天狗党と水戸藩の悲劇

二月ももう終わりに近づいてきましたね。この時期、日本史で有名な
事件といえば、昭和11年(1936)に起きた二・二六事件でしょう。
前回の記事に書きました「天狗党の挙兵」。これは水戸藩の中で起きた
「幕末の二・二六事件」と言えるかも知れません。

前回ご紹介した、元治元年(1864)5月の関東取締出役からの廻状に
続き、8月にも同役所から廻状が東大和市域の村々に廻ってきました。

「子(元治元年)8月25日関東取締出役様よりの廻状の写し
筑波山に集まった賊徒どもは、ことごとく討ち取られたと然るべき筋から
知らせてきた。村々においてもその事を心得て、賊徒どもが金銭の押し
借りなどに来たときはもちろんのこと、潜伏や徘徊などしていたときは
竹槍やその他の武器を使って躊躇なく打ち殺すようにすること。
ついては、村ごとに小百姓の末々まで相互に話し合い、仲間をよく調べ
て賊徒どもに同意したり内通などしている者があれば、たとえ親族の
間柄であっても少しも容赦することなく取り押さえ、最寄の取締出役が
廻っている村へ早々に申し出ること。もし、見逃したことが発覚するよう
なことがあれば厳重に追及するとのことである。この度の賊徒どもの追討
のご趣意をありがたく心得て、組合ごとに申し合わせて行き届くようにし
て、大小惣代ならびに寄場役人たちは一所懸命に力を尽くすように世話を
すること。」


書状の冒頭に「賊徒どもは、ことごとく討ち取られた」とあります。
まさにその通り。天狗党は悲劇の末路を迎えるのです。
前回はサラッと流しちゃいましたけど、このように東大和に資料も残って
いることですし、水戸藩と天狗党についてちょっと触れてみましょう。

そもそもの発端は東野英治郎・・・もとい光圀公が始めた「大日本史」の
編纂事業です。これは水戸藩のライフワークとして江戸時代を通して校訂が
重ねられたんですけど、やっぱりって言うか、まぁ有りがちだよねって言うか、
内容を巡って二派に分かれ対立してしまうんです。
これが幕末の藩主選びにまで発展。幕政を改革しようとする一派に推された
徳川斉昭が第9代の藩主になります。
とーぜんのことながら、斉昭は自分を推してくれた改革派を登用し、それまで
の重臣である保守派を退けました。このとき保守派が悔し紛れに改革派の
ことを「天狗」と呼んだのでありますね。

斉昭さんは当然攘夷派ですから、幕府が勅許も得ずにアメリカと条約を結ん
のが許せないんですが、大老の井伊直弼に疎まれて蟄居させられちゃう。
さらに戊午の密勅事件というのが起こり、水戸藩は大パニックに巻き込まれて
しまいます。
ふつう、天皇からの勅書は関白を通して出されるのですが、この時は関白を
通さずに水戸藩に出されたので「密勅」といいます。(戊午は安政5年のこと)
密勅の内容は「朝廷の許可を受けず通商条約に調印した幕府は許せまへん
から糾弾し、他大名と連携して攘夷を実行しなはれや」というもの。
幕府(てゆーか直弼)は激怒して「そんなモン突っ返せ!じゃねェと、いくら御三
家といっても取り潰すからなッ」と竹内力バリに水戸藩に詰め寄ります。
水戸藩では勅書を「返す」という保守派と、「返さない」という改革派=天狗党
でさらに藩内の対立を深めることになったんです。
この改革派の藩士がマジメにも各地に飛び攘夷を呼びかけますが、幕府の手
でことごとく逮捕され処刑されてしまいます。安政の大獄ですね。
さらにこの反動が桜田門外の変を呼びます。

桜田門外の変から少しして斉昭さんも亡くなります。水戸藩内では保守派が
実権を奪い返してきます。起死回生を目指した改革派がとった行動=それが
「天狗党の挙兵」だったんです。
お話したように水戸藩の複雑な事情が絡んで、内戦は長期化。幕府軍も出動
して沈静化に努める事態。
ご紹介した書状を読むと、天狗党は攘夷を全面に押し出して騒乱でも起こそう
かというような印象を受けませんか?
しかし、この時、天狗党には「騒ぎを大きくして幕府の基盤を揺るがしてやろう」
なんて気持ちはさらさらなかったようなんです。
挙兵という手段に訴えれば、幕府も攘夷に本腰を入れてくれるだろうという、
言っちゃーなんだけど、かなり青い考えでヤラかしちゃったんですね。
ある意味ピュア。
このあたりが「二・二六事件」とよく似てるな、と思うのです。

