今年は桜の開花がいやに早いですね~。 東大和市は都内と比べると、ちょいと標高が高いもんで、気温もだいたい 1℃くらい低いんですね。なので桜が咲くのも都内とは1~2日ズレがある んですな。特に多摩湖堤防の辺りなんかはね。 それでも今年はやっぱり早いですね。 桜の見ごろがアッという間に終わってしまうのは残念ですが、この勢いで 花粉シーズンも素早く去ってくれることを望みます。切に。 グシュン。。。 さて、今回は幕末の出来事からちょっと離れて「こぼれ話」的なことを書こう かと思います。まぁ。「里正日誌」の元治元年の箇所にでてくる記事なので、 幕末に起きた一件には違いないんですけどね。 まぁ、世の中の大勢にはまったく影響がない、ヒジョーに些末な出来事です。 「恐れながら書付をもって願い上げ奉ります 江川太郎左衛門代官所の支配である武州多摩郡蔵敷村小惣代名主の杢 左衛門が申し上げます。村の百姓藤助の次男銀蔵は今年28歳になります が、農業の仕事をせずに大酒を好み、所々歩き回り、その上親である藤助の 思う所に反発し酒乱の上、度々喧嘩や口論に及び、親類や組合は申すに 及ばず、役人様方がつとめて意見など仰っても、さらに取り合わず大変当惑 しております。なにとぞ格別のご慈悲をもって銀蔵を召し出され、お説教を していただきますようお願い申し上げます。以上。 元治元年5月 杢左衛門 木村樾(えつ)蔵様 」ホントに些末な記事でしょ。 銀蔵、なにやってんだよ、と言いたくなりますが、名主ですら手に負えないって いいうのは相当のグレ方ですね。・・・まぁ、28歳ですけど。 で、「説教してやってください」と訴えた先、木村さんとはどんな人なのかと いうと、これが 関東取締出役なんです。例の「泣く子も黙る八州さま」ですよ。 八州さまって犯罪人の取り締まりだけかと思ったら、こんなことまで引き受けて たんですねぇ。 「恐れながら書付をもってお慈悲を願い上げ奉ります 武州多摩郡蔵敷村 百姓 藤助倅 銀蔵28歳 右のものが博奕、その他悪事に関わったという噂をお聞きになり、近く村を お廻りになられた時にお召取りになり吟味されている中ですが、しばらくご猶予 を願い上げます。銀蔵は心身とも実に厚く承り正すところ、犯罪に関わった事は 一切ないのですが、日頃の行いが不真面目で農業を怠り大酒を飲み、方々を 歩き回ることから、自然とあいつはいかがなものだろうかという噂が立ち、今さら に今までの非行を悔いて重々恐れいっております。今後はきっと改心し農業に 帰りますので、ぜひともお慈悲を願い上げくれるよう私どもに取りすがり、ただ 共に歎き不憫に思いますので、お上を恐れずも嘆願奉ります。何とぞ格別のご 仁恵をもってこのたびのことはお許しなされますよう、村民一同、ご慈悲のご沙汰 を願い上げ奉ります。以上。 江川太郎左衛門御代官所 武州多摩郡蔵敷村 百姓 藤助親類 元治元年5月27日 百姓 籐七 組頭 平五郎 名主 杢左衛門 松村忠四郎御代官所 武州入間郡所沢村 名主 助右衛門 江川太郎左衛門御代官所 武州多摩郡八王子宿 名主 三郎兵衛 同 七郎兵衛 関東取締出役 木村樾蔵様 」 と思ったら、その月のうちに「銀蔵を許してください」と、かなりトーンダウンした 嘆願書が出されました。それも父親・親類、杢左衛門さんだけじゃなく、所沢や 八王子の名主さんまで巻き込んでの嘆願です。 文面を読むと、銀蔵は不真面目なのでいろいろと良くない噂が立ち、犯罪に 手を染めているように云われてるけど、そこまでじゃありません。反省してるんで 帰してやってくれませんか、となっています。 銀蔵は確かに仕事もせず、飲んだくれて、村では手に負えなかったのかもしれ ません。で、八州さまへご相談となったのでしょうね。 