ハリス江戸へ!

老中・阿部正弘が亡くなる前ですが、安政4年(1857)5月26日に幕府は
ハリスと和親条約の内容を拡充した追加条約(下田条約)を結びます。
ハリスさんからすれば、「ワイの夢、通商条約に向けての確かな一歩や!」
つーところでしょうな。
「そのためにも、是が非でも江戸に行きたいがなッ!」
実はこの時ハリスさんはもう50歳を超えていて、また来日してから体調が優れ
ないこともあってチョイあせってた部分もあったようです。

ハリスに追い風が吹いてきました。
ハリスの江戸出府を、幕府内で強行に反対していたのは水戸藩の前藩主・徳川
斉昭でした。水戸黄門・光圀の子孫であり、この後登場する15代将軍慶喜の
お父さんです。これがゴリゴリの攘夷論者。
ところが7月にアメリカの戦艦が下田に入港してきます。
幕府の重役たちは「こんな艦で江戸に入港されたら、ちょーヤバイっしょ」
「ハリスは歩いて来たいっつってんだから、そっちの方がよくね?」って
考えになり、斉昭を「ジジイ、邪魔ッ」とばかりに罷免して、ハリスに江戸入りの
許可を出したのです。
ホラホラ、ハリスに風が吹いてきたでやんしょ。
あ。ここで「ハリスの旋風」ってつぶやいた昭和の人に、10点。

幕府がハリスに江戸出府の許可を出したのが、8月14日。
その2日後の16日の「里正日誌」には、こう書かれています。
「豆州下田に在留のアメリカ領事が、国書を持って江戸に出府することを願って
いたことであるが、寛永以前にイギリス人などが度々お目見えを仰せつけられた
先例もある。
かつ、条約を取り替え済ませるため、国々の外交官に首都へ来てもらうという
ことは、万国普通のことである。
近々、当地へ召され、江戸城へ登城し将軍に拝礼するように仰せつけられるとの
御沙汰がある。このことを心得ておくようにとのお達しである。」


寛永以前のイギリス人ってのは誰ですかね?
ウイリアム・アダムス(三浦按針)でしょうか。「SHOGUN」の。
スゴイところから前例を引っ張り出してきたもんだと思います。だって鎖国以前の
話ですよ。
まぁ、なんとか正当な理由付けが欲しかったんでしょうね。
それから、外交使節と条約を結ぶのは首都で行うのが当然だ・・・っていうけど、
和親条約は横浜で結んでるじゃん。ねぇ。
ちょいと苦しいですナ。
あ。「SHOGUN」って聞いて「男達のメロディー」の方を思い出しちゃった人、-10点。

ハリス一行が江戸に行くという話は、かなーりの勢いで庶民に知れ渡ったようです。
「里正日誌」9月のところには、以下のように書いてあります。
「近々、アメリカの使節が江戸へ出府するが、通行途中にある屋敷は修理するに及ば
ない。仮板や囲いはそのまましておいてよろしい。
持ち場を掃除すること。屋敷の飾り、手桶、立て看板などは差し出すに及ばない。
道行く者も普段通り通行して良い。
もっとも、辻番所などへ見張りをする者を差し出し、往来が混雑することもあると
思うので、取締出役の者から整理するよう申し渡し、乞食など召し捕えておくこと。
途中に見物のためといって出て行き、桟敷を設けたり長屋の窓から大勢で見物など
することは無用にすること。
乗り物の騎馬などはなるべく途中で一行に出会わぬようにすること。もし、途中で
行き会ってしまったなら、不作法で混雑を起こすようなことはよろしくない。
家来たちに至るまで、この心得を漏らさぬように強く申し渡す。」


実際に東大和周辺をハリス一行が通ることはないんですが、このような内容の
御触れが江戸近郊の村々に出されたのでしょう。
さぁ、このような状況の中、ついにハリスは念願の江戸へ出府するのでした。


