土方歳三切手を求めて・日野宿交流館

いやー、スマンこってス。
また、番外編。

4月23日火曜日の朝、連ドラ「あまちゃん」を見ながら新聞をめくっておりますと、
「じぇじぇじぇじぇッ」
とある新聞記事に、コーヒーカップを持つ手が止まり、トーストに塗った苺ジャムが
猫のテンちゃんの頭にネロン!と落ちてしまうほど目が奪われてしまいました。

日野市が、新選組結成から今年で150周年を記念して土方歳三切手
(正確には「新選組のふるさと日野」切手シート)発売してるっていうじゃないですか!
しかも、限定1000部!

「こ、これはイカン、イカンぞ・・・ほ、欲しいじゃないか・・・!」

記事によると、切手は日野市の「日野宿交流館」で絶賛発売中だとか。
つっても火曜水曜は仕事や用事があったりで、日野まで出かけられません。
ようやく木曜になって立川へ行く用事ができたため、ちょいと足を延ばしてお隣の日野
までひとっ飛び。切手を買いに行ってきたザンス!

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「日野宿交流館」はJR日野駅の改札を出たら目の前の甲州街道を
立川方面に500mほど、川崎街道入口交差点のちょい手前にあります。
ここは元々、八王子信用金庫日野支店があったトコロでして、閉店後に日野市の
観光課が観光客の休憩所や交流の場としてオープンさせたんだそうですよ。
いわゆる「居抜き」ってヤツですか?

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さぁ、はやる気持ちを抑えて早速中へ!

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館内へ入った奥が売店です。
眼鏡をかけた観光課の方と思しきナイスミドルが「いらっしゃいませ」と声をかけ
てくれます。
「あの・・・新聞で土方歳三さんの記念切手が発売されたと知ったんですが・・・」
「ハイ。新選組のふるさと日野切手シートですね。」
「まだ買えますか?売り切れちゃいました?」
「まだございますよ。」
「そうですか・・・!(ホッ)いやぁ、限定1000部って書いてあったもんだから急いで
来たんですよ。」
「ありがとうございます。おかげさまで好評で・・・」
「そうですか!やはり発売初日にはH&Mが開店した時みたいに、歳さんファンが長蛇
の列を作ったりして整理券なんかを配ったんでしょうねッ?」
「あ、いや、そこまでは・・・」
「やっぱり、裾にダンダラを染め抜いた浅黄色の羽織着た人が一番乗りでしたか?
抜き身かなんか下げて。」
「いえ・・・あの、みなさんインターネットで注文されますんで・・・。」

!!・・・あぁ・・・そうかぁッ!通販か・・・!
そりゃそうだわね。平日にわざわざ他所から急いでやってくるこたナイわけだね。
なのに、たかが切手にいい歳して・・・イタくないか、オレ?

「あ・・・、でも郵送だと切手が折れないように、別売りのクリアケースに入れて発送し
ますので料金が割高になってしまうんですよ。ここにきて買われるのがやはり一番お得
です!」
観光課の方がさりげなくフォロー。サンキュー、ナイスミドル。

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で、これがその切手シートでございます。
歳三さんのバストアップと全身像の写真が、80円切手5枚づつで計10枚。
背景写真は日野宿本陣を中心に、新選組袖章、八坂神社の天然理心流奉納額、
隊士・中島登の描いた土方像(戦友姿絵)。
1シート1300円です。

「ホントは1200円でも販売できるんですが、100円を観光課の収入にさせていた
だきたくて・・・やっぱり1300円は高いでしょうか?」
正直ですね、ナイスミドルさん。言わなきゃわからないのに。
「いいんじゃないですか、コレ実用品ていうより記念品ですし。その100円が史跡や
文化財の保護や維持に役立つのなら、ワタクシは賛成ですが。」
と答えておきました。
日野の史跡巡りをしたこともありますが、歴史資料や史跡が多い町ですから保護にも
お金がかかるでしょう。そういうことに使うのなら歴史ファンとしてOKですよ。
飲むのに使っちゃダメだけど。

さて、せっかくなので交流館の館内をご案内。

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1階は先ほどの売店のほか、休憩所みたいになってます。
お菓子なんかも売ってるんで飲食も大丈夫(だと思いますヨ。)
壁にはチョイ懐かしい、大河ドラマ「新選組!」のポスター。
日野市内では現在でも日曜夜8:00の大河ドラマは、「八重の桜」ではなく
「新選組!」を放送しています。(嘘)

2階は日野市の歴史を知ることができる資料館になってます。
江戸時代の宿場や多摩川の渡しの様子、明治になって鉄道橋を建設するために
生産された日野煉瓦などが展示されてます。
レプリカではありますが、歳三さんの鉢金とか井上源さんの天然理心流免許など
の新選組資料なんかもね。
ところで、先ほど書きましたがココは元信金でした。
なので・・・

