いよいよ夏休みですが、海外に行かれる方も多いのではないかと思います。 海外旅行でイマイチ面倒なのが、お金の計算ですよね。 円からその国の通貨に替えなければならないでしょ。滞在先が1ヶ国なら それほどでもないですが、2~3ヶ国を回るなら、イチイチ両替しなきゃならな くって面倒ですよねぇ。 ヨーロッパならだいたいユーロになったんで便利なようですけど、ワタクシは 以前、ベトナム・カンボジア・タイ辺りを回ったコトがありまして、めっちゃ面倒 くさかったです。 まぁ、米ドル持ってればオールマイティーに使えるんですけどね。 江戸時代のお金は、金貨・銀貨・銭貨と3種類ありまして、それぞれが独立 した形態をもっていました。このあたりの事情は歴史の授業でも習ったかと 思います。 つまり、日本国内の中で3種の通貨が使われてたってことですね。 今風で喩えるなら給料は円で貰って、昼食の吉牛はドルで払い、夜の合コン はユーロでね、というカンジでしょうか? なので、江戸時代の人たちはお金に関する計算が、現代人より格段に優れて いたように思います。 「里正日誌」でもご紹介しましたが、御褒美にいただいた「銀貨」をその時の レートで村人に「銭貨」で分け与えるなど、とても複雑な業務を平然とこなして います。 江戸時代人を現代に連れてきたら、みな優秀な銀行員になれますよね。 さて、今回はその複雑な江戸時代のお金が、この幕末期さらに複雑になって いった、というお話です。 慶応元年(1865)閏5月25日、支配所より次の回状が廻ってきました。 「近来諸国とも銭が底を尽き差支えがある。このことは銅の値段が高値になり、 銅銭への釣合いがとれなくなったからだと聞く。 真鍮銭、文久銭、銅小銭とも、それぞれそのままの相場に任せ、1枚につき 相応の歩合を増して通用させること。百文銭、鉄銭はこれまで通りなので、 何れも差支えなく通用致すべきこと。このことは世の中を滞りなく通すという 考えがあってのことなので、その旨を心得ること。 万が一にも両替商が利徳のために不正の取り計らいをしたならば、罰せられる べきことである。 但し、銅小銭の内、耳白銭は引き替えさせるので、両替商たちの方へ差し出す べし。代りの銭は相当の相場を以て渡されるので、貯め込まずに差し出すよう 申し付ける。」寛永通宝っていう、銭形 警部平次親分が投げる、あの小銭。 あれは江戸時代を通じて作られた銭貨なんですけど、実は年代によってマイナー チェンジされてるんです。 一般に寛永通宝って銅でできてるんだろうなぁ、と思いがちですが、銅の供給 不足などの理由で元文4年(1738)頃から 鉄一文銭という鉄銭を使うようになり ました。 でも、これがあまりに評判悪いんで明和5年(1768)に、銅と亜鉛の合金ででき た 真鍮銭を作ります。この硬貨は裏に波の模様が描かれてるので、波銭なんて 言われてます。 ところが幕末期になるとまたもや銅の値が上がったんで、銅の量を少なくした銭貨を 作ります。これが 文久銭です。 つまり、同じ寛永通宝でも(文久銭は文久永宝ですが)作られた時代によって材質 が変わるため全く価値が異なっちゃってるんですね。 平成元年に作られた10円玉と平成25年に作られた10円玉とでは、価値が違うと いうようなもんです。 さぁ、ご紹介した回状は、そういった銭貨事情が銅の高騰などでまたまた変わってきた ため、新しく銭貨の中でレートを決め直すよ、っていう内容なんです。 そして、6月7日。支配所から以下の回状が廻ってきました。 「この度、真鍮銭・文久銭それぞれそのままの相場に任せ、1枚につき相応の歩合を 増すことで通用させることを発表された。 真鍮銭1枚につき 12文 文久銭同じく 8文 銅小銭同じく 4文 但し、銅小銭のうち、耳白銭は1枚で銭6文に相当することとして、引換えること。 