・・・と、ここでこの回を終わってもいいんですが、「里正日誌」に面白い記述が
あったのでひとつご紹介。

これは8月11日のところに、6月に伝わった事として書かれています。
「この度、箱館表において仰せつけられた文字は箱館通宝と記し、蝦夷・箱館・
松前に限って今季から通用するはずである。もっとも3ヶ所以外の土地では
通用できないことはもちろんのことである。心得違いの者がないようにすべき
ことである。」


これは安政4年閏5月から北海道で発行された「箱館通宝」について書いて
あるものです。
あまり知られてないお金じゃないかと思いまして、紹介しました。
幕府は蝦夷でアイヌの人たちとの交易で使う銭貨を、当初は江戸から運んで
いたんですが、これがそのまま海外へ流出する危険性が出てきました。
ホラ、銭貨って銅でできてるでしょ。
なので、地域限定として鉄で新たな銭貨を作ったんですね。これが箱館通宝
です。(もっともリクエストがあって銅で鋳造したものもあったそうです。)
表には箱館(上下)通宝(右左)、裏には安政の安の字が刻印されています。

ところで、江戸時代の銭貨って、みんな真ん中に四角い穴が開いてるでしょ。
でもこの箱館通宝は、真ん中の穴が円なんです。これは江戸時代に作られた
銭貨では唯一じゃないですかね。
5円玉や50円玉の元祖ですね。
実物見たい人は古銭ショップに走れ~ッ。時価30000円ほどだってよ!

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まぁ、こんなハリスさんですから、「唐人お吉」こと斉藤きちさんは
本当にかわいそうだと思います。
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阿部老中 逝く

番組の途中ですが、ここで訃報のお知らせです。

安政4年(1857)6月17日、備後福山藩の藩主で幕府老中の要職にありま
した阿部伊勢守正弘さんが亡くなられました。39歳でした。

「えええーーーーーーーッ!?」
衝撃的なニュースが全国を駆け抜けました。
テレビ画面にテロップで流れるくらいじゃすみません。番組中断して
報道センターからの大ニュースです。

もちろん、この知らせは東大和にも伝えられます。
「巳6月29日御支配御役所から廻状
御老中、阿部伊勢守様卒去につき、鳴り物は28日から晦日までやめるように。
普請はそのままでよい。」


「里正日誌」によれば、亡くなってから12日遅れて伝わったことがわかります。
当時はエライ方が亡くなられると、その裳に服するということで大きい音のする
もの、行為は禁止されました。
まぁ、鐘や太鼓、楽器の類はわかるんですが、建築現場の金づちで釘を打つ
音なんてのも規制されました。
けど、今回は「普請は不苦候」とありましたので、大工さんは仕事ができた
ようですよ。

まぁ、しかし何ですな。
2か月前にピクニック・・・もとい視察にいらしたばかりですよ。
多摩周辺の村人はビックリしたと思いますねぇ。

死因については、ブーちゃんだった体型が痩せてきていたとか、下痢が続いてた
とかいわれていて肝臓癌が有力候補です。
それと、この頃向島・長命寺門前のさくら餅屋におとよという15歳の「まゆゆに
似た」激カワの女の子がいて(←「」内は私の妄想)評判を呼んでいたんですが、
なんと阿部ちゃんこのコに一目惚れ。AKBを脱退させて(←妄想)側室にしちゃった
んですよ。それから間もなくの死だったので
「なんかさー、ガンバリすぎちゃったんじゃないのー?」
みたいな噂もたったようです。
それはやっかみだとしても、結局のところ、外国交渉での激務が命を縮めてしまった
のでしょうね。
25歳で老中に出世したエリート政治家でしたが、早過ぎる死でした。

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大河ドラマ「新選組!」では、ツネを田畑智子さんが演じてましたね。
ツネさんはとてもよくできた奥さんだったそうです。
ちなみに、二人の結婚は正確には万延元年(1860)です。