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2階の展示室には信金時代の金庫がそのまま残されていて、なんとこの
金庫の中も展示室になっちょるんです。

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鮎漁の古民具が展示されてましたよ。
金庫に入ってゲンナマの気持ちになってみたい方は、ぜひどーぞ。

信用金庫以前・・・ていうか江戸時代、この場所には「玉屋」という宿屋が
建っておりました。
玉屋は富士講という、まぁ今でいうトコロの富士山ツアーに出かける人たちの
集合場所として有名な旅籠だったんです。
今となっては何の痕跡もないんですが・・・

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コレ、交流館の裏にある駐車場。
この駐車場を含めた交流館の敷地は、玉屋の敷地とまったく同じなんだそうです。
縦に細長いでしょ。
当時は建物の間口の長さに対して税金がかけられました。なので、街道に面した
部分は狭く、奥行きを長ーくとっているんですね。こういう土地の区画ってのは
案外昔のまま残ってたりするものです。

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交流館の向かい側にあるのは、日野宿本陣。
ココのレポートはまた後日。
今日は切手を買いにきただけだからサ。

では最後に、交流館1階にある自販機の写真をどうぞ。

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問答無用で新選組を主張する町、それが日野です。


元・信金の建物なのに「勝手に金策をいたすべからず」って言われてもなぁ・・・。

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新選組といえばすぐにでてくるのが、有名な「局中法度書」。
子母澤寛の「新選組始末記」には
一、士道に背くまじき事
一、局を脱するを許さず
一、勝手に金策いたすべからず
一、勝手に訴訟取り扱うべからず
一、私の闘争を許さず
右条々相背き候者切腹申し付くべく候也
とあります。
ところが隊士だった永倉新八の「新撰組顛末記」には四か条のみが記されて
いて、「私の闘争を許さず」は書かれていません。また、単に「禁令」とだけ
書いてあり「局中法度」の文字も見えません。
そのため、「局中法度」の名称や条文の内容は子母澤創作の可能性が高い
ことが指摘されています。
ただ、「新選組始末記」とほぼ同時期に出された平尾道雄の「新撰組史録」にも
始末記と同じ内容の記述があり、子母澤一人の創作ではないような気もします。
なにか共通する情報源があったのかもしれません。

ところで、日野市の他にも新選組がデザインされた切手を発行した所ってある
んでしょうか?
ご存知でしたら教えてくださいね。



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江川農兵設置される!

江川太郎左衛門英龍さんの死後、跡を継いだ息子の英敏さんは引き続き農兵の
設置を建言し続けますが、この英敏さん、文久2年(1862)8月に23歳の
若さで亡くなってしまいます。
12月に代官職は英敏さんの弟で英龍さんの五男・英武さんが10歳という年齢で
継ぐことになりました。

その年の8月に薩摩藩が「生麦事件」をやらかしちゃいます。怒ったイギリスは翌年
2月に軍艦8艘を横浜に入港させ「この責任は幕府がとれや、ゴルァ!」と恫喝。
戦争になるかもしれないゼ、ってんで江戸から疎開する人たちが大勢地方に逃げ出し
ます。「ヤバイよ、ヤバイよ」(by 出川)。
そうすると、そういった避難民の家財などを狙った強盗集団が横行してきます。
多摩地区などは距離も疎開地としてちょうどイイカンジの所でしたから、治安の悪化
が深刻化してきました。

そんな中で文久3年(1863)3月、拝島村組合大惣代の福生村名主十兵衛と砂川村
名主源五右衛門から代官所に、高島流小銃100挺の拝借願いが出されました。
その理由は、最近の強盗は刀や鉄砲で武装しているので、これに対抗するには竹槍等
では不十分。より強力な武器が必要だからとのことでした。
高島流小銃とは、従来の火縄銃に代り高島秋帆がオランダから買い入れたゲベール銃
のことです。火縄に代り火打石(後に雷管)で発火させるので雨天にも使えるのが特徴
でした。このゲベール銃を江川英龍さんが改良・国産化に成功させ、幕府軍の主力銃と
なっていました。
自衛のために、農民が新式銃を借りて保管する状況が、多摩地方にも迫っていたという
ことは注目です。

江戸は砲撃を受けませんでしたが、長州や薩摩は諸外国と戦争をやらかして三回コールド
負けレベルの徹底的な敗戦。村では治安の悪化。こうした状況に至ってついに幕府は
江川太郎左衛門英武の建議を取り入れました。
文久3年10月、江川支配の幕府領に限ってですが農兵取り立ての決定が、幕府から
下ったのです。

幕府海防掛から下された指図は
●江川代官支配所に限定すること。
●農民には苗字帯刀を許可しない。
●農業の合間に軍事訓練を行い、有事の際に兵卒として動員する。

でした。

江川代官のこのときの支配地は、武蔵・相模・伊豆・駿河の4か国。その宿村から取り
立てる農兵は、およそ500人。
武器の小銃は幕府から貸渡されましたが、農兵にかかるその他の経費は、「身元の者」
と云われる裕福な者からの献金で賄うことになったようです。
幕府が出した農兵取り立ての趣意書が、「里正日誌」に記されています。