右の通りに歩合を増して通用すること、両替商たちより町奉行へ申し立て取り決めた ことなので、右の趣旨を以て通用にて支配所へ早く達するべきこと。」基準となるのは鉄銭なのでしょう。真鍮銭1枚は鉄銭12枚(12文)の価値があるよ、と こういうワケですね。 耳白銭というのは正徳年間(1711~15)に作られた、質の高い寛永通宝です。 つまり銅貨の中でもさらにランクの上下があったことがわかります。 銭貨の中でもこれだけの「1枚の価値の違い」があったということで、この回状が 廻る前には相当の混乱もあったことでしょう。 御褒美の分配金で理解し辛い表記があったことも、このことが原因なのではない でしょうか。 とにかく、江戸時代の人々はこのような複雑な貨幣を自在に扱っていたのですから、 相当の財テクにも長けていたのではないか、という想像もできますよね。 金・銀・銅の相場を読んで一儲け、なんてことはあったでしょう。 そうすると、献金にあれだけの金額を納められるという村の財力は、こんな所にその ヒントがあるのかもしれません。  幕末志士の中で一番人気といえばこの人、坂本龍馬さんでしょう。 しかし、かなりの龍馬ファンが「実像」よりも「小説」の中の龍馬が 好きなのではないかと思うのですが、いかがでしょう? まぁ、そんなコト言ったら土方歳三さんだって、その通りかもしれま せんけどね。 龍馬さんは「志士」というよりも「経営者」の視点で行動し、未来を 見ていたとワタクシは思います。そこが当時の佐幕や薩長の志士たち との違いであるし、新鮮味もあるのでしょうね。 「波動砲、発射ッ!」   にほんブログ村
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農兵問題で右往左往していた狭山丘陵地帯の農村に、降って湧いたような 代官所の支配替え問題。 江川代官の支配地からハズされれば、当然農兵政策からもハズされます。 てことは、今まで農兵のために村を挙げて ン百両と献金してきたことが、全く のムダになってしまいます。 「何としても支配替えを阻止せねばなんねーーだッ!」さて、この事態に支配替え反対を村々では駕籠訴という手段で訴えに出ます。 そのトップバッターは、農兵調練の舞台ともなっていた 田無村組合でした。 時に元治2年(1865)3月28日。 さぁ、東大和市域が中心となっている 蔵敷村組合も「いざ、続け!」ってんで 名主の杢左衛門さんは気合いを入れる、奥さんは神棚に祈る、息子たちも 覚悟を決める、じーちゃんはShout!する、と大騒ぎ。 ところが、ここからストーリーは意外な方向へと流れていきます。 その辺りを「里正日誌」で追ってみましょう。 「右の願い書を持参して、元治2年4月1日に杢左衛門と勘左衛門(野口村 名主・現東村山市)が江戸に出府。江川代官所出入りの郷宿(公事宿)である 和泉屋・植木屋へ問い合わせたところ、田無村組合は去る3月28日に2か所 へ駕籠訴したが、翌29日に御支配のお役所へお引渡しとなった。 そこで、この後蔵敷村組合から万が一にも越訴したいなどの問い合わせがあれ ば、差し押さえおくようにと内々のご沙汰があったと聞いた。 江川代官所の加判の元締めである根本慎蔵様にご相談 申し上げたところ、駕籠訴は宜しくないので、御勝手勘定奉行の 松平備中守様(四ツ谷御門内)、同役の松平対馬守様(麹町永田町)、勘定吟味 役の岡田安房守様(牛込早稲田)、勘定組頭の星野禄三郎様(牛込目白台)の 4か所に張訴しなさいとの指示を受けた。 持参した連印の書状は御支配のお役所へ差し出し、お役所から伊豆韮山(江川 代官本拠地)の代官様御手許に4月3日、飛脚を使って差し出した。 張訴のための書状については、元の書状の〇印から内容を見直した。 〇印から文末までは左の通りである。
