安政6年(1859)2月、熊本藩細川家の預所からハズされると
知った多摩郡22ヶ村の村々は、「まるでストーカーか」というくらいに
反対の嘆願運動を起こしていきます。
「おまいら、そーは言うけどよ。ワシら細川家の身にもなってみ?」
そう、熊本藩はなぜ幕府に預所の村替えを要求したのでしょうか。
答えイッパツ。
「だって、不便なんだもん。」
この一言に尽きると思うんですよね。
だって三浦半島の警備のために、北多摩から人を集めるんじゃ効率悪い
に決まってるもの。それに、大津の陣屋じゃ遠いからって、届出なんかも
わざわざ江戸でやってやらなきゃならないし。
結果として預所は三浦郡・鎌倉郡に変更となるわけですが、よほど便利
だというのは野良猫プーちゃんでもわかります。
あ、プーちゃんてのはウチの近所にいる野良ちゃんね。
「でも、でも、納得いかないッス・・・!!」
熊本藩支配のどこがそんなにいいのか、それとも預所をハズされることに
何か怖れがあるのかわかりませんが、村替えを断固拒否!
ついに村々は最後の手段に打って出ます。
駕籠訴(かごそ)、です。
時代劇で、竹の棒の先に「訴」って書いた書状をくくり付けて、御奉行さま
とかお殿さまの行列に、お百姓さんが出ていったりするのを見たことがあり
ますでしょ。アレですね。
江戸時代は、何か不満があってお上に訴えたいことがある場合は、すぐ上の
上官に申し出なければならなかったんです。
農民の場合は名主とか惣代とかが、代官や役所に訴えるのがスジ。
駕籠訴は、それを飛び越えて直接もっと上の支配者に訴えようという行為で、
直訴(じきそ)とか越訴(おっそ)ともいいます。
まぁ、違法行為ですな。
しかし、多摩郡22ヶ村の代表として、後ヶ谷村(東大和市)の名主・杉本
平重郎さんは3月2日、最後の手段として老中筆頭太田備後守のお駕籠の前へ
訴え出たのです!
「私ども村々は以前より天領(幕府領)として御恩を受けとても有り難く幸せに
存じております。そのような折、昨年3月に細川越中守様の預所に仰せ付けられ、
同月中に預所のお役所より村ごとへ御検分のお役人様の御見回りがありました。
政治向きの事は熊本藩領内と同様にすると仰せられ、その後追々お取調べの上
それぞれ法をもってお取締りが行き届き、村入用(税)などもだんだんと減り、殊に
訴訟事は稀となって当時の様子は活気はもちろんのこと、村が立ち直れると
村役人は申すに及ばず百姓の末端までが、一同農業に精を出そうとしていた所、
この程私ども両郡(多摩・都筑)から外の最寄の村へ、預所を替えると仰せに
なったことを承りました。村々の男女老若に至るまで一統を挙げて細川家の御仁政
をお慕いし、引き続き御支配いただけますよう嘆願いたしました。
越訴は真に恐れ多いことですが、先月中より村々の村役人が連印をもって熊本藩の
お役所へ何度も嘆願いたしましたが、その件を沙汰する筋の事ではないと、その
度ごとに厚くご理解いただくものの願書はお差し戻しになりました。
その都度、村役人たちは百姓の末々までご理解の程を十分に説明いたしましたが、
一統はただ歎くばかり。この期に及んでは各々農業生活もいたさず、昼夜集まって
村役人たちには任せられない、この上は百姓たちでどのようにしても嘆願いたそうと
不穏な気配があります。
村役人たちも実に嘆かわしく当惑しております。止むを得ず願い奉らず、怖れ多くも
この件を嘆願申し上げます。何とぞ格別の御慈悲をもって、私ども両郡の村々を
これまで通り預所として置いていただけますよう、この上幾重にも御憐憫の御沙汰
をお願い申し上げます。以上。」ついに行く所まで行っちゃいましたねぇ。
ちなみに、多摩郡と同じく預所を村替えとなった都筑郡では、川島村名主の中田
藤蔵さんが勘定奉行の立田主水正さまへ直訴に行っています。
勘定奉行は代官の上司。つまり、天領を支配する立場の御奉行さまです。
多摩郡・都筑郡の両方が申し合わせて直訴に及んだことに、間違いはないでしょう。
こうなると、相当本気で熊本藩の支配から抜けたくなかったと思うより他ありません。
よほどそれ以前の時代は暮らしにくかったというのでしょうか?