ピュアな人の考えは、時に常人の思いもよらぬ境地に至ることがありまして。
「こうなったら京都にいる一橋慶喜に会って、我々の訴えを聞いてもらおう」
と京都に進軍する決定をします。で、使者を送るというのならわかるんですが
「全員で行くべし」となるんですね。全員ピュア。
800人ですよ。これが追討軍を避けながら山中を行軍してゆくんです。
どんな道を行ったかというと、日航ジャンボ機が墜落した御巣鷹山ってあるで
しょ。あの近くを通ってるんです。先祖伝来の鎧兜に馬を連れて、大砲まで
引っ張っていったっていうんだから、苦行以外のなにものでもありません。

ところが慶喜曰く「許さん!」
幕府の屋台骨を支える立場となっていた彼は、たとえ自らが出身の藩の藩士
でも「騒乱を起こした賊徒」以外の見方を変えなかったのですね。
加賀藩に捕えられた天狗党の、首謀者の武田耕雲斎、藤田小四郎以下400
人以上の者を処刑したんです。

「賊徒どもは、ことごとく討ち取られた」顚末です。
関東取締出役が多摩地域に出した書状は、この「天狗党挙兵」を一例にあげて
「不穏な行動は一切許さんよ!」という幕府の姿勢を示したものなんですね。

水戸藩は尊王攘夷という考えの発祥の地であり、有能な人材も抱えていたんで
すが、藩内の対立とこの天狗党の一件で「そして誰もいなくなった」状態に
なっちゃったんですね。
明治新政府の要職に水戸藩の人は一人もいません。

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京雀たちは新選組=壬生浪士組を「壬生浪(みぶろ)」とか、着ている着物が
汚いことから「みぼろ」などと呼んだといいます。しかし、「壬生狼」とオオカミ
にたとえたという話はなく、「壬生狼」は後世の創作だと思われます。
でも、あえてネタにしてみました。
前回から今回までの間の2/22は「猫の日」。2/23は当ブログのマスコット、
テンちゃんの誕生日。
ってことで、こんな四コマ。

030 a

マジですよ、テンちゃん。


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天狗党、挙兵す!

前回は東大和の村民が、甲州道中の小仏関所というエライ遠くの場所
まで番人や人足の仕事に行かされた事を書きました。
それは、攘夷派浪士たちの活動が活発となり、関所などの守りをより
固めなければならなくなったことが原因だったんですね。

関東で尊皇攘夷派の集う拠点といえば、やはり水戸藩です。
水戸藩は徳川御三家ですし、幕府寄りなんじゃないの?と考えがちです
が、親藩であると同時に水戸学発祥の地でもあるんですな。
皆さんよく御存じの里見浩太郎・・・もとい水戸黄門の光圀さん。
彼は水戸藩の二代藩主ですが、「日本の正統な歴史を研究するんだッ」
と藩を挙げての一大事業。「大日本史」を編纂させます。
八兵衛とダンゴ食ってただけじゃないんですね。
日本の歴史といえば即ち天皇の歴史ですから、ここから尊王の考えが
培われてくる。さらに、ナショナリズム精神から攘夷思想も生まれやすく
なるわけです。
水戸のある常陸国(茨城県)は太平洋に面していますし、外敵からも攻め
られやすい・・・そうした事情も攘夷に結びついたかもしれません。

水戸藩はそんなワケで、あくまでも徳川将軍家一門の立場を守る保守派
と、尊王第一の立場を取る人たち両方がいる藩だったんです。
幕末に藩主だったのが、徳川斉昭。彼は藩政改革を実施するために、
門閥にとらわれず改革派の人材をドンドン登用していきました。
彼らは身分は軽い家柄でしたが、水戸学に影響を受けた尊攘精神の強い
者が多かったんです。
それまで藩の重役だった保守派の人たちは、こういった改革派を「天狗」
と呼んで嘲りました。これが「天狗党」です。
妖怪の集団ではありません。それじゃ、リーダーが水木しげるセンセイに
なっっちゃうでしョ。

