熊本藩の預所

しばらく多摩とか東大和市域を離れてましたので、軌道修正。
地元・幕末の話に戻りましょう。

安政5年(1858)は日米修好通商条約とか暴瀉病(コレラ)で世間は大変
だったワケですが、東大和市域ではさらにまた別の問題にも巻き込まれよう
としていました。
つーか、巻き込まれちゃったんですが。

コトの発端は嘉永6年(1853)のペリー来航で、江戸湾の防備を改める必要
が出てきたことにあります。
江川太郎左衛門さん提案のお台場合衆国・・・もとい、台場砲台建設もそうですが、
それに伴なって、各藩の海防担当持ち場を変更したんです。
それまで三浦半島を警備していた川越藩を一番砲台警備にコンバート。
で、川越藩の担当地域だった所は熊本藩が引き継いだんですね。
「レフトの川越藩松平くんがファースト、熊本藩細川くんがレフトに入ります」
熊本藩の殿さまは細川越中守です。
細川護煕元首相のご先祖さまですな。

幕府は、その警備費を生み出す方法として、細川家に幕領である相模・武蔵の
42ヶ村の領地を「預所(あずかりところ)」として与えました。
この預所に東大和市域も含まれていたんです。
巻き込まれちゃいましたねぇー。

さぁ、今回のキーワード。
預所とはなんぞや?

この制度は、大名に支配は委ねるが年貢は幕府がとり、領地を預かった大名は
預所村々の農民を使うことを認められるというもの。大名は海防警備のために
必要な人夫などの人員を預所から調達できたというものです。

自分たちの体が他藩のために使われる、ごっつい制度。
「なんじゃそりゃッ! 勝手に決めンなよ、ゴルァッ!」
と、今日日ならば市民暴動が起こるトコロでしょうが、これが武家支配社会。
現代から見ればムチャなルールもアリなのが、江戸時代です。

まぁ、これも当然とばかりに、村民は淡々と命令を受けています。
安政5年2月から東大和市域を含む多摩郡の村々は熊本藩細川家の預所と
なりました。
でも一つだけ、村民も言いたいことがあったようですよ。
安政5年3月に村役人が細川家に出した願書が「里正日誌」に出ています。

「私どもの村々は代官江川太郎左衛門が御支配している所ですが、細川家
預所に幕府から仰せ付けられ、村々の請け渡しをするよう廻状をもって仰せ
渡され、謹んで招致致しました。
そのような所、相模国三浦・鎌倉両郡の村々は、これまで当預所の用事は
三浦郡大津陣屋にてお取扱いになっていることは以前から承知しています。
つきましては、この三浦・鎌倉両郡と同様のお取扱いを仰せ付けられましては、
元々ご当地近在で訴訟事や盗賊などは全て、御奉行所へ出向くことが度々
あります。さしせまった緊急の場合には手遅れになり、自ずと御預所で起きた
ことの差支えとなります。
細川家御支配への御引渡しを謹んで喜んでおりますが、このような問題を
嘆願した方がいいだろうと一同で出府しようとしたところ、昨日郷宿(※)へ
お渡しになった御廻状の文言に、
当村々は大津表へ距離が隔たっているので、江戸の役所へ印を請けに出るよう
仰せ渡される
との趣旨を拝見し、ありがたく、これまた招致致しました。

よって、この上とも引き続き江戸役所でお取扱いを仰せ付けられますよう、
何とぞ格別のご慈悲をもって右の通りお聞きすましなされますように、いくえ
にもお願い申し上げます。以上。」
(※)郷宿・・・陣屋の近くにある宿屋。訴訟のための公事宿。


つまり、今までは江川代官に支配されていたので、何か事件や用事があれば
江戸の役宅に出向いていきました、と。
ところが細川さんの支配になると、海防のための預所なので大津の陣屋まで
行かなければならない。大津というと横須賀ですから、多摩地区から行くと
なればエライ時間がかかってしまいます。
なので、どうにかしていただきたいと思っていたところ、「それじゃ、江戸の
役宅で取り扱おうか」と言ってくださり、すっげー嬉しく思ってます。
これからも、何かあったら江戸の役宅でヨロシクね。