しかし、思い出してください。
安政大地震があったとき。
東大和の村人たちは、自発的に代官の江川太郎左衛門さんの家の片づけに行って
ました。村民と代官の関係は悪くはなかったハズです。
ここで前回ご紹介した
村が2月16日に役所に提出した書状を読み返してみましょう。
「他の預所になることを仰せ付けられましては・・・」ってありますよね。
これは私の推測ですが、村では熊本藩の支配からハズされた後、もとの代官支配に
なるのではなく、どこか別の藩の支配にされると思っていたのではないでしょうか。
そこには、それこそ恐怖政治を強いるダースベイダー卿のような藩主がいる
預所を想像していたんじゃないでしょうかね。
実際に熊本藩の支配を受けていたのは1年ちょっとなんですよ。
その間にどれほどの「御仁政」ができたかって、これは疑問ですよね。
もちろん、熊本藩支配となって村入用が減ったとか、負担が軽くなった部分はある
でしょう。でも、その反面人足としての勤労義務などが増えていたわけで、そんなに
ナイスな御支配だったとは思えないワケです。
さてさて。
最後の手段「駕籠訴」に訴えた結果、村替えはどうなったのかというと・・・
答えは、変わらず。
熊本藩の預所は前述の通り、三浦郡と鎌倉郡に差し替えとなりました。
そして、東大和市域の村々は安政6年4月に元の江川代官所に引き渡されたと
いうことです。
まぁ、やれやれというトコロですか。
ここでお茶でも入れましょうかね。長いし、このブログ・・・。
おっと、待ったァァッ!!
駕籠訴に及んだ杉本さんたちはどうなったの?
そうそう、そいつァ気になりますわナ。
だって、時代劇とか思い出してみてください。
殿さまやお奉行さまの駕籠の前に走り出て、直訴するお百姓さん。
イメージ俳優は加藤嘉。梅津栄や三谷昇でも良しとします。
「何ィ・・・?」
駕籠から出てくるエラい人は、もちろん今井健二か戸浦六宏ですよ。
となればもう、この先のシーンは言わずもがな。
「無礼ものォッ!」
ズバッ ゾスッ ぐぎゃ~ぁぁぁ(このシーン御想像にお任せします)。
ですよね・・・?
時代劇ではこんなイメージのある駕籠訴ですが、実際はどうだったかというと
その場で斬り捨て、というのはなかったようです。
もちろん違法行為であることには違いないので、身柄は拘束されます。
しかし、幕藩経済の基本である米の生産者である農民をやたら殺してしまった
のでは、幕府や藩は自分の首を絞めることになってしまいます。
十分に吟味はされたわけです。
とはいえ、処罰されることも覚悟しなければならず、命を賭けた手段だったことに
違いはないようです。
「前書の通り願書2通を認め、御老中筆頭太田備後守様へ惣代として、後ヶ谷
村名主杉本平重郎、御勘定奉行御勝手お掛り立田主水正様へ、川嶋村名主
中田藤蔵。
安政6年3月2日、それぞれに駕籠訴いたしたところ、翌3日に月番宿の飯田町
三嶋屋権次方へ身柄を預けることとなり、4日に細川越中守様のお預役所に
御引渡しとなった。
お預役所において、願いの件は難しいとの旨をご理解仰せられ聞いている間、
この一件はこれまでとして惣代の者一同、帰村いたしました。」杉本さんも中田さんも、一時拘束されたようですがすぐに釈放となったようです。
よかった、よかった。

本文中の俳優さんの名前がわからない、イメージがわかないと
いう方。70年代の時代劇が大好きっていうお友達に聞いて
みましょうね!
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