「一、世の中が乱れると、老少強弱を問わず夫役等が課せられ、父子夫婦を養うことがで
きない。その虚に乗じ盗賊悪党共が蜂起し、金銭米穀を強奪し、実に困難を極めるもので
ある。ところが東照神祖御治国300年来昇平の御徳化に浴し、飢寒の憂いもなく生業を
営み、広大な御恩沢にあずかり有り難いことである。
しかし、人に不時の病苦があるように、いついかなる変事が起こるかも計り難いので、春
以来武家へ御触れ達しもあるように、外国からの攻撃は言うまでもなく、宿村々の憂いを
未然に防ぐ配慮から、村高または人員に応じ多すぎない範囲で、壮年強健の者をもって
農兵を取りたて、期限を定め交代するようにしたい。
これはつまり、上は国家のため、下は宿村の無難、産業・子孫繁栄の基本と理解し、気力
を奮い立て勉励したいものである。

一、前条の趣意を納得し、組合限り精選人数を取決め、宮社・寺院の境内その他近所で
都合のよい場所を見立て、角打ち・銃隊訓練等を農業の合間を見計らい稽古するように。
もっとも教授役の者の指図を請けること。農兵は口論や身分を越えて差し出たことを決して
致さず、睦まじく、謙遜専一に心得ること。質素倹約の風に復し不孝不義や争いごと、訴訟
などなく取締りをよくすること。」

※角打ち・・・的を狙った射撃訓練のこと。この時代、的のことを角と言った。「八重の桜」で
山本家にある「角場」は「射撃場」という意味。

お上から見た農兵設置の意図と役割が述べられています。
なんとか理由をつけて考えたんでしょうね。やや回りくどくなった文章がお上の心中を表して
いるような気がします。
江川英龍さんの元々の計画は「海防のため」の農兵利用でした。それが「地域の治安維持」
と目的は変わったものになりましたが、何はともあれ農兵の取り立てが決まりました。

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ゲベール銃は「燧発銃」(すいはつじゅう)ともいいます。燧石、つまり火打石を
使って火薬を発火させる方式の銃です。
実はこの燧発銃はオランダ人の手で、江戸時代の中頃には日本に入ってきて
いて、8代将軍・吉宗の前で試射も行われています。しかし、幕末に高島秋帆が
出るまで日本では全く注目されませんでした。
それは、江戸時代鉄砲の目的が軍事から離れ、的を狙うことに重点を置いた
射撃術になってしまったからです。
的を狙うだけならば、火縄を火皿に落として発火させる方式の火縄銃が打つとき
の衝撃も少なくベストな銃です、燧発式だと強力なスプリングを使って燧石を
打ち付け火花を散らさねばならないので衝撃が大きく、命中精度は火縄銃より
劣るのです。
燧発銃は雨天で使用できない火縄銃の欠点をカバーできるものでしたが、命中
精度が低く、強風には弱いという欠点があり、軍用銃としては火縄銃より多少良い
という程度のものでした。
欧州ではこの欠点を解決するべく雷管式の銃が作られ、すでに使用されていま
した。しかし、日本に輸入する際、赤道付近の暑気・湿気で発火不良になってしま
うという問題点がありました。
江川英龍さんはこの雷管を研究し、国産化することに成功。韮山の代官屋敷に
工場を建て、雷管式ゲベール銃の量産化をしていったのです。
・・・とはいうものの、ゲベール銃は丸い弾丸を先込めする方式で、銃身の内部は
ただの筒ですから、基本的な構造は火縄銃と変わらないものだったんですね。
ゲベール銃の銃身の中にライフリングを施し命中精度を高めた銃を、ヤーゲル銃
といいます。会津の白虎隊はこの銃を使用していたとのことです。



江川太郎左衛門英龍(大河ドラマの主役にぜひ!)

現在、このブログと大河ドラマの「八重の桜」がほぼ同じくらいの時代を
進行中ですね。
東北復興支援大河とはいうものの、この時代の中心はやっぱり京都。
徳川慶喜も西郷隆盛も桂小五郎も坂本龍馬も新選組も、幕末オールスター
はみんな京都に出張中です。
会津では綾瀬・八重ちゃんが尚之助さんと結婚しましたけど、多摩では
これまた大きな動きが起きようとしていました。

時代はやや遡りますが、文久3年(1863)幕府から江川太郎左衛門支配
の代官領で農兵の設置が認められたのです。
農兵とは「農民による洋式近代武装兵」のこと。
この農兵の出現は幕藩体制の大きな転換を表すとともに、その後の明治
時代における多摩地域に重要な影響をもたらすのです。
まー、それくらい歴史のキーポイントだとワタクシは思うのですが、これが
案外知られてないんス。

