坂下門外の変の謎!?

幕末に起きた事件の中で「○○門外の変」ていうのが、二つあります。
どちらも江戸城の門が、その舞台なのですな。
一つが安政7年(1860)の「桜田門外の変」で、大老の井伊直弼が暗殺され
ちゃった事件。
で、もう一つが文久2年(1862)に起きた「坂下門外の変」ていう事件です。
こちらも襲われたのは幕府の老中で、安藤信正って人。

まぁ、メジャーなのは桜田門の方ですわな。映画にもなってるし。
坂下門の方はっていうと、「あ、なんか聞いたコトあるな。サトーちゃんが言って
たな・・・」ていう程度でしょ。
あ、ちなみにサトーちゃんてのは、ワタシの高校の歴史の先生ね。

どーしてこんなに印象度が違うかっていうと、やっぱり桜田門では井伊さんは
殺されちゃったけど、坂下門の安藤さんはケガで済んだのが第一の原因で
しょうな。
それから、桜田門は襲う方もけっこう綿密に計画立てて(思い通りにならなかった
部分も多いけど)実行したんですが、坂下門の方は「勢いでやっちゃったyo」
みたいな所があって、ドラマ性に欠ける気がするんですよね。
やっぱり歴史はドラマチック De Night!

この坂下門外の変が起きたのは1月15日ですが、その翌日には早くも事件を
知らせる廻状が東大和に出されています。
後ヶ谷村の杉本家に残されている資料です。
「昨日の15日朝、安藤対馬守がご登城の折、坂下門外で乱暴を働く者たちが
あった。これらの者どものうち6人はその場で斬り倒したが、3~4人は逃げ去
った。うち一人は背中に突き傷を受けたので、療養のために温泉などへ立ち寄る
ことも計りしれない。以上のような体に傷のある者はもちろん、少しでも怪しい所
のある者と見受けられれば、差し押さえて内藤新宿の役所まで申し出るように
すること。この廻状は廻ってきた日付をつけて早急に村々へ廻し、最後の村から
役所まで返させること。以上。
   戌(文久2年)正月16日     内藤新宿御用先
                       関東取御取締出役
                       用瀬式一郎
                       望月善一郎
これは18日に蔵敷村より廻ってきたもの」


江戸時代はこういったお上からの書状がリレー形式で村々の名主に廻ってくるんで
すね。で、最後まで行き渡ったら役所へ返す、というシステムだったみたいです。
だから自分の所に書状は残らないハズなんですが、気のきいた名主は次の村に
書状をもっていく前に、写しを取っとくんですな。
上に紹介した書状は後ヶ谷村の名主・杉本さんが書き残していた書状の写しってことに
なります。だから最後に「蔵敷村から18日に廻ってきたものだよ」っていうメモが入って
いるワケです。
こーゆー筆まめな人がいたから、150年後の我々が「へぇー、そーだったの。いやぁ、
初めて知ったッス。」という恩恵を受けられるんですね。
みなさんもこれからは日記をマメにつけてですね、「回覧板届く。不燃物のゴミ回収が
月曜から水曜に。」などと写しておくと、100年後のご子孫から「おぉ、そーだったの
かぁーッ」と感謝されること請け合いです。

それはともかくとして。
「初めて知ったッス」が、実は上の文章の中にも出てるんですよ。
今のどの本を見ても(私が見た限りではネ)、坂下門外の変で安藤信正さんを襲ったのは
6人で、全員がその場で斬り倒されたことになってるんです。実際にはもう一人いたん
ですが、この人遅刻しちゃって参加してません(→のちに切腹)。
でも、資料には他にも3~4人逃げたヤツがいて、しかもその中の1人は背中に突き傷
までついてるっていうじゃないですか。

コレ、どーゆーコト?
書状が間違ってるんでしょうか?
でも、コレが出されたのは事件の翌日というホットな状況でしょ。しかも、文面を読むと
「老中が襲われたよ~」という状況説明よりもむしろ、「犯人が逃げてるから気をつけろ
よ~」という手配書の様相が濃いと思いませんか。
だからこそ警察機関である関東取締出役から出されたんでしょうけどね。

ちょっと穿った見方もしてみましょうか。
安藤さんはこのとき、多数の警備がいたおかげで助かったんですが、ケガは負わされた
んですよ。で、そのケガをした箇所ってのが背中なんですねぇ。
武士にとって不名誉なのが「背中傷」。敵に背を向けた、逃げたってコトですから。
だから、「背中に傷を受けて逃げたのはご老中じゃないよ。犯人だよ。」ってカモフラージュ
のために、こんな情報を流したのかな・・・と。
考えすぎ?
まぁ、安藤さんは結局4月に老中を辞めさせられちゃうんですけどね。

この資料だけでは何とも言えないんでしょうけど。どこかにコレと同じような廻状があれば
面白いんですが。
もし、本当に記録に残っている6人の他に犯人がいて、傷を負いながらも逃げたとする
ならば、これは一気にドラマ性を帯びてきますわなぁ。
幕府によるカモフラージュとしても、それはそれで私は初耳。

やっぱり歴史はドラマチックでないと!

