農兵出動!

ご無沙汰です。
旅行からはとっくに帰っていたんですが、溜まってる仕事や用事やらを片付けて
いるうちに、コチラの更新がすっかり遅れてしまいました。

話がどこまで進んでいたのかわからなくなっている方もいらっしゃるのでは?
つーか、ワタクシ自身がそーだったりして。
じゃ、ワタクシのために、ざーーーっとおさらいをしてみましょう。
そして、YOUのためにも(ジャニーズ社長風)。
サクラ吹雪の~、サライのブログ~。

時は慶応2年(1866)6月、多摩地域の農兵たちは、第2次長州征伐の影響
で大坂遠征を命じられます。
組合では「それは農兵の本来の目的とは違うんでないの?」ってことで、出張
に来た代官所の役人へ、代表者が陳情に行きました。東大和では蔵敷村の
杢左衛門さんが日野まで出かけていきました。
ところが、陳情した翌日に幕府の方から、農兵の大坂遠征中止の命令が出され
ます。
「なんだか知らないけど、ラッキー!」
杢左衛門さんはウキウキ・マイ・ハートで帰宅します。ところがその途中、多摩川
渡しの船頭さんから、大規模な打ちこわしが起こったことを知らされるのです。
武州世直し一揆 の発生です。

打ちこわしが発生した3日後の6月16日子の刻(午前0時)。一揆対策に
夜通し高張提灯を上げて警戒態勢を取っている杢左衛門さんの所へ、江川
代官所より小川村(小平市)継ぎ立てで書付が届きました。

「秩父辺りより騒ぎ立てている、およその人数3000人ほどが所々で乱暴に及び、
江川代官の支配所へ打ちこわしに来る様子もあるとの訴えがあったので、各村々は
農兵を差し出し、暴徒を見かけ次第打ち殺すべし。もっとも
出役の者を向かわせたときはその指図を受けるべきこと。以上。」


おお~、スゴイことが書かれてますね~。
これは江川代官所から出された正式の農兵動員命令です。その中で一揆勢を
打ち殺しても良いと言っているのですから、幕府の本気度がわかります。
一方、農兵側は同じ農民として複雑な感情があったでしょうねぇ・・・。

さらにその2時間後、16日夜丑中刻頃(午前2時)。代官所手代井上連吉から
砂川村継ぎ立てで書状が届きます。

「只今、田無村が打ちこわしにあっているとの注進が入ったので、この状況が
見られ次第、農兵一同を召し連れ、我々の泊まっている旅宿へ出張するように。
   6月15日                   井上連吉
      蔵敷分名主 杢左衛門殿

右の御通達があったのでこのことを申上げます。且つ、江戸のお役所よりも
長澤・田那村のご両人がご出張されたので、小川村へ向かう人数を繰り出して
ください。以上。
   6月15日            砂川村名主 源五右衛門
      蔵敷村名主 杢左衛門様                  」


日付は15日になっていますが、書状が書かれたのが15日の夜中だったので
しょう。緊急で届いた様子がわかります。
田無村(西東京市)で打ちこわしが起きているとの情報が入ったので、蔵敷組合
に出動命令が出されました。文書の後半は継ぎ立てた砂川村名主の添え書き
です。それによると、江戸の代官所からも指揮官を派遣させたようですね。小川村
(小平市)は田無村と東大和市域との間にあります。
ところが、またもやその数時間後、今度は粂川村(東村山市)の役人から緊急連絡
が杢左衛門さんの元に入ります。

「大至急申し上げます。只今粂川より大岱(東村山市)・柳久保(東久留米市)で
打ちこわしがあったので、田無村組合の農兵その他大勢が召し捕えに行きました。
大急ぎで農兵を残らず粂川に向け、村々の人足は槍や鉄砲を持参してお出向き
下されますよう、お願い申し上げます。以上。
   6月16日早朝              粂川村役人       」


東大和市域から見れば田無よりも近い東村山や東久留米市域での打ちこわしです。
こちらからも農兵出動の要請が来てしまいました。
さぁ、どうする!杢左衛門さん!?