この天狗党が、幕府の攘夷延期を不満として元治元年(1864)3月に
筑波山で挙兵しました。

「   亥(1863)5月27日関東御取締出役より廻状の写し
浮浪の徒の取締については追々触れているが、先日以来、下野国
大平山や常陸国筑波山などに大勢集まり、所かまわず歩きまわっている。
彼らは水戸殿御家来や水戸藩内の者で、前藩主の遺志を継ぐなどと言って
いると聞く。聞き捨てならないことであるが、水戸殿自らの手で取り鎮める
とも仰せだったのでお任せしておいたが、彼らはますます増長し最近では
右の場所にとどまらず、異形の恰好をして20~30人ずつ集団で歩きまわり
、中には無宿人や悪党も加わって金銭を押し借りし、百姓たちの難儀も
少なくない。そこで大平山や筑波山に集まっていた者どもは速やかに水戸
藩内に引き上げてもらうようにした。以後、異形の恰好で歩きまわり軍用金
などと言って金銭を押し借りするのはもちろん、全て過去に触れを出したよ
うに往来を改め、浪人体で怪しいと思われた者は、たとえ水戸殿の名前を
出したとしても召し捕え、手向かいした場合は斬り殺しても、打ち殺しても
かまわないとする旨を厳しく触れ、水戸殿へも知らせたので、右の事を心得、
それぞれの領分、知行地ごとに家来を差し出し時々見回ること。万が一、
不法者がいれば逮捕するか討ち取り、多人数の場合は隣の領地とも話し
あい互いに助け合うこと。二つ以上の領地にまたがった場合は村人たちが
申し合わせ逮捕すること。もっとも手に余るときは不法者を打ち殺しても
かまわない。御領、寺社領、小さな領内で家来が詰めていない場所は、
最寄の領主や地頭が心を配り、報告があり次第速やかに人を差し出し、
浮浪の者のために村々が難儀をしないように厚く世話すること。
但し、関東取締出役が村々を廻るときには、相互に打ち合わせをすること。
右のことを関八州、ならびに越後信濃の国に領分や知行のある者へ洩れ
なく触れられるべきものである。
    (以下略)
   5月27日    関東取締出役

右の廻状をうけて、6月6日に組合の村々で集会を持ち、怪しい者が立ち
まわった村では竹貝を吹き鳴らし、近隣の村では版木を打ち叩いて、竹貝
が吹かれた村へ駆けつけ、逮捕したり討ち取ったりする手筈を整えておい
た。」

 ※亥(1863)は筆者の間違い。正しくは子(元治元年 1864)

関東取締出役から、天狗党が挙兵したことと、その対策を知らせる廻状が
村々にも廻ってきたようです。
取締出役は関八州が管轄地域ですが、水戸藩領は除外されていました。
やはり親藩だからですかね。
なので元治元年3月の天狗党挙兵には、手を出すことができなかったんです。
「おいッ、ヤツら天狗党には手出しできねーゼ!」
そう思った悪党や無宿人たちが、天狗党にことよせて村々を横行するように
なり治安が悪化していったようなんです。
そこで、過去に出した厳しい取決め通りに「これからは水戸藩関係者だから
って見逃しはしないよ。ガッツンといくよ!」と宣言したわけです。

つまり、天狗党そのものの警戒というよりも、東大和など狭山丘陵周囲では
テングを騙った輩が多く出没し、その狼藉者対策として出された書状のよう
ですね。
もっとも、中には尊攘派の過激派浪士もいたかもしれませんが。

天狗党の活動は、幕府に対しての攘夷行動というだけではなく、関東周辺の
地域に様々な影響を与えていたんですね。

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新選組だと、局長だった芹沢鴨が「天狗党出身」を売りにしていました。
彼は筑波山の挙兵にも関係があったのでしょうか?
答えは「NO」です。芹沢さんは文久3年9月に亡くなってますから。
当時、水戸藩には「郷校」と呼ばれる学校がありました。下級の藩士や
豪農、神官などが学ぶ藩校のようなもので、この郷校が尊皇攘夷運動の
拠点になっていたんです。芹沢さんもそこに通っていたようです。
彼らが記事に書いたように「天狗」と呼ばれた人たちだったんです。
芹沢さんは郷校の中でも気勢の高かった玉造郷校にいましたが、この
郷校に100人ほどの尊攘派が集まったため、藩から解散命令が出され
ます。
しかし、芹沢さんはこれに応じず仲間らと脱走。さらに文久元年(1963)
に名主や旅籠から攘夷を名目に押し借りを働きます。そして、捕縛に来た
役人に怪我を負わせたとして牢にブチ込まれてしまいます。
文久2年(1862)12月に釈放され、その後向かったのが江戸。浪士組
に参加するのです。
京都でも大暴れした芹沢さんですが、地元でも天狗級の暴れっぷりだった
みたいですね。