さて、今回はその農兵プランを打ち立てた張本人をご紹介したいと思います。
それがこのブログでも何度も出てきてる名前、そう、
江川太郎左衛門英龍さんなのです!
本によっては江川坦庵ていう名前で書いてあるものもあるかもしれませんが、
同一人物です。
この人が幕末期に「世直し江川大明神」とよばれた名代官なんですが、今回
は特に農兵に絞って話をススメましょう。

英龍さんは享和元年(1801)に伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英毅の
次男として生まれました。太郎左衛門てのは、江川家当主を表す名前です。
20歳のとき4歳年上の兄が病死したため家督を継ぎました。
代官として受け持った地域は、相模・武蔵・甲斐・伊豆・駿河に及ぶ、約8万
石。この武蔵国の中に東大和を含む多摩地域が含まれています。
代官というのは天領(幕府の直轄地)を支配しますが、通常は何年かの任期が
あって交代となります。ところが江川家の場合、中世豪族の生き残りで代々伊豆
を支配してきた一族なので「世襲代官」という特殊な旗本でした。
天保の頃(1930年代)になると、日本に外国船が頻繁にやってくるようになり
ます。英龍さんは伊豆韮山が本拠地ですから、自然と海防に感心が向くわけです。

外国の脅威から日本を守るためには、外国のことを知らなくてはならないという
ことで、英龍さんは勘定吟味役の川路聖謨さんに渡辺崋山を紹介してもらい、
共に西洋の勉強を始めます。
当時は西洋学=軍事学ですから。
英龍さんや川路さんは海岸線を含む天領を支配していたので(代官は勘定奉行の
支配下)、危機感は幕臣の中でも特に強かったのだと思います。

さらに英龍さんは砲術家の高島秋帆(たかしましゅうはん)に弟子入りして
高島流砲術を勉強します。
秋帆さんは長崎奉行所直轄の鉄砲方の家に生まれ、出島を経由して入ってくる
西洋の最新式の鉄砲や砲術の知識・技術を持っていました。
英龍さんは秋帆先生について、新式の銃や大砲について、その鋳造方、さらには
西洋式軍隊編成を学びます。

そんな英龍さんが日本の海岸線を守る策として提唱したのが「農兵」です。
先ず外国船がやってくるであろうと予測できる伊豆を任されながら、その防備策の
不十分さを痛感していた英龍さんは意を決し、天保10年(1839)5月「伊豆国
御備場之儀ニ付申上候書付」という建議書を幕府に提出します。
「平時は農民で、非常時に武器を与え、調練時には苗字帯刀を許す。
農兵は早急に役立つものではないが、日を重ねて訓練すれば、必ず国家の御役に
立つものである。定期的手当にはおよばないが、調練には経費を必要とする。
また、武器弾薬も幕府から貸与して訓練に出精させ、若干褒美を与え、上達した
者には1~2人扶持を下し、さらに緊急事態などで非常勤務につく場合には手当
を支給し、功ある者には褒賞をしてやれば、すすんで稽古をするようになる。」


とまぁ、これがその内容です。
とーぜんのことながら幕府は却下。当然というのは、農民に武器を持たせるという
のは「兵農分離」という幕府の根本政策にハナっから抵触するワケで、幕閣から
すれば「ありえないし」という提言なんです。

英龍さんを「こいつヤルじゃん」と評価して、引き上げていたのは、時の最大権力
者、老中の水野忠邦でした。
彼は「天保の改革」の失敗で「ダメ政治家」の烙印が押されてる印象が強い人で
すが、さに非ず。当時の海外情勢については、一番理解力のあった政治家なん
ですね。
江川英龍、川路聖謨、それと羽倉外記っていう房総地方を治めていた代官がいる
んですけど、彼らは「幕府三兄弟」と称されるほど西洋事情や西洋武器・技術の
習得に長けていました。その3人を抜擢していたのが水野忠邦だったんです。
水野さんは高島流西洋砲術などにも関心が高く、行く行くは幕府軍も西洋式の
近代軍制に移行させる肚積もりがあったでしょう。
英龍さんを幕府の鉄砲方にまで就かせているくらいですから。

ところが天保14年(1843)に上知令の失敗で水野さんが失脚すると、水野一派
と目された英龍さんは川路さんらと共に左遷されてしまいます。
英龍さんは鉄砲方を罷免され、代官職だけをやらされることに。

しかし、弘化元年(1844)~3年にかけて、フランス船やイギリス船が琉球に
来航。アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航。フランスインドシナ
艦隊司令官セシュが長崎に来航、と日に日に日本列島に外国船がやって来るよ
うになり、幕府の鎖国政策はだんだんと行き詰って行く事態に。
そんな中、マリナー号事件というのが起こります。

