「シルバー仮面は~、さすら~い仮面~♪」 昭和46年に放送された特撮ヒーロー番組「シルバー仮面」は、子供番組 でありながら映像が極端に暗かったり、主人公が宇宙人を倒すのに墓場の 卒塔婆を引っこ抜いてタコ殴りするなど、健全なヒーローにはあり得ない 演出で、視聴者を「こんなんでいいの?」と不安にさせる内容満載の ヒーロー番組でした。 まぁ、おかげでマニアには今でも人気の高い作品のようですが。 さかのぼって、幕末。 ここでも「シルバー」が、国民を不安な空気で包みこむことになって しまうのです。 それは・・・ 安政5年(1986)幕府はアメリカと日米修好通商条約を結ぶと、続いて オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも修好通商条約を結びます。 そしていよいよ、安政6年(1959)6月に幕府は神奈川・長崎・函館の 三港を開港。上記5ヵ国との交易がスタートしたってワケですね。 早速5月に以下のようなお触れが出たと、「里正日誌」には書かれています。 「ロシア・フランス・イギリス・オランダ・アメリカ5ヵ国との交易がお許しとなった ので、この6月より神奈川・長崎・函館の三港において商人は自由に商売が できる。商人たちが舶来の品々を売りさばくのはもちろん、居留地に住む 外国人の店で売られている品を一般の人々が買うこともまた自由勝手である。」なんか今までにない、スゴイ風通しのいいお触れだと思いませんか? 大抵お触れってのは、アレ禁止、コレ禁止でしょ。 ところが、このお触れだとアレもOK、コレもOK、オールOKじゃないッスか!? 「一、官服のたぐい 一、禁止とされている書籍、雲上明鑑、武鑑、その他官位や尊号などを記載 してある書類 一、兵学書、ならびに原本がない写本 一、城郭陣列の図 一、甲冑刀剣、ならびに都にて付属の小道具 一、銅 これらの品々は等価で列国の者に売り渡すことはならない。もし、心得違いで 売り渡した者がいれば、その当人はもちろん、五人組まで罰せられる事とする。」と思ったら、やっぱり禁止事項はありました。 特に出版物に持ち出し禁止が多いようですね。 やはり政治上や軍事上の機密に関することだからでしょう。ちなみに「雲上明鑑」 とは皇室や公家の、「武鑑」とは大名や幕府役人の詳細を記してある紳士録。 まぁ、プロ野球やJリーグの選手名鑑みたいなモノです。 そういえば、過去の話ですが文政12年(1829)にはシーボルト事件というのが ありました。オランダ人医師のシーボルトが日本地図を国外に持ち出そうとして、 国外退去となった事件です。地図をシーボルトに渡した高橋景保という学者は逮捕 され後に獄死してしまいました。 今回のお触れでも、違反した者は五人組まで連帯責任を負わされるってんです から、同様にかなりの厳しさですね。 さぁ、実際に外国と商売ってことになるとお金のことが問題になってきます。 「外国との交易については、外国の金銀をそのまま通用させる。 金は金、銀は銀と同種同量をもって取引きする。」一見フツーの事が書かれてあるように見えるでショ。ところが、ところが。 これが貿易開始直後から、日本に多大な不利益をもたらしちゃうんです。 どういうことかっていうと、当時の東洋諸国は現在と違い銀本位制でした。 つまり、国際通貨は銀貨だったので日本との貿易も銀貨で行われたんです。 ところがこの国際通貨ってのがクセモノで、メキシコ銀(洋銀とも)っていう 日本のより質が悪い銀だったんですよ。 ほらキターーーッ!「シルバー」!外国人はこのメキシコ銀を大量に持ち込んで、日本の銀と交換する。で、さらに 日本国内でその銀を金に両替するんです。これによって、多量のメキシコ銀が 日本国内に流れ込み、逆に多量の金が国外に出て行ってしまったんです。 アッチョンブリケッ!! 実は奥さん、ココだけの話。あの日米修好通商条約のハリスもこのやり方で、 相当大儲けしたらしいですよ。 「おおきに。やっぱりゼニの華咲かせたったワ。うはうはうは・・・」(ハリス・談) なんかムカつく! 「このたび鋳造を仰せつけられた新小判・一分判・二朱銀は目方の割合に応じて 差支えなく通用させること。 世上通用のため、このたび二朱銀鋳造を仰せつけられたことにつき、この二朱銀は 8枚で金1両になる。一分銀・一朱銀は追って鋳造を仰せつけられるが、それまで は取り換える銀銭とも両替を滞りないよう通用させること。」幕府はこのようにメキシコ銀と同じ品質の一分銀を鋳造して、なんとか対策を 立てようとしたんですが、あまり効果は上がらなかったようです・・・。 これらのことが日本国内の経済混乱の大きな原因ともなり、世の中の空気は さらに攘夷へと流れていっちゃったんですね。 「銀の~光の~、流れぼし~♪」(シルバー仮面より)  東京都日野市にある「土方歳三資料館」には、歳三さんが剣術修行 当時に使っていた木刀が展示されています。 ビックラするのはその太さで、まぁ木刀というより丸太ですな。 レプリカもあって、こちらは来場者もさわることができますが、こんな ので素振りを何回もしたら、私なんか腕の血管が切れること必至Death。 そりゃ、天然理心流強いワケだ・・・!
