「ハイ皆さん、なぜ預所なんていう制度ができたんでしたっけ?」
「はい」「ハイ」「はーい」
「それじゃ、キモサベぽん太くん」
「ハイ。大名の海防警備にかかる費用を出すためです!」
「そうですね。じゃ、その海防警備に変更がでたら、預所はどうなる
のかしら?」
「??・・・・??・・・」
ハイ、のっけから小芝居にお付き合い頂き、ありがとうございました。
ちなみに配役は「先生・・・松嶋奈々子 キモサベぽん太・・・鈴木福」
で読んで頂くことをお奨めします。
さぁ、本題。
安政5年(1858)2月に東大和市域は熊本藩の預所となったのですが、
その4か月後には
日米修好通商条約が締結されてしまいました。
元々、海防警備として熊本藩に期待された任務は、
「コラーッ、異国船!江戸湾に入ってきたらブチ殺すど!」
というものだったハズですが、通商条約が締結となれば話が違って
きます。江戸湾警備全体の規模が縮小されました。
熊本藩はこれまで通り三浦半島の警備を任されましたが、
「あのー、異国船の方々。上陸してもいいんスけど、あんまりウロウロ
しないでね」
くらいにトーンダウン。
そしてこの機会に、ある一つの要望を幕府に出していたのです。
明けて安政6年(1859)2月、ただならぬ噂が多摩の村々を回ります。
「オラんとこの村が細川様の御支配から抜ける
んだとよ~」「あッぎゃーーーッ、ホンマかいやーーー!?」(←なに弁?)
せっかく熊本藩の支配、「細川スタイル」にも慣れた頃。
それを、支配からハズすというのです。
熊本藩が幕府に願い出していた要望とは、預所として与えられた多摩郡
などの村々を三浦郡・鎌倉郡の村々に村替えして欲しいというもの
だったようなんです。
この支配替えに東大和市域の人々はどんなリアクションを見せたので
しょう?
「里正日誌」には、2月16日に早速このような嘆願書が、預所役所に
出されたことが記されています。
「私どもの村々は、去年3月中現在の御預所に仰せつけられ御支配を
請けました。その時御見回りのお役人様が村を廻られ、取締り方その他
全て熊本藩領内と同様にすると仰せになるなど情け深いお取扱いを
頂き、村々の百姓たちは助かり一同ありがたく存じております。
したがって、もし異国船が渡来し万一人足が必要になった時は、各自が
お役所に駆け付け、御指図を受けて命がけで働き国恩に報いたいと日頃
から話しておりました。
このたび当郡はまたもや支配替えになるということを、薄々承知しており
ましたが、万が一噂通り支配替えとなり、他の預所になることを仰せ付け
られましては、今までのようなお情けを請け、取締りも行き届き、村々が
安心して生活できる術がなくなると、百姓がみな嘆いております。
どのようにも嘆願し、永久に御支配をして頂きたく一同申し出て、且つ
村役人たちも実に嘆かわしく思い、これまでの御仁政を慕い引き続き永く
恩恵を御請けしたいと、決定もしないうちから恐縮ですが伏して御嘆願を
申し上げます。
なにとぞ、格別の御慈悲をもって以上のいきさつを各関係のお役所へ
申し上げられて、引き続きこれまで通り熊本藩の預所として仰せ付けられ
ますよう、お願い申し上げます。
右の願い通りにお聞きになっていただければ、一郡の大勢の百姓が助かり
ありがたくしあわせになることと存じます。以上。」熊本藩の預所から抜けることを、めっちゃイヤがってますね。
熊本藩の支配を受けることこそが、村役人も百姓も村人みんなの幸せだ
とまで言ってますよ。
なんでそんなに熊本がいいんだ?
八代亜紀の出身地だからか?
たぶん、違います!!
まぁ、見方によっては、外交辞令的にやや大げさに別れを惜しんだ挨拶状
と取れないこともありません。
コレ、一通ならば。
ところが、嘆願書はこれだけで終わりではなかったのです。
この願意が却下されると、村民たちはその直後から次から次へとドトウ
のごとく、嘆願を繰り返すのです。
長くなるのでここではいちいち紹介しませんが、6月20日には「村役人
が諭したが村民が納得しない」と訴えます。
それでも却下されると、翌21日今度は村役人が「そんな答えでは我々は
村へ帰れません。村人が暴動を起こします」とまで言い、支配替えの
中止を訴えました。
こうなると外交辞令などではなく、本気モード炸裂です。
しかし、熊本藩は首を横に振るだけ。
そしていよいよ、村人たちは最後の手段に打って出ます。
それは・・・・!!
「それは・・・?」
「次回まで考えてきてね。ぽん太くん」(声・松嶋奈々子)

安政6年(1859)、いよいよ土方歳三(当時・歳蔵)が天然理心流に
入門します。実家のある石田村や隣村の幼なじみ6人で入門したそう
ですよ。入門が遅かったので免許を取るまでには至りませんでしたが、
その腕前は後の実戦で鍛えられていったのでしょうね。
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