しかし、やはり八州さまは捜査官ですからね。大江戸FBIですから。 銀蔵を「犯罪者の疑いアリ」あるいは「犯罪者予備軍」という目で取り調べたん じゃないでしょうか。 資料では銀蔵が何日間拘束されていたかはわかりません。でも、八州さまは 百叩きくらいの量刑なら自分で採決できましたから、親族や村人としてはちょっと 怖くなったのかもしれません。 このような周りの働きかけもあって、翌28日には銀蔵の請書が村から八州へ 出されています。良かったね、銀蔵さん! つーか、働けよ! さて、もう一つご紹介するのは、7月に江川代官所に出された書状です。 「恐れながら書付をもって願い上げ奉ります 武州多摩郡蔵敷分 百姓権左衛門 婿養子 金十郎32歳 右の者は、最近農業を嫌い大酒を好み、昼夜に限らず遠近方々を歩き回り、無駄に 浪費をいたすので意見すれども、更に言う事を聞かず行いが増長してきたので、 仕方なく親類、組合、村役人に申し出て、なお再三言い聞かせましたがいう事を 聞きません。たとえ勘当し人別帳からはずれても、少しも問題はなく不当のことで あると申し、どうしても往々に心底は見届け難いのです。尤も、これまで悪事に 手を出したことはもちろん、事件を起こしたことは一切無いのですが、右の通り 不身情の者でこのままにしておき、万が一出かけた先で何か仕出かすかもしれ ないので、後々の災難を片時も安心できないので、やむをえず勘当し人別帳から 外すことを願い上げます。何とぞお慈悲をもって金十郎の身分を願いの通り勘当 し人別帳から外すことを仰せつけくだされたく、一同連印をもってこの件をお願い 奉ります。以上。 元治元年7月4日 右金十郎養父 百姓 権左衛門 組合兼親類 百姓 三左衛門 村役人惣代 名主 杢左衛門 江川太郎左衛門様 御役所 」ここに登場している金十郎は、銀蔵と同じようなことをしています。 ところが、金十郎の方は今後何をするかわかったもんじゃないから、勘当したい のでその許可をくれと、養父、親戚、名主までもが訴えてます。 働かないで大酒呑み・・・と、銀蔵と金十郎は同じことをしているように見えます が、藤助の実の子・銀蔵は嘆願書が出され、婿養子の金十郎は勘当される。 村民の温度差があって、面白いですね。 それにしても、狭くて収穫量の少ない村に、働かずに酒ばっか食らってるいい歳 した野郎が2人もいるなんて・・・大丈夫か、蔵敷村? そりゃ、助郷なんて引き受けてる場合じゃないよね~。  新撰組の中で町中の様子を探ったり、浪士などの動きを調べるセクション がありました。隊ではこれを監察と呼んでいました。 この監察で最も有名な隊士といえば、山崎烝(すすむ)さんではないで しょうか。まぁ、有名ったって土方さんや沖田さんほどの知名度がある訳 じゃないんで、このあたりの隊士を知ってると「お、新撰組知ってるネ」なん て言われるレベルの隊士ですね。 この人は京都あるいは大坂の針医者の息子と云われててます。監察という 密偵の仕事を任されるようになったのは、彼が京阪の出で地理・風習に 明るかったからでしょう。なので、映画やドラマではいつも町人の姿で登場 していますよ。 山崎さんの活躍で最も有名なエピソードは「長州浪士が集まってるのは 池田屋だ」ということを掴んだことで、よくドラマで出てくるシーンです。 これは西村兼文の「壬生浪士始末記」に出てくる話なんですが、実際に 池田屋に切り込んだ永倉新八の「新選組顛末記」にはその話が出てきま せん。さらに、事件後に会津藩から新選組に出された報奨金を受け取った リストの中に山崎の名前はないんですね。 もし、彼が池田屋が集合場所であることを突き止めたのであれば、第一の 功労者のハズ。やはり、永倉さんの書いた通り、池田屋事件に山崎さんは 絡んでなかったのでしょう。山南さんと同じく、屯所護衛チームだったのかも しれません。
