Let's農兵 献金要請!・・・ご褒美つきでネ

ちょっと遡りますが、文久3年(1863)11月19日、江川代官所の手附柏木総蔵と
手代三浦剛蔵から、蔵敷村名主杢左衛門さんと上新井村名主市右衛門さんの2人が
田無村まで呼び出されます。
農兵用に組織された「上新井村組合」の代表ってことですね。
この前の月に農兵取立の趣意書が出されているんですが、この田無村での会談で
「まぁ、こういう方向性で農兵を引き受けてくれよ」
という話が代官所から2人の名主へ出たようです。

すでに書きましたが、江川代官所の代官は「名代官」と云われた英龍さんの息子の
英武さんの代へとなっています。しかし、英武さんはこのときまだ11歳。
「こども代官」ですよ。ドラマなら鈴木福クンです。
柏木さんは江川家の家老といってもいい人で、英龍さんの右腕となって働き、彼亡き後
も江川家と伊豆地方のために働き続けました。
三浦さんは江川代官所の江戸詰めの手代で、公事方(警察・訴訟)を担当していた人。
彼らがこども代官の代理として、業務を指揮していたんでしょうね。

この話の中で特に重要と思われるのは、やっぱりオカネのこと。
何をやるにしたって、やはり先立つものは必要です。
「東大和市史」には、代官所から次のような話が出たことが記されています。

「一、現在幕府財政窮乏の折柄、農兵費用も莫大なもので容易ならざることである。
それ故、御国恩の冥加を理解し、身元の者どもから献金を願い出る者は
いないだろうか。

もっとも組合限り身元の者の名前を調査し、およそその献金額の見込みを知らせてくれ
れば、その上で、場合によっては身元の者へ自分からも申諭してもよい。
しかしなるべくは、それ以前に献金や稽古入用の差出金を願い出てくれれば、その者の
奇特は勿論、杢左衛門・市右衛門の両人の骨折も一入顕現されることとなる。
一応申し聞かせる次第である。

 一、農兵取立の仕法により、農兵に編入された場合は、隊伍役人・兵卒共それぞれ
勤中には身分の階級ができるが、それにも拘わらず、農兵設置の趣意を理解し、献金した
者には御褒美が与えられるのは勿論のことである。」


幕府は農兵制度にGOサインを出したものの、財政は底をついている状態でとても予算は
回せない。だから、身元の者(富裕層)の献金で経費を捻出してくれっていう話。
なんとも都合のいい話ですが、それをなんか遠回しに言ってきてるところが妙ですよね。
要は「カネ出してくれよ」ってことでしょ。

それぞれの地元に帰った杢左衛門さんと市右衛門さんは献金集めに奔走したことでしょう。
その月のうちに「御支配所村々献金書上帳」を代官所に提出します。

それによると、上新井村組合22ヵ村で、合計521両の献金があったようです。
前々回の「新組合を作る!」では、上新井村組合は21ヵ村と書きましたが、この書上帳では
1ヵ村増えています。これは堀之内村の新田を数に入れたかどうかの違いみたいです。
東大和市域では、どのくらいの献金額があったのでしょうか?
献金した人数と金額を、各村別に抜き出してみると、

「後ヶ谷村  3名  14両
 宅部村   5名   8両
 奈良橋村  8名  25両
 高木村   6名  20両
 蔵敷村   3名  20両」


25人から87両の献金が集まりました。
って軽く言っちゃってますけど、村民にとっては大きな負担だったハズです。
元治2年(1865・4月に慶応と改元)の「里正日誌」にはこんな記述があります。

「元治2年2月26日 農兵につき献金の残り半額
金10両 蔵敷村、金七両 後ヶ谷村、金4両2分 宅部村、金8両2分 廻り田村、
金10両 高木村、〆て金40両也。
右の通りお役所へ納めたところ、根本慎蔵様がお請け取りになり、請取り手形をお渡し
されたので、3月5日に私(杢左衛門)の家で会ったときに、村々の村役人銘々に小手形
を渡します。」


どうやら、2期に分割して納めていたようですね。
村の富裕層って言ったって、村自体が豊かじゃないわけですから。
「東大和市史」には武蔵と相模の支配地でどれだけの献金があったのかが書かれて
いますので、ご紹介。