「16日早朝、右の通り粂川村より申してきたので、御支配所の井上連吉様が出役
先の砂川村へ粂川村からの注進を申上げた。
かねてから呼び寄せておいた農兵1人につき、玉込め15、玉薬15、カン40づつ
渡し、外カン合薬等を用意した。
16日朝四ツ前(午前10時)に出発し、村々の人足一同粂川村名主・伊兵衛の家に
向かった。出動したのは蔵敷・宅部・奈良橋・高木・後ヶ谷・清水・廻り田・野口・粂川
の9ヵ村の凡そ300人ほどである。
もっとも、昼食を伊兵衛宅で取っていると騒動は沈静化した様子なので、八ツ時(午後
2時)過ぎに人足は村々へ引き取られた。」


東大和市域の農兵たちは、田無村よりも粂川村を優先させて現場に直行したよう
です。ところが、着いてみると騒動は治まっていたようで、杢左衛門さんたちは実戦に
及ぶことなく帰村したようです。
では、田無村の様子はどうだったのでしょう?

「この日の朝五ツ時(午前8時)頃大雨の中、江川代官所の鉄砲教示方長澤房五郎様
と田那村淳さまの両人が、前日15日夕刻に田無村にお出ましになった。
一揆勢を打ち殺してもよい、との注進があり朝五ツ時前に、田無村組合農兵のほか
村々の人足を召し連れて、柳久保村七次郎宅の打ちこわし現場へお討入りなされた。
即死8人、怪我人多数、逮捕者13人がいた。その他の者はどこかへ逃げ去ったので
事態は沈静化した。一揆勢を打ち払っているときは大雨の中で、正五ツ時頃のこと
である。」


江戸役所から指揮官が出張してきた田無村では、一揆勢との戦闘が行われたよう
です。しかも大雨の中での捕り物だったようですから、きっとすさまじい状況だったの
でしょうね。

多摩地域の農兵軍と世直し一揆勢との対決は、この他にもいくつかの場所で行われ
ました。「里正日誌」によれば、それらの戦闘は全て6月16日に起きていることから、
一揆勢のピークもこの日あたりであったことが想像できます。
果たして蔵敷村組合農兵軍は、他の場所で実戦に及んだのでしょうか?
長くなってきちゃいましたので、この続きはまた次回。

この次は、もちょっと早く更新するのよさッ!

20130830.jpg

良い子のみんなもご存知のとーり、トシさんの実家は日野の豪農です。
石田村名主の地位こそ親戚に譲りはしていますが、従兄であり義兄の
佐藤彦五郎は日野宿の名主です。つまり、身分は百姓であったけれども、
土方家は幕藩体制を支える中間支配層の位置にあったといえるでしょう。
一方の山南さん。彼についてはわからないことがとても多く、特に試衛館
に入るまでのことはほとんど不明といっていいほどです。仙台脱藩と云わ
れていますが、仙台伊達家中に山南・サンナン・ヤマナミという苗字の
家臣は見つかっていないそうです。手附や手代のような陪臣だったとの
説もありますが、その可能性が高いと思われます。
新選組が屯所を置いていた八木家の為三郎さんの証言では、京都に来た
ばかりの山南さんは羽織の袂も擦り切れ、そこから手を出したり引っ込め
たりしながら笑っていたといいます。
なんか、貧しい生活にはもう慣れてるし・・・みたいな山南さんのイメージが
浮かぶんですよね。出自が武士であれ、百姓、町人であれ、あまりお金の
ある生活を送ってきたようには思えません。
一揆に対する考え方も上の漫画のようではなかったか?と勝手に想像する
次第です。

さて、そのトシさんと山南さんの仲。巷間云われているほど悪くはなかった
のではないかって、前々回言いました。
その根拠となるのが、トシさんが京都に旅立つ前に故郷に残していった
「豊玉発句集」という句集です。トシさんは諱(いみな)を義豊といいます。
豊はそこから取り、玉は多摩川から取ったのだと云われます。
この中の一句。
「水乃(の)北 山の南や 春の月」
これが、山南さんを詠んだものではないか、と云われています。
トシさんは春の季語が好きなようで、特に「春の月」は全41句中で4句に使用
しています。「水の北」の句もその一つで、トシさんオキニの句であったこと
がわかります。
おそらく、山南さんが師範代として日野に出稽古に来た帰り道、トシさんが
途中まで送っていった時のものか。あるいは二人連れだって小野路あたりへ
出稽古に行った帰り道を詠んだものか・・・。
いずれにしても、トシさんが山南さんを慕っていなければ作らない一句でしょう。
ちなみに、「豊玉発句集」の他の句に、近藤さんや沖田さんをはじめ他の試衛館
メンバーを詠んだ句はありません。


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郷土博物館へ行こう!