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杢左衛門さんたちの「袖の下大作戦」は功を奏し、内藤新宿への助郷の 一件はなんとか回避できそうになりました。 ここで気になるのは、「で、いくら包んだのさ」ってことですよね。 元治元年(1864)11月12日に、江川代官所の手附元締である上村井 善平から大坂屋八十八の元に手紙が届きます。 封書の上書きには「極内用書無異」と書かれていました。つまり、極秘 文書ということです。 「今日下御勘定書の元締からの呼び出しがあり出かけると、折よく御普請 役の横山信太郎に会った。以前から彼に話しておき、また御普請役格論 所地改手附の中村晋平にも内密で話していた件につき、昨日晋平より 信太郎へ内密の話で両人の調査の策略として、羽村・川崎村(現東京都 羽村市)・福生村・熊川村(現東京都福生市)・砂川村(現東京都立川市) ・蔵敷村・三ツ木村・粂川村の全八ヶ村を内藤新宿助郷から除く予定として 取決め、組頭その他に書類を差し出したところ、右の通り定まったので 早速お知らせするところですが、今日信太郎に会ったのでとりあえず、調査 段階での重要な内密の話があり、恐らく右の通りに決まると思われるので、 重兵衛・源五右衛門・杢左衛門・藤吉その他へお伝えください。 この件については成就したときには横山・中村両人へは 1万疋以上の御礼をしてもらいたく、今度の事だけではなく 後日の役にも立つように、私から強いて話すことではないけれども貴方だけ の胸の内に入れていただき、願いが成就したのに不誠実だと思われない ようにお取り計らいください。 私に対する配慮はもとより、支配の間柄などで決して御礼はいりません。 その代り下女を一人至急手配してください。家内が出産のため家におらず 大変困っておりますので、よろしくお願い申し上げます。 右のことは厳重に秘密にしてください。」横山信太郎とは、中村晋平と共に巡察に来た役人です。 上村井さんは中村さんだけではなく、横山さんのも同じ策略を持ち掛けて いたようですね。 で、この2人の裁量で蔵敷村など8つの村が内藤新宿の助郷からハズさ れたようです。おそらく他の村も杢左衛門さんたちと同様の策略を仕掛け ていたのでしょう。コレ、それぞれの郷土資料で裏付けができると面白い でしょうねぇ。 そしてココが重要。 御礼の中身がズバリ書かれていますよ。1万疋=25両ときたもんだ! この金額は、だいたいこういった場合の相場なのか、それとも中村さん たちから出た要求額なんでしょうか? さて、大坂屋八十八さんからこの手紙を見せられた杢左衛門たちは、ひと まず安心したようです。 そして、前回ご紹介した中村晋平さんからの要求にあったからでしょうか、 金1両3分と銀4匁を払って本所で炭10俵を購入し、中村さんに届けて います。 そして、杢左衛門さん、三ツ木村年寄藤吉さん、粂川村年寄太左衛門 さん、大坂屋八十八さんと4人で協議の上、御礼の金額を次のように 決めたようです。 「一 金15両 横山信太郎様 一 金5両 中村晋平様 他に炭10俵 代金1両3分と848文 一 金3分 3人のお共の方 一 金15両 上村井善平様 他に1両1分(下女雇用金) 一 金3両 根本慎蔵様(江川代官手代) 一 金5両 大坂屋八十八 他に1両2分
合計48両1分と848文
他に1両1分と824文 酒食代