勘定奉行 川路左衛門尉

前回のお話の続きです。

外交やら将軍継嗣やら問題が山積する中で、幕閣御一行様のまるでピクニックに
行くかのような行動。
こういった事は教科書にも出てきませんから、もうちょっと詳しく「里正日誌」を見て
みましょう。

この玉川上水御検分は当初4月13日に予定されていたようです。
2日前の11日に、江川太郎左衛門さんの支配所から次のような廻状が田無村から
羽村までの、通行ルートにあたる村々に出されています。

「御老中や若年寄の方々が、羽村の上水取水口の御検分としてお越しになる際、
一里の間ごとに馬口の洗い水を差しだすようにしなさい。
ただし、五間ほどの間隔で四斗樽の醤油樽や手桶に柄杓をつけ差し出すこと。
新品の桶を用意などはしなくてよい。
一、御通行の時は御先払人足、鉄棒引、破竹箒持人足らを差し出すことは決して
しないように。
一、御休所以外の場所に村役人が罷り出て来ることは必要ない。
一、御馬通りの橋の手入れや穴を塞ぐ必要のある時は、わざわざ人足を雇わず
そこに住んでいる者が行い、橋に手すりを付けたり砂盆その他を取り繕う事は
決してしないこと。
一、曲り道が分かりづらいところは、仮に不要の道に縄を張っておく。もっとも、
道行く人々の差支えがないようにするべきこと。
ただし、曲がらずにすむ場合は横道にまで縄張りをしなくてもよい。
一、小荷駄馬も通行することに差支えはない。もっとも、一行がお通りの間は
邪魔にならないよう控えるように、村内の馬持ちに申し渡しておくようにしておくこと。
一、道筋での商売はもちろん、屋根を葺くことなど休むには及ばない。もっとも、
御一行のお供の者へ酒を売ってはならない。


時代劇に感化されちゃってますと、お殿様が通る道筋では庶民は微動だにせずひれ
伏して、気がつかずにヒョコヒョコ出てきた婆さまが「無礼者ッ」って斬り殺されちゃう
場面しか想像できないんですが(その後、残された孫娘が仕事人に復讐を依頼)、
けっこう事実はそうでもないんですね。
むしろ、庶民に気を遣っているような印象さえ受けます。

村民たちは道路の補修など済ませて御一行を待っていたんですが、生憎13日は雨に
なってしまいました。で、21日に順延となったわけです。

東大和市蔵敷村の名主・内野杢左衛門さんや他村の名主は、前日の20日にルート
途中にあたる小川村(小平市)に集まり、江川太郎左衛門の手代から御一行が
休憩中のお世話をするよう指示を受けます。

「支配所のお手代衆は草鞋のままで外縁、あるいは土間へ手をついて敬礼を尽くして
いた。
給仕の者は草履だったので、お座敷に上がり茶菓の給仕をいたしていると、お言葉も
あり、御勘定奉行はすべて江川とお呼びなされた。当方は御老中・若年寄様方へ
越後なきよう気を付けるべく仰せ聞かされていたが、お手軽であった。
御老若様方は表白裏金の陣笠をお召しになり、堅付御着用で馬に乗っておられた。
御付きの衆も御乗馬が多く、お役人方は何れも懐中時計をご持参になり、最早何時に
なったかと聞かれ時計と引き合わせ、あるいは里数をお尋ねになるのでお答え申し
上げると腰から扇子を御取り出しになり、裏表とも内藤新宿から羽村までの道筋・
休憩所の村名・里数・橋・枝道まで絵図面に顕し、その摺板の扇面とお引き合いなされ
るので、言い漏らしのないようにしていた。」


青梅橋5
老中阿部正弘御一行さま方が通っていった青梅橋の現在です。
青梅橋は野火止用水に掛る橋でしたが、用水は暗渠となり横断歩道の下になりました。
当然、橋はなくなりましたが、地名だけが残されています。