ところで、茨城は納豆が有名ですが、「天狗納豆」というブランドがありまし
て、これが激ウマ!ニオイが強く糸をガンガン引くストロングスタイルの
納豆です。
県内でしか手に入らないみたいなんだけど・・・ん~、そんなこと言ってたら
食べたくなってきちゃいましたヨ。


甲州道中小仏関所

このところ東大和市域からハズれた話ばかりでしたので、軌道修正。
幕末の東大和の話に戻りましょう。
「って言いいながら、なんだよこのタイトル。ぜんぜん東大和じゃないじゃん!」
まぁまぁ、話を聞いてくださいよ。

世の中にはムチャな話って、よくあるじゃないですか。
終電の終わった時間に「おでんが食べたいから買ってきて」って呼びだされた
とか、真夜中に国道246の厚木あたりで車から降ろされて「ここからは歩いて
帰れ」って言われたりとか。
え?そこまでのムチャはサスガにない?

けど、幕末にはそれほどのムチャ振りが、お上から降ってくるんで油断でき
ません。

「   恐れながら書付をもって申し上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷村の名主杢左衛門が申し上げます。江川さまご支配内の
甲州道中小仏の関所を固めることですが、重要な場所なのでお役人様方が
付いていらっしゃることについて、非常人足はもちろん、下番人たちも地元の
宿場や村の者だけでは勤め続けることが難しく、物資も難渋しているとの
申立てを承っております。小仏関所は蔵敷村よりよほどかけ離れておりま
すが、元々同じ支配所内でもありますし、たとえ遠いといっても万が一の
ときは、増員の番人足を差し出し、村全体で負担し勤めるよう支度いたします。
そのようにしておけば、前もって人足を用意しておき、いつでもご沙汰があれば
差支えのないようにいたしますので、何とぞお慈悲をもって右の願いの通り
お聞きなされますように願い奉ります。以上。」


元治元年(1864)8月25日付けで、江川太郎左衛門の代官所に提出された
書状です。
甲州道中(甲州街道)小仏の関所に勤めている人足や番人が足りなくなった
ので、人員を補充してくれという要望がでたようなんですが、それがことも
あろうに東大和の村々に回ってきた・・・という内容です。

土地勘のない方は地図でもあれば見ていただきたいんですが、東大和から
小仏の距離を見てください。コレ、そーとーな距離があるでしョ。
東大和が甲州道中沿いにあるわけでもないしね。
当時、江川代官の支配していた管轄地域って、確かにかなり広範囲なんです
が、それだけで「ちょっと、行ってこいや」っていうのも乱暴な話だと思います。

小仏関所を固める・・・つまり警備を厳重にするというのは、やはり先の蛤御門
の変や、その後の長州征伐の影響ではないでしょうか。
また、この後でも触れますが、この頃関東周辺でも攘夷派浪士たちが集まる
気配を見せていましたので、その対策の意味もあったのかもしれません。

だけど、ちょっと遡ってみてください。
安政5年(1858)に東大和市域は熊本藩の預所にされて、村民は横須賀
まで働きに行かされました。
そして、今また小仏へ。いろいろと「派遣注文」が入る村だったんですねぇ。
横須賀も遠いですが、小仏もまた同じように遠いです。
さらに山道だし。
どのようなルートを通り、どれくらいの任期で行ったのでしょうか?

そして、まだまだこの先。
お上のムチャ振りは続くのです・・・(泣)

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山南敬助は仙台伊達家中の剣術師範の次男に生まれた、と言いますが、詳しい
ことはわかりません。当時の本人の署名に山南を「三男」「三南」と書いてある
ものがあり、「読み方が同じなら当て字上等」の当時のルールに照らし合わせれ
ば、山南の読みは「サンナン」であった可能性が高いでしょう。
新選組のスポンサーであり、近藤さんの義兄弟だった小野路村(町田市)の名主
小島鹿之助は、山南さんを「武人にして文あり」と評価しています。芹沢粛清後の
頃までは間違いなく、近藤さんの片腕は山南さんだったハズです。
小説・映画・ドラマでは、新選組内で土方さんと対立する立場として描かれ、目立
つキャラではなかった山南さんですが、大河ドラマの「新選組!」で境雅人さんが
演じてから知名度急上昇!人気隊士の仲間入りを果たしました。
番組には当時、山南さんの助命嘆願の投書が寄せられたといいますが、さすが
にそれは・・・ねぇ。


第一次長州征伐

前回の「日野市立新選組のふるさと歴史館」レポートが意外に好評だったので
驚いています。皆さん、ああいうのお好き?
以前も流山をやりましたけど、これからも時々あぁいうレポートものをやって
いきましょうね。