田無村組合 782両      ※蔵敷村組合 354両
青梅村組合 400両       氷川村組合 120両
拝島村組合 827両       五日市村組合 700両
桧原村   100両       日野宿組合 624両
八王子宿組合 1696両     木曽村組合 200両
駒木野組合 200両       中野村組合 200両 
日蓮村組合 350両       藤沢宿組合 1000両   14組 7847両
※上新井村組合は10ヵ村が支配替となったので、11ヵ村で蔵敷村組合に
 なっている。


さぁ、これだけガンバったんですから、やっぱり期待しちゃうのはコレでしょう。
そう、御褒美です。
「まぁ、あんまり期待しないほうがいいよね」
なんて言いながら、ついつい期待しちゃいますね。こういうのって。
慶応元年閏5月、そのご褒美がいただけるとの知らせが蔵敷村に届きます。
「やったネ、パパ!明日はホームランだッ!」

「蔵敷組合分のご褒美として銀18枚を頂戴して、翌日29日に一封を持参して代官所へ
お礼に伺った。
金2分石川様、金2分上村井様、金1分根本様、金1分高木様、金1分三浦様、金1分増山
様、金2朱上小使の方、金1朱御門番の方、金1分和泉屋、金2朱同代理人春吉、金2朱
和泉屋奉公人6人、都合3両3朱を包む。
当組合村々の献金額は354両。その内100両は南秋津村の太右衛門が1人で献金した
ので、彼だけ別途銀7枚いただいた。残りの254両のご褒美が銀18枚である。
この銀は774匁であり、両では89匁6分に替え、永8貫638文3分8厘になる。
金と銭では8両2分2朱と84文。
但し銀1枚につき43匁、永では479文9分、金1分3朱と280文8分を上金高に当てる。
金1両につき永34文○1厘掛り、銭227文1分当てる。
蔵敷村の献金額は20両なので、ご褒美は永680文2分。金では2分2朱
と368文。

この内銀1枚請取り代積りが金1分3朱と281文。これを差し引いた金3朱と銭83文
が請取り額である。
時に慶応元年(1865)6月4日杢左衛門へ村々の役人一同集会の上、分配いたします。」


どうも、この時代のお金の計算がよくわかりません。
一般に云われている貨幣単位以外の言葉が、こういった日記には出てくるので、どういう
計算なのか検討がつきません。
まぁ、私の現代語訳が間違ってるのかもしれませんが、とりあえず数字だけはそのままの
通りに書き抜いてあります。
結論からいうと、20両の献金でご褒美が3朱83文ってことですね。
200万円献金して20800円くらいバックがあったってトコロでしょうか。
蔵敷村では3人の献金者がいましたから、1人7000円のご褒美。
やっぱり、見返りって期待しちゃいけないんだ。

てゆーか、代官所に手数料というか、そういうお礼金を支払っているコトにも注目ですね。
「パパ、結果は送りバントだったよ・・・」

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新選組に資金を用立てた豪商といえば、大坂の鴻池善右衛門でしょう。
あのダンダラ羽織を作ったときの資金の出所が、この大店です。
元々は芹沢鴨が押し借りのような形で200両を出させたのですが、これを聞いた
会津藩の容保公がビックリ。「新選組は我が藩のお抱えなんだから、よそに迷惑を
かけちゃイカンよ。十分に資金を出してやりなさい。」ってことで、その200両は鴻池
に返されました。
その後、鴻池の京都支店に賊が押し入ったとき、巡邏中だった近藤さんと山南さんが
現場に遭遇し、賊を斬り倒したこともありました。こんなことから、鴻池は新選組と
親交を結ぶようになり、京都経済界と新選組とを結ぶパイプの役割を果たすようになるの
です。
鴻池と新選組の関係は京都時代だけではありません、
土方さんらが箱館に渡り箱館新政府を作ると、鴻池箱館支店の大和屋友次郎は軍資
金を用立て新政府をサポートするなど、その関係は戊辰戦争終結まで続くのです。



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Let's農兵 隊伍仕法と新銭座調練場

東大和市域からは、蔵敷村や後ヶ谷村など5ヵ村が上新井村組合に、芋窪村の
1ヵ村が拝島村組合に、農兵のため新たに編入されました・・・ってのが前回まで
のお話。
「農兵」と一応は軍隊を名乗るワケですから、ただ人を集めりゃいいってもんじゃ
ありません。軍としての機能を発揮させるべく、それなりの編成が必要ですよね。