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安政6年(1859)2月、熊本藩細川家の預所からハズされると 知った多摩郡22ヶ村の村々は、「まるでストーカーか」というくらいに 反対の嘆願運動を起こしていきます。 「おまいら、そーは言うけどよ。ワシら細川家の身にもなってみ?」 そう、熊本藩はなぜ幕府に預所の村替えを要求したのでしょうか。 答えイッパツ。 「だって、不便なんだもん。」 この一言に尽きると思うんですよね。 だって三浦半島の警備のために、北多摩から人を集めるんじゃ効率悪い に決まってるもの。それに、大津の陣屋じゃ遠いからって、届出なんかも わざわざ江戸でやってやらなきゃならないし。 結果として預所は三浦郡・鎌倉郡に変更となるわけですが、よほど便利 だというのは野良猫プーちゃんでもわかります。 あ、プーちゃんてのはウチの近所にいる野良ちゃんね。 「でも、でも、納得いかないッス・・・!!」 熊本藩支配のどこがそんなにいいのか、それとも預所をハズされることに 何か怖れがあるのかわかりませんが、村替えを断固拒否! ついに村々は最後の手段に打って出ます。 駕籠訴(かごそ)、です。 時代劇で、竹の棒の先に「訴」って書いた書状をくくり付けて、御奉行さま とかお殿さまの行列に、お百姓さんが出ていったりするのを見たことがあり ますでしょ。アレですね。 江戸時代は、何か不満があってお上に訴えたいことがある場合は、すぐ上の 上官に申し出なければならなかったんです。 農民の場合は名主とか惣代とかが、代官や役所に訴えるのがスジ。 駕籠訴は、それを飛び越えて直接もっと上の支配者に訴えようという行為で、 直訴(じきそ)とか越訴(おっそ)ともいいます。 まぁ、違法行為ですな。 しかし、多摩郡22ヶ村の代表として、後ヶ谷村(東大和市)の名主・杉本 平重郎さんは3月2日、最後の手段として老中筆頭太田備後守のお駕籠の前へ 訴え出たのです! 「私ども村々は以前より天領(幕府領)として御恩を受けとても有り難く幸せに 存じております。そのような折、昨年3月に細川越中守様の預所に仰せ付けられ、 同月中に預所のお役所より村ごとへ御検分のお役人様の御見回りがありました。 政治向きの事は熊本藩領内と同様にすると仰せられ、その後追々お取調べの上 それぞれ法をもってお取締りが行き届き、村入用(税)などもだんだんと減り、殊に 訴訟事は稀となって当時の様子は活気はもちろんのこと、村が立ち直れると 村役人は申すに及ばず百姓の末端までが、一同農業に精を出そうとしていた所、 この程私ども両郡(多摩・都筑)から外の最寄の村へ、預所を替えると仰せに なったことを承りました。村々の男女老若に至るまで一統を挙げて細川家の御仁政 をお慕いし、引き続き御支配いただけますよう嘆願いたしました。 越訴は真に恐れ多いことですが、先月中より村々の村役人が連印をもって熊本藩の お役所へ何度も嘆願いたしましたが、その件を沙汰する筋の事ではないと、その 度ごとに厚くご理解いただくものの願書はお差し戻しになりました。 その都度、村役人たちは百姓の末々までご理解の程を十分に説明いたしましたが、 一統はただ歎くばかり。この期に及んでは各々農業生活もいたさず、昼夜集まって 村役人たちには任せられない、この上は百姓たちでどのようにしても嘆願いたそうと 不穏な気配があります。 村役人たちも実に嘆かわしく当惑しております。止むを得ず願い奉らず、怖れ多くも この件を嘆願申し上げます。何とぞ格別の御慈悲をもって、私ども両郡の村々を これまで通り預所として置いていただけますよう、この上幾重にも御憐憫の御沙汰 をお願い申し上げます。以上。」ついに行く所まで行っちゃいましたねぇ。 