さて、前々回の続き。
蛤御門の変でボッコボコにヤラれた長州藩。
こうなると、「まだまだ、これでもかッ」ってくらいに長州に逆風が吹きまくります。
小林幸子か坂東英二に対するマスコミかっつーくらいの逆風です。
長州派のいなくなった朝廷では「御所に向かって鉄砲を撃つなんて、大罪にも
ほどがありますワ!家茂はん、やんなはれ!やんなはれ!」
と、幕府に対して長州征伐の勅命を下しました。

「毛利大善父子へのご征伐をお始めなされ、ご出発されたことにつき、通行途
中にあたる東海道美濃より大坂・播州・備前・芸州辺りの諸大名へ、それぞれ
の城を征伐軍の宿泊所に使わせるよう仰せつけられた。
しかし、御取締りの向きは格別にあるわけではなく、むやみに取り繕うことは
しないこと。道路や橋なども通行に支障があるような箇所があれば、簡単に
補修してあればよい。

一、松明(たいまつ)、草履、篝木、ムシロ、縄、竹木、俵、桶、樽の類、並びに
柄杓、鋤(すき)、鍬(くわ)、ノコギリ、カナヅチなどの品々について、各宿場
はもちろん、最寄の村々へかねて用意させておくこと。
   八月
  
毛利大善父子反逆につき、近隣の諸藩へ追討を仰せられたことについてで
あるが、武器や米穀をはじめ、諸国より長門・周防の両国への物資の輸入は
禁止する。万が一、海路陸路を使い長州へ物資を運んだ者がいれば、近隣の
国において必ず差し止めること。もっともその時の判断によっては討ち取って
しまってもかまわない。その事をよく心得て、右に記した物資を差し止めた時は
各領主が取り上げておくことを申し聞くように仰せつけられた。道中の宿場、村々
へも申し渡した。もっとも無益の失費は無いようによく考え、宿場、村に用意
した品々も程々に申し付け、道路なども万が一危険な場所がある場合は早々に
申し聞くこと。
   八月」


以上は「里正日誌」に記録されている廻状の写しです。
まぁ、直接東大和市域に関係はないんですが、少なくとも名主クラスの人たちには
急激な時代の流れを伝える情報が、逐一入っていたことがわかります。

長州征伐軍は36藩15万人の兵力で長州に進軍したといいます。
総督には尾張藩主の徳川慶勝(会津藩主・松平容保の兄)、参謀には薩摩藩の
西郷隆盛が任命されました。
ココで注目なのは、幕府・会津・薩摩は同盟軍であり、バックには朝廷がついてい
るってことです。で、対する長州が朝敵・賊軍なんですね。

長州は急進派の人たちが勢いを失い、保守派の勢力が実験を握るようになり幕府
に恭順します。
多摩地域は幕府の直轄領が多い地域でしたから、この時点での政情については
まだ安心していたんじゃないでしょうか。

しかし、東大和市域にまたイロイロと難問が降りかかってくるのは、これからなん
ですよ!奥さん!

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新選組の巨魁隊長と云われた芹沢鴨が、粛清(暗殺)されたのは文久3年
(1863)9月18日(あるいは16日)の深夜でした。
芹沢は乱暴狼藉が絶えず、周囲に迷惑をかけることが多かったのは事実です
が、元水戸藩の尊王攘夷派としてのカリスマ性に、隊内での人望は厚かった
ようです。
漫画にもあるように、生糸問屋の大和屋を焼き討ちしたことが会津藩の怒り
に触れ、近藤らに芹沢捕縛の命令が出たといいます。
しかし、大和屋は生糸を買い占め価格を吊り上げ、外国との商売で大儲けして
いたので世間の評判も悪く、焼き討ちには町人らも参加していたようです。
新選組の隊士もかなりの人数がこの焼き討ちに参加していたようで、芹沢の
影響力の強さが覗えます。
会津が出した捕縛の命令が、粛清に変わったのは、隊の実権を完全に
掌握したいという天然理心流グループの思惑があったからだと思われます。


「日記から見た幕末の日野展」に行く

先日の朝、コーヒーを飲みながら新聞に目を通していると、私の大好物系
の記事が目に飛び込んできたではありませんか。
「峯岸みなみのボーズ頭は事務所のヤラセか!?」
おおーーッ。 
って違うっつーの!
そっちじゃなくて、こっちですよ、こっち。多摩版の方ですよ。
日野市の「新選組のふるさと歴史館」で1月から「日記から見た幕末の日野
展」という企画展を開催中とゆーじゃないですかッ。
こーりゃ大変だ!絶対に行かなくちゃ!
「あ、でも今日は猫ちゃんの砂をジョイフルホンダに買いに行くつもりだった
んだ・・・。しかし、こーゆーコトは思い立った時に行動しないと、期間が
過ぎちゃうんだよなぁ・・・。テンちゃん(猫のなまえ)ゴメン!!」

と、いうことで今回はいつもの連載をお休みして、特別版をお送りします。
さぁ、家を飛び出して日野市へGO!