農兵の組織については「隊伍仕法」という軍規が定められたようです。
①農兵25人をもって1小隊。そのうち5人は、懸り役人。
②鉄砲は高嶋流小筒(8匁・6匁)と付属の胴乱管入共に貸渡す。
③胴服立付等は銘々が用意し、異形はさける。
④小隊ごとに小旗を使用。
⑤五卒組は一組5人、うち1人は小頭役。
⑥差引役一組に1人。目付役の役割で兵卒の行跡、善悪ともに組頭役へ報告
⑦什兵組頭一組に2人。什兵の善悪を判断し、命令する。
⑧小隊頭取一組に2人。うち1人は頭取並とする。兵卒の邪正を判断し、上部へ
報告する。一隊の取締りの責任者である。


これによると、5人一組が最少単位で五卒組と呼んだようです。
什兵組頭というのは、たぶん什長(10人の隊の隊長)のことでしょう。なので、
1人が五卒組2組を管理していたのだと思います。
平隊員20名に管理職の頭取、頭取並、什兵組頭、差引の5名、計25名が
1小隊として活動したというわけですね。

「けど、オラたち今まで鍬持って畑を耕してたんだど。いきなり
農兵やれとか言われても、ナニやっていいのかわがんねェ」


そりゃそーだ!ごもっとも!
てことで、元治元年(1864)9月26日から、各組合村の農兵代表者が江川代官所
に呼ばれて訓練を受けることになりました。
6組合10ヵ村から11名が参加しましたが、参加者はいずれも名主・組頭・百姓代の
本人ないし倅か弟といった人たちで、村役人層でした。つまり、これは農兵隊の幹部
教育だったんですね。
東大和市域からは、蔵敷村の内野恒吉さんが参加しています。彼は名主・杢左衛門
さんの弟です。
訓練の場所は、芝新銭座の江川家の調練場です。英龍さんが亡くなった後、代官を
継いだ息子の英敏さんに幕府が与えた場所ですね。もっとも、その英敏さんも文久
2年(1862)に亡くなっていますから、この時は弟の英武さんの代になってますけ
どね。
現在のJR浜松町駅の辺りです。

どんな人が恒吉さんたちに訓練をしたのかといいますと、それはやはり英龍門下生
でしょう。東大和市史によると、このときの鉄砲方附教授は9人。その氏名は山田
清次郎、安井晴之助、長澤房五郎、森田留蔵、中村惣次郎、中村小源次、田那村
淳、斎藤四郎助、岩嶋廉平となっています。
そして、その中から中村小源次、森田留蔵の2人が農兵教示掛りだったそうです。
この森田留蔵さんは咸臨丸での渡米を経験し、帰国後はこのように鉄砲方附教授
や将軍家茂上洛の供奉を務めました。明治に入ってからは、岩倉使節随行の留学
生となり、アメリカ海軍を学んだという人物です。
当時の最先端を知っている人たちから教えてもらってたんですね。

で、この新銭座調練場は英龍さんの「韮山塾」と同様の方針で稽古が行われたと
いいますから、「調練場規則」や「稽古刻限規則」といったルールが指示されていた
そうです。

「調練場規則」
一 塾では禁酒。互いに礼儀厚くすることを心掛け、不作法無きように致すこと。
一 火薬の取り扱い方は教示方の指図を得て、過ち無きように敬慎第一とすること。
一 外出は行先を塾頭に届け、帰塾は夜五ツ時(20時)を過ぎてはいけない。
  宿泊、または帰郷の時は塾頭を介して教示方に申し立て、指図を受けること。
右のことを堅く守ること。

「稽古刻限規則」
一 毎朝 朝五ツ半時(9時)開始、八ツ半(15時)終了。
  但し、稽古を始めるときは稽古場において合図の笛を吹くと直ちに揃っている
  ように心得ること。
  雨天のときは、当分の間は休日とする。
一 4と9のつく日は休日。
右の通り定めるものである。


調練は9月26日に始まり、11月12日までの48日間行われました。
稽古を受けた11人は調練が終了する一週間ほど前に、農兵の世話役・世話役介
の役職が任命されました。蔵敷村の恒吉さんも世話役介になっています。
こうして新銭座調練を卒業した彼ら村役人たちは、それぞれの地元で小隊の訓練
を指揮したんでしょうね。

