しからずご承知くださいと申してきて、届けて引き取っていった。
右のことなので、同夜九ツ時過ぎ(午前1時頃)まで日比田村を警固していたが、
近くでは騒がしい様子もない。日比田村への出動を付け込んで、粂川村がカラに
なったところを暴徒たちに押し込まれるのも心配なので、同夜子ノ下刻頃(午前
1時半頃)、およそ100人ほどが高張の御用提灯を先に立てて日比田村を出立
した。」


・・・てことで、ココも空振りに終わったようですね。
ていうか、一揆勢が襲いに来るっていう話も、なんか怪しく見えてきて・・・。
まぁ、緊急時だったことは確かですから、情報が錯綜していたんでしょう。
農兵隊は途中休憩を取りながら、明け方には粂川村に到着します。
ところが、農兵隊が日比田村に出張中、別件で緊急の知らせが粂川村に届いて
いたのです。
「おいおい、今度は何じゃいな?」
書状を送ってきたのは、砂川村の名主でした。

「暴徒どもが昨日(16日)青梅より大久野(日の出町)へ討ち越し、同村の
暴徒がこれに加わり五日市へ向かった。同村・檜原・川口の猟師が集まり山の
難所で一戦に及び、暴徒は大敗して大久野へ引き返した。そして同村にて
猟師の鉄砲を集め五日市へ再戦のため走りやってくる、と只今注進があった。
当組合が牛浜で防戦し食い止める作戦で、日野・田無の農兵も助勢してくれる
ことになっているが、何分人数不足なので、そちらの組合の農兵も出動し早急に
ご加勢してください。江川様御出役ご両人よりお指図があります。早々以上。」


またまた出動要請ですよ。
モテモテですな~、杢左衛門と蔵敷村組合スーパースターズ。
しかしこの時点でスーパースターズは日比田村へ出張中です。杢左衛門さんは
五日市への出動は今できないが、日比田村が沈静化したら加勢に向かうことを
伝えます。
しかし、その後すぐに砂川村から情勢が変わったとの連絡が入りました。
代官所教示方の岩嶋廉平様が農兵を引き連れ、五日市に向かったというのです。
砂川村とお互いに連絡を取り合っていこう、ということで五日市には向かわなくて
済んだようです。

ということで、我が東大和市域の農兵たちはあちこち出動したようだけど、実戦には
及ばなかったようですね。
この大規模な一揆に対し、各村々が連携を取って農兵を主力に防戦しようとして
いた実態が「里正日誌」を読みわかりました。支配地の問題で融通の利かない部分
もあったようですが、これは現代も同じですなぁ。
情報も入り乱れ、杢左衛門さんたちにとっては身も心も休まる時のない何日間か
だったでしょう。

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前回の「八重の桜」で、藤田五郎こと斎藤一(降谷建志)と新島襄(オダギリジョー)
が酒を酌み交わし、語り合うシーンがありましたね。
フルヤ斎藤が幕末京都をオダジョーに語って聞かせるんだけど、オダジョーは同じ
大河の「新選組!」で斎藤一を演じてるんですよね。とーぜん「新選組!」の方が
京都時代の斎藤を詳しく描いています。
聞いてるオダジョー氏の顔が「うんうん、キミに言われなくても十分わかってるヨ。
ボクも斎藤だからネ」
と言ってるように見えたのはワタクシだけでしょうか?

さて、上のマンガではわかりやすいように「俳句」と言っていますが、俳句という
言葉ができたのは明治以降です。江戸時代までは「俳諧連歌」略して「俳諧」と
言いました。
元々は和歌のスタイルの五・七・五・七・七を長句と短句に分けて、連歌のように
続けていく滑稽さをねらったものでしたが、松尾芭蕉の出現などにより、文芸として
確立されていきました。
長句の五・七・五のみ独立させた部分は、当時は「発句」と言いました。これが
明治以降の「俳句」になります。
だから、トシさんの句集も「豊玉発句集」というんですね。


「波動砲、発射ッ!」
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[ 2013/09/07 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(8)