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東大和市から日野へは、バスかモノレールで立川駅に出て、電車で一駅。
近いんです。
でも、今日の目的地の「新選組のふるさと歴史館」は日野駅からちょいと
離れています。歩いても行ける距離ですが、けっこうな登り坂がありますし、
寒いし・・・ってんで、家から車で直行しちまいます。
車だと30分ほどで着きます。
日野駅と高幡不動駅からバスも出てるんですがね。

日野市役所の駐車場に車を置いて、歩いて2分。
「日野市立新選組のふるさと歴史館」にやってまいりました。

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いつもこんなカンジに旗とか幟とかが出ています。
いやが上にも新選組を主張する町、それが日野です。

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ホラ、こんなイカス絵がボクらを迎えてくれるヨ。

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近藤さんと土方さんですね。
顔の部分は取り外せて、自分の顔を出せるようです。記念写真パネルなんだ。
撮らないけどね。

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沖田さんと、旗を持ってるのは井上源さん・・・?
なんかやたら嬉しそうです。

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入り口横に描かれているのは、「江戸名所図会」に出ている「日野津(左)」と
「多摩川(右)」の絵です。鮎漁の様子ですね。

こちらに来るのは3回目くらいなんですが、日野宿の歴史を始めとして、新選組の
活動や当時の天然理心流剣術の様子などが、豊富な資料とともに説明されて
います。
今回の企画展は二階の展示室で開かれています。

「日記から見た・・・」の日記とは、幕末当時日野宿の本陣や問屋場を経営し、
名主を務めていた佐藤彦五郎俊正の日記です。
この人は、新選組副長土方歳三の姉・のぶの夫として、新選組ファンの間では
知られた人ですね。
彦五郎の日記が発見されたのは、比較的最近のことで、安政4年(1857)から
明治2年(1869)までのことが書かれています。
この日記の発見により、江戸や多摩地域における新選組の活動が、新たに判明
したこともあります。

まぁ、こういう歴史館ですから写真でご紹介できないのが残念なんですが、今回
の展示では彦五郎と近隣の名主や文化人との交流、新選組の人たちの様子が
書かれている部分が紹介されています。
以前にブログでも紹介した助郷のようなシステムがありましたから、名主にとって
近在の他村の名主との連携はとても重要だったんですね。
また、彦五郎は春日庵盛車(かすがあん せいしゃ)の雅号を持つ文化人であった
ことも知られています。親戚には本田覚庵(谷保村・現国立市)という書道家も
いますし、当時の多摩川流域の村々ってのは文化レベルが高いんですよね。

それと、幕末の多摩地域で忘れてはならないのが、農兵です。
これは何かっていうと、簡単に言えば「農民による近代武装兵士」です。
こんなのがすでに幕末の多摩にはいたのですよ。
この農兵については、後ほどゆっくりと取り上げてみたいと思っていますので、
今日は武井咲ちゃんの髪の毛のごとくサラーッと流しますが、彦五郎のような
人物がこの農兵にも大きく関わりました。
そんなワケで、展示物の中には農兵が使用した銃(ゲベール銃)や韮山笠という
二つに折畳める笠などが展示されています。

私がいつもブログを書くときの資料にしている「里正日誌」を始めとして、多摩には
江戸時代から伝わる名主の日記が多く残されているようです。
皆さんの地元にもきっと、同じような資料が残されているハズです。
そういった資料が歴史の教科書ではフォローしきれない、リアルな地方の歴史を
教えてくれるんですね。

東大和の「里正日誌」は廻状やお触れの写し、身の回りの事件などを中心に書いて
いる印象がありますが、彦五郎の日誌は○月○日に誰が来たとか、剣術の稽古を
したとか、プライベートな話が多いのが特徴です。
先にも書いたように彼は本陣や問屋場の経営をしていましたし、多摩川の渡し場の
管理も責任を持つ立場でした。そういった仕事上の記録は別に書類として残して
いたようです。
村にも大小あり、名主の日記もいろいろスタイルが違うものなんですね。

