前回の「日野市立新選組のふるさと歴史館」レポートが意外に好評だったので
驚いています。皆さん、ああいうのお好き?
以前も流山をやりましたけど、これからも時々あぁいうレポートものをやって
いきましょうね。
さて、前々回の続き。
蛤御門の変でボッコボコにヤラれた長州藩。
こうなると、「まだまだ、これでもかッ」ってくらいに長州に逆風が吹きまくります。
小林幸子か坂東英二に対するマスコミかっつーくらいの逆風です。
長州派のいなくなった朝廷では「御所に向かって鉄砲を撃つなんて、大罪にも
ほどがありますワ!家茂はん、やんなはれ!やんなはれ!」
と、幕府に対して
長州征伐の勅命を下しました。
「毛利大善父子へのご征伐をお始めなされ、ご出発されたことにつき、通行途
中にあたる東海道美濃より大坂・播州・備前・芸州辺りの諸大名へ、それぞれ
の城を征伐軍の宿泊所に使わせるよう仰せつけられた。
しかし、御取締りの向きは格別にあるわけではなく、むやみに取り繕うことは
しないこと。道路や橋なども通行に支障があるような箇所があれば、簡単に
補修してあればよい。
一、松明(たいまつ)、草履、篝木、ムシロ、縄、竹木、俵、桶、樽の類、並びに
柄杓、鋤(すき)、鍬(くわ)、ノコギリ、カナヅチなどの品々について、各宿場
はもちろん、最寄の村々へかねて用意させておくこと。
八月
毛利大善父子反逆につき、近隣の諸藩へ追討を仰せられたことについてで
あるが、武器や米穀をはじめ、諸国より長門・周防の両国への物資の輸入は
禁止する。万が一、海路陸路を使い長州へ物資を運んだ者がいれば、近隣の
国において必ず差し止めること。もっともその時の判断によっては討ち取って
しまってもかまわない。その事をよく心得て、右に記した物資を差し止めた時は
各領主が取り上げておくことを申し聞くように仰せつけられた。道中の宿場、村々
へも申し渡した。もっとも無益の失費は無いようによく考え、宿場、村に用意
した品々も程々に申し付け、道路なども万が一危険な場所がある場合は早々に
申し聞くこと。
八月」以上は「里正日誌」に記録されている廻状の写しです。
まぁ、直接東大和市域に関係はないんですが、少なくとも名主クラスの人たちには
急激な時代の流れを伝える情報が、逐一入っていたことがわかります。
長州征伐軍は36藩15万人の兵力で長州に進軍したといいます。
総督には尾張藩主の徳川慶勝(会津藩主・松平容保の兄)、参謀には薩摩藩の
西郷隆盛が任命されました。
ココで注目なのは、
幕府・会津・薩摩は同盟軍であり、バックには朝廷がついてい
るってことです。で、対する
長州が朝敵・賊軍なんですね。
長州は急進派の人たちが勢いを失い、保守派の勢力が実験を握るようになり幕府
に恭順します。
多摩地域は幕府の直轄領が多い地域でしたから、この時点での政情については
まだ安心していたんじゃないでしょうか。
しかし、東大和市域にまたイロイロと難問が降りかかってくるのは、これからなん
ですよ!奥さん!

新選組の巨魁隊長と云われた芹沢鴨が、粛清(暗殺)されたのは文久3年
(1863)9月18日(あるいは16日)の深夜でした。
芹沢は乱暴狼藉が絶えず、周囲に迷惑をかけることが多かったのは事実です
が、元水戸藩の尊王攘夷派としてのカリスマ性に、隊内での人望は厚かった
ようです。
漫画にもあるように、生糸問屋の大和屋を焼き討ちしたことが会津藩の怒り
に触れ、近藤らに芹沢捕縛の命令が出たといいます。
しかし、大和屋は生糸を買い占め価格を吊り上げ、外国との商売で大儲けして
いたので世間の評判も悪く、焼き討ちには町人らも参加していたようです。
新選組の隊士もかなりの人数がこの焼き討ちに参加していたようで、芹沢の
影響力の強さが覗えます。
会津が出した捕縛の命令が、粛清に変わったのは、隊の実権を完全に
掌握したいという天然理心流グループの思惑があったからだと思われます。
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