ちなみに、多摩郡と同じく預所を村替えとなった都筑郡では、川島村名主の中田 藤蔵さんが勘定奉行の立田主水正さまへ直訴に行っています。 勘定奉行は代官の上司。つまり、天領を支配する立場の御奉行さまです。 多摩郡・都筑郡の両方が申し合わせて直訴に及んだことに、間違いはないでしょう。 こうなると、相当本気で熊本藩の支配から抜けたくなかったと思うより他ありません。 よほどそれ以前の時代は暮らしにくかったというのでしょうか? しかし、思い出してください。 安政大地震があったとき。 東大和の村人たちは、自発的に代官の江川太郎左衛門さんの家の片づけに行って ました。村民と代官の関係は悪くはなかったハズです。 ここで前回ご紹介した 村が2月16日に役所に提出した書状を読み返してみましょう。 「他の預所になることを仰せ付けられましては・・・」ってありますよね。 これは私の推測ですが、村では熊本藩の支配からハズされた後、もとの代官支配に なるのではなく、どこか別の藩の支配にされると思っていたのではないでしょうか。 そこには、それこそ恐怖政治を強いるダースベイダー卿のような藩主がいる 預所を想像していたんじゃないでしょうかね。 実際に熊本藩の支配を受けていたのは1年ちょっとなんですよ。 その間にどれほどの「御仁政」ができたかって、これは疑問ですよね。 もちろん、熊本藩支配となって村入用が減ったとか、負担が軽くなった部分はある でしょう。でも、その反面人足としての勤労義務などが増えていたわけで、そんなに ナイスな御支配だったとは思えないワケです。 さてさて。 最後の手段「駕籠訴」に訴えた結果、村替えはどうなったのかというと・・・ 答えは、変わらず。 熊本藩の預所は前述の通り、三浦郡と鎌倉郡に差し替えとなりました。 そして、東大和市域の村々は安政6年4月に元の江川代官所に引き渡されたと いうことです。 まぁ、やれやれというトコロですか。 ここでお茶でも入れましょうかね。長いし、このブログ・・・。 おっと、待ったァァッ!! 駕籠訴に及んだ杉本さんたちはどうなったの? そうそう、そいつァ気になりますわナ。 だって、時代劇とか思い出してみてください。 殿さまやお奉行さまの駕籠の前に走り出て、直訴するお百姓さん。 イメージ俳優は加藤嘉。梅津栄や三谷昇でも良しとします。 「何ィ・・・?」 駕籠から出てくるエラい人は、もちろん今井健二か戸浦六宏ですよ。 となればもう、この先のシーンは言わずもがな。 「無礼ものォッ!」 ズバッ ゾスッ ぐぎゃ~ぁぁぁ(このシーン御想像にお任せします)。 ですよね・・・? 時代劇ではこんなイメージのある駕籠訴ですが、実際はどうだったかというと その場で斬り捨て、というのはなかったようです。 もちろん違法行為であることには違いないので、身柄は拘束されます。 しかし、幕藩経済の基本である米の生産者である農民をやたら殺してしまった のでは、幕府や藩は自分の首を絞めることになってしまいます。 十分に吟味はされたわけです。 とはいえ、処罰されることも覚悟しなければならず、命を賭けた手段だったことに 違いはないようです。 「前書の通り願書2通を認め、御老中筆頭太田備後守様へ惣代として、後ヶ谷 村名主杉本平重郎、御勘定奉行御勝手お掛り立田主水正様へ、川嶋村名主 中田藤蔵。 安政6年3月2日、それぞれに駕籠訴いたしたところ、翌3日に月番宿の飯田町 三嶋屋権次方へ身柄を預けることとなり、4日に細川越中守様のお預役所に 御引渡しとなった。 お預役所において、願いの件は難しいとの旨をご理解仰せられ聞いている間、 この一件はこれまでとして惣代の者一同、帰村いたしました。」杉本さんも中田さんも、一時拘束されたようですがすぐに釈放となったようです。 よかった、よかった。  本文中の俳優さんの名前がわからない、イメージがわかないと いう方。70年代の時代劇が大好きっていうお友達に聞いて みましょうね!