トキメキ Tonight!

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新選組の十番隊組長を務めるなど、大幹部として活躍した原田左之助
さんは、元伊代松山で中間をしていました。奉公先の子供と遊んであげ
るなど優しい面がある一方、半裸で太鼓を打ちながら街中を闊歩する
などの奇行癖もあったようです。
後に新選組を脱退し彰義隊に参加、上野戦争で戦死したと伝わりますが、
生き残り大陸に渡って馬賊の頭目になったとの話もあります。
切腹未遂も事実のようであり、なかなかのドラマチックな人物です。
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テンコ015-a

今年最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
また来年もヨロシクね。




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ロイヤル・ウエディングは助郷で

幕末最大の国内イベントっつったら、やっぱりアレでしょ。
徳川14代将軍家茂さんと、孝明天皇の妹和宮さんとのご成婚、超セレブ
ウエディングでしょッ!
よく言われているように、確かに政略結婚以外の何物でもないですし、たいてい
の小説やドラマは「悲劇の犠牲者」として和宮目線で描かれているモノが多い
ですよね。
でもホラ、そーゆーコトと民衆の興味というのは別モノですから。
みんな興味シンシン丸で、この世紀のウエディングを見守ったそうですよ。

だけど、その「花嫁行列」のルートに当たった土地の人たちと、その関係者は
けっこう大変だったみたいで・・・。
とまぁ、今回はそんなお話です。

将軍の所に嫁入りするんですから、和宮さんは京から遠路はるばる江戸へやって
くるわけです。
京と江戸を結ぶルートというと、真っ先に思いだすのが東海道ですよね。弥次喜多
ルートっすよ。でも和宮さんご一行はその東海道を通らず、内陸の中山道を通って
いったんですね。
東海道ってのは大きな川が多いんで、もし雨が降ったら何日か川留めになって
予定が大幅に狂っちゃう。それから横浜には外国人が歩いてるでしょ。もしも
外国人に「ハ~イ、ジャパニーズ・プリンセス・プリンセス!ダイヤモンドダネ~」
などと声をかけられたら、和宮さん失神しちゃいますよ。いや、嬉しいんじゃなく
恐怖のあまりね。
それから、朝廷・幕府が一番恐れたのが、尊攘派浪士がこの結婚に反対して
和宮さんを拉致するっていう噂があったんですね。ダスティン・ホフマン卒業計画って
いうんですけど(←当然ながらウソ)。

こういったことが理由で中山道がルートになったんですが、幕府としちゃココでいい
とこ見せて権威回復を狙ってたんでしょうね。その規模がスゴイ。ハンパないの。
江戸からのお迎えが勘定奉行以下1万人で京に上り、京からの付き添いは1万5千人
で江戸へ下る。2万5千人の大行列。
江戸時代に五街道が整備されて以来、最大規模の行列だと言われてます。

和宮ご一行は文久元年(1861)10月20日に京を出発。約3週間ほどをかけて
江戸へ行ったんですね。
江戸へ入る直前の11月14日。この日は埼玉県の大宮と浦和で休憩をとりました。
さぁ、ココからが今回の本題ですよ、奥さん!
前ふりが長いでしょ、このブログ。

江戸時代は助郷って制度がありましてね。
街道の宿場には必ず、幕府公用の荷物運びを引き継ぐ人足や馬が用意されることに
なってるんです。でも、交通量が多かったりすると、宿場で用意した人馬じゃ足りなく
なっちゃうでしょ。そんな時は、近在の村からお手伝いの人足や馬を供出させることに
なってまして、これが助郷です。
これはまぁ、一種の労働税みたいなモンですから、助郷になった村はその費用は全部
村の負担です。人足に選ばれた村人は朝馬を引いて宿場に行き、荷物を次の宿まで
運んで「お疲れさまっしたー」つって翌日帰ってくるんです。
ロケ弁なんて出ませんよ。弁当持参ですから。モロただ働きですな。