こーゆーコトですね。
いや、そりゃわかりますよ。今だって東大和から横須賀まで車で3時間くらい
かかりますからね。当時じゃ一日じゃいけないですよね。緊急の場合は
困っちゃいます。
さすがに細川さんも考えてくれて、江戸で用事を済ませられるようにして
くれたようです。

「里正日誌」にはこの後、村内に人足勤務できる16歳~60歳の男性が何人
いるかの調査。運搬用の牛馬の調査。かかる費用の書き出し。さらには、人足
用の蓑笠を各村々にどれだけ分担させるか、なんてことまでが記載されてます。
従来の年貢に加えて、特別労働税が増えたわけですから、村にとっては大変な
負担だったと思われます。

幕末の混迷をまさに表したかのような、預所という制度。
なかなか幕末史では紹介されませんが、こういう事があったんですね。

20121031.jpg

熊本藩預所となった村々では、現地での人足従事の他にも何等かの
負担が課されたことと思います。
残念ながら、具体的にどんな仕事をさせられたのかを示す資料は
東大和市域では残っていないようです。











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流山だよ全員集合!! 後編

流鉄流山線を流山方面に向けて赤レンジャーな車両が走ります。
終点の一つ手前、平和台駅で下車。

すると散策メンバーのひとり、月猫さん
「ここって平和台球場があるトコロ?」
と、果汁100%クラスの天然発言。あまりの上段からのボケに
「そりゃ、九州でしょ」とフツーに返してしまいました。
「ダメだよ、イッセーさん。そこはいじらないと!」と同じメンバーのK氏から
教育的指導が入ります。
そうでした。「たしか今日からここで、西鉄VS日拓のCSですよ」くらい言えな
ければ・・・!!日々反省の連続です。

駅から先ず向かったのが、江戸川の堤防。ここにかつて「丹後の渡し」という
船の渡し場がありました。

033 a 丹後の渡し

江戸からの旧流山道(諏訪道)の最期の渡し場だそうで、幕末当時には三艘の
渡し船があり、さらには馬船という馬なら5~6頭、人なら40~50人、大砲も3門
乗せられた船があったそうです。
新選組が流山に入ってきたのは、この渡し場からだといいます。
しかし、ここより南を通る水戸街道から流山に入ってきたという説もあるんですね。
五兵衛新田・金子氏の文書には、どちらともとれる記述があってハッキリしません。
ちなみに、この渡し場の名称は、中世に流山の支配者だった井原丹後の名前から
来ているそうです。

丹後の渡しから歩いてすぐの場所にあるのが、曹洞宗の寺「流山寺」です。
流山での新選組の分宿先の一つと云われています。

036 a 洞雲山流山寺

実は流山寺に新選組が滞在していたことがわかったのは、平成15年のこと。
地元の旧家恩田家から文書が見つかり、初めて確認されました。
このように歴史ってのは、日々新発見とともに更新されてるんですね。
ちなみに建物は昭和40年に建て替えられていて、史跡としてはちょっと残念な
カンジです。仮面ライダー1号に会えたよ、と思ったら新1号だったみたいな・・・。

流山寺の目の前にこんもりとした山があります。
むかーし昔、赤城山から山の土がこの地に流れ着いたとか、お札が流れ着いた
とかの伝承があり、それが流山の名称の由来になったと言います。
で、その山にあるのが「赤城神社」。
ここにも新選組は分宿していたとのこと。

038 a 赤城神社の大注連縄(しめなわ)

なによりもビックリするのは、この大しめ縄!
長さ10m、太さ1.5m、重さ500㎏だそうです。
ちょうどこの日はお祭りで、屋台が出て賑やかでしたよ。
かつては祭礼に合わせて大しめ縄を飾ったそうですが、現在はお祭りの後も
はずされずに1年間そのままにされているそうです。