ところで、彦五郎の日記は万延2年(1861)2月1日から元治元年(1864)
10月20日までが発見されていないそうなんです。
よりによって新選組結成当時の頃の分がないとはッ!!
このあたりが残念でならないッスねぇ・・・。

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こちらは常設展の内容です。
「新徴組(しんちょうぐみ)」って何じゃ?
京都に上った浪士組の、そのまま京都に残留したのが新選組。で、清河八郎と
共に江戸に帰ってきたのが新徴組です。
コレもいずれ取り上げたいと思います。

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本日の戦利品(おみやげ)。
今回の企画展は図録販売がなかったので、常設展の図録を買いました。
前に来たとき未購入だったのよ。
右の封筒のダンダラや隊士のイラストは印刷じゃなくて、素の封筒にわざわざ
貼り絵がしてあるのさ。職員の方々、ご苦労さまデス。

新選組や多摩の歴史に興味アリアリ・クロード・チアリって人だったら、一度は
行ってみてね「新選組のふるさと歴史館」!
「日記から見た幕末の日野展」は、2月24日まで。

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オマケ。
歴史館近くの「インドカレー専門店 アヌラーグ」
今日の昼食はココで。

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ランチのカレーセットは、上の料理にチャイが付いて800円。
羊とマメのカレーです。他にもチキンとか野菜とかいろいろアリ。辛さはお好みで。
ややご飯がやわらかめだったけど美味しかったです。ナンにもしてもらえるので
今度そうしようっと。
茶色いビンに入ってるのはタマネギとショウガの酢漬けみたいなの。
「ピクルスみたいなもんだろ」と思って食べたらイタイ目にあいました。
・・・辛い・・・

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歳三さんのお姉さんは「のぶ」が一般的ですが、この名前は明治元年に
夫の彦五郎が佐藤家代々の当主名である彦右衛門に改名した際、一緒に
改めたもので、それまでは「トク」といいました。
小さい頃に両親を亡くした歳さんにとって、4歳上ののぶさんは一番心を
許せる身内だったのではないでしょうか。
のぶさんも本音を言えば、危険な京都に弟を行かせたくはなかったと思い
ます。箱館戦争終結後に届けられた歳さんの絶筆となった手紙を、自分の
針箱にしまい終生大事にしていたといいます。



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テンちゃん、明日猫砂買ってきます。



蛤御門の変、起きる

文久3年(1863)に将軍・家茂さんが上洛をします。
そのときにボディーガードとして雇われた荒くれ浪人集団の中から
生まれたのが新選組です。
彼らが来るのを待っていたかのように、歴史の表舞台は関東から
京都へと変わっていったんですね。

「てぇへんだ、てぇへんだッ!!」
「どうした?前田敦子がキンタロー。に対マンでも申し込んだか?」
「おぉ、そりゃ見てみてぇや・・・て、違うッスよ。京で大事件があった
らしいんで!」

元治元年(1864)7月、全国に、そして東大和市域にもビックリする
ようなニュースが飛び込んできました。
「   子(元治元年)7月26日ご廻状の写し
去る19日卯の刻(午前6時)頃より松平大善大夫の家来が、御所へ
乱入、発砲する事件があったが、諸藩から大人数が出張ったので
おおよその者は討ち取り、残党はいずれも逃げ去った。
未だ詳細はわからないが、天皇はお立ち退きもなさらず禁裏にいら
っしゃる。親王、准后様方も安全だったとのことが、京都より報告が
ありました。

一、京都にて乱暴を働いた者があり、御所の近くに発砲し火事を出し
た事件につき、お上があれこれとご配慮をお考えになる間、当分は
神事祭礼、鳴り物などは見合わせるようにいたすべきこと。」

※准后・・・高い位の公家

それは、蛤御門の変(禁門の変)を知らせる廻状でした。
松平大善大夫(まつだいらだいぜんだいぶ)っていうのは、長州藩主・
毛利敬親(たかちか)のことです。
松平っていうと徳川の親戚かと思いがちですが、徳川に勲功のあった
者には「松平姓」をご褒美として与えることがあったんですね。なので
賜った方は表向き松平を名乗るワケです。
蛤御門の変は、長州藩士たちが御所の蛤御門に押し寄せ、会津、
桑名や薩摩の藩兵、新選組らと戦った事件です。
なんでこんな事件が起きたのかといいますと・・・