総合計 49両3分と1貫672文」現在の価値にすると500万円くらいでしょうか。けっこうな金額です。 配分を見ると、御普請役の横山さんの方が御普請役格の中村さんより も取り分が多いですね。 それと、自分では「いらないッス」なんて言ってた上村井さんに、15両 も支払ってます。さらに、八十八さんにも5両の支払い。このことから 村民と御普請役の間に入ってくれた代官所と公事宿に、相当の心配り をしていることが想像できます。 この金額は3つの村で割り、各村のそれぞれの負担は 「15両3分と550文 蔵敷村 17両1分と556文 三ツ木村 17両1分と556文 粂川村
右は11月20日夜、大坂屋八十八宅にて出金御礼の46両2分を封 金して八十八に預け、追って完全に助郷免除が決まったら3人同道 して御礼を申し述べることとして、それまでは大坂屋八十八に預け 置くこととした。」翌慶応元年(1865)3月22日、大坂屋八十八から各名主たちへ 蔵敷・三ツ木・粂川の3村は正式に内藤新宿の助郷から外されたとの 手紙が届きました。 めでたし。めでたし。 かつてはお上からの過酷な負担には、強訴や一揆といった強硬手段 でしか訴える術を知らなかった村々が、この幕末期を迎えると金銭に よる贈賄という手段で解決を図っているという所に時代の新しさを 感じます。 さらに言えば、当初「わが村は貧しくて・・・」と表面では言いながらも、 多額の賄賂を使えるほどに村々が貯えを持っていたという点も注目 ですね。この辺り、以前取り扱った 貯穀制度と合わせて見てみると おもしろいです。 意外な発見としては、このような裏工作に公事宿が大きな働きをして いたということですね。 八十八、暗躍してるなぁ~。  池田屋事件のあと、幕府から会津藩を通して池田屋に討ち入った 隊士たちに報奨金が下されました。近藤さんと共に真っ先に斬り 込んだ永倉さんは20両。井上源さんは応援に駆け付けたので 17両のご褒美です。 ところで、試衛館時代からの大幹部である山南さんが、この池田屋 討ち入りに参加していません。これが不思議です。 事件後に近藤さんが郷里に出した手紙によれば、当日は隊内に病人、 怪我人が多く30人ほどしか出動できなかった、とのことです。 山南さんもその中に入っていたのでしょうか? また、長州が古高を奪還しに壬生の屯所を襲いに来るという危険性 もあったため、何人か腕の立つ者を残していたともいいます。 あるいは山南さんはその責任者だったのかもしれません。 しかし、池田屋討ち入りに参加しなかったことは山南さんにとって 大きな曲がり角になってしまいます。 これ以降、山南さんの新選組内における立場が非常に薄くなって いってしまうんですね。
蔵敷村名主の杢左衛門、三ツ木村年寄の藤吉、粂川村年寄の太左衛門。 内藤新宿への代助郷を回避するために、彼らが起こした「袖の下大作戦」は どのような展開を迎えたのでしょうか? 元治元年11月、 大坂屋八十八なる人物から杢左衛門さんのところに「ぜひ 会ってお話したい」との 密書が届きます。 そこで杢左衛門、藤吉、太左衛門の3人は11月18日に江戸にいる八十八 の元に向かうことにします。 しかし、この大坂屋八十八とは、何者なのでしょう? 江川太郎左衛門の代官所によく出入りをしていた者に植木屋藤兵衛という 人物がいました。彼は芝柴井町(東京都港区)で公事宿(くじやど)を営んで いましたが、八十八はその藤兵衛の手下だったのです。 公事宿というのは、江戸時代、訴訟のために江戸に来た人が泊まった宿 です。訴訟には面倒な手続きが必要ですが、公事宿はその諸事務の代行 も扱いました。 江川代官所内で起きた訴訟事の一切を取り扱う人物が藤兵衛であり、同時に 代官所に非常に顔の利く人物であったことが想像できます。八十八はその 藤兵衛の元で実際に動いていた者なのでしょう。 3人が八十八に面会すると、彼は1通の書状を彼らに見せました。 