〇存じ上げましたところ、すでに田無村ほか17ヵ村については重く、お役人様方 へ直訴嘆願申し上げ、御支配お役所へお引渡しになりました。それ以来、越訴 などせぬようにきつく言い渡され、承りました。 ところが、同様に尚また重くお役人様方へご嘆願申し上げては、どのようなことも 法に背いたと思われ咎められる恐れがありますが、とてもこのまま御支配替えされ ては、せっかく丹精込めたものが空しくなってはいかにも残念で、嘆かわしく当惑 のあまり、恐れ多くも嘆願申し上げる次第です。 何とぞ格別のご慈悲をもってお願いいたします通り、当御支配所に据え置いていた だけますようお聞きくださり、置いていただければ莫大なご憐憫とありがたく幸せに 存じます。このことを村々一同挙げて、ただひたすらに願い上げます。」読んでビックリしますね、コレ。 つまり、名主たちが代官所出入りの公事宿を通して、代官所の事務方トップに相談 したところ、その根本さんから「張訴にしなさいよ」と指示を受けて、さらに書状の 手直しまで受けているって内容なんですね。 幕府の政策に対して、代官所→公事宿→名主の見事な連携プレーで、この危機を 乗り切ろうという肚です。野球で言えば6・4・3のゲッツー狙いのフォーメーション。 杢左衛門さんたちは根本さんの指示通りに、手直しの済んだ書状を4月6日の夕 刻6時頃、4か所の屋敷の門柱に張り置きました。 つまり、 張訴です。 駕籠訴よりはずいぶん「やんわりとした」訴え方なんでしょう。 さぁさぁ、この「支配替え阻止大作戦」。 どのような結果を迎えたのでしょう。 「里正日誌」を追ってみることにします。 「右の通り支配替えになるところ、農兵お取立ての件があるので、先日その担当 の筋へ張訴し、田無村組合は駕籠訴し、当御支配お代官様へも取りすがって嘆い た。すると、伊豆韮山のお代官様へお役所より連絡が行ったので、お代官様から 直々に勘定所へ封書をお差出しになられた。 勘定吟味役・岡田安房守様がご開封の上、勘定所お役人の方々がご評議になり、 4月19日に御支配所の根本慎蔵様から機密の内容を承った。 右のご評議の結果、4月29日に御支配様の元締め衆が勘定所へお呼び出しに なり、これまで通り支配所内に据え置いて、支 配替えは元に戻すと仰せ渡された。そして、5月2日お役所より ご内意があった。 組合村々へ談判の上、当名主杢左衛門・田無村名主下田半兵衛・小川新田名主 弥一郎の3名が連れだって恐れながら出府して、御支配所の元締め松岡正平様・ 上村井善平様・根本慎蔵様・石川政之進様・高木連之助様・お手代冨沢正右衛門 様の6名の方々へお礼に罷り出で、肴料を差し上げた。 もっとも、5月2日に口上をすでに申上げておき、同月18日に肴料を持参してそれ ぞれ廻ってお礼をした。 因みに、他の支配替えとなっていた代官領も、全て元に戻して据え置くとのことで ある。」どうやら、韮山の江川太郎左衛門さんからも直接勘定所に封書が出されたようで すね。 で、その甲斐もあって、支配替えは中止。 作戦は大成功!・・・・となったようです。 いやぁー、良かったねぇ。農兵の献金や訓練がムダにならなくて。 代官所にとっても、支配地が変わってしまったら、またイチから農兵訓練をしなけ ればならないワケですしデメリットが多かったのでしょう。 なのでこのように、支配地の領民と連携して見事なファインプレーが完成できたの ですね。 まぁ、江戸時代というと「支配する方とされる方」という単純な立ち位置で考えがち ですが、案件次第によってはその動向も変わるという、なかなか興味深い資料 だったと思います。  「八重の桜」での斉藤さんの扱いがとても気になります。 降谷健志さんが演じていますが、後に結婚(再婚)する高木時尾(貫地谷 しほり)や、明治以降も親交があったという山川大蔵(玉山鉄二)は主要 キャストですから、降谷斉藤さんもけっこう長く出るかもしれません。 