赤城神社を出てすぐの場所にあるのが、真言宗の寺院「光明院」です。
やはり新選組の分宿先だった所です。

041 a 赤城山神楽寺光明院

新政府軍側にいた兵士、富田重太郎の日記「官軍記」には新選組が分宿
していた寺として「称名院」の名が出てきますが、流山にはそんな寺はなく、
光明院がそれであろうと云われています。
「・・・であろう」というのは、光明院にしても前述した流山寺にしても新選組が
滞在していたというようなエピソードは、寺に何一つ残ってないそうなんですわ。
これは恐らく、「新選組を匿った」などと新政府に思われるのを避けるため、
わざと寺院の歴史から抹消したんでしょうね。

042 a まぁ、現在はこんな看板で存在をアピール

ところで、江戸時代の俳人・小林一茶は流山を第二の故郷として愛し、何度も
訪れたんですね。地元の酒造家で味醂を開発した秋元家の五代目当主・
三左衛門感義は俳号を双樹といい、一茶を援助していたと云います。
光明院にはその一茶と双樹の連句碑などもあります。

すぐそばには「長流寺」という浄土宗のお寺もあります。
ここは恩田家の文書にも新選組の分宿先としての記載はないんですが、なにせ
近所なので可能性はあるんじゃないでしょうか。
で、ここには一体の馬頭観音像が置かれているんですが、その形がとても珍し
かったのでご紹介。

045 a 長流寺の馬頭観音像

大抵の馬頭観音像は、お墓のような石柱に「馬頭観世音」と文字だけ刻んで
あるものがほとんど。古いものには馬頭観音のレリーフが彫られてあるものも
あるんですが、馬の頭だけの像というのは初めて見ました。
ただ、この像の横に「慶長十二年」の文字があるんですよね。
コレがどうだか・・・?ちょっと年号が古すぎる気がします。
馬頭観音像はだいたい1700年代後半以降のものが多いんです。
慶長12年というと家康が幕府を開いて、まだ4年ですからねぇ。
それとこの像、屋根付きの形も珍しいんですが、中の像に比べて外側は
なんとなく時代が新しい感じでしょ。
恐らくこの像は、元々流山の街道のどこかに建てられていたものの、道路拡張
などで撤去されお寺に移されたものと思います。外側はその時新たに作られた
のかなぁ、と想像するんですが・・・。

さて、ここまで新選組が分宿したであろう場所を訪ねましたが、肝心の近藤さんや
土方さんはどこにいたのでしょうか?つまり、本陣はどこ?
地元では「酒造家長岡屋」に本陣が置かれていたと言い伝えられているようですが、
前述の「官軍記」には「味噌屋舗」と書いてあるそうです。

055 a 新選組本陣跡

どっちがホントよ?と言いたいところですが、当時「長岡」と云われていた屋敷を
味噌製造をしていた「秋元」が購入し、その秋元は現在酒類販売問屋をしている
ことからそのように伝わったのではないかということです。
で、秋元の屋敷があった辺りに土蔵が残っておりまして、そこに「本陣跡」の
案内板が立ててあります。

・・・と、ここまで来たら、新撰組のアノだんだら羽織を着た男女のグループが
本陣前辺りを「巡察」しているではないですか!
「えっ?今日はお祭りなんで、何かのアトラクションっすか?」
実はこの方たち北総新選組という、流山を拠点にしている新選組研究活動グループ。
こうして土日などに新選組史跡に来ては、ボランティアで流山での新選組の様子を
解説しているそうなんですね。

我々が本陣跡に着く頃にはポツポツと雨が降ってきたのですが、そんな中でも
丁寧に解説していただきました。やはり地元に足を置いている方たちなので、
たくさん情報を持っておられます。
殺陣なども練習しておられるとかで・・・。
私も「こういう幕末ブログを書いてます」とご挨拶させていただきましたが、
こんな新選組マンガなので、次に流山を訪れたら斬られるコト必須(汗;)