これはマリナーズのイチローがヤンキースにトレードされた事件なんですが、と
いうのは嘘なんですが、嘉永2年(1849)閏4月にイギリス船のマリナー号が
江戸湾にやってきて、勝手に測量をおっ始めたという事件です。
すぐに下田奉行が退去勧告するんですけど、艦長は「けっ、木端役人が!」と侮って
シカトを決め込むばかり。
急遽、英龍さんが交渉相手に任命されます。すると英龍さん、いつもは質素倹約に
務め木綿の着物しか着ないのに、この時は日本橋の越後屋で最高級のキンキラ
キンの野袴と陣羽織をあつらえ、手代たちにも新品の羽織を買い与えて交渉に臨み
ました。そして
「拙者が人民15万人を支配する政府の役人であーるッ!!」
と挨拶すると、艦長はその堂々とした態度とセレブな出で立ちに「やべっ、マジで
政府の高官が出てきちまったよ」と恐縮して、すぐに退去していったんです。
相手を読んだ、英龍さんのファインプレー。

これで英龍さんは再評価され、江川株価も急上昇。
翌嘉永3年(1850)6月に「豆州下田湊海防御備向存寄之趣申上候書付」を
幕府に提出します。
「下田警備の常備軍の設置、台場築造に加え、伊豆・駿河の天領から農兵を取り
立てて備えたい。農兵については十分な考えがあってのことなので、質問がある
なら別に答申書を提出したい。」

ここで英龍さんは、天領での農兵取り立てと台場の建設を提言しています。

幕府内部でも、英龍さんの意見に多少耳を傾ける雰囲気が出てきました。
水野忠邦が失脚した後に幕府トップの座についたのは阿部正弘でしたが、彼は
当初英龍さんや川路さんらを「水野一派」として疎んじていたんですね。
ところが、だんだんと「仕事はデキるやつらじゃん」と評価するようになり、川路
さんも勘定奉行へと取り立てらるようになったんです。

英龍さんの提言も一部では理解され、農兵の利便性も半ば認められるようには
なったんですが、
「農兵に取り立てられられたことに寄せて、何らかの弊害が生じないとも言えない。
このことを深く考えて、人物をよく選び抜いた上で日頃から十分に教育し、ついに
屯田兵として認められたならば、その時は終生の手当をもって採用しよう」

と、親友の川路さんですらこのように一揆や反乱を警戒し、兵農分離の大原則を
曲げることには大きな抵抗を感じていたようです。

農兵計画はなかなか実現しませんが、台場建設は実行に移されました。
しかしこれとて嘉永6年(1853)にペリーが来航してからですから、英龍さんと
しては遅きに失したと思っていたかもしれません。
それに当初、英龍さんは浦賀水道を守るラインで台場を建設するプランを立てて
いたのですが、完成まで何年もかかってしまうという理由で却下。品川沖のライン
まで引き下げられちゃったんですね。
もっとも英龍さんは台場建設前の検分をした後の報告書で、重要なのは軍艦の
購入と製造、航海の習熟であり、そのためにはオランダへ留学生を派遣し、地球を
一周するくらいの技術を身につけることだと言ってるんです。
「たとえ台場を作ったとしても、申し上げたように軍艦を製造しないのでは誠に
窮屈な計画になり、とても十分な備えとは申し上げられません。」

どうスか、このセンス。勝海舟や坂本龍馬あたりより先を行ってるでしょ。

結局、農兵計画の実現を見ないまま安政2年(1855)1月に英龍さんは55歳で
この世を去ります。しかし、家督を継いだ息子の秀敏は引き続き農兵策を幕府に
建言し続け、その弟・英武の代の文久3年(1863)についに認められることと
なります。その話は、また次回。

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江川太郎左衛門代官所江戸役宅跡
本所南割下水という場所で、近所には津軽藩上屋敷がありました。また、浮世絵師で
有名な葛飾北斎もこの近くで生まれています。
現在は公園となり、何も残っていませんが「江川太郎左衛門終焉の地」の案内版が
立ててあります。

せっかくなんで、もうちょっとお付き合いしていただくことにして。
英龍さんのその他の業績をいくつかご紹介のコーナー。

 「剣術道場建ててあげたよ」
英龍さんは剣術のウデもなかなか凄くて、神道無念流・岡田十松の門人でした。実際
に稽古をつけたのは兄弟子の斎藤弥九郎でしたが、弥九郎が独立して道場「練兵館」
を作ったとき、その資金を出したのが英龍さんでした。「練兵館」は千葉周作の北辰一刀
流「玄武館」、桃井春蔵の鏡新明智流「士学館」とともに「江戸三大道場」と呼ばれました。
弥九郎はその後、英龍の相談役・補佐役として支え続けます。

 「種痘を広げたよ」
ジェンナーが発明した天然痘予防法の種痘は嘉永2年(1849)に日本に入ってきました
が、英龍さんは翌3年に自分の子供2人に接種させ効果を確認すると、自分の支配する
領内へ普及させました。接種した医師の伊東玄朴は伊東俊斎とともに英龍さんの庇護を
受け、安政5年(1858)種痘所を設置させます。