それは助郷調査のために村々を巡察していた御普請役格・中村晋平から 江川代官所の手附・上村井善平に宛てた手紙でした。八十八はこの手紙を 3人に見せるように上村井さんから言付けられたようです。 手紙を包んである上書には「御直披(おんじきひらき)」と書かれています。 「自ら直接開封してください」という意味であり、手紙の内容はくれぐれも内密 にという意味が含まれているわけです。 「一つお手紙を差し上げます。寒くなる季節ですが、皆さま益々ご勇健なことと お喜び申し上げます。 先日は遠方のところわざわざお出で下されましたが、何のおもてなしもできず、 申し訳なく存じます。その時の内密の一件、追々に調査してそれぞれ 交渉もして、だいたい八、九分はご依頼通りになるはずに決めましたので、その ようにご承知いただき、名主の方々へも密かに知らせてください。ついては蔵敷 分そのほかの村の増番人による助郷免除の嘆願書の写しを、参考までに小生 までお廻しいただけるようお願いいたします。御勘定所のお使いを遣わしてくだ さい。いろいろと申し込みが多く、どうにも近所へ外出することもままならず当惑 しております。ご推察ください。以上のことを申し上げたく乱筆で書きましたので、 ご覧になりましたらこの手紙は破棄してください。その他のことはお会いした時 にお伺いいたします。 11月12日認(したた)める。 尚、時節柄お体大切にお祈り申し上げます。恐れながら皆さまにも宜しくお伝 え下さい。さて、依頼したことも困難なことと存じますが、万が一にも願い通り になりましたら天城炭を年内少々よけいに融通 していただけますようお願い申し上げます。 くれぐれもご迷惑とは存じますが、とかく不足がちなので仕方なく申し上げる 次第です。お聞き下さるようお願い申し上げます。以上。」どうやら杢左衛門さんたちの「袖の下大作戦」は成功したようです。 つーか、何でしょう! 役人の中村さんは「天城炭をくれ」と、自分の方から「もっとちょーだい」コール を出しちゃってます。天城炭っていうのは、伊豆半島の天城で取れる上等な炭 です。 なんといいますか、自分の方からこうも堂々と言ってこられると、何も言えませ んな。しかもよく読むと、「いろいろと申し込みが多く・・・」と他からも嘆願が出て いることを匂わせ、「読んだあとは破棄してください」と証拠を残さないように 仕向けるなど、この手の駆け引きに場馴れしている感じですね。  池田屋事件でよく語られるのが「沖田総司の喀血」ではないでしょうか。 小説やドラマでは、ここから沖田さんの闘病が始まります。 しかし、沖田さんは翌慶応元年に脱走した隊士の酒井兵庫を追跡して 斬るなど、隊の仕事をフツーにこなしています。喀血までした人にこんな 事ができるものでしょうか? 「池田屋で沖田喀血」と最初に書かれたものは昭和3年に出された 「戊辰物語」で、この本の新選組のページを担当した子母澤寛が書きま した。 池田屋で一緒に戦った永倉新八は、大正2年の新聞連載で「持病の肺 患が再発」と書いてますが、喀血とまではしていません。 さらに、新選組のスポンサーだった小野路村名主・小島鹿之助の書いた 「両雄士伝」(明治7年)には、沖田が肺病を患ったのは慶応3年からと あります。 池田屋で沖田さんが昏倒したのは事実でしょうが、その原因が肺病とか 喀血とかいうのは、後の死因から憶測したものに過ぎない可能性がある と思われます。 ・・・ところで、 大事な原稿用紙に こんなイタズラしたのは誰ですか!? あ、キミは去年の夏に、ブロック塀と物置の間に挟まっていたのを 助けたら、そのまま居ついちゃった黒猫のポンちゃん! こーゆーのを「恩を仇で返す」と言うのですよッ!  良くないでしょ、テンちゃん! あなたからキチンと言っといてくださいねッ!