「ハイ皆さん、なぜ預所なんていう制度ができたんでしたっけ?」 「はい」「ハイ」「はーい」 「それじゃ、キモサベぽん太くん」 「ハイ。大名の海防警備にかかる費用を出すためです!」 「そうですね。じゃ、その海防警備に変更がでたら、預所はどうなる のかしら?」 「??・・・・??・・・」 ハイ、のっけから小芝居にお付き合い頂き、ありがとうございました。 ちなみに配役は「先生・・・松嶋奈々子 キモサベぽん太・・・鈴木福」 で読んで頂くことをお奨めします。 さぁ、本題。 安政5年(1858)2月に東大和市域は熊本藩の預所となったのですが、 その4か月後には 日米修好通商条約が締結されてしまいました。 元々、海防警備として熊本藩に期待された任務は、 「コラーッ、異国船!江戸湾に入ってきたらブチ殺すど!」 というものだったハズですが、通商条約が締結となれば話が違って きます。江戸湾警備全体の規模が縮小されました。 熊本藩はこれまで通り三浦半島の警備を任されましたが、 「あのー、異国船の方々。上陸してもいいんスけど、あんまりウロウロ しないでね」 くらいにトーンダウン。 そしてこの機会に、ある一つの要望を幕府に出していたのです。 明けて安政6年(1859)2月、ただならぬ噂が多摩の村々を回ります。 「オラんとこの村が細川様の御支配から抜ける んだとよ~」「あッぎゃーーーッ、ホンマかいやーーー!?」(←なに弁?) せっかく熊本藩の支配、「細川スタイル」にも慣れた頃。 それを、支配からハズすというのです。 熊本藩が幕府に願い出していた要望とは、預所として与えられた多摩郡 などの村々を三浦郡・鎌倉郡の村々に村替えして欲しいというもの だったようなんです。 この支配替えに東大和市域の人々はどんなリアクションを見せたので しょう? 「里正日誌」には、2月16日に早速このような嘆願書が、預所役所に 出されたことが記されています。 「私どもの村々は、去年3月中現在の御預所に仰せつけられ御支配を 請けました。その時御見回りのお役人様が村を廻られ、取締り方その他 全て熊本藩領内と同様にすると仰せになるなど情け深いお取扱いを 頂き、村々の百姓たちは助かり一同ありがたく存じております。 したがって、もし異国船が渡来し万一人足が必要になった時は、各自が お役所に駆け付け、御指図を受けて命がけで働き国恩に報いたいと日頃 から話しておりました。 このたび当郡はまたもや支配替えになるということを、薄々承知しており ましたが、万が一噂通り支配替えとなり、他の預所になることを仰せ付け られましては、今までのようなお情けを請け、取締りも行き届き、村々が 安心して生活できる術がなくなると、百姓がみな嘆いております。 どのようにも嘆願し、永久に御支配をして頂きたく一同申し出て、且つ 村役人たちも実に嘆かわしく思い、これまでの御仁政を慕い引き続き永く 恩恵を御請けしたいと、決定もしないうちから恐縮ですが伏して御嘆願を 申し上げます。 なにとぞ、格別の御慈悲をもって以上のいきさつを各関係のお役所へ 申し上げられて、引き続きこれまで通り熊本藩の預所として仰せ付けられ ますよう、お願い申し上げます。 右の願い通りにお聞きになっていただければ、一郡の大勢の百姓が助かり ありがたくしあわせになることと存じます。以上。」熊本藩の預所から抜けることを、めっちゃイヤがってますね。 熊本藩の支配を受けることこそが、村役人も百姓も村人みんなの幸せだ とまで言ってますよ。 なんでそんなに熊本がいいんだ? 八代亜紀の出身地だからか? たぶん、違います!! まぁ、見方によっては、外交辞令的にやや大げさに別れを惜しんだ挨拶状 と取れないこともありません。 コレ、一通ならば。 ところが、嘆願書はこれだけで終わりではなかったのです。 この願意が却下されると、村民たちはその直後から次から次へとドトウ のごとく、嘆願を繰り返すのです。 長くなるのでここではいちいち紹介しませんが、6月20日には「村役人 が諭したが村民が納得しない」と訴えます。 それでも却下されると、翌21日今度は村役人が「そんな答えでは我々は 村へ帰れません。村人が暴動を起こします」とまで言い、支配替えの 中止を訴えました。 こうなると外交辞令などではなく、本気モード炸裂です。 しかし、熊本藩は首を横に振るだけ。 そしていよいよ、村人たちは最後の手段に打って出ます。 それは・・・・!! 「それは・・・?」 「次回まで考えてきてね。ぽん太くん」(声・松嶋奈々子)  安政6年(1859)、いよいよ土方歳三(当時・歳蔵)が天然理心流に 入門します。実家のある石田村や隣村の幼なじみ6人で入門したそう ですよ。入門が遅かったので免許を取るまでには至りませんでしたが、 その腕前は後の実戦で鍛えられていったのでしょうね。
