黒船来航以来、日本中のあちこちで治安が悪化してきました。
幕府にとっては攘夷運動を活発化させる浪士とともに、諸外国との緊張感
も高まってきました。実際に薩摩や長州は外国と戦争をヤラかしちゃいまし
たしね。
当然ながら幕府は防備を整えなければなりません。
元治元年(1864)から幕府は
焔硝蔵(えんしょうぐら)という火薬庫を江戸の
近くに作ります。和泉新田(東京都杉並区)と千駄ヶ谷(同渋谷区)です。
だけど、こういう場所って、反幕府勢力からしたら真っ先に襲いたくなる場所
じゃないですか。
「こりゃ、焔硝蔵の警備を固めないといけないでしょ。」
「誰にやらせるの?」
「やっぱり近くの人じゃない」
てワケで、甲州道中の宿場・
内藤新宿の助郷を負担していた
村々の中から、一部の村を焔硝蔵の警備に回したんですね。もちろん対象に
なった村は内藤新宿の助郷からはハズされました。
東大和市史によればその村は、松原・赤堤・経堂在家・若林・太子堂・代田・
下北沢・烏山(世田谷区)、和泉・和田・永福寺(杉並区)、西大久保(新宿区)、
上豊沢・中豊沢(渋谷区)の14ヶ村だそうです。
みなさんの地元、ありました?
しかし、困るのは内藤新宿の宿場です。甲州道中第一番目の宿場ですから
人手がなくなるのは困るんです。
「じゃー、どこかの村を内藤新宿の助郷に回せばいいじゃん。どこにする?
あー・・・、
多摩がいいね、ウン、多摩。決定ーッ!」
こんな軽いノリではなかったでしょうが、とにかく多摩地区のどこかの村が
内藤新宿への助郷に選抜されることになってしまったのです。
「ホラホラ、また来たよ・・・勘弁してよォ」
東大和市域の村民たちは、きっとそう思ったことでしょう。
元治元年10月から、どの村が適任かという調査が始まります。幕府から
評定所と御普請役の役人が派遣され、各村々を巡検することになりました。
これは、何としても阻止しなければいけません!
今まで熊本藩の預所になったり、和宮の行列警備に行かされたり、もう
たくさん!!
蔵敷村名主・杢左衛門さんは訴えます。
ガンバレ、モクさん!(そう呼ばれてたか知りませんけど)
「江川太郎左衛門代官所の支配、武州多摩郡蔵敷分の村役人たちの惣代
である名主杢左衛門から申し上げます。
甲州道中内藤新宿の助郷をしている武州和泉村ほか13ヶ村が、先頃和泉
新田ほか1ヶ村の焔硝蔵の警備や炮薬運搬の御用を仰せ付けられたので、
残りの助郷だけではいろいろと通行が多くなっているので、勤めることが
難しくなっていると申立てがありました。代りの助郷を宿村一同で願い出た
ので、この度私ども近隣の村々を調査しにお役人がいらっしゃるとのことを
仰せになり、請け書きを提出いたしました。
しかし当村(蔵敷村)は元々奈良橋村の分村で、村高は215石7斗4升6
合4勺、人口も少なく困窮の村なので、山本大善様が
ご支配されていた天保8年(1837)には難渋していることを申立て、食料代
の拝借を願い出たところ、元々実に困窮している村だと同情していただき、
食料代の拝借と下され金の二通りの下知をいただきました。その拝借金は
5年で返済の指示でしたので3年分までは返納したのですが、よほどの困窮
者は返せずにいて、残り2年分は25年賦にしてもらい返納中でございます。」先ずは杢左衛門さん、村の人口が少なく収穫も低いことから、非常に困窮
していることを訴えます。
2年で返済しなければいけない借金を、25年かけてだなんて、相手がヤミ金
じゃなくても「なめとんのか、ワレ!」って話です。
「その上以前より、当村は尾州様のお鷹場内で、お鷹御用の
ために水子村ほか2ヶ所に陣屋があり、江戸の戸山御屋敷にときどき人馬を