幕府の焔硝蔵警備からとばっちりを食う形で、内藤新宿への増助郷を 命じられた東大和地域の村々。 これを何とか撤回してもらおうと、蔵敷村名主杢左衛門さんはお上へ 差し上げる願い状を書き上げます。 さぁ、杢左衛門さんの願いは聞き届けられるのか・・・ッ!? オープニング・タイトル 主題歌「ビューティフルドリーマー」(フラワーカンパニー) ハッピーじゃな~い、ラッキーじゃなぁ~~い 前回ご紹介した 助郷免除の嘆願書の回答が出されるのを待つより早く、 助郷として適切かどうかの調査をする、役人が派遣されてきました。 東大和市史によれば、元治元年(1864)10月14日朝六ツ時に内藤 新宿を出発した役人一行は、調査対象の村々を巡察して、10月21日に 東大和市域の高木村に入ったようです。 高木村名主宅で昼食を取った一行は、ついに杢左衛門さんの待つ蔵敷 村にやって来ます。 杢左衛門さんは村内を案内した後で、蔵敷村は小仏関所の増番人足を 勤めているので助郷をお引き受けするのは困難です、と口上で述べた そうです。 この時の役人たちのリアクションは、たぶん小さかったんでしょう。 調査団一行はその夜、中籐村(東京都武蔵村山市)名主宅に泊まりまし たが、杢左衛門さんがやって来て再び助郷免除を訴えたみたいなんで すね。モクさんの必死さが伝わります。 ところが役人が言うには、 「その方の村では小仏御関所へ増番人足を勤めているので、先日増助郷 の免除を願う嘆願書を提出していたが、他にも同じような例があるので 嘆願は採用しがたい。」てコトを言われちゃったみたいなんです。 つまり、却下。正攻法は失敗・・・。まぁ、しかし交渉事ってのはこんなもの。 ストレートで押して上手く行くんだったら、苦労はしませんよね。 さぁ、ここから杢左衛門さんは動きます。 「子(元治元年)10月26日江戸に行く。内藤新宿助郷を仰せつけられては 難渋するので、秘密裡に、ご支配代官江川太郎左衛門様の手附元締で ある上村井善平様へ内密のお願いをした。それは、論所地改手附中村晋平 様・御普請役横山信太郎様ご両人のお宅へ善平様が出向いて、内密の 策略をお願いしてくだされ、ご両人とも薄々心の中に留めてくれることになっ たのである。 もっともこのことは、三ツ木村年寄藤吉・粂川村年寄太左衛門と私との3人 で相談して、いろいろと心配してきたことなのである。 江戸には16日滞在し、11月12日に帰宅した。追ってご沙汰が出される のを待つ手筈になっているのである。」中村晋平と横山信太郎ってのは、今回の助郷一件を担当している役人であり、 巡察に来た人たちです。 杢左衛門さんは江戸に行き、江川代官の手附(家来)頭の上村井さんから この両人に内密のお願いをしてくれるように頼んだっていうんですね。 「内密の策略」ってのは、もうお分かりでしょう。 もし、助郷免除となったときには、相当額の成功報酬をお支払いするそうです よ・・・そう上村井さんは両人に言ったんですね。で、二人とも暗にそれを了承 したと、こういうことですな。 地獄の沙汰もなんとやら、ですよ。 まぁ、こういったことが「良い」こととは言えませんが、日誌にあるようにこれは 杢左衛門さん一人の考えではなく、三ツ木村(武蔵村山市)・粂川村(東村山 市)と相談して決めたようです。それだけ、どの村も「なんとかして」の思いが 強かったんでしょうね。 そして11月、いよいよその結果が出るのです!  元治元年最大の事件といえば、やはり「池田屋事件」ではないでしょうか。 「八月十八日の政変」で京都を追われた長州勢でしたが、密かに残った 過激派志士が同じく土佐藩らの志士と連絡を取り合います。そして大がかり なテロを画策するのです。 彼らの武器調達を担当したのが、京で諸藩御用達商人桝屋喜右衛門こと 近江の郷士出身・古高俊太郎でした。新選組が踏み込むと大量の武器が 用意されていたことから古高は逮捕され、厳しい尋問が行われます。 なかなか口を割らない古高でしたが、ここから「鬼の副長」と呼ばれた土方 の激しい責めが始まります。 逆さに吊るして足の甲に五寸釘を打ち、さらにその上から蝋燭をタラすという ものスゴイ拷問。 時代劇でもよく見る拷問ですが、江戸時代には「ムチ打ち」「石抱き」「海老責」 「釣責」の4種しか認められませんでした。そのうち、「釣責」だけを拷問と呼び、 他は牢問と言って区別しました。 牢問・拷問とも与力や同心が密室で行うのではなく、目付や牢屋奉行という 奉行所とは異なる管轄の役人が監視の下で行ったそうです。そうやって自白の 強制やでっち上げの冤罪を防いだワケで、なんか今の警察の取り調べ室より ガラス張りのような気がします。 なので、古高に対してのこの責めは明らかに違法行為では、と思うのですが、 新選組は幕府の正式な部署ではないし、緊急事態だし、ってんでOKになっちゃ ったんですかね?