それはともかく、これから流山の新選組史跡を回ってみようと思っている方、
北総新選組の方々に会えたらラッキーですよ。

さて、本陣跡を離れて少し行くと「浅間神社」があります。

058 a 浅間神社

新選組を包囲した新政府軍の本陣が置かれた所です。
これがまた、新撰組の本陣とすぐの距離なんですね。
で、流山寺とか光明院とか隊士が分宿していた所は、新撰組本陣からけっこう
離れてるんですよね。これは、敵が攻めて来るなら水戸街道からだろうと予測し
南側に分宿先を固めたからだそうです。
ところが敵は北の粕壁(春日部)から攻めて来たので、すぐ近くに本陣を置かれて
しまったということでしょうか。
まぁ、こうして実際に歩いてみると、距離感が実際に掴めて色々とよくわかります。

ところで、新撰組はなぜ流山に来たのでしょう・・・?
これまでは、会津に向かうためのただの通過点という見方が主流でした。
でも、五平衛新田の金子家文書など読むにつけても、やはり流山に来る理由が
あったと思うんですよね。

その理由の一つと云われているのが「田中藩の陣屋」です。
田中藩は本多氏が駿河国に領地を持っていた譜代の藩ですが、大坂の陣の勲功で
流山に飛び地の領地を持っていました。その土地を管理していたのが陣屋です。
現在、その陣屋跡は流山市立図書館・博物館になっています。

059 a 田中藩陣屋跡

やや小高い丘の上にあり、なるほど陣屋とするには絶好の立地。
ちなみに陣屋跡を示すモノは何もナシっす。
田中藩が新政府側に寝返ったため、この陣屋を奪取するために新選組は流山に
入ったのだとする説があるんですね。
当時隊士だった田村銀之助が、大正9年に「史談会速記録」の中で「此陣屋を
乗り取る計画」だったと語った証言もあります。
ただ、他の新選組隊士からの話や記録がないのと、田村が当時16歳の少年隊士
だったことから記憶違いではなかったか、などの異論もあって真実は不明です。

まぁ、このように流山での新選組は滞在時間もわずかだし、残された記録も少ない
ためにナゾだらけの場所なんです。
でも、この地で近藤勇が逮捕され、そのまま帰らなかったわけですから、新撰組に
とっては非常に大きな意味を持った場所でもあります。
恩田家文書が平成15年に出てきたように、今後また新たな記録が見つかるかも
しれません。歴史ファンとしては、それを楽しみにしましょう。

060 a 流鉄流山駅

流山には他にも「一茶双樹記念館」とか講談の天保六花撰の金子市之丞の墓がある
「閻魔堂」(なぜか三千歳の墓まであり!)とかの見どころもたくさんあって楽しい
散策でしたが、ココでは幕末や新選組に関係のある所だけご紹介しました。
歴史ファンなら、そうでない方もゴレンジャーな流鉄に乗って、流山途中下車の旅は
いかがでしょうか。
ガイドのHさん、ありがとうございました。

20121025.jpg

日本の軍服史上最も奇異なのが、この毛頭ですね。
江戸城にあったヤクの毛を分捕って作ったんだとか・・・。
黒色を黒熊(こぐま)といい薩摩、白色を白熊(はぐま)といい長州、
赤色は赤熊(しゃぐま)といい土佐が使用したといいます。




秋の特番スペシャル! 流山だよ全員集合!! 前編

さぁ、今回は多摩を離れて、ちょっと街歩き。
秋のスペシャルと銘打って、幕末歴史散策の小旅行に出かけました。
気分はちぃちぃ。

歩いた場所は、このブログでもおなじみ新選組所縁の場所、千葉県「流山」です。
江戸文化歴史検定1級二期会の方々と一緒に、同会の地元在住H氏のガイドで
史跡を回ってまいりました。

新選組は慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いの敗戦後、江戸に帰還。
甲陽鎮撫隊と名前を変えて山梨方面に出陣しますが、新政府軍に勝沼で敗れて
江戸に敗走します。
徳川慶喜は恭順の姿勢を取りますが、薩長を中心とした新政府に納得できない
幕臣・旧幕府方はまだまだたくさんいたんですね。
新選組もそんな幕軍の一部隊として、再起を図るべくまたもや行動を起こします
・・・とまぁ、当時のストーリーはそんな流れ。