青梅橋2

青梅橋1
案内板に書かれている江戸時代当時の青梅橋の様子です。
「御嶽菅笠」という当時の旅行案内書に描かれた絵です。


東大和市駅前
青梅橋は現在、西武拝島線東大和市駅前となっております。
写真奥に見え辛いですが赤信号があります。ココを左折すると桜街道です。
御老中さま方は、この道を羽村へと向かいました。

杢左衛門さんの日誌を読むと、かなり和やかなムードが漂います。
扇子の両面に通行ルートが細かく書かれているなんて、なんか遠足の栞みたいじゃない
ですか。あるいは江戸時代のカー(馬)ナビですか?
面白いのは、みなさん懐中時計をお持ちのこと。早速、舶来品を手にしていたので
しょうか。それをわざわざ取り出して見たりして。私も腕時計とか嫌いじゃないんで、この
気持ちわかりますね~。ホントは時間を特に確認したいわけじゃないの。時計そのものを
見て悦に浸りたいワケですよ。
男の子の趣味は今も昔も変わらんな~。

「ここに一奇談がある。御勘定奉行の川路左衛門尉(聖謨・としあきら)様がお立ちになり
御乗馬されるので御馬脇に付き添い、青梅橋方面にご案内したところ、色々とお話しした
際に、これからサンホクまで何里あるのかとお尋ねになる。羽村まで御通行の道筋に
サンホクと申す村名・地名はありませんと申し上げると、例の扇面をお見せになり、ここに
正に記してあるがどうか?と仰せになるので拝見すると、三ツ木村の内、字サンホリ(残堀)
の間違いでございますと申し上げた。すると、なるほどサンホリのリとクの書き損じ。筆者の
間違いとハッキリした、と手を打ってお笑いなされた。
その方の心遣い満足した。これまでのこと大義に思う。早々帰り、跡乗の役人へも右の趣
申し伝えよとのことで、お暇をいただいた。

実に承応年間、武蔵野嚝野、御掘割以後、今度のような大通行は未曽有のおとであった。
この日幸い晴天で都合よく、無事に夕方までに御用を済ませ、出張のお手代衆も大喜びの
由と申された。かつ、日帰り行程のことだったので、お荷物は前日少々ばかり継立があった。
しかしながら、小川村では人足600人あまりも遣い払ったようだ。」


川路聖謨さんて人は一般にはマイナーな存在ですが、幕末史を見ていく上ではかなりの
重要人物です。どれ位かって言うと、ジャイアンツなら山口くらいデキル男です。
元々は豊後(大分県)日田の下級役人の子でしたが、幼少の頃御家人の川路家の養子に
入ります。しかし、川路家は小普請という窓際中の窓際族。フツーは出世を見込める家柄
ではないんですが、彼はそこからガンバったんですね。
努力を重ねて旗本に取り立てられると、勘定吟味役、佐渡奉行、大坂町奉行、勘定奉行と
ジャパニーズドリームを邁進します。佐渡奉行として赴任するときは、大名並みの行列で
行くことを許され感激の涙を流したと言います。一生涯を幕府に捧げると誓った39歳の夏。
彼の一番の大仕事といえば、安政元年(1854)にロシアと日露和親条約を締結させた事
でしょう。若い頃に江川太郎左衛門や渡辺崋山らと、尚歯会で蘭学を学んだ経験が生きた結果
でしょうか。

でもね。こんなこと聞いたって歴史ビギナーの方にはちっとも面白くないでしょ。
わかってますよ、ダンナ。このブログならではのトシアキラ情報。

「彼ったら、とってもブサイク」

もうこの頃の人って写真とかあるから、ホントにわかっちゃうんですよね。ビジュアルが。
川路さんはそう言っちゃなんですが、ブサイク・オブ・ザ・イヤー(幕末編)受賞クラスの
見事なファニーフェイスです。
御子孫の方がいらっしゃったら、ゴメンナサイ。
あ、顔写真はご自分で探してくださいね。このブログ、私が自分で撮った写真かイラスト
以外は載せないのさぁ♡ うひょひょ。

