fc2ブログ
2012 07123456789101112131415161718192021222324252627282930312012 09

安政大地震

安政2年(1855)10月2日、江戸に直下型の大地震が起きました。
そう、安政大地震です。

東日本大震災以降、過去の大地震を振り返ることがマスコミなどでも増えて
きましたので、この安政大地震も皆さん聞かれたことがあるかと思います。

江戸時代を通じて、大きな地震は何度も起きているんですが、その中でも
江戸周辺に範囲を絞ってみますと、先ず元禄16年(1703)の関東
大地震。
この地震は震源域が、房総半島の南側から神奈川県のほぼ全域と考えられて
いて、マグニチュード7.7~8.2。震度6以上の揺れが出た地域は
房総半島南部・東京東南部・神奈川県全域だったようです。

その4年後の宝永4年(1707)の宝永地震もマグニチュード8.4と
いう強力なものでした。しかし、このときは津波が紀伊半島や四国土佐に
押し寄せ、南海地方に被害が集中しました。
ただ、この地震の一月半後に富士山が噴火したんですね。関東南部はこの
降灰で深刻な被害を出しました。

そして150年後の安政大地震です。
マグニチュードは7.0と考えられていますので、同じ江戸を襲った元禄
の関東地震よりもパワーは少ない地震でした。
しかし、直下型、しかも震源が下町地区の真下だったことから、被害は
人口密集地域に集中。より甚大なものとなりました。
被害が大きかったのは庶民だけではありません。
当時、大名の上屋敷は登城に便利なように江戸城の近くに建てられていました。
老中や若年寄など幕府の重役ともなると、今風に言えば官邸が西の丸下に
与えられていたんです。
しかし、あの辺りは元々湿地帯でしたから地盤が悪い。
恐らく液状化して建物倒壊はひどかったと思います。

さて、里正日誌の内野杢左衛門さんはこの10月2日所用のため浅草に来て
いました。そこでこの地震に遭遇したようです。
「何度となくゆり返し、震動ミリミリとして建物のつぶれる音や、カラカラと
瓦の落ちる音はまるで山が崩れるようかと思われた。食べ物を求めたがどこ
にもなく、淀橋を越え中野村馬宿で前日の残り飯をもらい、ようやく朝食に
ありつき3日の夕刻に帰宅した。」


まさに震災後の帰宅難民ですね。
この震災では強い揺れにみな逃げることに精一杯で、火事が起きても消火活動は
不十分であったといいます。
浅草からよく無事で帰って来れました。

そして地震から3日後の10月5日。
東大和や周辺の村々から20人の人足が集められ、とある場所に向かいました。
さて、どこに行ったのでしょう?

向かった先は、本所割下水。江川太郎左衛門の江戸屋敷でした。
江川さんの屋敷は全倒壊してしまったようで、そのお見舞いと片付けにやって
来たのです。
お見舞い金としては、蔵敷村、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村、宅部村、清水新田、
廻り田村、廻り田新田から高100石につき永287文を集めたようです。
これらの行動は強制的なことではなく、村人たちの自発的なことのようです。
幕末の領民と代官の関係を理解する上で、なかなか興味深いと思います。
まぁ、江川さんは名代官と云われた人ですから、人望も高かったのでしょう。
ちなみに、お台場砲台を提言した英龍さんはこの年の1月に亡くなっています
ので、このときの当主は息子の英敏さんでした。

ところで、元禄大地震のときも安政大地震も、東大和は震度6以上の被害地域には
入らなかったようです。
元々、狭山丘陵の麓という立地の上、水に乏しい地域ということがかえって
地盤を安定させて、地震に比較的強い土地なのかもしれません。
ま、素人推測ですけどね。

20120821.jpg

こういった鯰絵は200種類ほどが現存しています。
しかし、当局の検閲を受けずにゲリラ的に出版されたものが
ほとんどですので、作者がわからない絵が多いです。




スポンサーサイト



[ 2012/08/21 ] 幕末史 | TB(0) | CM(6)