では、歴史散策のはじまり、はじまり~・アントワネット。

常磐線で日暮里から松戸方面に向かいますが、綾瀬駅で途中下車。
「おやおやイッセーさん、ココで降りちゃうんですか?」(by 滝口順平)

足立区の綾瀬駅付近はかつて五兵衛新田と呼ばれた地域でした。
慶応4年3月13日の夜、突然48人の武装集団がこの地に乗り込んできます。
これが新選組でした。隊長は大久保大和と名乗っていますが、近藤勇の変名です。

027 a 新選組が滞在した金子家 

五兵衛新田は寛永年間(1624~44)に金子五兵衛が開いた新田で、幕末当時は
10代目の健十郎が当主で、名主見習いの地位にありました。
新選組にここを紹介したのは、医学所頭取であった松本良順だったといいます。
新選組は滞在する間に新隊士を募集し、最終的に227人にまで増えました。
モチロン、金子家だけでは収容しきれないワケで・・・

028 a 稲荷山蓮華院観音寺

近くの観音寺だとか、滝次郎家(金子家分家)などに隊士は分宿していました。

大久保(近藤)はこの地に長く逗留するのではなく、隊士の補充など準備ができ次第
江戸川を早く渡りたかったようなんですね。ところが、幕府陸軍奉行並の松平太郎から
「ちょっと待って、プレイバック・プレイバック」
と、山口百恵バリの待ったを掛けられ、15日以上の滞在を余儀なくされていたのです。

しかし、そうこうしているうちに、新政府軍の先鋒隊が千住宿まで来たという情報が
飛び込んできました!千住ったら、綾瀬とは目と鼻の先ですよ。
新選組は荷物をまとめ約半月の滞在を終え、4月1日いよいよ流山に向けて出発
するのでした。

松平太郎さんは当時、勝海舟の下で幕府陸軍の終戦処理をしていた人です。
金子家には、佐々井半十郎というこの辺りの代官を通して、近藤さんが太郎さんの指示を
受けていた様子を示す書簡が残されています。
新選組がこの人の許可の下で行動してたってことは、ただ単に敗走していたわけではなく、
明らかに目的を持って行動していたということでしょうね。

さぁ、我々も綾瀬を出て流山に向かいます。
おっと、その前に駅前のデニーズでランチ・タイム(←イラナイ情報)

常磐線の馬橋駅で流鉄流山線に乗り換えです。

031 a

我々が乗ったのはご覧の赤い電車ですが、他にも青いのや黄色いのなど
5色くらいの色分けされた電車が走ってます。
戦隊ヒーローを意識してるのでしょうか?
合体して巨大ロボに変身するというのでしょうか!?

21121020.jpg

近藤さんは甲陽鎮撫隊として甲府に向かう際、大久保剛と
名乗っています。

次回、流山リポートです!




暴瀉病流行す!

安政5年(1858)最大のニュースといえば日米修好通商条約の締結になるで
しょうが、そのおよそ1ヶ月後大きな出来事がまたしても起こります。

「親分、てぇへんだ、てぇへんだ、てぇへんだッ!!」
「なんじゃぃ、WBCの監督に坂東英二でも選ばれたか?」
「ぅわあぁ~、それはそれでてぇへんだぁ・・・で、でも違うっす。」

十三代将軍・徳川家定が亡くなったのです。7月6日、35歳でした。
しかし、その死は1ヶ月の間世間には知らされず、公表されたのは8月8日に
なってからでした。

「里正日誌」によれば、8月9日の箇所に
「公方様の健康が優れなかったが、昨日の昼にお亡くなりになった。そのことで
今日から諸々の事は穏便に心得るようにして、普請や鳴り物はやめるようにとの
仰せである。その旨を心得て百姓の末端まで洩らすことのないようにすること。」

とあります。
老中・阿部さんが亡くなったときも鳴り物禁止でしたけど、建築現場に関してはその
限りではありませんでした。けど、やはり将軍の喪ともなりますとトンカチやノコギリの
音もNGだったようですね。
で、この鳴り物禁止がいつまで続いたのかっていうと、
「公方様がお亡くなり遊ばされたことにつき、普請現場や鳴り物を停止するように
通達していたことであるが、今日から普請に関してはお許しが出されたので、その
ことにつき心得るように。」