花嫁大行列が出発するひと月前、東大和市域を含む狭山丘陵の村々に、浦和と大宮の
宿場から廻状が回ってきました。
「この度、和宮様ご下向にあたりこの中山道をお通りあそばされる。その荷物継立ての
人足として定助郷、加助郷、大助郷と動員しても、人馬とも不足している。
そのため次にあげる村々を差村(さしむら)と指定して、当宿場への増助郷とするよう
道中奉行へ申し上げておいたので、前もって心得るように村々と話し合うことにした。
なお、追って奉行所からの許可状が出れば、心得たようにしてもらうので取り計らって
いただきたい。」


なにせ2万5千人の大行列だから、近隣の助郷を総動員しても人馬が足りないの。だから
こっちが指名する村々は手伝って。つーか、手伝え。
こーゆー内容ですよ。まぁー、上からマリコなお手紙です。
で、ご指名されちゃった村々ってのが、東大和・東村山・小平・武蔵村山・東久留米・
瑞穂・所沢・入間といった地域の村。
東大和でいうと、蔵敷村・芋久保村・芋久保新田・高木村が浦和宿。後ヶ谷村・宅部村・
高木村・奈良橋村・清水村が大宮宿からの指名を受けてしまいました。
高木村が両方に入ってますが、村を二つに分けて担当させたんでしょうか?

東京、埼玉の地理にちょっと明かるい方ならお分かりでしょうが、これら狭山丘陵の地域
は中山道からはかなり離れたトコロです。浦和や大宮だって相当距離がありますからねぇ。
こんな地域を指定するなんてかなりムチャだと思いますが、それだけ人手が必要だった
とは言えますわなぁ。

東大和市の後ヶ谷村の名主が後日、代官所に出した報告書を見ると差村の村々がどの
ように行動したかがわかります。
「私どもの村々はこの度、和宮様ご下向につき中山道大宮宿より、臨時助郷の指定を
受け、道中奉行酒井隠岐守様の許可状をいただきましたので申し上げます。
11月9日朝、村高100石につき人足3人づつ供出。
11月9日夕方、100石につき18人づつ供出。
11月11日早朝5時、御先下り御用として100石につき10人。
11月12日、大宮宿矢来詰として100石につき10人。
11月13日、桶川宿から同宿の矢来詰の上、板橋宿まで継通し100石につき13人。
11月13日、大宮宿矢来詰として100石につき5人。
11月14日夜、板橋宿へ雇上として100石につき4人。
11月15日、100石につき1人。
11月16日、大宮宿矢来詰として100石につき1人。
都合、村々の村高100石につき47人づつ、いずれも人足10人を一組と定め、リーダー
1人づつ付き添えて、行列の御用に差支えがないよう取り計らい、その他臨時人足を宿場
より指定場所へ差出しました。行列の当日はもちろん、御先下り御跡下りとも滞りなく
継ぎ立ての御用を勤めて帰村いたしました。」

※矢来・・・竹や丸太で作った臨時の柵

11月9日から16日まで9回出動しています。どの道を通って大宮や浦和まで行ったん
でしょうかねぇ。しかも、11日のように朝5時までに大宮に着くには、どれくらいの時間に
地元を発ったんでしょうか。今、自動車を使ったって1時間じゃ行けませんから、歩いて
行くにはツライですよね。
預所のときもそうでしたけど、お上の御用でけっこう遠くに行かされてますね、ウチの村民。
これが旅行だったらいいんですけど、仕事ですからねぇ・・・。
ところで、経費はどれくらいかかったんでしょうか?
先ほど書いたように人件費などは村々の負担でした。
東大和市域での記録は見つからなかったんですが、東村山市史にこの時の廻り田村の
経費が記載されていました。
しめて82両2分2朱と銭809文。まぁ、1両が10万円と換算すれば約830万円。
・・・ツライわぁ。

20121222.jpg

家茂さんは甘いものが大好きのスイーツ将軍だったそうです。
天璋院さんは大河ドラマでの宮崎あおいさんのかわいいイメージが
大きいですが、毎晩の晩酌は欠かさなかったそうですよ。
さすが、鹿児島の人ですね。




税って、安くならないスか・・・?