ファンの方はご存じの通り、彼は斉藤一→山口二郎→一瀬伝八→藤田 五郎と名前を変えていきますが、この変遷がドラマで描かれるのは今回が 初めてになるのではないでしょうか。 昔の「新選組血風録」(栗塚旭・主演)なんかのドラマを見ると、斎藤さんを 左右田一平さんが演じてて、土方さんらと箱館に渡ったりなんかしてるんで すよね。その当時は斉藤さんの年齢も行動も、よくわかってなかったのかなぁ、 なんて思います。 「波動砲、発射ッ!」  にほんブログ村
今年の流行語大賞は、もう「じぇじぇッ」か「アベノミクス」の2つの内のどちらか に絞られたカンがありますな。 「じぇじぇッ」て使いやすいもんね。 農兵で 獅子てんや 瀬戸わんや状態の江川代官領で、慶応元年(正しくはまだ 元治2年)3月、まさに村民を 「じぇじぇじぇじぇッ」と仰天させる一大事が勃発しました。 幕府が武蔵・相模・下総にある直轄領の支配替えを発表したのです。 江川太郎左衛門、木村董平(とうへい)、佐々井半十郎、今川要作、福田所 左衛門の5人の代官の中での支配替えです。 東大和市域を含む多摩郡の 田無村、神山村、小川村、小川新田、廻り田村、 廻り田新田、高木村、奈良橋村、蔵敷村、後ヶ谷村、野口村、野塩村、日比田村、 大沼田新田、下里村、上清戸村、柳窪村、前沢新田、宅部村、落合新田、南沢 新田、清戸下宿、南秋津村、粂川村、清水新田、中清戸村の26ヵ村、9844石 4斗1升余りの江川代官領が、馬喰町御裏役所の木村董平さんの支配地となる ことになりました。 さぁ、大変ですッ! 「 恐れながら書付をもってご愁訴申し上げます。 江川太郎左衛門お代官所の武州多摩郡にある左の村々役人一同が申し上げます。 私どもの村々は昔から幕府領で、16年前の戌年(嘉永3年・1850)より今年まで 同ご支配を受け、第一に取締りを始め、衣食住その他質素倹約を厳重にご趣意を言 いつけられ、厚いご加護のもと村々の空気も相和し、訴訟事もなくなりました。右の ことに準じて村入用は大変減少し、だんだんと村の状態も立ち直り、老若男女に至る まで有り難く存じております。 そうしたところ、昨年の冬にご支配所の村々に農兵お取立のご沙汰 があり、なお一層有難いことだと承り、私ども組合21ヵ村では780両余 りを献金し、高島流小銃その他付属品をそれぞれ渡されました。ことに田無村 は最寄りの親村で何事にも便利なので、砲術習練場を同村に整備して、小川新田へ も同様の習練上を整備し、昨年の冬以来農兵で手が空いている者は右の場所に集ま って稽古いたしました。 すでに今年の2月中旬よりご支配所からご出役の教示方がお越しになって、稽古に励 んでおりました。然るに、この度私ども組合のうち田無村ほか30ヵ村が支配替えに なると承り、実に村々においてとても驚嘆当惑しております。これによって取り敢えず 出府しお伺い申し上げるところ、去る16日に支配替えになることは間違いないと仰せ 渡され、一同恐縮しております。 右は前段申し上げました通り、農兵お取立については厚くご配慮していただき、なお 村々においては費用がかからないように申し合わせたこともあります。いずれにしても よくご趣意を貫くよう心底より村や身分が不釣合いでも農兵に進んで上納する者も多く あります。それなのにご支配所の村々が引き別れては何事にも差支えます。農兵の 仕立て方に限らず、自然とご趣意が弛むだけではなく、せっかく丹精込 めたものが空しくなるのが目に明らかです。 ことさら村々において農兵を学ばせた者は、いずれも血気盛んな若者たちがあてはま り、一生懸命稽古に励み、1小隊または2組と人数を定めて取り決めてあるのに、引き 別れては成就しないと一同悲嘆しております。 