 「パンを焼いてみたよ」
パンは戦国時代に日本に伝わり、長崎出島でだけ作られていました。これを高島秋帆が
乾パンにすれば保存食になるよと教えたところ、英龍さんは本格的なパンの製作に乗り
出します。自分の家臣にパン製法を学ばせた他、韮山の江川邸ではパン釜の切石が
見つかっています。全国パン協議会は英龍さんに「パン祖」の称号を贈っています。

 「掛け声を考えてみたよ」
西洋式軍隊の調練をするとき、一番困ったのが号令のかけ方だったようです。最初は
オランダ語をそのまま使っていましたが、これに抵抗感を感じるものもいたからです。
そこでオランダ語の掛け声を和訳し、さらに命令調の言い切り型にするなどの工夫を
加えて、日本式の号令を発明したのです。
「右向け、右」「気を付け、前へ習え」などはこのときできた掛け声。

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芝新銭座大小砲習練場跡
幕府は生前の英龍さんの功に報いるため、江川家に浜御殿脇の海浜地帯8200坪
余りの土地を与え、ここに大小砲の練習場、役宅、与力・同心の長屋などを作りました。
家督を継いだ秀敏はここに「縄武館」を作り、門人の指導に当たりました。
現在のJR浜松町駅の近くです。

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英龍さんは兵糧・備荒食料としてパンを勧めています。これは代官として天保の
飢饉などを経験したことからくる対策だったのだろうと思います。
ということで、英龍さんのパン製作は乾パン作りを中心に行われたのですが、
英龍さんの指示や製作者の報告の中に、砂糖や卵で味付けすることが述べられて
いるとのことなので、菓子パンの製作も行われたと思われます。

ところで、新選組の人たちはパンを食べたのでしょうか?
北海道まで行った土方さんや島田魁さんらは、箱館政府の中にフランス軍の派遣
指揮官がいましたから、彼らと一緒に食べたことでしょう。
てゆーか、時間があったら土方さんは自分でパン作りとかやっちゃいそうな気が
するんですよね。着物の修繕なんか得意だったっていうし、なんか「家庭科系」の
仕事に凝りそうな気がするんですが・・・いかがですか?



新・歌舞伎座に行こう!

恒例の番外編ですよ。

皆さんすでに、新聞やらテレビやら風の噂やらでご存じかと思いますが、
東京東銀座にある歌舞伎座が建替えられましたよね。
いよいよ4月2日から杮落しの公演が行われるんですが、それに先立って
3月27日、28日の両日、開場式が行われたんですね。
27日は歌舞伎役者の方々が銀座をお練りしましたから、皆さんもニュース
など、あるいは実際にご覧になったのではないでしょうか。

実はワタクシ、プロフにもありますように歌舞伎が大好きでして。
で、今回28日の開場式を観に行くことができたんですね。
ラッキー・チャ・チャ・チャ。
つーワケで、今回の番外編は新装なった歌舞伎座のレポートをお送り致します。
まぁ、幕末にも東大和市にもカンケーないけどサ。
いーじゃん、いーじゃん、ジャンバルジャン。

ってことで、行ってみるザンス!

DSCF0791 a

ハイ。地下鉄東京メトロ東銀座駅に到着です。
前の歌舞伎座のときは改札抜けると地上に出る階段があったんですが、これが
狭い上にけっこう急な階段でねぇ。雨の日なんかは通りにくくて大変だったん
ですけど。
今回は改札抜けるとそのまま歌舞伎座のB2にチョクで行けるようになりました。
こりゃ、便利だネ。

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B2はお土産屋さん、弁当屋さん、それからコーヒーショップやコンビニがあります。
まだ公演前なのでお店は少ないですが、芝居が始まればもっと増えてくるんで
しょうね。
けっこう広いスペースなんですが、災害時には帰宅困難者を一時保護してくれる
そうですよ。
銀座で地震などにあって帰れなくなったら歌舞伎座に行きましょう!
海老蔵さんや染五郎さんも待ってるよ!(多分、待ってないです)

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この日、一番人気があったのはココ。きんつば屋さんです。
このお店は以前、歌舞伎座の1階で実演販売をしていたお店ですけど、当時から
人気のお店ですよ。

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そろそろ劇場へ行きましょう。エスカレーターで地上にGO。

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地上に出ると目の前にドーン!
鎮座ましますのは「歌舞伎稲荷大明神」
これも以前は劇場の中にあって、普段はお参りできない所にあったんですが、
「もっと表に出してぇや!」って神さまが仰ったんですかね。
目立つところにドーンです。

で、お参りをして後ろを振り向きますと・・・

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ジャーーーン!!
待ってましたッ!
五代目・歌舞伎座でございます!