安政7年(1860)3月3日、江戸で大事件が起こりました。
江戸城桜田門外で、幕府大老の井伊直弼が水戸藩浪士らに暗殺されて
しまったのです。いわゆる「桜田門外の変」です。
その前年の安政6年10月17日には江戸城で火事があり、本丸(将軍の
いる所)が焼けるという災難もありました。
これらのことから「ちょっと流れを変えた方がよくね?」っていう意見が幕府の
中で出たんでしょうね。
3月18日から元号が万延と改まりました。
・・・この辺りからでしょうか、世の中がだんだんと不穏な空気になってくるのは。

その頃、東大和市域に次のような廻状が支配所から廻ってきました。
日付は6月7日になっています。
「甚だ暑い季節ですが、ご安康に励まれているご様子、お喜び申し上げます。
ところで組合に所属している村々の中で、江戸10里四方以内の土地で荒地、
芝地、並びに空き地になっている場所の、耕作地とした場合の収穫高を早々に
取り調べて、その有無を書面にして差し出し申すようにご支配のお役所から
お達しがありました。
右のことをご承知の上、明日8日正9つ時(12時)に、所沢村助右衛門宅へ来て
いただきますよう、同人より申し出がありましたので、ご承知いただき早々に
他村へ回していただき、最後まで伝わったらご返却ください。以上。」


村にある土地の中で、空き地になっている場所もキチンと検地をして申告しなさい
ってことですね。
「おい、何だってンだ?こんな所調べてどーしようってンだい?」

ホラ、以前に関東取締出役ってご紹介しましたでしょ。八州廻りですよ。
実は50年くらい前の文政9年(1826)に、その八州さまの一人河野啓助って人が
関東地方の村々を廻って、自分がチェックしたことをレポートにまとめて勘定奉行に
提出したんですな。それによると、
「近頃の農民は副業の小商売や手仕事ばかりに精を出し、贅沢をして、その反面
手入れの行き届かない田畑が荒地になっています。衣服や生活品が豪華になり、
芝居や相撲の興行までしている村もあるようです。これでは治安も悪化しますし、
こんなコトでいーーんでしょうか!?ムキィーーーーッッ(怒)!!!」
と、こんな内容のことを書いてるんです。

確かに江戸時代の農民ってのは、自給自足が原則です。「お金を稼ぐ」ことは
禁止されていました。
しかし、江戸時代も後半になれば都市部では貨幣経済が行き渡り、銭の花が咲く
毎日。そんな流れが農村にだって入ってきますわナ。
それに、前回お話したように肥料は金肥を買わねばならないし、だいいち東大和
市域のような貧しい土地は税そのものが金納でショ。
カネを稼ぐなってのが、もう無理な時代だと思うんですが、この河野さんって人
ゴリゴリのカタブツだったんですかねぇ。八州廻りは治安維持が仕事でしたから、
風紀が乱れるのを恐れていたとは思いますけど。

まぁとにかく、それから50年経った万延でも、お上は農民を土地に縛り付けて
田畑を耕作させ、税を取ろうとしていたんですな。
国を開いて貿易を始めたものの、幕府の基本収入は耕作地から上がる年貢だと
考えていたことがわかりますネ。

ところで、村々が納める税は年貢だけじゃありませんでした。
「村入用」という村の維持にかかる経費を負担する税がありました。今でいうなら
住民税ですね。
この村入用も江戸時代前半まではたいした負担じゃなかったんですが、後期に入る
とジワジワと負担が増えてくるんですワ。

その原因の第一が、またまた登場の八州さま・・・関東取締出役なんです。
彼らはFBIみたいに支配地の別なく無宿人や悪党を取り締まるでしょ。で、タイーホ
した犯人を留置したり、江戸に送ったりするわけですが、その経費は逮捕地の村の
負担だったんですね。
だから村民は八州廻りに非協力的だったといいます。河野さんが村々にキビシイ
報告書を出したのも、こうしたことがあったからかもしれないですね。

それにプラスして村入用の負担を増加させたものに組合があります。

組合っていうのは、いくつかの村々が連携・連帯してつくったひとつの組織をいいます。
これも、浪人やら悪党やらの対策として結成されたわけで、八州廻りと関係が深いん
ですね。(それ以前にも小規模の組合の存在はあったようですが)。
東大和市域でいうと、文政12年(1829)に取締り強化のために現在の所沢市・
東大和市・東村山市全域と清瀬市の一部を含むかなり広い範囲がひとつの組合村と
して結成されました。
組合村の中心となる村のことを寄場っていいます。
歴史の授業だと、寛政の改革で無宿人たちを収容して職業訓練させた場所を石川島の
「人足寄場」と覚えましたけど、それとは違うのでご注意!
とにかくこれだけの大所帯の組合ともなると、かかる経費・・・つまり村入用もカナーリの
負担になってくるのは想像つくというモンです。