との内容で、8月28日に役所から廻状が出されています。
約1ヶ月間というところでしょうか。

家定には子供がいなかったので、御三家の一つ紀伊徳川家から慶福(よしとみ)が
養子に迎えられ、名前を家茂(いえもち)と改めて十四代将軍となりました。

・・・おっと!
「てぇへん」なのは、そのことだけじゃなかったんス!
安政5年の夏、日本各地で政治や外交とはまた異なった恐怖が人々を震え上がらせて
いたのです。
もちろん、東大和市域の村々も例外ではありませんでした。

暴瀉病(ぼうしゃびょう)・・・コレラです。

コレラは元々、インドのガンジス河流域に広がっていた風土病だったんですが、ヨーロッパ
諸国のアジア植民地化侵出と同時に世界に広がっていきました。
日本デビューは文政5年(1822)。長崎の出島からと、朝鮮半島から対馬を経由して
入ってきましたが、患者はほぼ西日本だけで収まりました。
今回は米軍艦ミシシッピーの水夫が長崎で発病したのが始まりでしたが、被害が一気に
東日本へと拡大していきました。36年の間に人の流れがそれほど頻繁になったという
ことでしょうね。
暴瀉病とは「激しく吐く病」という意味で、当時の記録などにはそう書かれているものが
多いですが、小説やドラマでは「コロリ」の呼び名がメジャーですね。
当時はもちろん決定的な治療法などなかったと思うんですが、それでも長崎あたりには
多少なりとも効果のある治療法が伝わっていたようです。

さて、「里正日誌」にももちろんこの暴瀉病(コレラ)についての記事があります。
そして、なんとそこには治療法なるものが書かれてるんですナ。
わぁ~、ナニが書かれてるんだろう・・・ドキがムネムネ!

「覚
この頃流行の暴瀉病の患者の治療法が色々とあるようであるが、その中でも素人が
心得るべき方法を示す。
予めこの病気を防ぐには全て体を冷やすことなく、腹には木綿を巻き、大酒や大食いを
慎み、その他消化の悪い食べ物を一切食べないこと。
もしも症状が出てしまったら早く寝床に入って飲食を慎み、全身を温め、左に記す
芳香散という薬を用いなさい。これを飲んで治った者は少なくない。また、嘔吐が激しく
全身が冷えるほどになった者は、焼酎1~2合の中に龍脳または樟脳1~2匁を入れて
温め、木綿の切れ端にひたし腹から手足へ静かにすり込み、芥子泥を心臓下腹から
手足へ小半時くらいまで一度に張ること。

芳香散
上品 桂枝 細末
   益智 細末  等分
   乾姜 細末

右を調合して1~2分けて時々用いるべし。

   芥子泥
   からし粉   等分
   饂飩粉
右を熱い酢でかたく練り、木綿切りに伸ばすこと。但し、間に合わない時は熱い湯で
芥子粉だけを練るのもよい。

又法
熱い茶に3分の1の焼酎を足し、砂糖を少し加えて用いること。但し座敷を閉めて、
木綿の布等に焼酎をつけて頻繁に全身をこすること。
但し手足の先、並びに腹の冷える所を温めた鉄又は石を布に包んで、湯につかる
ような心地になるくらいこするのもまた良い。

右は最近流行している病気で人々が難渋しているので、その症状に拘らず早速やって
みて害のない薬法である。


ざっと読んでみて、「冷やしてはいてない」「温める」「大食い禁止」など腹をこわした時
のような対処法ですね。とても頼りない治療法ですが、なんとか被害を食い止めようと
する懸命さは見てとれます。「素人が心得るべき方法」とあることから、圧倒的に医者に
掛かれない患者が多かったのでしょう。まぁ、東大和市域では医者もそれほどいないで
しょうし、長崎からの治療情報も期待できないでしょうから、医者がいてもこの程度の
治療法しか期待できなかったのではと思います。

