江川農兵の設置が決まりましたが、ここで一つ問題が。
それは「江川代官所の支配地域に限って」という幕府からの限定範囲命令です。
当時、各村々では代官支配の直轄領と、地頭(旗本)支配の旗本領の両方が
置かれていました。
で、それら周辺の地域がまとまって、所沢村組合を構成していたんです。
つまり、組合の中に代官領と旗本領が一緒に入っていたんですね。
ところが、農兵は代官領に限るってコトですから、村の中から旗本支配地を
抜いた地域だけで新たな組合を作らなければならなくなってきたんです。
ん~、なかなかめんどくさい。
そこで、所沢組合村に所属する48ヵ村の村のうち、旗本支配地を除いて、21ヵ村
で「上新井村組合」、16ヵ村で「拝島村組合」を構成することになりました。
やれやれ。
東大和市域はっていうと、宅部(やけべ)、奈良橋、高木、後ヶ谷(うしろがや)、
蔵敷の5ヵ村が上新井村組合に。芋窪村が拝島村組合に組み込まれました。
これは、所沢村組合とは別個に扱われる農兵専用の組合です。
で、農兵は何人ほど選ばれたのでしょうか?
武蔵村山市史によると、組合村を単位として、壮年男子100人に1~2人の割合で
取り立てることとしたそうです。
文久3年11月時点の上新井村組合の男性人口は「里正日誌」によると3395人。
その中から農兵に取り立てられた者は41人。一方の拝島村組合の男性人口は
7575人で、56人が農兵に取り立てられていました。
その中で東大和からは、どれくらいの人数が農兵になったのかというと、これも
「里正日誌」などで詳細がわかっています。こういう記録が細かく残っているのを
見ると、幕末って近い時代なんだなって思いますね。
後ヶ谷村 2名 名主28歳 百姓28歳
宅部村 2名 組頭倅32歳 25歳
高木村 1名 組頭倅36歳
奈良橋村 2名 名主倅31歳 百姓倅26歳
蔵敷村 2名 百姓倅37歳 百姓倅20歳
芋窪村 2名 (内訳不明)東大和では、男性人口が一番少ないのは高木村で87人。後ヶ谷村が245人で一番
多い村となっています。全体で9人ですが、この他に同数が予備役として選ばれた
ようですよ。
所沢市史によれば、農兵は「身元よろしき者から選ばれ、5~6年交替が予定されて
いた」とあります。
名主や組頭、その倅といった人たちが多く選ばれているのはそのためですな。
後ヶ谷村では名主自ら農兵に名乗りを上げていますが、28歳ですよ。名主としても
若いですよね。彼は上新井村組合農兵隊の隊頭取、つまり隊長にも就任しています。
上新井村からも名主が2名参加していますが、年齢は17歳と24歳と記録されています。
幕末期には、こうした若い世代が地域のリーダーになっていたことが伺えます。
この時期に活躍した志士たち、西郷どんも大久保も、桂小五郎も坂本さんも、もちろん
近藤さんや歳三さんもみな若い世代ですが、中央だけではなくそれぞれの地域でも
若い指導者が出てきた時代だったんですね。
ところで、他の地域ではどうだったんでしょう?
農兵に積極的に関わった地域としては、新選組の地元・日野宿の農兵隊が有名ですが、
ここでは高100石につき1人の割で、15人の正隊員、15人の交代要員が集められた
そうです。日野宿は石高が2200石あるので、30人ではちょっと多いが15人づつの
交代制ならちょうどよかろう、みたいなコトが「日野宿農兵取立書上」に書いてあります。
なんか、余裕かましてるみたいで、チョイ嫉妬します。
東大和なんか、上新井村組合に参加している5ヵ村合計でも高941石ですよ。
まぁ、100石につき1人の割ってトコロでは同じ条件なんでしょうけど・・・。
元々貧しい土地から1~2人の労働力を取られるワケで。
同じ農兵でも、地域によってはそのテンションに差があったことでしょうねぇ。

朝ドラで小池徹平クンが「ヒロシです」ばっか連発してるんで、こんなネタ描いちゃい
ました。
新選組幹部の中でもややマニアックな存在でしょうか、武田観柳斎さんのご紹介です。
出雲松江藩の支藩・母里(もり)藩出身で、元は医学生だったといいます。でも、これ
から激動の時代が来ると読んだのか、軍学に進路変更。当時、軍学といえば一番の
ブランド甲州流軍学を学び、新選組にも軍師として採用されます。本名のやたら
現代人っぽい名前を捨て、武田姓を名乗ったのも自分の得意分野を十分に誇示したい
ためだったかもしれません。
近藤局長は、けっこうインテリ系の人を重用したがるクセがあるんですが、観柳斎さんも
その例に漏れず一頃はブレーンとして出張に度々お供をしています。彼は独善的でエラ
イ人にすりよる性格だったと伝わりますが、近藤さんの重用ぶりがそうした性格に拍車を
かけてしまったのかもしれません。
漫画3コマ目のエピソードは「明保野亭事件」といい、観柳斎の命令で会津藩士の柴司が
不審者を槍で突くと、実はその者は当時会津と同盟中の土佐藩士だったという事件です。
結局、柴が切腹することで責任を取ったのですが、当時柴は21歳。観柳斎にとって、
そーとーツライ事件だったハズです。
インテリ度ばかりが注目される観柳斎さんですが、実は池田屋事件など実戦の場でも
活躍していまして、実技の方もなかなかだったのではと思います。
あと、この人について回るのはモーホー・・・つまり男色家疑惑です。これは、イケメン隊士
の馬越三郎に観柳斎が言い寄ってたという話ですが、この話の出所は子母澤寛の「新選組
物語」です。
確かに隊内に男色が流行っていたらしいコトは近藤さんも手紙で書いています。
一方、観柳斎とイケメン馬越は、野口健司という切腹した隊士の埋葬依頼人としてお寺の
過去帳に併記されてるんですね。おそらく隊の任務として偶然2人が務めたものでしょう。
子母澤は小説を書くに当たって、これらをミックスして一つの男色ストーリーを構築したので
はないかと思われます。
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