黒船来航以来、日本中のあちこちで治安が悪化してきました。 幕府にとっては攘夷運動を活発化させる浪士とともに、諸外国との緊張感 も高まってきました。実際に薩摩や長州は外国と戦争をヤラかしちゃいまし たしね。 当然ながら幕府は防備を整えなければなりません。 元治元年(1864)から幕府は 焔硝蔵(えんしょうぐら)という火薬庫を江戸の 近くに作ります。和泉新田(東京都杉並区)と千駄ヶ谷(同渋谷区)です。 だけど、こういう場所って、反幕府勢力からしたら真っ先に襲いたくなる場所 じゃないですか。 「こりゃ、焔硝蔵の警備を固めないといけないでしょ。」 「誰にやらせるの?」 「やっぱり近くの人じゃない」 てワケで、甲州道中の宿場・ 内藤新宿の助郷を負担していた 村々の中から、一部の村を焔硝蔵の警備に回したんですね。もちろん対象に なった村は内藤新宿の助郷からはハズされました。 東大和市史によればその村は、松原・赤堤・経堂在家・若林・太子堂・代田・ 下北沢・烏山(世田谷区)、和泉・和田・永福寺(杉並区)、西大久保(新宿区)、 上豊沢・中豊沢(渋谷区)の14ヶ村だそうです。 みなさんの地元、ありました? しかし、困るのは内藤新宿の宿場です。甲州道中第一番目の宿場ですから 人手がなくなるのは困るんです。 「じゃー、どこかの村を内藤新宿の助郷に回せばいいじゃん。どこにする? あー・・・、 多摩がいいね、ウン、多摩。決定ーッ!」 こんな軽いノリではなかったでしょうが、とにかく多摩地区のどこかの村が 内藤新宿への助郷に選抜されることになってしまったのです。 「ホラホラ、また来たよ・・・勘弁してよォ」 東大和市域の村民たちは、きっとそう思ったことでしょう。 元治元年10月から、どの村が適任かという調査が始まります。幕府から 評定所と御普請役の役人が派遣され、各村々を巡検することになりました。 これは、何としても阻止しなければいけません! 今まで熊本藩の預所になったり、和宮の行列警備に行かされたり、もう たくさん!! 蔵敷村名主・杢左衛門さんは訴えます。 ガンバレ、モクさん!(そう呼ばれてたか知りませんけど) 「江川太郎左衛門代官所の支配、武州多摩郡蔵敷分の村役人たちの惣代 である名主杢左衛門から申し上げます。 甲州道中内藤新宿の助郷をしている武州和泉村ほか13ヶ村が、先頃和泉 新田ほか1ヶ村の焔硝蔵の警備や炮薬運搬の御用を仰せ付けられたので、 残りの助郷だけではいろいろと通行が多くなっているので、勤めることが 難しくなっていると申立てがありました。代りの助郷を宿村一同で願い出た ので、この度私ども近隣の村々を調査しにお役人がいらっしゃるとのことを 仰せになり、請け書きを提出いたしました。 しかし当村(蔵敷村)は元々奈良橋村の分村で、村高は215石7斗4升6 合4勺、人口も少なく困窮の村なので、山本大善様が ご支配されていた天保8年(1837)には難渋していることを申立て、食料代 の拝借を願い出たところ、元々実に困窮している村だと同情していただき、 食料代の拝借と下され金の二通りの下知をいただきました。その拝借金は 5年で返済の指示でしたので3年分までは返納したのですが、よほどの困窮 者は返せずにいて、残り2年分は25年賦にしてもらい返納中でございます。」先ずは杢左衛門さん、村の人口が少なく収穫も低いことから、非常に困窮 していることを訴えます。 2年で返済しなければいけない借金を、25年かけてだなんて、相手がヤミ金 じゃなくても「なめとんのか、ワレ!」って話です。 「その上以前より、当村は尾州様のお鷹場内で、お鷹御用の ために水子村ほか2ヶ所に陣屋があり、江戸の戸山御屋敷にときどき人馬を 差し出しています。