実は今ワタクシ、旅行に出ておりまして。
前回と今回の記事&マンガは、事前の予約投稿でお送りしておりマス。
ご訪問くださった方。帰宅しましたら、そちらのブログに遊びに行かせていただき
ますので、それまでは行けずにスミマセン。

さて、今回は「夏休み特別企画」。
まぁー、恒例の「番外編」ね。

このブログの舞台であり、ワタクシの住んでおります東大和市に「東大和市立
郷土博物館」
ていうのがあるんですが、そこで今、特別企画展を開いているとの
情報が飛び込んでまいりました!

138a.jpg

おおぉーーーーッ
東大和の歴史展「激動の幕末・明治期を探る」
まさに、このブログのテーマにピッタリじゃなくちゃって!?
というワケで、今回はこちら企画展のレポートでありんす。
では早速、みんなで見る見るミルフィーユ!

郷土博物館は、東大和市の北部、旧青梅街道の近くにあります。
駅から離れているのがネックですが、西武線東大和市駅からイオンモール行き
のバスに乗って「八幡神社」で下車。
あるいは、多摩モノレール上北台駅からコミュニティーバスで、やはり「八幡神社」
下車。上北台駅から歩いたら20分くらいかな?
駐車場はありますですよ。

089a.jpg

中央にあるドームは、緊急時には二つに割れて中から巨大ロボットが出動します。
・・・・・・・ウソです。
プラネタリウムです。

中へ入りますと、正面の奥が企画展示室になっています。
館長さんがいらしたので、ご挨拶。昭和の名バイプレイヤー睦五郎バリのイイ男。
なんと、当ヘッポコブログをご覧になっておられるそうで、まことに恐縮いたしました。
「マンガもついてるやつですよね」
ひゃ~~~ッ!!お恥ずかしい限りデスッ!

ちょうど人のいない時間だったので、館長さんが案内してくれました。
優しく、ナイス・ガイな館長さんです。

展示品は、東大和市の旧家や博物館に保存されている、幕末から明治にかけての
品々ですが、特に農兵に関するものが多いのが今回の展示の特徴です。
写真ではご紹介できませんので、今回はワタクシが展示品のいくつかを絵に描いて
みましたので、そちらをご覧ください。
稚拙な絵で、ワリーネ、ワリーネ、ワリーネ・デートリッヒ。

img010a.jpg

まずこちら、韮山笠です。
農兵といったらコレ、というくらい農兵には欠かせない笠ですね。
農兵の提唱者江川太郎左衛門さんが考案したことから、江川さんの地元の
名をとってそう呼ばれます。
二つに折畳めるのが特徴なんですが、それもそのはず。この笠はコヨリを
編んでできているのです。表面には雨をはじき、強度を高めるように漆を塗って
いますが、コヨリでしょ。ヤワいんじゃないの、と思ってたんです
今回館長さんのご好意で手に取らせていただいたんですが(よい子はマネしちゃ
ダメだお)、意外に堅くてしっかりしているのに感心しました。
絵ではわかり辛くなっちゃいましたが、「違い鷹の羽」の紋が描かれていました。
持ち主の家の紋でしょうか。


img010b.jpg

こちらは農兵服ですね。
黒一色で学生服のようなデザインです。金ボタンがひとつ残っていました。
ボタンになにか模様が入ってましたが、何かはわかりませんでした。
館長さんが仰るには、展示用に男性サイズのマネキンに着せたようなんですが、
絵でもお分かりのようにキツキツです。袖も短いし、服の前は留まらないでしょう。
チョッキも展示されていますが、こちらも「子供用か?」と思うほど小さいです。
当時の日本人の身体の大きさが分かります。

img010c.jpg

蔵敷組合幟です。
畳一畳くらいの大きさの白布(木綿?)に、墨で堂々と組合の名前が書かれて
います。農兵の訓練をするときに、この幟を立てていたのだそうです。
他の組合でも同じような幟を作っていたのでしょうね。

これらの品々は「東大和市史」や「里正日誌の世界」というような東大和市が
発行している本に写真では紹介されているのですが、実物を見るのは初めて
でした。

農兵に関する展示品は他に、ミニエー銃、銃弾、陣笠、ゲートル、脇差、ピストル、
ベルト類・・・など。
面白いのはベルトのポケットに入っていたという小冊子。農兵訓練の様々な
決まりや訓練の手順が書いてある、農兵手帳というべきものです。で、これは
博物館に展示が決まった後にベルトを調べたら発見されたという、新発見の
史料です。