「廻状をもって申し上げます。寒さがますます募りますが、皆さまご健勝に励まれて
おりますことお喜びいたします。
ところで、寄場入用の金額が今年の分の他、臨時にもかかりましたので、石高1石に
つき丁銭で18文6厘づつかかりますことをご承知の上、今月の下旬までにお届けいた
だけるようお願いいたします。」


10月22日、東大和市内の後ヶ谷村の名主・杉本さんのところに上の書状が届きます。
後ヶ谷村はもちろん、所沢組合です。
ところが、期日通りに寄場入用を払えなかったようで、12月8日に次のような催促が
届きます。

「甚だ寒くなりましたが、ご支障なくご惣領様にはご健勝のことと存じます。
ところで先々月に申し上げました寄場入用の支払いがまだのようで、度々所沢より催促
があります。来る10日にはお支払いいただけますよう、火急のことでお気の毒とは
存じますが、今日明日のうちにお届けいただけますよう申し上げます。


いえね、ここだけの話、この万延元年は後ヶ谷村は不作だったみたいなんですよ。
というのも、江川代官所からこんな書状も届いてるんです。

「今年の夏秋の年貢だが、今もって未納である。もっての外不埒のことであり、早々に
持参して納めるべきこと。もし、当月中に納めないようであれば、連行するための人を
つかわすので、その旨を心得て早々に納めること。」


年貢に村入用に、さらに検地・・・。
税金なんとかしてちょーだいよォォ~、という村民の声が聞こえてくるようですな。
特に幕末のこの時期、政治や経済の急激な変化は村入用にダイレクトに反映された
ようです。負担増加ってカタチで。
そういえば前に、熊本藩の預所となり、さらにそこからハズされるとなったときに
大規模な反対運動があったことをご紹介しましたよね。(駕籠訴、敢行!
もしかすると、そこにはこれらの事が大きく関わっているのではないでしょうか?
預所になれば代官支配からはずれるので、少なくとも八州廻りは来なくなります。
村入用の負担は全然違ってくるハズです。
あぁ~、良かったよォ、預所時代・・・!

20121214.jpg

歳三さんが、日野の実家を出て試衛館に移ったのは、この万延元年に
歳三の兄・喜六さんが42歳の若さで亡くなったことが大きく影響して
いると思われます。歳三さんは幼くして両親を亡くし、喜六夫婦に育てられ
ました。兄弟にはもう一人、為次郎という長兄がいましたが盲人だった
ため、次兄の喜六が家を継いでいたのです。
しかし、喜六さんが亡くなると、家の中には未亡人の兄嫁と幼い息子。
若い歳三さんは家に居づらくなったのでしょう。



ぬか闘争

まぁ、やってみて初めてわかるってコトはよくあることですが、貿易にしても
そうだったんですな。
江戸時代は江戸問屋中心の流通システムでしたが、開港してからは輸出用
の品々が直接港に運ばれるようになり、そのシステムが破たんしてしまいます。
港では国内市場よりも高値で取引が行われたために、物価もアゲアゲ。
さらに輸出超過で生糸などの国内物資が不足。金銀の交換比率の問題もあって
経済は大混乱。
「こうなったのも、みんな外国人のせいなんじゃーッ!
 条約を勝手にした幕府も悪いんじゃーッ!
 WBCになぜ出ない日本人メジャーッ!」
ってことで、世の中はますます攘夷に傾いていきます。

それまでは「生理的に受けつけないの」という精神的な攘夷論だったのが、「私
にも生活があるのよッ」という経済的な攘夷論に移ってきたとも言えますね。

世の中はそんなカンジ。
しかし、江戸より約10里ほど離れた農村の東大和市域では、これまた農村
ならではの問題に直面していたんです。
幕末も俯瞰で見れば外国人がどーしたとか、浪士が斬りあったとか、竜馬が
ニッポンを洗濯するぜよ!とかなんでしょうが、ミクロの視点で見てみると
違う幕末が見えてきます。

江戸時代、農村は米を生産して領主に納めていたわけですが、東大和市域の
ような慢性的に水が不足している所は、土地の評価が「下下田(げげでん)」
などとランクされちゃうんです。
げげでんですよ。げげ。
なんか鬼太郎や青空球児が出て来ちゃいそうでしょ。ゲロゲーロ。
こんな所でとれた米はお上もイラナイって言って、税は金納にさせるんです。
だから農民は畑で他の作物をつくり、それを売って税にあてるというわけ。
でも、土地そのものがやせてるので、何か作るったって肥料をたくさん土にまぜ
なければ何にもできないんですよ。大変だーね。