ただ、川路さんのエライのはここからですよ。
彼は自分のブサイクを知ってて、それをネタにしてたんですな。
先ほど書いた日露和親条約交渉でのこと。ロシア側が記念にと川路さんの写真を撮ろうと
したところ、
「いやー、僕みたいなブサイクが日本の顔の代表だと思われたら困るんで、勘弁して」
と言ってロシア人たちを笑わせたそうです。
このように、ユーモアあふれる一面を持ち合わせていたんですね。
杢左衛門さんの証言からも、そんな川路さんの人柄が覗えませんか?

残堀2
現在の武蔵村山市残堀(ザンボリ)。桜街道を西へ進んだ方角になります。
この写真は残堀川に掛る橋の上に立って撮りました。
残堀川は、瑞穂町の狭山池から武蔵村山市、立川市の昭和記念公園内を通って多摩川へと
流れています。ちょうど、立川断層に沿っていると考えていいそうです。

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幕末のアツき男・川路聖謨。
彼も後には悲劇の最期を迎えることに・・・。





御岳菅笠の青梅橋

老中、阿部正弘がやってきた、ヤァ ヤァ ヤァ

日米和親条約はなんとかこちらのペースで乗り切った江戸幕府でしたが、
次いでやって来たハリスは通商条約を結ぼうと、俄然ヤル気です。
「こんな半島の先っぽじゃあきまへん。江戸へ行って話し合いまひょうや
おまへんか?」

この頃、今後の日本の未来を左右する大事件が、お隣の中国で起きていました。
「アロー号事件」です。
アヘン戦争後に清と南京条約を締結させたイギリスでしたが、港以外の内地に
入ることを制限されていたこともあり、目論見ほどの利益を上げてはいなかった
んですね。
で、「もう一回戦争でも起こして、こっちにギガ得する条約押し付けちゃおうゼ」
というトンデモない理屈ででっち上げられたのがアロー号事件です。
結局、この事件をきっかけに清はイギリス・フランスと戦争になり、ボッコボコ
にされて北京条約を結ばされ、九竜半島を割譲されてしまうんですね。

ハリスは言うわけです。
「幕府はん。外国と商売するのがイヤや言うても時間の問題でっせ。イギリス、
フランス見てみいな。清に対してえげつないことしてからに。ほっといたら
日本もあの手でやられまっせぇ。
でもワイは軍人やない、商人だす!ワイが総領事でいる間なら、アメリカと
平和に通商条約を結べるんだす!
ココは考え時やないでっか、なぁ、幕府はんッ!」

アロー号事件のことは長崎奉行を通じて、オランダ理事官からも情報が入って
きました。ここにきて幕府は通商拒否という基本ラインを見直さなければ
ならない状況に追い込まれたのです。

そんな幕府が大変なとき、幕閣の主要な人たち・・・つまり政府の首相・大臣
クラスの人たちが不思議な行動に出たのでした。

安政4年(1857)4月21日、老中・阿部正弘が幕府閣僚・役人およそ
500人を引き連れて、玉川上水羽村堰の検分にやってきたのですよ。
一行は青梅橋を通り、現在の西武線東大和市駅前から桜街道を経て羽村に
向かいました。
検分の理由ってのは、前年の大嵐の影響で破損した堰の修理状況を見るための
ものだったんですが、しかしそれにしても政府のトップ連中がみんなして行く
ってのは、どうよ?しかもこの時期にさぁ・・・!