農兵以外の展示品も興味をひかれるブツがいっぱい。
チラシにも載っている鎧ですが、これは市内で八王子千人同心を勤めていた家に
伝わるもの。
それから天然理心流の切り紙、目録、免許。東大和地域にも天然理心流剣術
が広まっていたことがわかります。もっとも、この地域は試衛館ではなく、戸吹
村(八王子)増田蔵六系の流派だったようです。蔵六の弟弟子・松崎正作の名が
免許にありました。
こちらについては、また後日詳しく調べてみるつもりです。

あと、振武軍に関する史料もありました。
「振武軍ってナニ?中国の野球チーム?」
違います。
振武軍(しんぶぐん)は、彰義隊などと同じく薩長新政府に対抗して旧幕臣たち
が組織した一部隊です。
幕末はこーゆー○○軍とか○○隊とかたくさん出てきて、混乱しますね。
その振武軍が田無(西東京市)に駐屯したんですが、そのとき近在の村々に
軍資金の献金を要請したんです。
史料というのは、その献金の受取書。
興味深いのは、振武軍の要求額に対して村々ではその半分とか、3分の2とか
の金額しか払ってないんですね。
このあたり、時代の流れを見て冷静な判断をしている村の様子が窺えて、おも
しろいです。これもそのうち本編で取り上げたいと思います。

これらのように、旧家に保存されている史料を見る機会は、ありそうでなかなか
ないものです。
しかも、今回の企画展は入場無料なんですから、嬉しいじゃありませんか!
展示期間は9月29日まで。
東大和市方面にお越しのときは、ちょっと足を伸ばして寄ってみたらいかがで
しょう?

市内に住んでる小学生のお子たち!
夏休みの自由研究にどうだね?ミニエー銃とかスケッチしてみては?

20130804.jpg

新選組幹部を対象に人気投票をしたら、真っ先に最下位を独走しそう
なのが武田観柳斎さんですねぇ。
なんでかって言ったら、まず名前がヘンだし。
上司に取入るのがうまい、おべっか使いだったから。
それからやっぱり、薩摩藩に寝返ったから。最期は粛清されちゃった
から。
軍師というポジションでありながら、すでに時代遅れの兵法を使って
いたってのもポイント低いなぁ。

軍学者ってことで総髪に描いてますけれど、ホントはどんな格好だった
んでしょうね。
「メガネかけてたんでしょ?」
それは大河ドラマ「新選組!」で演じてたのが八嶋智人だったからね。
あの人は、どんな役でもメガネかけるんですよ。
まぁ、あのイメージは強いですけどね。


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武州世直し一揆

慶応2年6月13日、武蔵国秩父郡上名栗村の百姓たちが、同国高麗郡
飯能村の穀屋・酒屋などを打ちこわすという事件が起こりました。
打ちこわしはさらに拡大。わずか7日間のうちに武蔵国秩父・高麗・入間・
新座・比企・多摩・足立・大里・埼玉・男衾・榛沢・児玉・那賀・賀美・豊島
の15郡、上野国緑野・甘楽の2郡を席巻するという、大事件に発展します。
これが世に云う武州世直し一揆 です。

「東大和市史」によれば、東は中山道筋、南は多摩川流域、北は上・武国
堺沿いに及ぶ関東西北部一帯に展開し、打ちこわされた家屋は200ヵ村で
520軒、一揆勢として参加した民衆は十数万人で、各村から村単位の人足
動員という方法で組織され、雪だるま式に激増。一揆の指導者は各地に存在
し、打ちこわし対象者を選んで、計画的に指揮したということです。

蔵敷村名主・杢左衛門さんは、農兵大坂出兵騒ぎが落着し、ホッと一息ついた
日野宿からの帰り道に、この事件の一報を聞きました。

「6月15日、日野宿からの帰り道に築地の渡船場で、打ちこわしが起こったの
で昨夜渡船場へ警備を固めるように支配所より仰せつけられた、と船頭から聞
いた。
砂川村名主の源五右衛門の家へ様子を聞きに立ち寄ったところ、支配所の
手代・井上連吉様が八王子宿組合の農兵をお連れ出しになりお控えされている
と聞いた。昨日の14日夜九ツ時(12時)に八王子を出立し拝島村の渡船場の
警備を固めて、今朝未明に砂川村に罷り越してきたという。
井上様から、早々に帰宅し組合の農兵を呼び寄せ手配し、命令があり次第出動
するように仰せつけられ、昼九ツ時(正午)帰宅した。
すると、村役人一同心配して帰宅を待ちかねていたが、早々に組合村へ農兵を呼
び寄せ、鉄砲玉鋳立てや玉薬詰めなどを蔵敷村の農兵の啓蔵・佐吉郎その他を
呼び寄せて支度させた。」