江戸時代も最初の頃は草を刈って堆肥にしてたんですが、時代が下がってくる
ともっと効果の高い肥料が登場してきます。干鰯とか油粕などがそれで、こう
いう肥料を作る業者が出てきます。農民たちはお金を出してこの肥料を買うわけ
ですな。だから、この手の肥料を金肥(きんぴ)って言います。

東大和市域では、この金肥はを使っていました。
この糠には大坂糠、尾張糠といった西から入ってくる下り物と、江戸周辺で生産
される地回り物があり、どちらの糠も購入していたようです。

さぁ、話はココからなんですが、次第に糠業者がコスい手を使うようになるんですな。
糠の値段を上げてくるわけです。足もと見やがってッ!
まぁ物価の上昇は多少仕方ないとしましょう。でも許せないのはここからッス。
糠の品質まで落としてるんですよ!肥料にもならない混ぜ物いれて、量をごまかし
てやがったんですよ、業者のヤツら!アニキ、何とか言ってくださいッ。
こいつァ許せねぇでしョ!

実は遡ること70年前の寛政2年(1790)にこういう事がありまして、入間郡50ヶ村
の村々がお上に訴えたんです。この運動が川越藩や田安領などにも広がって、幕府
は糠業者に値下げと品質改善を命令しました。
そして、70年後の安政6年(1859)。
またまた同じような糠の値上がりと品質悪化が目立ってきました。
「寛政の頃のように、またお上に訴えるべえ」
ということで今度は多摩・入間郡56ヶ村に、入間・新座郡22ヶ村の村々も加わって
訴願運動が起こります。
この惣代の一人に「里正日誌」の主人公・蔵敷村名主の杢左衛門さんが入っています。

「近年下り糠のうち尾張糠にも混ぜ物が多いです。しかも、最近の糠相場は高騰し、
金一両につき尾張糠は八斗入の俵で2俵3,4分。江戸糠は7斗入の俵で3表4,5分
くらい。しかも江戸糠は7斗入のところ、正味升目5斗5,6升しかありません。
また、江戸で下り糠同様に仕立てた地巻(じまき)という糠は8斗入のところ、正味
7斗ぐらいしかありません。
ことに江戸糠には粟・キビ・麦・籾糠・櫛挽粉が升嵩み(かさみ)に加えられ、また、
重さを増やすために房州砂・赤土・御蔵前あたりの虫粉などが多く混ぜられ、全く
肥料にならないのです。
実に難渋したので、先年尾州表糠問屋大鐘屋藤七、鍵屋八郎兵衛に相談し糠をまと
めて購入して百姓たちへ分配したところ、とても土に良く、麦作その他も一様に実りが
良かったが、先方の都合が悪く現在は取引がありません。
その時の糠の様子からは、上方で混ぜ物を加えて回送しているとは思えませんが、
江戸表はもちろん在方にも混ぜ物を取り扱う業者がいるとの風聞があります。
右のような糠では、作物を植え付けて育てても根元に虫がついて食い荒し全滅同様に
なってしまいます。全く混ぜ物があるからだと思われます。何とも迷惑至極のことで
あり、このままではゆくゆく支障をきたすと思われますので、なにとぞご慈悲をもって
以後正しい糠を仕立てて、収穫される穀物に見合わないような高値で売らないように
命じていただけますよう、ひとえにお願い申し上げます。
右の願いの通りお聞き下されば、百姓どもは助かりありがたく幸せに存じます。よって
村々一同連名捺印のうえ願い上げます。以上。」

※籾糠(もみぬか)・・・もみがら
 櫛挽粉(くしひきこ)・・・材木をノコギリで挽いたときに出る木屑

私は農業ド素人ですが、量が少ない上に赤土や木屑が混じった肥料では、まるで
価値がないというのはわかりますよ。
ことは税収にも影響する問題ですから、お上は適正な判断をしてくれると、当然村人
たちは巨人ファンが阿部のホームランを待つのよりも、当然高い期待値で待っていた
と思います。

ところが、どっこい大作。
2年も待った末の文久元年(1861)5月、お上は村々の訴願を却下とする旨を
言い渡します。
「えぇ~~ッ、マジで!?」
村民の驚きとガッカリは尋常じゃなかったと思います。