ん~・・・48日間の訓練でどれくらいのスキルが身に付くのかわかりませんが・・・。

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新選組は市中見廻りを4~5人の小隊で廻ったといいます。
敵が潜伏していると思われる場所に斬りこんで行くのは、非常に危険で、
特にその先頭を勤めるのはとても勇気のいることです。
そこで、小隊の中でローテーションを作り、真っ先に突入する役目を
「死番・死に番」と呼んだのです。
今日「死番」だった者は明日はローテーションの最後に回り、今日2番手
だった者が明日の「死番」になるという仕組みです。
「死番」の隊士は、その日の朝から自分が突入役だと覚悟ができている
ので、ひるまずに行動できたといいます。

ところで

5月11日は土方歳三さんの命日でした。
歳三さんのお墓のある日野市の石田寺では、12日に「歳三忌」の法要が
ありましたので、私も行ってまいりました。

DSCF6001 a

ここが、石田寺です。
樹齢400年を超すと云われるカヤの巨木が目印。
多摩都市モノレール「万願寺駅」から歩いて5~6分でしょうか。

DSCF6002 a

法要は11時からで、私は15分くらい前に着きました。
もう、境内は若いギャル(と、そうでないギャルも一部)満載です。
やっぱ女性にモテモテですね、トシさん。
女子大と宝塚、それに歳三忌の石田寺。これが日本の三大ギャル群生地でしょう。

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和尚様の読経が始まり、御焼香です。
ワタクシもホラ、こんなブログ書いてるワケで・・・ちゃんとご本人に断らないといけない
ですよね。
歳三さんのご冥福をお祈りするとともに、ブログの許可を勝手にいただきます。
「本文はまぁいいけどさ、マンガの方なんとかなんねぇの?」
トシさんの声が聞こえた・・・ような。

DSCF6007 a

法要が始まって30分ほど。
もう門前は長蛇の列でした。
ワタクシはこのところ毎年、歳三忌に参列させていただいているのですが、年々
参列者が増えているような気がします。
今年は新選組結成150年ってことで、それもあるのかな?

この日は日野市本町や市役所前では「新選組祭り」があったんですが、ワタクシ
前日に雨の中を傘もささずに都内を歩き回ってたもんですから、疲労があって・・・。
そのまま帰りましたとサ。


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Let's農兵 新組合を作る!

江川農兵の設置が決まりましたが、ここで一つ問題が。
それは「江川代官所の支配地域に限って」という幕府からの限定範囲命令です。
当時、各村々では代官支配の直轄領と、地頭(旗本)支配の旗本領の両方が
置かれていました。
で、それら周辺の地域がまとまって、所沢村組合を構成していたんです。
つまり、組合の中に代官領と旗本領が一緒に入っていたんですね。

ところが、農兵は代官領に限るってコトですから、村の中から旗本支配地を
抜いた地域だけで新たな組合を作らなければならなくなってきたんです。
ん~、なかなかめんどくさい。
そこで、所沢組合村に所属する48ヵ村の村のうち、旗本支配地を除いて、21ヵ村
で「上新井村組合」、16ヵ村で「拝島村組合」を構成することになりました。
やれやれ。

東大和市域はっていうと、宅部(やけべ)、奈良橋、高木、後ヶ谷(うしろがや)、
蔵敷の5ヵ村が上新井村組合に。芋窪村が拝島村組合に組み込まれました。
これは、所沢村組合とは別個に扱われる農兵専用の組合です。

で、農兵は何人ほど選ばれたのでしょうか?
武蔵村山市史によると、組合村を単位として、壮年男子100人に1~2人の割合で
取り立てることとしたそうです。
文久3年11月時点の上新井村組合の男性人口は「里正日誌」によると3395人。
その中から農兵に取り立てられた者は41人。一方の拝島村組合の男性人口は
7575人で、56人が農兵に取り立てられていました。

その中で東大和からは、どれくらいの人数が農兵になったのかというと、これも
「里正日誌」などで詳細がわかっています。こういう記録が細かく残っているのを
見ると、幕末って近い時代なんだなって思いますね。
後ヶ谷村  2名  名主28歳 百姓28歳
宅部村   2名  組頭倅32歳 25歳
高木村   1名  組頭倅36歳
奈良橋村  2名  名主倅31歳 百姓倅26歳
蔵敷村   2名  百姓倅37歳 百姓倅20歳
芋窪村   2名  (内訳不明)