なかなかにリアルな描写で、緊迫感が伝わります。
13日に農兵の上坂が決まり、それが15日にあっさりと中止となった理由はココに
ありました。
幕府のお膝元武蔵国での大一揆です。これは農兵を大坂に派遣なんてしてられ
ません。
また、杢左衛門さんたち村のリーダーも、一揆が来たら撃退しなければなりません。

「およそ夕五ツ時頃(午後8時)、一揆勢は大勢となった。今日の午後にまたまた
所沢に乱暴を働くに及び、なお多摩郡の辺りへ押し入るとのうわさも聞く。
ついては先刻申し渡した通り農兵を集めておき、命令があり次第、村役人が付き
添って出動できるようにすること。
右はまだ準備できていない一件につき、強く手配するべきこと。以上。
                    江川太郎左衛門手代 井上連吉」


情報が飛び、代官所からはいつでも出動できるようにとの指令があります。

「追って一揆勢の行く先々の様子がわかったならば、早々に申し伝えられるべき
ことである。
右は砂川村の御用先からのご命令であり、早々に組合村へ触れ出して出動の
用意をいたし、御用の高張り提灯を終夜照らしおいた。」


一揆勢が打ちこわす対象者には2つのパターンがありました。
一つは一揆勢にとって完全な敵対者であり、彼らは徹底的な打ちこわしの被害に
あいました。どんな人たちかというと、悪質な高利貸しや横浜貿易で莫大な利益
を上げている商人などです。特に貿易商人は物価高騰の元凶と目されていたので
、激しい攻撃目標となったようです。
もう一つは豪農たち。しかし、彼らが一揆勢の要求を容れて穀物などを放出した
場合はノー・プロブレム。一揆勢も打ちこわしはせずに済ませたようです。

で、一揆というのもルールがあるようでして、「我々は生活が苦しいからこういう
コトをやるのです。生活維持のための行動なのですよ」という主張に基づいた
打ちこわしをするんですな。
具体的には、ボッコボコに破壊はするけれど、決して略奪行為はしない。
人を殺したり、傷つけたりはしない。
武器は農具や生産用具だけで、刀などは使用しない。
・・・てなこと。

当時の物価上昇は天井知らずとなっていて、特に米の値段は銭100文で1升
買えたものが1合5勺しか買えない、という状況にまでなっていたようです。
「世直し」とは物価を引き下げることであり、打ちこわしは豪農たちにその蓄財を
放出させて、貧民を救済させる手段だったんですね。

なお、この「武州世直し一揆」は、その舞台となった場所では「ぶちこわし」とか
「ぼっこし」などと呼ばれてきたようです。

さぁ、この世直し一揆。どのような展開を見せたのでしょうか!?

20130803.jpg

よく云われるのが、「土方と山南は仲が悪かったのか?」ってこと。
だんだんと土方流が強くなっていく新選組に居場所がなくなり、山南さんは
脱走した・・・と、だいたいそんなストーリーが語られます。
でも、本当にそうだったのでしょうか?
山南さんは小野派一刀流を修めてはいましたが、近藤さんに影響を受け
試衛館に身を寄せます。ここまでなら永倉・原田・藤堂と同じですが、彼は
師範代として多摩の村々に剣術を教えに行ってるんですね。
そこは佐藤彦五郎や小島鹿之助ら、近藤さんの「兄弟子」が道場を構える地域。
そこへ剣術を教えに行くのですから、すでに周囲から天然理心流の遣い手と、
認められていた証拠だと思うのです。
おそらくトシさんが稽古をつけてもらったこともあったでしょう。
そこには総司クンや源さんへのと同じ、同志の繋がりがあったハズです。


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Let`s農兵 大坂出兵スか!?