「糠の売買については先年の指示もあるので、糠問屋たちが問題を起こした時には
十分に話し合い、以前の通りに修正させ、もし不当を言い張るようであれば目安掛り
で幕府に訴えるようにとのこと、了承いたしました。
よって、本来であればすぐに願書を下げ戻しを願うべきところですが、村々では願書
を申し上げたので、すぐにもご憐憫のお沙汰があり、糠の品質も改善され作物の実り
も良くなるだろうと、一同楽しみにお沙汰を待っています。
すぐさま願書の下げ戻しを願い出て帰村すれば、村々の者たちは驚き歎き悲しむで
しょう。このうえ残念なことがないように、ご理解はしていただけていると村々の者たち
へ一応申し聞かせ、そのうえで願書の下げ戻しを願いたいと思います。
何とも恐れ入ることでございますが、なにとぞお慈悲ご理解をもってお話いただいた
ことを村々へ伝える間、来月5日まで願書の下げ戻しをご猶予願います。以上。」


明らかなヒドイ違反がない限り、当事者同士で話し合って解決しなさい、と言われた
ようですね。
そのお達しに対して、杢左衛門さんが出した書状が上の文章です。
まぁ、やんわりとはしていますが、ギリギリまでネバろうとしている杢左衛門さんの
気持ちが表れていますよね。

物価の問題に対しては、一番最初に書いたように幕府は貿易がらみの一件で相当
神経を遣っていたと思います。
ハッキリ言っちゃえば、「肥料の問題なんかにかまってられないよ!」っていうのが
幕府の本音だったんじゃないでしょうかね。
でも、幕府のこうした細かい部分のケア不足が、やがて慶応期に入って世直し一揆を
引き起こすことになるのです。

20121210.jpg

源さん、こと井上源三郎は後の新選組大幹部ですが、実家は近藤さんの
言うように八王子千人同心です。
同心と言っても、中村主水のような町奉行所同心とはチト違います。
千人同心は甲州路の守りとして武田家の遺臣によって組織されましたが、
武士としての身分は低く、通常は農業に従事していました。
井上家は日野に住んでいましたが、このように八王子だけではなく周辺の
多摩地域に住んでいた千人同心も多かったようです。
特に江戸時代後半になると「千人同心株」が売買されるようになり、広範囲に
広がりました。東大和市にも千人同心となった家があったようです。




外国人とのお付き合い

安政6年(1859)幕府は神奈川、長崎、箱館を開港しました。
前回お話したように自由貿易が許可されたワケですから、外国人が
国内にドンドン入ってきます。
これまでもハリスの江戸行きで外国人と遭遇した場合、どうしたら
いいかを指示したお触れは出ていましたよね。まぁ、大騒ぎするな
程度の事でした。

ところがこれからは、いつどこで一般ピープルが外国人と遭遇するか
わからないですから、かなり細かい注意がお上から申し渡された
ようです。
「里正日誌」には村人たちがお上から出された心得を、キッチリ守り
ますと約束した請書が記載されています。

「一、神奈川がご開港になり、ロシア・フランス・イギリス・オランダ・
  アメリカたちが今年6月より横浜において日本の商人たちと交易する
  ことがお許しとなった。外国の役人と商人は同所へ居住するが、同所
  より江戸方面へは六郷川までとし、その外は10里を境としその内側
  を遊歩区域とすることを許可し、取締りを厳重にすることを申し付け
  られ承知いたしました。」


開港したからといって、東大和市域あたりはカンケーないんじゃない?
と思いがちですが、なんの、なんの、南野陽子。
横浜から10里(約40km)圏内だったら、東大和はスッポリ入っちゃう
距離なんですよね。
だから野良仕事の最中に、向うから歩いて来たブラッド・ピットに突然道を
聞かれた、なんてコトがあるかもしれないワケです。(まぁ、無いケド)

さて、この後十項目以上にわたって心得を守るべく認めた記載が続いて
います。これを全部現代語訳でココに書きだすのは長くなるし、読んでいる
方も退屈してしまうでしょうから、要点だけを抜いて書くとこうなります。