「里正日誌」にはこのように書かれています。
「御老中阿部伊勢守様(正弘) 久世大和守様 内藤紀伊守様
御若年寄鳥居丹波守様 遠藤但馬守様 酒井右京亮様
寺社御奉行 安藤対馬守様
大御目付 伊澤美作守様
町御奉行 池田播磨守様
御勘定御奉行 松平河内守様 川路左衛門尉様 水野筑後守様 石谷因幡守様
御目付 鵜殿民部少輔様 永井玄蕃頭様 岩瀬伊賀守様

御勘定組頭 御勘定吟味役 奥御祐筆組頭 奥御祐筆 御普請奉行

御老中御三方 御侍以上36人 中間40人
御若年寄御三方 御侍以上24人 中間30人
ほか御役人衆18人 御侍以上30人 中間80人

右の御人数264人 ほかに御付きの人有り
御通行の人馬 およそ500人 乗馬90疋」


どうです、そうそうたるメンバーでしょ。
上水の検分に三奉行や大目付、奥祐筆まで行かなくてもいいんじゃね?
そう思いません?さらにお供の数を入れての大人数。
で、御一行様の当日の行動はと言いますと、

「夜四ッ時(22時)お屋敷を出発。内藤新宿北側の大宗寺で待ち合わせ。
暁八ッ時(2時)出発。夜が明けて田無村で朝食。
五ッ時(8時)小川村の名主・九一郎方で御休息。
昼前四ッ時(10時)羽村に御到着。鮎猟を見て昼食。出立。
御帰りの道中は、御老中と若年寄のお方は砂川村通りの名主・源五右衛門方で
休息。ほかのお役人衆は小川村で休息。
田無村でお弁当を食べ、御帰館」


あの・・・検分というよりも、鮎猟を見て飯食ってきただけ、みんなして
ピクニックに行ったようにしか、見えないンすけど・・・。

ちなみに、当時の多摩川は鮎が名産でして、特に羽村~日野あたりにかけての
川の中流で獲れる鮎が一番美味しいと言われたそうです。将軍家にも献上された
ようですから。
でね、鮎猟はお川狩りといって鵜飼中心の猟だったようなんですね。
多摩川の鵜飼は、長良川のように夜篝火をたいて船から鵜を操る方法ではなく、
日中に鵜匠が川に入って鵜を操る「歩行使い(かちつかい)」という方法だった
そうです。
多摩川鮎猟のメッカだった日野には、徳川将軍も何度も来て見物していったとの
ことですから、この時の阿部老中御一行さまもこの鮎猟を見たのでしょうか。

実はこのピクニック、上水の検分という表の理由の他にもう一つの影の理由が
あったのでは、と言われています。
この頃、幕府は外国問題ともう一つ大きな問題を抱えていました。
次期将軍を誰にするか、という将軍継嗣問題です。
現時点での将軍は13代家定さんですが、病弱な上に子供がいない。
そこで御三家の紀伊家から慶福さんを養子に迎えようという一派と、御三卿の
一橋家から慶喜さんを養子にという一派が幕府内で対立していたんですね。
阿部さんは慶喜さんを推すグループ(一橋派)でした。
このピクニックは、一橋慶喜擁立協議を同意見の人と図るためのカモフラージュ
だったのでは、というのです。

里正日誌の筆者、蔵敷村名主の内野杢左衛門さんは御一行接待のために、他の
村名主たちと前日の20日から小川村(小平市)に来ていました。
これだけのメンバーが大行列をなして「おらが村」にやって来るなんてことは
前代未聞のことでしたから、そりゃもう、大緊張だったようです。

しかし、休憩中の阿部さまたちはご機嫌よろしく、名主たちによる茶菓の給仕など
も終始なごやかなムードで進んだ模様です。
まぁ、影で同じ派閥同志の密議が交わされていたとしても、日ごろの激務・心労
からほんの一時でも解放されて、幕閣の方々もリラックスしていたのかもしれない
ですね。

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ところがこの2か月後、阿部ちゃんの身に思わぬ
事態が・・・!!