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唐破風の上に乗っかってるのが櫓です。
「ただいまお芝居を上演中ですよ」って合図の印です。
ですから、歌舞伎座が建替え中の約3年間は、歌舞伎を定期公演していた
新橋演舞場にこの櫓がかかってましたね。
真ん中のうにゃうにゃした文字は「きゃうげんづくし(狂言尽くし)」と書いてあり
ます。狂言っていっても「能・狂言」の狂言とは違って、歌舞伎でいう狂言はお芝居
のことです。

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さぁ、では中に入りましょう。
入って「おッ」と思ったのは、ロビーなど全体の作りが以前の四代目・歌舞伎座と
ほぼ同じってことでした。
やたら新品ピカピカってカンジでもないし、「久しぶりに歌舞伎座に来たナ」って
のが率直な感想です。

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とはいっても変わった部分もありまして。
ココはロビー1階下手側のスペースですが、以前はこの場所に歌舞伎グッズなど
を売る売店がありました。あのきんつばもココで実演販売されてましたけど、
お店機能は地下に行ったんですね。

では客席に行ってみましょうか。

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ハイ、お馴染み三色の定式幕ですね。
永谷園のお茶漬けじゃないよ、こっちがオリジナルだからね、そこのお子たち!
歌舞伎では揚幕よりも引幕の方が格上と言われています。
もっとも、現代の新作歌舞伎を上演する場合はその限りではないですけどね。
舞台のサイズは大正時代の歌舞伎座から変わってないそうです。今回もね。
それは、役者たち歌舞伎の出演者の体に「歌舞伎座の寸法」が染みついているから
だそうです。

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感動的なのは、この座席の足もとスペースですよ!
とっても広々。先代の歌舞伎座はここが狭くてねぇ。座っている人の前を通るのが
大変だったんですが、これならラクラク通れます。

さぁ、いよいよ開場式のはじまりです。
幕が開くと松羽目というおめでたい様式の舞台です。中央には大太鼓。
ここで座元から鳴り物方に太鼓のバチが手渡され、「一番太鼓」の披露となります。
新しい劇場に太鼓の音が響きます。音響効果もバッチリですね。

続いて舞台は「寿式三番叟」の上演です。
これは能を題材にした舞で、国家安泰、五穀豊穣を祈念したおめでたい出し物です。
よくお正月の歌舞伎公演などでも取り上げられますね。
登場するのは、翁、千歳、三番叟の3人。今回は翁が片岡我當さん。千歳が片岡
秀太郎さん。三番叟が市川左團次さんでした。
このお三方の所作ってのも珍しい組み合わせですが、これも開場式ならではですね。

「三番叟」が終わってちょっと休憩タイム。
その間に場内を探索です。
先ずは周りを見てみましょう。

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上手桟敷ドーーーン

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下手花道方面ドーーーン

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1階後方座席ドーーーン
「おッ」とここでビックラしました。
前の歌舞伎座は2階座席を支える柱がこの場所に何本かあったんですね。だから、
せっかく1階の席を取ったのに柱が邪魔で見えないよォ、なんて悲劇があったん
ですが、これならスッキリです。
「2階が落ちてこねぇか?」という一抹の不安が頭をよぎらないでもないですが、
まぁ、大丈夫なんでしょう。
ビバ・現代建築!

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2階は1階ロビーから吹き抜けになっています。これも先代のまま。
周りには歌舞伎座が所有している日本画が掛けられています。
以前は襲名披露などの公演があると、この場所でその役者の写真などを展示する
企画展などに利用されたんですが、今回もそういう使われ方をするんでしょうね。

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3階には思い出の歌舞伎役者の写真が飾られています。
前の歌舞伎座の3階にもありましたが、高い場所に並べられていました。
ところが今回は目線の高さに並べられているので、見やすいですよ。

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その中には、新・歌舞伎座の完成を待たずに亡くなられた富十郎さん、芝翫さん、
雀右衛門さん、そして勘三郎さん、團十郎さんの写真も。
この方々のお芝居がもう二度と観られないのかと思うと、本当に、本当に残念で
なりません。

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3階にはお土産屋さんなどのお店も、けっこう入るみたいですね。
この日はまだ準備中でしたけどね。
それから、場内のいたるところに自販機が置いてありました。
劇場の中は喉が渇くので、こりゃありがたいですね。
あとね、女性用トイレも増設されて、休憩時の渋滞が緩和されると聞きました。
サスガに見には行きませんでしたけど。

さぁ、そーこーしているうちに第二部の始まりです。
いよいよ開場式!
舞台の上に松竹、歌舞伎座のおエライさんと、歌舞伎役者の方々がズラーーーッと
勢揃いです。俳優協会会長の坂田藤十郎さん筆頭に、幹部俳優の方々がこんなに一同に
会するのを見るのは、私は初めてでサスガに圧倒されます。
しかし、テレビなどでよく見かける幸四郎さんや、若手の獅童さん、海老蔵さんたちは
いいとして、ほとんど歌舞伎しか演じない役者さんて、いつも顔を塗った姿しか拝見
してないでしょ。
今回は開場式だってんで、みんな素顔なんですよ。
だから、よく舞台で見る役者さんでも、わからない人がけっこういてねぇ・・・。
ずっと「あの人は誰?」探ししてました。