これまで丹精込めた農兵が休むようになっては実に嘆かわしく、よって村々大小の 百姓はもちろん村役人において、どのようにも右の趣を申し立て、これまでの通り同 ご支配所に据え置いて厚くご趣意を貫きますよう、心より恐れ多いことも顧みず一同 挙げてご愁訴申し上げます。 何とぞ格別のお慈悲をもって、前段の始末を幾重にもお聞きくだされ、私どもの村々を これまで通り江川代官所のご支配に置いて おかれますよう、憐れみのご沙汰を偏にお願い申し上げます。以上。」ちょっと長い引用になっちゃいました。ゴメンちゃい。 でもどーです、江川代官所にとどまりたいという村人の必死の思い。 この書状に各村々の名主・組頭・百姓代という村方三役の署名と印を押して、代官を 統括する勘定奉行兼関東郡代の松平対馬守さまと勘定吟味役岡田安房守さま両名の ところへ、なんと 駕籠訴に及んだんです。 ここまでするとなると、かなりの本気度ですよね。 よく云われるように江川代官領は善政が行われていましたから、なるほどその継続を 願っているようです。 しかし、太字で書かれている辺りに注目してみると違った見方もできるようです。 つまり、農兵にこれだけ多額の設備投資をしたのに、江川支配からハズされたらその 投資がすべてパーになってしまいます。それを恐れての猛反対だと読めるのです。 なんたって、江川支配地にいるからこその農兵ですからねぇ。 さて、この駕籠訴。 いったいどのような展開を見せるのでしょうか? てことで、また次回・・・!  試衛館道場以来の大幹部、最後の一人です。 忘れてたワケじゃありませんよ。八番隊組長・藤堂平助さんです。 天保15年(弘化元年 1844)生まれといいますから、斎藤一さんと同い年ですね。 漫画にもあるように彼の一番のウリ、つーか特筆事項は、伊勢津藩藩主・藤堂 和泉守高猷(たかゆき)の落胤だという噂があったというコトです。 で、コレが事実ならお家騒動にも巻き込まれかねない大事ですが、津藩から調査の 入った様子もないし、ホントのことなのかは「?」です。でも、永倉新八の名簿「同志 連盟記」にも「藤堂和泉守落胤」と書かれているので、仲間内では知られた話だった んでしょうね。 江戸では元々北辰一刀流を学んでいた縁で、伊東甲子太郎センセーを新選組に スカウトします。これが平助さんの運命を変えていってしまうんですね。 剣だけではなく学もあったそうですが、敵に向かって行くときは真っ先に切り込んで 行ったため「魁先生」と呼ばれていました。 出塁したら走ってかき回す、一番バッターみたいな存在だったんでしょうね。 気が付いたら、このブログも書きはじめて1年が経っていました。 重箱のスミをつつくような話にお付き合いいただき、ありがとうございます。 漫画は面白いですか? 新選組が好きな人も嫌いな人も、「つーか、幕末なんてマジ興味ねーし」って人も 「でも、ちょっとは笑えンじゃん」と言ってくれたらうれしいです。 これからも、「よろしくーーネッ!」(by ゆーとぴあ) 「波動砲、発射ッ!」 
江川代官の支配地で農兵訓練が始まりつつあったその頃、歴史も大きな 曲がり角を迎えようとしていました。 第二次長州征伐です。度重なる敗戦により、長州藩では上層部が幕府恭順に傾いていました。 池田屋事件や蛤御門の変などで、久坂玄瑞や吉田稔麿といった改革派の リーダーも失っています。 ところが、ここで出てきたのが一人の奇人・高杉晋作です。 彼は一般庶民からなる軍隊「奇兵隊」を作り、これを使ってクーデターを起こし 桂小五郎らと共に藩の方針を反幕府に転換させました。 そこで幕府も再度、長州藩を討つべしと、まぁこーなったワケです。 長州藩再征伐の命令が幕府から出されたのは慶応元年4月のこと。 第一次征伐のときに、総督の徳川慶勝が参謀西郷隆盛の意見を入れて、 長州へぬる~い処罰しか与えなかったことに、幕府内ではずーっと不満が ありました。 