長州藩は過激な思想家・吉田松陰の影響もあって急進的な尊王攘夷
論を掲げていました。で、朝廷を抱き込んで政局の主導権を握ろうと
考えていたんですね。
ところがこれに危機感を持った京都守護職の会津藩と、あくまでも幕府
内の改革を望んでいた薩摩藩がタッグを組んで、文久3年8月18日に
長州藩とそれに同調する公家たちを京都から追放してしまいました。
(八月十八日の政変)
しかし、京都に隠れ残った一部の長州藩士らは、土佐藩等のやはり
過激な尊王攘夷派と手を組んで、ある作戦を計画します。
それは風邪の強い日に京都の町中に火を放ち、天皇を拉致しようとい
うアルカイダも真っ青のテロ計画でした。
ところが新選組がこの計画を察知し、元治元年6月5日、長州藩士らが
集まっていた旅籠の池田屋を急襲。ほぼ全員を討ち取るか逮捕したん
ですね。(池田屋事件)
京都を追われるわ、仲間は殺されるわで、長州藩の中で過激派がバク
ハツ!「もーガマンできんッ!」てことで出兵騒ぎを起こしたのが、この
蛤御門の変なんです。
結果は長州藩の大敗でした。

「    子7月晦日ご廻状の写し
今般京都において松平大善大夫の家来が徒党を組み、御所へ乱入し
発砲におよび乱暴を働いたことにつき、おおよその者は討ち取られたと
のことであるが、残党らがこの上東海道、中山道を横行し、または変装
して5人、7人と偽名を使って通行し、江戸市中に立ち入り暴発する可
能性も考えられる。
ついては代官支配地域の旅籠、主要道路はもちろんのこと、脇道や海
岸なども厳重に取り締まり、怪しい者が徘徊していたら差し押さえ、もし
手に余るようであれば討ち取っても仕方ないと、支配地域の者たちへ
申し渡し、手付・手代たちも村を廻り取り締まりを行き届くようにし、彼ら
の噂など探索してどんな事でも聞いたならば、大小の別なく速やかに
報告すること。」


当時、京都で起きた大事件が、約1週間遅れて江戸周辺の村々に伝わ
っていたんですね。
神事祭礼や鳴り物も禁止されたというのは、事件の大きさを物語って
います。やはり御所を巻き込んだドンパチだったからでしょうか。
次いで廻ってきた廻状では、逃亡してきた長州藩士らが江戸にまで来て
暴れる恐れアリと警告しています。実際にそんなことはなかったんですが、
幕府がかなり警戒していたことを表しています。

しかし、おそらく東大和のほとんどの村民が京都など想像もしなかった
この時代。
この事件が、どれくらいのリアリティをもって彼らに受け取られたので
しょうか。なかなか興味深いところではあります。

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「新選組」「新撰組」、どちらが正しいの?
よく聞く質問です。正解は「どちらでもよい」です。局長の近藤さんが
どちらの字も使っているので、そういう事になってます。
江戸時代の人は読み方が同じなら、漢字はテキトーに使っていたという
トコロがあるんですね。
元々会津藩に「新撰組」という部隊が存在していたことがあり、その
隊名を、藩主の松平容保(かたもり)公が近藤さんたちに与えました。
「撰」には「エラぶ」という意味の他に「ソナえる」という意味もあるのだ
そうです。
現在はどうでしょう、「新選組」と書かれた本やドラマの方が多いように
感じるんですが・・・大河ドラマも「新選組!」でしたね。

昭和3年に平尾道雄が「新撰組史録」という本を出し、これが近代新撰組
研究の嚆矢と云われます。平尾さんは明治時代に出された「新選組始末
記」という西本願寺にいた西村兼文の書いた本を参考にしたといいます。
しかし、会津藩の公文書に従って「新撰組」で統一したそうです。
ところが、ほぼ同じ頃に子母澤寛が「新選組始末記」という、西村兼文と
まったく同じタイトルの本を出版します。
子母澤さんはこのタイトルがとても気に入っていたらしく、そのまま拝借
したんだそうで・・・今なら訴えられますが。

「新撰組史録」は半ば研究書のスタイルを取っていて、資料・文献も多数
紹介されているんですが、やや読みづらいんですね。
ところが「新選組始末記」は子母澤さんの取材になるものとは言いながら、
小説ですから読みやすい!面白い!アッという間にベストセラーとなり
「新選組異聞」「新選組物語」と続編が出されました。
一般的に「新選組」の方が人気が高いのは、これがきっかけではないかと
思います。

ちなみに、私も本音を言えば「新撰組」派なのです。隊士だった永倉新八
も自著に「新撰組」を使っていますし。
しかし、一般的な浸透度を考えてブログでは「新選組」としています。