東大和では、男性人口が一番少ないのは高木村で87人。後ヶ谷村が245人で一番
多い村となっています。全体で9人ですが、この他に同数が予備役として選ばれた
ようですよ。
所沢市史によれば、農兵は「身元よろしき者から選ばれ、5~6年交替が予定されて
いた」とあります。
名主や組頭、その倅といった人たちが多く選ばれているのはそのためですな。

後ヶ谷村では名主自ら農兵に名乗りを上げていますが、28歳ですよ。名主としても
若いですよね。彼は上新井村組合農兵隊の隊頭取、つまり隊長にも就任しています。
上新井村からも名主が2名参加していますが、年齢は17歳と24歳と記録されています。
幕末期には、こうした若い世代が地域のリーダーになっていたことが伺えます。
この時期に活躍した志士たち、西郷どんも大久保も、桂小五郎も坂本さんも、もちろん
近藤さんや歳三さんもみな若い世代ですが、中央だけではなくそれぞれの地域でも
若い指導者が出てきた時代だったんですね。

ところで、他の地域ではどうだったんでしょう?
農兵に積極的に関わった地域としては、新選組の地元・日野宿の農兵隊が有名ですが、
ここでは高100石につき1人の割で、15人の正隊員、15人の交代要員が集められた
そうです。日野宿は石高が2200石あるので、30人ではちょっと多いが15人づつの
交代制ならちょうどよかろう、みたいなコトが「日野宿農兵取立書上」に書いてあります。
なんか、余裕かましてるみたいで、チョイ嫉妬します。

東大和なんか、上新井村組合に参加している5ヵ村合計でも高941石ですよ。
まぁ、100石につき1人の割ってトコロでは同じ条件なんでしょうけど・・・。
元々貧しい土地から1~2人の労働力を取られるワケで。
同じ農兵でも、地域によってはそのテンションに差があったことでしょうねぇ。

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朝ドラで小池徹平クンが「ヒロシです」ばっか連発してるんで、こんなネタ描いちゃい
ました。
新選組幹部の中でもややマニアックな存在でしょうか、武田観柳斎さんのご紹介です。
出雲松江藩の支藩・母里(もり)藩出身で、元は医学生だったといいます。でも、これ
から激動の時代が来ると読んだのか、軍学に進路変更。当時、軍学といえば一番の
ブランド甲州流軍学を学び、新選組にも軍師として採用されます。本名のやたら
現代人っぽい名前を捨て、武田姓を名乗ったのも自分の得意分野を十分に誇示したい
ためだったかもしれません。
近藤局長は、けっこうインテリ系の人を重用したがるクセがあるんですが、観柳斎さんも
その例に漏れず一頃はブレーンとして出張に度々お供をしています。彼は独善的でエラ
イ人にすりよる性格だったと伝わりますが、近藤さんの重用ぶりがそうした性格に拍車を
かけてしまったのかもしれません。
漫画3コマ目のエピソードは「明保野亭事件」といい、観柳斎の命令で会津藩士の柴司が
不審者を槍で突くと、実はその者は当時会津と同盟中の土佐藩士だったという事件です。
結局、柴が切腹することで責任を取ったのですが、当時柴は21歳。観柳斎にとって、
そーとーツライ事件だったハズです。
インテリ度ばかりが注目される観柳斎さんですが、実は池田屋事件など実戦の場でも
活躍していまして、実技の方もなかなかだったのではと思います。
あと、この人について回るのはモーホー・・・つまり男色家疑惑です。これは、イケメン隊士
の馬越三郎に観柳斎が言い寄ってたという話ですが、この話の出所は子母澤寛の「新選組
物語」です。
確かに隊内に男色が流行っていたらしいコトは近藤さんも手紙で書いています。
一方、観柳斎とイケメン馬越は、野口健司という切腹した隊士の埋葬依頼人としてお寺の
過去帳に併記されてるんですね。おそらく隊の任務として偶然2人が務めたものでしょう。
子母澤は小説を書くに当たって、これらをミックスして一つの男色ストーリーを構築したので
はないかと思われます。