ところで、江戸時代は、幕府開府から明治維新まで約260年間。
で、その維新から現在まではというと、まだ144年しか経ってないんです。
江戸時代なら、ようやく鬼平さんが生まれた頃の時間経過です。
その144年の間に、「芥子粉を饂飩粉で練った薬」からiPS細胞による治療まで
きちゃったんだから、「明治以前」と「明治以降」では少なくとも医療技術は驚異的な
スピードで進化してるってことですナ。

20121015.jpg

当時、勇さんはまだ宗家を継いでいなかったので、養父の
姓の嶋崎を名乗ってました。

先週は風邪で寝込んでたので更新が遅れました・・・(汗;)
皆さまも季節の変わり目にご注意ください。



岩瀬忠震と日米修好通商条約

さて、今回はちょっと多摩や東大和を離れます。

江戸へ乗り込んできたハリスさんの相手として幕府が選んだ、THE 交渉人。
それが外国奉行の岩瀬忠震(いわせただなり)さんと、下田奉行としてハリスの
応接を担当していた井上清直(いのうえきよなお)さんでした。
岩瀬さんは林大学頭の甥、井上さんは川路聖謨の弟。さらに岩瀬さんは
川路さんと日露和親条約の交渉に当たった経歴がありますから、環境や実績から
いっても当時最高の人選だと言えます。

さて、結果として安政5年(1858)6月19日に日米修好通商条約が締結されて、
日本は本格的に開国します。ハリスさんも念願の「商売できるでーーッ」です。
ところで、我々日本人はこの条約を、アメリカの言いなりで結びつけられた
不平等条約だと思っていませんか?
「なんか、教科書にもそんなニュアンスで書かれていたような気がするなぁ・・・
アメリカに領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったからでしょ。」
そう歴史の授業で教わりませんでしたか

・・・はたして、そうなんでしょうか?

岩瀬忠震は元々身分の高くない旗本でしたが、例の老中阿部正弘に抜擢されて
講武所や蕃書調所、長崎海軍伝習所の設立に尽力した、当時の幕臣で開明派と
言われた中の一人でした。
そんな岩瀬さんの考えとしては、「もう外国と通商することは避けられない。である
ならばより幕府が貿易で利益を上げ、その金で強力な軍艦や武器を揃えて外国に
対抗できる軍隊を作る以外にない」というものでした。
たとえば、新たな開港地として横浜を指定しましたが、これは江戸から適度な距離で
利益が幕府に入るようにという岩瀬さんの考えでした。これが今でも商業地としての
横浜の発展に繋がっているんだからナイスジャッジですよね。

で、先ほど言った領事裁判権ですけど、当時の横浜ってのは大きな川を渡った先に
あり、さらに運河を掘って出島のような地形をしていたんですね。外国人はこの中に
居住させ一般の日本人とはなるべく接触させないようにしました。ですから裁判権は
条約締結当初においては特に問題はなかったのです。
それと関税は一部の品を除いて一律20%が掛けられていました。これはかなりの
好条件で、アジア諸国でこれほどの税率で優遇された国は他にありません。
実際、ハリスは「話し合いのペースはほとんど岩瀬に主導権を取られていた」と
認めていたそうです。

と、ここまで書くと岩瀬さんに全く欠点がなくて、「サスガ岩瀬、長年中日のリリーフ
エースを務めてきただけのことはあるネ」(←違うでしょ!)ってコトになるんですが、
ここで大きな見誤りをしてしまいます。

当時は海外の事情を知る立場にいた人は岩瀬さんなど幕府でも一部の人で、ほとんどの
人は攘夷論者です。つまり、ほとんどの日本人が条約反対。
しかし、攘夷論者ってのはみんな尊王ですから。
岩瀬さんや、時の老中トップだった堀田正睦らは「天皇の勅許」をもらえば、攘夷論者も
「天皇がOKっつうんならしょうがないか」と諦めて、反対派も鉾を収める。
条約の締結はすぐにできると踏んでたんですね。
これがアマかった。
時の孝明天皇はアレルギー的に外国嫌いな上に、周りの人たちもガッチリ攘夷。
確かに幕府が絶対的な力を持っていた頃なら、朝廷は幕府の言いなりだったでしょうが
時代は変わり、すでに朝廷は幕府のコントロールから離れていたんですね。
「外国と貿易やなんて、おおこわ。勅許なんて出しますかいな。」
勅許をもらうなんて楽勝って思ってた岩瀬さんは困りました。
責任をとって堀田さんも老中を罷免させられてしまいます。