差し出しています。特に鷹狩りのときには御鷹方役人の方々が大勢ご休泊
され、その他荷物運びなど多くの人馬提供を勤めてきました。
尚、その上最近では治安警備が厳重となり、甲州道中小仏
関所の番人足を遠い場所から差し出し、その上非常時の駆け
付け人足などは頑丈な者を選んでおります。彼らは別帳の人別帳に書かれて
おります人数ですが、中には病気その他の理由もあり、非常時の人足も足り
ないほど人数の少ない村でございます。」このブログは幕末がテーマなので触れなかったのですが、東大和市域を含む
一帯は尾張徳川家の鷹場もありました。同じ村の中に天領、知行地、鷹場
が存在する複雑な地域でした。
さらに、以前に取り上げましたが
小仏関所の番人出張。
こんなに人を出せと言われても、そもそもウチの村は人口が少ないんスから、
と今度は物理的にも無理なことを訴えます。
「ことにこの度、当御支配所では農兵をお取立てになるとのご命令があり、
すでに江戸の新銭座の調練場へ鉄砲・剣術の稽古へ人を差し出しており、
熟練した者は人足として必要になるとのことであり、以上のことをもって、この
上内藤新宿の代助郷を仰せ付けられましては、とても伝馬の仕事を勤め続け
られるわけもなく当惑しております。このままでは潰れ百姓となり、離村する
のは目に見えており、小前百姓末々まで気持ちが沈んでおりますので、この
ことにつきご嘆願申し上げます。何とぞご慈悲をもって頼みました始末を、
幾重にもご同情くださり内藤新宿代助郷のことは、すべてご免除くださいます
ようお願い申し上げます。」農兵については後日取り上げたいと思いますが、これは銃による武装が主
ですから訓練が不可欠です。
小仏の番人といい、農兵といい、働き盛りのマッチョ兄さんはそっちに行かさ
れてるから無理ですよ。このままじゃ夜逃げする者も出てしまいますと、血の
叫びが綴られてますねぇ。
文章が長いので3つに区切りましたが、元治元年10月3日に蔵敷村名主
内野杢左衛門さんから、巡検に訪れた幕府役人に出された書状です。
東大和市史によれば、天保8年頃は確かに「天保の飢饉」の影響で、蔵敷村も
前年の天保7年から翌9年にかけては、家数57戸と変化が無いのに村民数
は248人から231人と激減しています。このあたり、杢左衛門さんの言う通り
食べる事にも厳しい状況だったのでしょう。
しかしですよ。
この書状が書かれた翌年(慶応元年)は、家数57戸で村民数305人と、人口
がかなり増えてるんですよね。
決して豊かではないでしょうが、食料事情は安定していたのではないでしょうか。
書状の前半部分は杢左衛門さん、ちょっと演出入っちゃった?
とは言うものの、やっぱり助郷はイヤですよ。
それが村民の気持ち!
さぁ、蔵敷村の訴えを、お上は聞いてくれるのかしら!?

「八重の桜」にいよいよ新選組が出てきましたね。会津といえば、この人。
斎藤一さんです。隊士の中でも女性人気が非常に高い斎藤さんですが、その
影響かドラマではイケメンが無造作ヘアーで演じるることが多い印象です。
しかし、孫の証言によれば生活態度は常に規則正しく、座るときは正座、暑く
ても手ぬぐいを首にかけたりすることもなく、几帳面な性格だったようです。
たぶん月代はキチンと剃っていたタイプです。
新選組試衛館グループの中では藤堂平助と並んで一番の年下。沖田さんより
2歳も若いんですが、映画やドラマでそうは描かれないのはなぜなのでしょう?
※天保15年は12月に弘化と改元されますので、斉藤の生年を弘化元年と
してある資料もあります。
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