式のシメは菊五郎さんの音頭で「シャンシャンシャン、シャンシャンシャン、シャン
シャンシャンシャン、シャンシャンシャン。」

以上で開場式終わり!
いやー、いいモノ見せていただきました。
ところで、翌日の新聞を見たら開場式の舞台に猿翁さんがいる写真が載ってました。
ワタシの観たときにはいなかったんですよ。
ワタシの観たのは午前の部だったんで、きっと午後からの部に出演されたんですね。
ちょっと残念。

歌舞伎って敷居が高いとか、難しいと思って敬遠してる人がいるかもしれませんが、
そんなコトないですよ。どう転んだって日本のお芝居です。
わかりやすくて笑える演目なんかも、けっこうあります。
料金は確かに高めですが、一般にお芝居って1本2時間くらいじゃないですか。
でも歌舞伎は1回の公演で4時間くらいの中に3本くらいのお芝居や踊りを
見せてくれるので、お得って考えもできるんですよ。
まぁ、機会があったら、ぜひ見て欲しいです!

歌舞伎座も新しくなったことですしね。

そうそう。
チケットがなくても歌舞伎座B2の売店は自由に買い物ができます。
それから屋上には庭園があって、誰でも行けるそうです。
この日はまだ準備中で入れませんでしたけど・・・なので、こけら落としが始る
2日以降にまたワタクシ行きますですヨ。

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ハイ。本日の戦利品(お土産)。
例のきんつばです。ワタクシには珍しく並んで買いました。
6個入りで1200円也。
つぶあんが甘さ控えめで美味しかったです。

じゃ、もう1個、ワタクシ自慢の歌舞伎グッズをご紹介。
コレはこの日買ったものじゃないけどね。

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ジャーーーーーーン!
これが中村小山三さんストラップだーーッ!!
小山三さんは中村屋(亡き勘三郎さんのトコロ)の大番頭の役者さんなのさ。
でもって、93歳の真・元祖お姉ェ系。歌舞伎界の生き字引お姉ェ。
この方を知らないと歌舞伎ファンとしちゃ、モグリだぜ!
コレは当代中村勘九郎さんの襲名披露公演のとき、演舞場の売店で買いました。
いいでしょーーー。

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山南さんも言ってる通り、以前の歌舞伎座は階段だけでしたが、新しい歌舞伎座は
エレベーター、エスカレーターが充実。新橋演舞場もエスカレーターは上りしか
ありませんから、コレまた画期的です。
まぁ、やっぱり観客って高齢の方が多いんでね。
それもまた、問題ではありますが・・・。

ところで前々から思ってたことなんですが、歌舞伎に新選組を扱ったものってない
んですよね。
そもそも幕末ものってのが少ないんです。コレは台本が明治以降に書かれた
新歌舞伎か新作歌舞伎に限られちゃうから、当然って言えばとーぜんなんですが。
ワタクシの知る限りでいうと、幕末を扱った歌舞伎は真山青果・作の「江戸城総攻」
と池田大伍・作の「西郷と豚姫」くらいです。このうち「江戸城総攻」は三部作
なんだけど最近はその中の「将軍江戸を去る」しか上演されていません。
この中で新選組は、といえば「西郷と豚姫」の中でチョイと出てきたかなぁ、と
いうくらい。西郷隆盛を探索する隊士数人ってカンジで。
昔、萬屋錦之介さんが舞台復帰したときの写真に、新選組を扱っている舞台を歌舞伎
座で演じてるのを見たことがあったんだけど、どうもそれは歌舞伎ではなく時代劇
としてのお芝居だったみたいですね。

まぁ、かつてはね、新選組も賊軍扱いでしたからしょーがないとしても、そろそろ
いいんじゃないですか。新選組が主役のお芝居も。
2008年からは市川染五郎さんが「竜馬がゆく」を新作歌舞伎として三部構成で
上演しました。染五郎さんはドラマでも竜馬を演じたでしょ。それの舞台版みたい
なカンジでしたね。
そんな風に新選組も・・・とういのもいいんですが、ココはどうでしょう。
思い切って義太夫狂言として新選組を歌舞伎化してみては!

史実には一先ず目をつぶって、エンターテイメントに徹しましょう。
赤穂浪士だって史実に近い「元禄忠臣蔵」より、荒唐無稽な「仮名手本忠臣蔵」の
方が歌舞伎らしいでしょ。お芝居として見ると。
「歳三お琴初音別れ」で歳さんが踊ります。演奏が清元ならもっと華やか。
「池田屋近藤競討入」では近藤さんと宮部鼎三の一騎打ちです。
「鳥羽伏見源三郎討死」は源さんが花四天を相手に大立ち回り。等々。
面白そうでしょう?
誰か、こういうの書ける作家さん、いませんか?