ここで、さらに岩瀬さんを窮地に追い込む情報が飛び込んできます。
アロー号事件で清国に圧勝したイギリス、フランスが5日のうちに日本へ来て通商
条約を迫るっていうんですよ。モチのロン、圧倒的武力を背景にね。
焦った岩瀬さんはハリスに言います。
「今、アメリカと条約を結べば、英仏が何を言ってきてもアメリカが間に入ってくれる?」
「当たりマエダのクラッカー。責任もってお約束しまっせ!」

堀田正睦に代わって岩瀬さんの上司・・・つまり幕府トップ(大老)に就任したのが
あの井伊直弼です。彼は「勅許なしでの条約締結は絶対反対」でしたが、一方で
緊急のときは現場の判断に任せるとの命令も出していました。

「条約は江戸城で起きてるんじゃないッ。現場で起きてるんだッ!」(by 青島&岩瀬)
ってことで、岩瀬さんはGO!
安政5年(1858)6月19日、ついに勅許を待たずに日米修好通商条約が締結
されました。

さぁ、この勅許ナシの条約締結が、大きな問題を引き起こすんですね。

攘夷派のモーレツな抗議活動です。
で、幕府・・・井伊直弼はこれを徹底的に押さえつけにかかる。
ここから有名な「安政の大獄」が始まるわけですね。
岩瀬さんも責任を取らされ、左遷さらに蟄居を命じられてしまいます。
そして大獄はやがて「桜田門外の変」を呼び、幕末の動乱へと続いていきます。

結論から言って、この条約締結は失敗だったのでしょうか?
勅許を待たずに調印したことは、攘夷派の闘争心にさらに火をつけることになり、
特に長州藩などは文久3年(1863)欧米艦隊を砲撃し下関戦争を起こします。
この責任を幕府が負うことになり、結果として慶応2年(1866)に関税税率は
20%から5%まで引き下げられ、ここに事実上の不平等条約が成立するんですね。
こう書くと、条約締結は岩瀬さんの先走りのようにも感じます。

しかしですよ。
もしハリスと6月19日の段階で条約締結していなければ、どうだったでしょう?
恐らく、英仏からもっと不利な条件を押し付けられ、断れば国内の攘夷派の影響も
あり戦争になっていたでしょう。
結果フルボッコされて、植民地にされていた可能性が高いと思います。
事実、1850年代からアジアで植民地化されてないのは、日本とタイだけでしょ。
それを考えると、岩瀬さんの判断は「オールOK」とは言えないだろうけど、日本を
植民地の危機から救い、世界デビューさせた功績はとても大きいと言えます。

しかし、岩瀬さんは蟄居を命じられてから2年後の文久元年(1861)、失意の
うちに41歳で亡くなりました。

さて、今の日本に岩瀬忠震を知っている人が何人いるでしょう?
ほとんどの人が知らないでしょ。当然ですよ、だって学校でも教えてくれないもの。
前にも書きましたけど、やはり薩長の作った歴史の中では「優秀な幕府役人は知ら
なくていい」ということなんでしょうね。
でもね、明治新政府は岩瀬さんに相当世話になってるんです。
岩瀬さんがその設立に関わった講武所は日本陸軍の元になります。同じく長崎海軍
伝習所は日本海軍に、蕃書調所は東京大学(帝大)へと繋がっていきますから。

岩瀬忠震という人が、いかに日本の将来を見つめ、近代化の礎になったか。
このブログを読まれた方。
岩瀬忠震という人物、これを機会に覚えてくださいね。

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時代は安政5年・・・そろそろキチンとした新選組漫画を
描かなければ・・・!!