特に鷹狩りのときには御鷹方役人の方々が大勢ご休泊 され、その他荷物運びなど多くの人馬提供を勤めてきました。 尚、その上最近では治安警備が厳重となり、甲州道中小仏 関所の番人足を遠い場所から差し出し、その上非常時の駆け 付け人足などは頑丈な者を選んでおります。彼らは別帳の人別帳に書かれて おります人数ですが、中には病気その他の理由もあり、非常時の人足も足り ないほど人数の少ない村でございます。」このブログは幕末がテーマなので触れなかったのですが、東大和市域を含む 一帯は尾張徳川家の鷹場もありました。同じ村の中に天領、知行地、鷹場 が存在する複雑な地域でした。 さらに、以前に取り上げましたが 小仏関所の番人出張。 こんなに人を出せと言われても、そもそもウチの村は人口が少ないんスから、 と今度は物理的にも無理なことを訴えます。 「ことにこの度、当御支配所では農兵をお取立てになるとのご命令があり、 すでに江戸の新銭座の調練場へ鉄砲・剣術の稽古へ人を差し出しており、 熟練した者は人足として必要になるとのことであり、以上のことをもって、この 上内藤新宿の代助郷を仰せ付けられましては、とても伝馬の仕事を勤め続け られるわけもなく当惑しております。このままでは潰れ百姓となり、離村する のは目に見えており、小前百姓末々まで気持ちが沈んでおりますので、この ことにつきご嘆願申し上げます。何とぞご慈悲をもって頼みました始末を、 幾重にもご同情くださり内藤新宿代助郷のことは、すべてご免除くださいます ようお願い申し上げます。」農兵については後日取り上げたいと思いますが、これは銃による武装が主 ですから訓練が不可欠です。 小仏の番人といい、農兵といい、働き盛りのマッチョ兄さんはそっちに行かさ れてるから無理ですよ。このままじゃ夜逃げする者も出てしまいますと、血の 叫びが綴られてますねぇ。 文章が長いので3つに区切りましたが、元治元年10月3日に蔵敷村名主 内野杢左衛門さんから、巡検に訪れた幕府役人に出された書状です。 東大和市史によれば、天保8年頃は確かに「天保の飢饉」の影響で、蔵敷村も 前年の天保7年から翌9年にかけては、家数57戸と変化が無いのに村民数 は248人から231人と激減しています。このあたり、杢左衛門さんの言う通り 食べる事にも厳しい状況だったのでしょう。 しかしですよ。 この書状が書かれた翌年(慶応元年)は、家数57戸で村民数305人と、人口 がかなり増えてるんですよね。 決して豊かではないでしょうが、食料事情は安定していたのではないでしょうか。 書状の前半部分は杢左衛門さん、ちょっと演出入っちゃった? とは言うものの、やっぱり助郷はイヤですよ。 それが村民の気持ち! さぁ、蔵敷村の訴えを、お上は聞いてくれるのかしら!?  「八重の桜」にいよいよ新選組が出てきましたね。会津といえば、この人。 斎藤一さんです。隊士の中でも女性人気が非常に高い斎藤さんですが、その 影響かドラマではイケメンが無造作ヘアーで演じるることが多い印象です。 しかし、孫の証言によれば生活態度は常に規則正しく、座るときは正座、暑く ても手ぬぐいを首にかけたりすることもなく、几帳面な性格だったようです。 たぶん月代はキチンと剃っていたタイプです。 新選組試衛館グループの中では藤堂平助と並んで一番の年下。沖田さんより 2歳も若いんですが、映画やドラマでそうは描かれないのはなぜなのでしょう? ※天保15年は12月に弘化と改元されますので、斉藤の生年を弘化元年と してある資料もあります。
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