久しぶりに(更新もね)農兵の話に戻ります。
慶応2年(1866)、第二次長州征伐・・・幕軍と長州の戦争が始まりますが、
この年の1月に薩長同盟が取り交わされています。すでに幕府にとっては
完全にアウェーの状態となっておりましたとさ。

そんな最中の6月13日、多摩地域の村々に江川代官所から書付が出され
ます。朱色で「大急」と大書きされたところから見て、ただ事では
ありません。

「申し話す御用のことがあるので、明日14日に日野宿へ罷り出て、出張中の
増山健次郎(代官所役人)のところへ出向くこと。以上。」


書付は代官所出入りの公事宿・植木屋藤兵衛から、田無、蔵敷、青梅、五日
市の4ヵ村に飛脚を使って廻されました。蔵敷村名主杢左衛門さんのところに
届いたのは14日の午前中のようです。
「やべッ、今日中じゃん!」
大急ぎの杢左衛門さん、午後2時頃日野へ向かいます。

さて、日野宿で杢左衛門さんたちと増山さんの間に、どのようなやりとりが
あったのでしょう?
「大急」とは何ごと?
「里正日誌」を追ってみることとします。

「増山健次郎様のご出張先へ罷り出でたところ、増山様が仰るのには、この
度大坂詰めの御老中・小笠原壱岐守様より、かねてより取り立てて置いた
農兵を早々に上坂させること を伊豆の韮山代官所
へ今月10日着の早飛脚を使って仰せになってきた。
右のご趣意を守ってお請けするように、とのお話であった。
しかし、最初農兵をお取立になるときのご趣意とは異なる出動要請なので、
村々へ相談しなければお請けすることはできないと申し上げ、その日は深夜に
なったので、いずれ明朝申し上げることを言い、その日は日野下宿の玉屋恵蔵
に引き取り休んだ。」


つまり、お上から「農兵を長州征伐に使いたい」
言われたんですね。
しかし、農兵とは元々、外国の侵略から日本沿岸を守ることと、地域の治安維持
のために設置されたものです。
「そりゃ、話が違いますでござんショ、旦那。」
杢左衛門さんは即答を避けました。
そう都合よく使われちゃかなわねぇ、という思いもあったのでしょう。

「翌15日の朝、御用宿の日野屋久蔵方へ罷り出で、増山様へお目通りしていた
ところ、代官所より早急の書状が届いた。増山様がご覧になり仰るには、昨夜
話した農兵を上坂させる案は見送りとなったので、そう心得るようにと聞いた。
安心して早々にお暇を申上げて帰村した。」


急遽、翌日になって書状が届き、農兵の長州征伐参加は取りやめとなったよう
です。
いやぁ~、よかったぁ。
ホッとした杢左衛門さんの顔が目に浮かびます。
ちなみに、この日杢左衛門さんが泊った宿屋「玉屋」は、たぶん私が前に
「土方歳三切手」を買いにいった日野宿交流館にあった宿屋でしょう。

この6月14日の杢左衛門さんの言動は、これまでのお上に対する蔵敷村の
対応とは明らかに違います。
幕府からの農兵従軍命令を、杢左衛門さんはかなり強く拒否しています。
ここに、東大和市域の村々が農兵政策にそもそも消極的だった姿勢が見て
とれますし、信頼関係を築いてきた江川家の命令に従わない状況が出てきた
ことに注目です。

清廉潔白だった英龍さんの頃と違い、この当時の江川代官所は資料でもご紹介
したように賄賂もオールOKな状況に変わりました。これは、支配地の村々にとって
都合のいいことではありますが、同時に絶対的信頼を寄せる存在ではなくなった
ことにもなるでしょう。
さらに、その上の幕府の行き詰まりは、おそらく名主・組頭クラスの村人なら感じて
いたハズです。
東大和市域の村々では、ジワジワと幕府に従わない空気が生まれてきていたの
かもしれません。

ただ、そのことと、実際に農兵の大坂出兵が中止になったことは別問題。
東大和の村民にとっては朗報ですが、なぜ急に幕府は農兵の上坂を取りやめたの
でしょうか。
え?西東京からは日大三高が行くことになったから、だって?
そりゃ高校野球の話でしョ。夏の甲子園でしョ。

実はこのとき、武蔵国に大事件が勃発していたのです!
つーワケで、また次回・・・・!

20130801.jpg

伊東甲子太郎センセーは新選組に入隊したものの、政治に対する考え方の
方向性は近藤さんや土方さんらとは大きく違うものでした。
伊東一派の剣の流派は北辰一刀流ですが、この流派は討幕寄りの考えを
持っている人が結果として多いんですね。
伊東センセーはちょっと自信過剰なトコロがあって、新選組をそっくり乗っ取って
討幕の先兵に仕立てるという考えがあったといいます。しかし、それが無理と
わかり、分離を考えるようになるんですね。



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