で、今度こそ長州をギッタンギッタンにしなくちゃイカン!ってんで、将軍自ら 出陣して総大将になっていただきたい、というリクエストが多く集まったんです。 新選組の近藤勇も、家茂の出陣を熱心に訴えていた一人です。 周りの期待に応えたいという気持ちが、誰よりも、ミスター長嶋さんよりも 強い家茂さん。将軍の長州征伐出陣が決定します。 将軍家茂さんが江戸を出発したのが慶応元年5月16日。 さぁ、このことがまたしても代官支配地に影響を与えることとなります。 5月24日、蔵敷村名主の杢左衛門さんは、田無村に滞在していた江川代官所 の手代・根本慎蔵さんから呼び出されました。 杢左衛門さんは翌25日早朝、早速田無村に出かけます。 「将軍様が長州へご進発されたことについて、幕府領一帯に献金のご沙汰が あった。組合村々へ内論書の内容をじっくりと説き、速やかに献金する身分相応 の者は進んで請印し、名前と人数を書いて願い出るよう、相談し取り計らうよう 仰せ付けられた。野口村名主勘左衛門もお呼び出しくだされ、彼にも一応お話し して頂きたい旨を申し上げたところ、即刻手紙を差し出し、同日夕方に出頭した 勘左衛門もお請け申上げた。いろいろと相談の上、委細を申し上げ、26日午後 出立し帰宅した。」キターーーーーーーーッッ!!世界陸上ッ!もとい、 献金です。 将軍が自ら率いて行く正規軍の行軍費用を、民間からの献金に頼ろうってんです から、勘弁してよと言いたくなります。ほぼ強制でしょ、コレ。 もう、幕府の金庫は底をついていたってコトですかね。 この献金要請は、全国の寺社、豪農商に出されたようです。 「 覚 この程長州ご征伐のことについては、禁裏に向かって発砲した容易ならざる事件 につき、将軍がご進発されたのである。ところで、近年幕府の財政は不用意の 出費がかさんでいる。これまで江戸城の火災、海防費用などにつき、国から受けた ご恩をわきまえて天領の村々の者たちから上納金を納めてもらったが、将軍がご進 発されたこの度の事については、天下万民挙げて力を尽くさなければならないのは もちろんの事である。昔より京都のご恩を受けない者はなく、ことに200有余年平和 に浴してきたのは代々の将軍様のご恩によるものである。そこで、何れの者も冥加 金を、その身分に応じてわきまえて早々に納めるべきことを、支配所村々の者たちへ 厚く申し聞かせ、趣意を貫き、話が進むように取り計らうこと。 右の通り、その筋より代官所へ言い渡され、ついては麦作検分を兼て、代官自身 が村を廻ったときにお話しされるとの伝達もあった。 すでに伊豆・駿河の支配地では代官が村を廻られるところ、場所が広大なので武蔵 ・相模の宿村は自分に村を廻るよう仰せつけられた。大小の百姓銘々がその身の程 に応じて払うべき献金額を進んで出すように、その方たちより申し諭し早々に金額と 名前を取り調べ、申し立てること。
右のように根本様から仰せ渡されたことを一同承知いたしました。よって、請印を差し 上げます。」では、蔵敷村組合ではどれほどの献金をしたのでしょうか? 「御支配所村々献金員数書上帳」には次のように記されています。 「 1両 清水新田 15両 後ヶ谷村 21両 日比田村 21両 奈良橋村 8両 宅部村 21両 高木村 116両 南秋津村 16両 野塩村 17両 廻り田村 2両 廻り田新田 63両 粂川村 45両 野口村 21両 蔵敷村 都合金367両也。」この金額は献金予定額であり、実際に集まったお金はやや少ない 354両だった ようですが、それにしてもよく集めました。 特に南秋津、粂川、野口など、東村山市域の村が多くの献金をしています。 南秋津村は太右衛門って人が一人で100両も献金してるんで、こんな多額になって ますが、彼は 農兵を作る際にも個人で100両を献金した人です。