「一、外国人が遊歩したときに見聞したことは外国へも伝わるので、お互い
  が気をつけあうこと。
 一、外国人が途中で休んだり、宿泊などを申し出ることもあるだろうから、
  宿場や村に2,3軒づつ休泊所を決めておき、地元役人の取り計らいで
  案内すること。そしてそのことを神奈川奉行所へ届け出ること。宿泊代
  は当人間で決めて受け取ること。
 一、外国人が必要により地元民を雇いたいと申し出たときは、奉行所へ
  届け認可を受けたうえで派遣すること。雇い料は当人間で決めること。
 一、外国人は門がまえのある家へは立ち入れないことになっているので、
  これを守らない者がいたときには留置し、奉行所へ届けること。
 一、外国人が来店したときには、店先の座敷で取引し道路から見えない
  座敷へは入れてはならない。指定の休息所のほか、酒食を商売としない
  家では酒飯などを出してはいけない。
 一、外国人の店先へ用事のない者は行ってはいけない。また、商用で
  あっても道路から見通せる場所で取引きすること。酒食など取っては
  いけない。
 一、日本人が商用で外国船に行くときは、運上会所へ届け出を出すこと。
  波止場以外は出入りしてはならない。
 一、ご禁制の品を除けばどんな品であっても、外国人が望んだ場合は妥当
  な金額で売り渡すこと。
 一、外国人が不法に難題を言ってきた場合は、書面に書いて届け出ること。
 一、外国金銀貨幣は同種同量をもって取引きすること。日本の真鍮銭・銅銭
  は釣りとして渡すのは良いが、外国に持ち出さないよう守らせること。
 一、外国人からの贈り物は受け取ってはならない。
 一、キリシタン禁止は以前からの通り。
 一、5ヵ国の者たちは自国の宗教を信仰し、礼拝堂を作ることは許可された。
  互いに宗教上の争論をしたり、建物を破壊してはならない。
 一、アヘンは禁止のこと。外国人が持ち歩いたり、それを買い取る者があれ
  ば奉行所に訴え出ること。
 一、抜荷や密貿易は厳しく処罰する。
 一、西洋金銀の引替え方は、ドル銀1枚を一分銀3枚の割合で通用させる。
  つり銭は一分銀・一朱銀で勘定し、新規で鋳造した金銀や他の金銀を
  外国人に渡すことは一切しないこと。


いやぁ~、長くなっちゃいました。
しかしこれだけの細かいルールが、たとえ10里圏内とはいえ港からずーーっと
離れた多摩地区にまで届いていたんですね。
商売はかなり自由に行えたようですが、なんだ、なんだ、南田洋子。
外国人と交流する・・・という雰囲気までにはならないようで。やはりアヘン戦争
などの影響でしょうか、過度に外国人と接触することには幕府も慎重な様子が
覗えます。

ところで、開港した神奈川ですが、すぐに横浜に開港地が移されました。
これは神奈川港の沿岸一帯は水深が浅く、港として不適当であることが判った
かららしいんです。
そこで幕府は新港として横浜を勧めたワケですが、その理由は岩瀬忠震さんの
所で触れたとおりです。

では、この変更について外国人側はどう思っていたのでしょう?
この頃日本にやってきたイギリス人のロバート・フォーチュンという人は、その
旅行記の中で各国領事の考えを、こう記しています。
「東海道は諸国から集まる日本人の人達がしじゅう通る公道だから、われわれの
国産品が彼らの手で各地に運ばれ、速やかに知られ、評価される手段として望ま
しい。ところが日本政府の意図は、外国人を、深くて広い溝で取り囲まれた横浜
に収容するつもりらしい。しかし、実際は形を変えた出島で、われわれ外国人は、
かつての長崎におけるオランダ人のように、横浜で囚人扱いをされるだろう・・・。」


各国の領事や商人たちは、東海道の宿駅がある神奈川を居留地に望んだよう
ですが、幕府は自分たちが管理しやすい横浜に移したんですね。

このロバート・フォーチュンという人はイギリスの園芸家です。東洋の植物を採取
するために、中国経由で万延元年(1860)に来日し、その旅行記を「江戸と北京」
という本にまとめました。
フォーチュンは植物をコレクションするために、浅草や王子の辺りまで出かけて
います。
当時の江戸周辺には、領事や商人以外にも、このような一般の外国人がけっこう
歩きまわっていたということですね。

20121202.jpg

実際には外国人は一人でウロウロできたわけではなく、居留地以外の
場所に出かけるときには、幕府の役人が付いていなければならなかった
のです。ヒュースケン事件のような外国人暗殺事件もありましたから・・・。
しかし、ロバート・フォーチュンは、その滞在中は「万事平穏な当世であった」
と書いてます。
攘夷を主張する浪士はともかく、一般庶民は外国人に対してフレンドリー
だったようですよ。