今年の流行語大賞は、もう「じぇじぇッ」か「アベノミクス」の2つの内のどちらか
に絞られたカンがありますな。
「じぇじぇッ」て使いやすいもんね。
農兵で
獅子てんや
瀬戸わんや状態の江川代官領で、慶応元年(正しくはまだ
元治2年)3月、まさに村民を
「じぇじぇじぇじぇッ」と仰天させる一大事が勃発しました。
幕府が武蔵・相模・下総にある直轄領の支配替えを発表したのです。
江川太郎左衛門、木村董平(とうへい)、佐々井半十郎、今川要作、福田所
左衛門の5人の代官の中での支配替えです。
東大和市域を含む多摩郡の
田無村、神山村、小川村、小川新田、廻り田村、
廻り田新田、高木村、奈良橋村、蔵敷村、後ヶ谷村、野口村、野塩村、日比田村、
大沼田新田、下里村、上清戸村、柳窪村、前沢新田、宅部村、落合新田、南沢
新田、清戸下宿、南秋津村、粂川村、清水新田、中清戸村の26ヵ村、9844石
4斗1升余りの江川代官領が、馬喰町御裏役所の木村董平さんの支配地となる
ことになりました。
さぁ、大変ですッ!
「 恐れながら書付をもってご愁訴申し上げます。
江川太郎左衛門お代官所の武州多摩郡にある左の村々役人一同が申し上げます。
私どもの村々は昔から幕府領で、16年前の戌年(嘉永3年・1850)より今年まで
同ご支配を受け、第一に取締りを始め、衣食住その他質素倹約を厳重にご趣意を言
いつけられ、厚いご加護のもと村々の空気も相和し、訴訟事もなくなりました。右の
ことに準じて村入用は大変減少し、だんだんと村の状態も立ち直り、老若男女に至る
まで有り難く存じております。
そうしたところ、昨年の冬にご支配所の村々に農兵お取立のご沙汰
があり、なお一層有難いことだと承り、私ども組合21ヵ村では780両余
りを献金し、高島流小銃その他付属品をそれぞれ渡されました。ことに田無村
は最寄りの親村で何事にも便利なので、砲術習練場を同村に整備して、小川新田へ
も同様の習練上を整備し、昨年の冬以来農兵で手が空いている者は右の場所に集ま
って稽古いたしました。
すでに今年の2月中旬よりご支配所からご出役の教示方がお越しになって、稽古に励
んでおりました。然るに、この度私ども組合のうち田無村ほか30ヵ村が支配替えに
なると承り、実に村々においてとても驚嘆当惑しております。これによって取り敢えず
出府しお伺い申し上げるところ、去る16日に支配替えになることは間違いないと仰せ
渡され、一同恐縮しております。
右は前段申し上げました通り、農兵お取立については厚くご配慮していただき、なお
村々においては費用がかからないように申し合わせたこともあります。いずれにしても
よくご趣意を貫くよう心底より村や身分が不釣合いでも農兵に進んで上納する者も多く
あります。それなのにご支配所の村々が引き別れては何事にも差支えます。農兵の
仕立て方に限らず、自然とご趣意が弛むだけではなく、せっかく丹精込
めたものが空しくなるのが目に明らかです。
ことさら村々において農兵を学ばせた者は、いずれも血気盛んな若者たちがあてはま
り、一生懸命稽古に励み、1小隊または2組と人数を定めて取り決めてあるのに、引き
別れては成就しないと一同悲嘆しております。
これまで丹精込めた農兵が休むようになっては実に嘆かわしく、よって村々大小の
百姓はもちろん村役人において、どのようにも右の趣を申し立て、これまでの通り同
ご支配所に据え置いて厚くご趣意を貫きますよう、心より恐れ多いことも顧みず一同
挙げてご愁訴申し上げます。
何とぞ格別のお慈悲をもって、前段の始末を幾重にもお聞きくだされ、私どもの村々を
これまで通り江川代官所のご支配に置いて
おかれますよう、憐れみのご沙汰を偏にお願い申し上げます。以上。」ちょっと長い引用になっちゃいました。ゴメンちゃい。
でもどーです、江川代官所にとどまりたいという村人の必死の思い。
この書状に各村々の名主・組頭・百姓代という村方三役の署名と印を押して、代官を
統括する勘定奉行兼関東郡代の松平対馬守さまと勘定吟味役岡田安房守さま両名の
ところへ、なんと
駕籠訴に及んだんです。
ここまでするとなると、かなりの本気度ですよね。
よく云われるように江川代官領は善政が行われていましたから、なるほどその継続を
願っているようです。
しかし、太字で書かれている辺りに注目してみると違った見方もできるようです。
つまり、農兵にこれだけ多額の設備投資をしたのに、江川支配からハズされたらその
投資がすべてパーになってしまいます。それを恐れての猛反対だと読めるのです。
なんたって、江川支配地にいるからこその農兵ですからねぇ。
さて、この駕籠訴。
いったいどのような展開を見せるのでしょうか?
てことで、また次回・・・!

試衛館道場以来の大幹部、最後の一人です。
忘れてたワケじゃありませんよ。八番隊組長・藤堂平助さんです。
天保15年(弘化元年 1844)生まれといいますから、斎藤一さんと同い年ですね。
漫画にもあるように彼の一番のウリ、つーか特筆事項は、伊勢津藩藩主・藤堂
和泉守高猷(たかゆき)の落胤だという噂があったというコトです。
で、コレが事実ならお家騒動にも巻き込まれかねない大事ですが、津藩から調査の
入った様子もないし、ホントのことなのかは「?」です。でも、永倉新八の名簿「同志
連盟記」にも「藤堂和泉守落胤」と書かれているので、仲間内では知られた話だった
んでしょうね。
江戸では元々北辰一刀流を学んでいた縁で、伊東甲子太郎センセーを新選組に
スカウトします。これが平助さんの運命を変えていってしまうんですね。
剣だけではなく学もあったそうですが、敵に向かって行くときは真っ先に切り込んで
行ったため「魁先生」と呼ばれていました。
出塁したら走ってかき回す、一番バッターみたいな存在だったんでしょうね。
気が付いたら、このブログも書きはじめて1年が経っていました。
重箱のスミをつつくような話にお付き合いいただき、ありがとうございます。
漫画は面白いですか?
新選組が好きな人も嫌いな人も、「つーか、幕末なんてマジ興味ねーし」って人も
「でも、ちょっとは笑えンじゃん」と言ってくれたらうれしいです。
これからも、「よろしくーーネッ!」(by ゆーとぴあ)
「波動砲、発射ッ!」

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