安政5年(1858)2月から、東大和市域は熊本藩細川家の預所と して、支配を受けました。 で、その狙いは海防にかかる経費を捻出するためだったのですが、 「里正日誌」を読んでみますと、細川家では警備費だけではなく 政治上のことなども、領地の熊本同様に多摩地域にも行っていた ようなんです。 そんな熊本藩流の「細川スタイル」が垣間見える記述が「里正日誌」 に出ていましたので、ご紹介します。 安政5年(1958)9月2日に、熊本藩の預所役所から支配の村々に 廻状が回ってきました。 「その村々で来年90歳以上になるもの、寺社や水呑み百姓まで調べて、 当月15日までに報告すること。
一、孝貞・忠信であり家内睦まじく、質素倹約を守り家の仕事を格別に 心がけ良く行い、近くの村々にまで手本になると云われるくらいのもの がいれば、右の条々に合っているか調べて報告すること。
右のことは毎年9月15日までに、いるかいないかを報告するように すること。以上。」90歳以上の高齢者や孝貞忠信の者がいれば、申し出るようにと 言ってます。 それを毎年、決められた期日に申告しなさいってんですから、 1回だけの調査じゃなさそうですよ。 で、それらの人をどうするとは書いてないんですが、まさか 「てめェら人間じゃねェ、たたッ斬ってやるッ!」 なんてコトは間違ってもないでしょうから、きっとお褒めの言葉があって、 記念品かなにか頂けたのかもしれません。 さぁ、それに対して村ではどのような報告をしてるのでしょう? 「里正日誌」の9月15日には以下のような報告が出されたと書いて あります。 「そのような所、私どもの村々においては90歳以上はもちろん、 孝貞忠信が別段際立って隣村まで手本になると云われる程のものは おりません。このことを申し上げます。以上。」ン~~、なんとも残念なご報告。 でも、これって当然ってゆーか、そもそもハードルが高くないスか? この時代の日本人の平均死亡年齢は男性が61歳、女性が60歳と 云われてます。そんな中で90歳ですよ。 現在の日本人の平均死亡年齢が80歳とすれば、110歳を捜せ! ってことになりますわな。 もちろん、江戸時代にも90歳を超えてる人はいて、絵師で有名な 葛飾北斎も90歳まで生きていたそうです。 江戸でも高齢者はそこそこいたようですが、東大和市域はけっこう 貧しい部類に入ってる村でしたから、食料事情からいっても難しかった のではないでしょうか。 それと「近くの村々まで手本になる人物」って・・・名乗り出る方が 恥ずかしくないッスか? 仮にいたとしても証明するの面倒そうだし。 こりゃまァ、「オラの村にはいません」と言っておいた方が無難と 思ったのかもしれません。 先ほども言いましたが、コレを毎年申告するように言ってきてる ってことは、熊本藩では毎年この「90歳以上と孝貞忠信」調査を しているってことなんでしょうかね? そんなに熊本には90歳以上と、隣村の手本となるようなナイスガイ が多いのかッ!?(あるいはナイスガール) 預所となって、領主となった細川さまからの意外なお達しに、東大和の 村民がちょっと戸惑っている感じが、なんとなく覗えた資料です。 ところで私がひとつ気になったのは、この調査の決められた期日が9月 15日ってことなんです。毎年、この日までって言ってるでしょ。 現在は変わってしまいましたが、何年か前までは「敬老の日」がこの 9月15日でしたよね。 両者の間に何かカンケイがあるのでしょうか? 「敬老の日」は昭和22年(1947)に、兵庫県の一部の村が始めた 「としよりの日」ってのがルーツなんだそうで、日にちに関しては9月の 中旬は気候もいいし農業も忙しくないから、だそうなんです。 てことは、「細川スタイル」の90歳以上申告日と「敬老の日」ははただの 偶然となりますが、・・・いやいやもしかして、実は何かカンケイがあったりして。 やっぱ、なかったりして。 でも、あったりして。(←しつこい) 誰か調べてください。  天然理心流は初代の近藤内蔵之助、二代目の近藤三助、そして 三代目の近藤周助とみな実子がいなかったので、高弟の中から 次の跡目が選ばれました。 勇は子供の頃盗賊を撃退したことがあり、これが周助の耳に入り スカウトされて養子になったのでした。
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