いや~、ある所には ありますな~。 長くなるので詳しくは書けませんが「里正日誌」にはこの時の江川代官領全体の献金 額が書かれています。その金額は4847両だったそうです。 蔵敷村組合以外では、東大和市域では芋窪村が唯一入った拝島村組合は827両の 献金。近くでは青梅村組合が400両、日野宿組合が624両、八王子組合が1696両 の献金をしています。 幕末期の代官支配地の村々って、けっこうお金あったんですね~。 お上が彼らの懐(ふところ)をアテにしたい気持ちもわかります。 さて、5月16日に江戸城を出発した家茂将軍は、ややゆっくりめのペースで東海道を 西に進みます。 そして24日、駿州の吉原宿で江川農兵の調練を視察していきます。 多摩地域には直接関係ないんですが、あまり知られてない話ですし、「里正日誌」に 記録されているのでご紹介します。 「(略)この度長州をご征伐のため、公方様は当丑5月16日江戸城を立たれご進発 遊ばされた。5月24日駿州吉原宿へ、お代官・江川太郎左衛門様御警衛として、 駿河・伊豆の農兵400人をお連れ立ちになってその筋へお申立てなされたところ、 将軍がその話を聞かれ、農兵の調練を明日ご上覧遊ばされると仰せられたので、その 用意を致し、24日雨中に富士川の河原において農兵調練をご上覧遊ばされたところ、 将軍の御意に叶い、お代官江川様に直接、心を込めた上意があった。御紋付、御提物 、引胞のお品2品を拝領仰せ付けられた。農兵の中にも苗字、あるいは帯刀御免になる 者もいた。当お代官様は御年が13歳である。お家柄とは申しながら英才のお代官で、 恐悦至極有難いことである。」将軍がとても喜んで、 江川英武代官に御褒美をされたほか、農兵の中からも武士の 待遇を許された者があったことが書かれています。これは、実際の訓練上達度もある でしょうが、献金が多かった者だったんじゃないかなぁと思います。いかかでしょうか。 ま、こんなワケで支配地の献金に頼った将軍の長州ご征伐。 こーして考えると・・・ 糸井重里サン、やっぱり赤城山中に徳川埋蔵金なんて残ってないワ・・・。  家茂将軍が長州征伐に向かったその頃、一人の土佐藩士が獄門の露と消えました。 京都市中で「人斬り」と恐れられた岡田以蔵です。 武市半平太の土佐勤王党に加わるものの貧困層の出身だったために学がなく、暗殺 専門の仕事しか与えられず、獄に入ってからは口封じに毒まんじゅうを食わされそうに なったのでそれを恨み自白した・・・ていうのが一般的な以蔵さん観ですね。 でも、これらはみな小説に書かれたフィクションで、実際の以蔵さんは一般的な郷士層 の出身で教養もそれなりにあったそうですし、暗殺も仲間との協議の上で実行していた ようです。また、代名詞の「人斬り」と呼ばれたこともありませんでした。 しかし、彼の自白により土佐勤王党が壊滅したのは事実であり、地元でも慰霊祭が行わ れることはなかったそうなんです。が、大河ドラマ「竜馬伝」でイケメン・佐藤健クンが以蔵 を演じてイメージアップ!人気上昇で慰霊祭も行われたそうです。 歴史上の人物も、イケメンに演じてもらうもんですな~。 昔ね、「新春スターかくし芸大会」でジュリー(沢田研二さま)が龍馬を演じた「竜馬がくる」 ってミニドラマを放送したことがありましたんですよ。 その作中で岡田以蔵を演じていたのは 内田裕也でした。シェゲナ・ベイベー。 なので、ワタクシの中で岡田以蔵ってゆーと、ロッキンロール裕也なんですナ。 あ、ジュリーは「幕末青春グラフィティ 坂本龍馬」では佐々木只三郎役で、武田鉄也の 龍馬を斬る方も演じてますね。ダ~リ~~ィン~♪ ポチっとな 
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